幕末 は、15年間に多くの歴史的出来事があった。
その中でも、6年だけ存在した 新選組 に焦点を当てます。
年表を作ってみたら、幕末は激動の時代だったと強く感じました。
新選組ファンのために、少し詳しく記述した。
一読すれば、あなたも「新選組」通になれます。
1834年 (天保5年) 近藤勇 多摩にて 誕生
現在、日野に 新選組のふるさと歴史館 がある。
1835年 (天保6年) 5月5日 土方歳三 日野にて 誕生
現在、日野に 土方歳三資料館 がある。
1842年 (天保13年) 沖田総司 江戸にて 誕生
1849年(嘉永2年) 試衛館
近藤勇 (幼名 勝五郎) は、 近藤周助 の養子となり 天然理心流 の道場 試衛館 を継ぐ。
試衛館には、のちの新選組の中核メンバーが顔を連ねていた
門弟として 土方歳三 、沖田総司 、井上源三郎 、山南敬助
食客として 永倉新八 、原田左之助 、藤堂平助 、斎藤一
現在、牛込柳町 に 試衛館跡の標柱 と 試衛館稲荷神社 がある。
1853年 (嘉永6年) 6月3日 黒船来航
6月3日、米国海軍提督 ペリー 率いる米国艦隊 4隻は、浦賀沖に停泊した。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
7月14日、ペリーは久里浜に上陸し 浦賀奉行の戸田氏栄 に親書を手交した。
1854年 (嘉永7年) 3月3日 日米和親条約
1月16日に、米国海軍提督 ペリー は再び来航した。
3月3日に、横浜にて、老中 阿部正弘 と ペリー とが条約を締結した。
この条約により、下田を開港し領事館を置くことになった。
1854年 (安政2年) 長崎海軍伝習所
1855年 (安政3年) 7月21日 米国公使 ハリス 来日
下田の 玉泉寺 に領事館を構える。
12月7日に、将軍 徳川家定 に謁見する。
現在、下田に ハリス記念館 がある。
1858年 (安政5年)
安政5年 7月 徳川家茂 第14代将軍 就任
安政5年 6月19日 日米修好通商条約
安政五カ国条約 の一つ。
大老 井伊直弼 は天皇の 勅許 を得ないまま 米国公使 ハリス と条約を締結した。
この条約により 横浜を開港し 貿易を行った。
同年 安政の大獄
1859年 (安政6年)
安政6年6月2日 横浜港 開港
現在、横浜に 横浜開港資料館 がある。
安政6年 8月23日 商人 グラバー 来日
現在、長崎に グラバー園 がある。
1860年 (安政7年)
安政7年1月18日 万延元年遣米使節
江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために米国に派遣した使節団である。
使節団一行は、 米国海軍の ポーハタン号 で太平洋を横断し渡米した。
4月2日に、米国ワシントンにおいて、批准書は交換された。
1860年 (安政7年) 3月3日 桜田門外の変
江戸城 桜田門 外において、水戸藩 脱藩者が 大老 井伊直弼 を暗殺した事件。
1861年 (文久元年)
文久元年12月22日 文久遣欧使節
江戸幕府がフランス、イギリス などとの通商条約 で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉のため、 ヨーロッパに派遣した 外国奉行 竹内保徳 を正使とした使節団である。
4月7日、仏国パリに到着し、フランスと交渉したが、開港開市延期の同意は得られなかった。
4月2日、英国ロンドンに到着し、開港開市を延期する ロンドン覚書 を締結した。
滞在中に、ロンドン万国博覧会 を見学した。
1862年 (文久2年)
文久2年 1月15日 坂下門外の変
江戸城 坂下門 外にて、尊攘派の水戸浪士が老中 安藤信正 を襲撃し、負傷させた事件。
文久2年 2月 皇女和宮 降嫁
文久2年 4月23日 寺田屋騒動
旅籠 寺田屋において、薩摩藩の島津久光が同藩の尊皇派を排除した事件。
文久2年8月 松平容保 京都守護職 就任
文久2年 8月21日 生麦事件
1863年 (文久3年)
文久3年 1月 浪士組 結成
清河八郎 の発案で、 将軍家茂の上洛 に際して警護のため浪士を募集
文久3年 2月 浪士組 分裂
京に到着後、 清河八郎 は 壬生 の 新徳寺 ) に 浪士を集め、 将軍警護でなく 尊王攘夷を唱えた。 同意した者は江戸に戻り新徴組を結成した。
反対した 近藤勇 らは、京に残った。
文久3年 3月 壬生浪士組 結成
浪士組は会津藩( 松平容保 ) 預かりとなり [壬生浪士組と呼称される
このころは 組織が定まらず
隊員数は 24名
壬生寺を兵法調練場とした。
現在、壬生に 新撰組記念館 がある。
現在、毎年7月16日に 壬生寺において 新選組隊士等慰霊供養祭 が行われる。
文久3年 3月4日 将軍家茂 1度目の上洛
朝廷の攘夷実施の求めに応じて、第3代将軍 徳川家光 以来となる上洛
文久3年6月 角屋での暴挙
京 島原 の揚屋 角屋 にて催された宴会で、壬生浪士組の 芹沢鴨が働いた乱暴狼藉をいう。
文久3年 6月3日 大阪角力事件
大坂の住吉楼において、芹沢鴨 ら壬生浪士組と 大坂相撲 の力士が起こした死傷事件
文久3年 6月27日 長州五傑 英国留学
文久3年 7月2日 薩英戦争
文久3年 8月8日 八月十八日の政変
文久3年 9月18日 芹沢鴨 暗殺
文久3年 9月25日 新選組に改名する
壬生浪士組は、八月十八日の政変 後の警備に出動し、「新選組」を拝命した。
このころ 任務や組織が定まる。
任務は,京で活動している不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、要人警護など、警察活動である。
担当地域は、 祇園 や 三条 などの町人街・歓楽街である。
隊規 局中法度 を制定する。
組織
平隊士を10名毎に分けて組長を置いた
一番隊組長 沖田総司
二番隊組長 永倉新八
三番隊組長 斎藤一
文久3年 10月 岩城升屋事件
新選組が 大阪の呉服商 岩城升屋に押し入った不逞浪士を撃退した。
文久3年 12月29日 横浜鎖港談判使節団
横浜を再度閉鎖する交渉を行うため、 フランスに派遣した 外国奉行 池田長発 を正使とした外交団である。
往路の途中にて、ギザの 三角塚 ピラミッドと 大首塚 スフィンクス を見学し写真を撮っている。
パリに着いた一行は皇帝 ナポレオン3世 に謁見した。
開国の重要性を感じ、交渉を途中で打ち切り、フランス政府と パリ約定 を結んだ
文久3年 12月 参預会議
1864年 (元治元年)
元治元年 1月15日 将軍家茂 2度目の上洛
朝廷の求めに応じて、参預会議のため上洛
元治元年 4月26日 京都見廻組 創設
元治元年 5月 神戸海軍操練所
元治元年 6月5日 池田屋事件
旅籠 池田屋において、新選組が長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した。
9名を討ち取り4名を捕縛した。
奥沢栄助 戦死
戦闘の経緯
新選組は、攘夷派志士の会合が、池田屋あるいは四国屋において行われることを突き止めた。
当日、近藤隊と土方隊に分れ探索した。
亥の刻すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。
当初屋内に踏み込んだのは 近藤勇 ,
沖田総司 ,
永倉新八 ,
藤堂平助
の4名である。
残りは屋外を固めた。
沖田は、戦闘中に病に倒れ戦線離脱した。
1階の藤堂は、油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。
新選組側は 一時 2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利になった。
元治元年 6月10日 明保野亭事件
料亭 明保野亭において、 新選組の長州系浪士探索活動中に偶発した土佐藩士傷害事件。
元治元年 7月19日 禁門の変
元治元年 7月23日 第1 次 長州征伐
元治元年 9月 新選組 隊士募集
年齢や身分による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた。 実技試験もなかった。
元治元年 三浦啓之助 入隊
1865年 (元治2年)
元治2年 2月23日 山南敬助 切腹
元治2年 3月 新選組 屯所を西本願寺 に移す
このころ 新選組の隊員数は 200名を超えた
1865年 (慶応元年)
慶応元年 新選組 大坂 屯営
将軍家茂 の上洛に備えて、大坂警備のために 谷三十郎 以下20人ばかりが 萬福寺 に屯営した。
慶応元年 1月 横須賀造船所
慶応元年 1 月8日 ぜんざい屋事件
大阪のぜんざい屋において、土佐勤王党 の残党による大坂城乗っとり計画を察知した新選組により 浪士を襲撃した事件である
慶応元年 5月22日 将軍家茂 3度目の上洛
第2次長州征伐のため上洛
1866年 (慶応2年)
慶応2年 1月3日 明治天皇 即位
慶応2年 1月21日 薩長同盟
慶応2年 1月23日 寺田屋事件
旅籠 寺田屋 において、 伏見奉行 の捕り方が 坂本龍馬 を捕縛ないしは暗殺しようとした事件。
慶応2年 6月 第2次 長州征伐
慶応2年 9月12日 三条制札事件
土佐藩士8人が 三条大橋 西詰北の 制札 を引き抜こうとしたところ、新選組がこれを襲撃・捕縛した事件である
慶応2年10月 大沢源次郎 捕縛
慶応2年 12月 徳川慶喜 第15代将軍 就任
1867年 (慶応3年)
慶応3年 1月13日 伝習隊 創設
江戸幕府が陸軍(幕府歩兵)の精鋭部隊として編成し、ジュール・ブリュネ ら フランス軍事顧問団 の直接指導を受けた西洋式軍隊
慶応3年 3月 御陵衛士 結成
伊東甲子太郎 、藤堂平助 らが 御陵衛士 を結成し 新選組を離脱
1867年 (慶応3年) 4月 パリ万国博覧会
日本から 江戸幕府、薩摩藩 がそれぞれ出展した。
幕府からは 徳川昭武 らが派遣された。
慶応3年 5月26日 いろは丸沈没事件
海援隊 操縦 の いろは丸 と 紀州藩船 明光丸 と衝突し、 いろは丸は沈没
慶応3年 6月 新選組 幕臣となる
慶応3年10月14日 大政奉還
慶応3年 11月15日 近江屋事件
旅籠 近江屋 において、 京都見廻組 が 坂本龍馬 と 中岡慎太郎 を襲撃し殺害
坂本龍馬 享年31歳
中岡慎太郎 享年29歳
慶応3年 11月18日 油小路事件
慶応3年 12月7日 天満屋事件
旅籠 天満屋において、 海援隊士と 陸援隊士 らが 紀州藩士 三浦休太郎 を襲撃して 警護の新選組と戦った
宮川信吉 戦死
舟津釜太郎 戦死
梅戸勝之進 重傷
慶応3年 12月9日 王政復古の大号令
慶応3年 12月18日 墨染事件
墨染 において 近藤勇が 御陵衛士の残党に狙撃され重傷になった事件
慶応3年 12月25日 江戸薩摩藩邸の焼討事件
1868年(慶応4年/明治元年)
慶応4年 1月3日 鳥羽伏見の戦い
戊辰戦争の初戦となった戦いである。
井上源三郎 戦死
旧幕府軍は、新政府軍に敗北した。
この時期、戦局の不利を悟った新選組の隊士たちは、相次いで脱走した。
慶応4年 1月8日 旧幕府軍 大坂撤退
1月8日夜に、将軍慶喜 は 開陽丸 に乗り 江戸へ引き揚げた。
1月12日に、新撰組ら旧幕府軍の負傷兵は 富士山丸 に乗り 江戸に向かった。
慶応4年 3月6日 甲州勝沼の戦い
板垣退助 率いる新政府軍と 近藤勇 率いる旧幕府軍 が戦った合戦
近藤勇は、新選組70人と農民300名からなる 甲陽鎮撫隊 を編成した。
旧幕府軍は、敗北した。
加賀爪勝之進 戦死
慶応4年 3月 靖兵隊 結成
慶応4年 4月1日 新選組 下総流山に陣を敷く
慶応4年 4月3日 近藤勇 新政府軍に投降
慶応4年 4月4日 江戸城無血開城
慶応4年 4月11日 旧幕府艦隊の脱走
榎本武揚 は、開陽丸等 8艦を率いて、江戸から仙台に向かった。
慶応4年 4月25日 近藤勇 処刑される 享年35歳
慶応4年 4月19日 宇都宮城の戦い
土方歳三は、大鳥圭介とともに洋式兵法で指揮を執るが、 土方歳三がいつどこで習得したかは不明。
旧幕府軍は、一時 宇都宮城 を占拠するが、敗退する。
土方歳三は、足を負傷し、7月まで 会津 で静養する。
慶応4年 4月20日 白河口の戦い
土方歳三 が足を負傷したため、 斎藤一 が新撰組を指揮する。
慶応4年 5月15日 上野戦争
旧幕府軍側は 彰義隊 が屈強に抵抗するが、 大村益次郎が指揮する政府軍に敗北する。
原田左之助 戦死
慶応4年 5月30日 沖田総司 病死 享年24歳
慶応4年 6月16日 磐城の戦い
慶応4年 7月29日 二本松の戦い
慶応4年 8月21日 会津戦争
会津 において、 会津藩の処遇をめぐって、新政府軍と、会津藩およびこれを支援する 奥羽越列藩同盟 などの旧幕府軍との間で行われた戦いである。
会津新撰組 と称する
慶応4年 8月21日 母成峠の戦い で開戦する
漢一郎 戦死
木下巌 戦死
鈴木練三郎 戦死
千田兵衛 戦死
新選組は、斎藤一ら会津に残るものと、土方歳三ら仙台に向かうものに分離した。
慶応4年 8月23日 会津城籠城戦
新島八重 は鉄砲を持って奮戦した
白虎隊 が自決する。
慶応4年 9月5日 如来堂の戦い
小幡三郎 戦死
久米部正親 敗走し 降伏
慶応4年 9月22日、会津藩 が降伏し、終戦する。
斎藤 一 が投降
池田七三郎 投降
慶応4年 8月11日 旗巻峠の戦い
慶応4年 9月8日 明治 に改元
慶応4年 9月10日 仙台藩 降伏
10月9日に、 仙台藩士 星恂太郎 ら 額兵隊 は 榎本武揚 と同流して 蝦夷地 に向かった。
慶応4年 10月 箱館戦争
榎本武揚 が旧幕府軍を率いて 蝦夷地 に上陸し、
松前藩との戦闘 を経て、五稜郭
に無血入城し、
蝦夷共和国 を樹立する。
総裁 榎本武揚
陸軍奉行 大鳥圭介
陸軍奉行並 土方歳三
歩兵頭並 星恂太郎
軍事顧問 ジュール・ブリュネ
この時期の新選組は 40名ほど
慶応4年 11月15日 軍艦 開陽丸 江差沖 にて 沈没
1869年 (明治2年)
明治2年3月25日 宮古湾海戦
箱館戦争における戦闘のひとつである。
海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である 甲鉄 への斬り込みによってこれを奪取する作戦を立案する
3月20日、土方歳三 以下100名の陸兵を乗せて、回天、蟠竜、高雄の3艦は宮古湾に向けて出航した。
途中暴風雨に遭遇し、回天だけが正常な状態で、 集結地点である山田湾に到着した。
3月25日早暁、回天は、宮古湾へ突入した。
外輪船の回天は横付けできず不利な体勢となり、
甲鉄への移乗ができず、奪取に失敗した。
野村 利三郎 戦死
明治2年 4月13日 二股口の戦い
箱館戦争における戦闘のひとつである。
箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍 700名 に対して、 土方歳三が率いる 旧幕府軍 300名 は、台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を阻止した。
明治2年 5月11日 箱館総攻撃
箱館市街を制圧した新政府軍は一本木関門方面に進出する。これに対して、土方歳三 は 孤立した弁天台場の救出に向かうが、
一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死する。
蟻通勘吾 戦死
長島五郎作 戦死
津田丑五郎 戦死
明治2年 5月11日 土方歳三 戦死 享年35歳
現在、函館に 土方歳三記念館 がある。
明治2年 5月 蝦夷共和国が降伏
島田魁 投降
相馬主計 投降
1873年 (明治6年)
1873年 (明治6年) 市村鉄之助 病死 享年20歳
1900年 )明治33年) 3月20日 島田魁 死去 享年73歳
1913年 (大正2年) 新選組顛末記
1913年3月17日から同年6月11日にかけて、「新撰組 永倉新八」という題で 小樽新聞 で連載された。
1915年 (大正4年)
大正4年 1月5日 永倉 新八 死去 享年75歳
大正4年 9月28日 斎藤 一 死去 享年71歳
1922年 (大正11年)
大正11年 近藤芳助死去 享年80歳
1929年 (昭和4年)
昭和4年 子母沢寛 の取材
池田七三郎 は 子母沢寛の取材を受け、 新選組始末記 に 逸話が採用された