奈良時代の出来事

奈良時代の出来事を年表にまとめた。

奈良時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 飛鳥時代

後は 平安時代

関連記事

参考

奈良時代の概要

710年に

元明天皇 によって 平城京 に遷都してから

794年に

桓武天皇 によって 平安京に都が遷されるまで

約84年間。

狭義では 終期を

784年に

桓武天皇によって 長岡京 に都が遷されるまでとする。

元明天皇 により平城京聖武天皇難波宮 に都が置かれた時代。

日本仏教 による 鎮護国家を目指して 天平文化が花開いた時期。

特徴

平城京遷都には 藤原不比等が重要な役割を果たした。
平城京は、中国の都 長安 を模した都を造営したとされる。
政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。

平城京への遷都に先立って撰定・施行された 大宝律令 が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、 律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。
また、天平文化 が華開いた時代でもあった。

律令国家の完成とその転換

奈良時代の前半は、刑部親王らが撰述し、701年(大宝元年)に完成・施行された大宝律令が、基本法であった。

718年(養老2年)藤原不比等らに命じて、 養老律令を新たに撰定した。
字句の修正などが主であり、根本は大宝律令を基本としていたが、その施行は遅れ、757年(天平宝字9年)、藤原仲麻呂 主導においてであった。

律令制下の天皇権力

律令制下の天皇には、以下のような権力があった。

貴族や官人の官職及び位階を改廃する権限、令外官(りょうげのかん)の設置権、官人の叙位および任用権限、五衛府(ごえふ)や軍団兵士に対するすべての指揮命令権、罪刑法定主義を原則とする律の刑罰に対して勅断権と大赦権、外国の使者や外国へ派遣する使者に対する詔勅の使用などの外交権、皇位継承の決定権などである。

中央官制、税制と地方行政組織

大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。
中央官制は、二官八省弾正台五衛府から構成されていた。
地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。
さらに 道制 として、畿内東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道の七道に区分された。

農地拡大政策と律令国

律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。
いっぽう、日本の律令に規定された班田収受法には、開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった。
そのため、長屋王 を中心とする朝廷は722年(養老6年)に 良田百万町歩開墾計画 を立て、計画遂行を期して723年(養老7年)には田地開墾を促進する 三世一身法 を施行した。

平城京の造営と和同開珎

元明天皇 即位の翌年にあたる708年(慶雲5年)正月、武蔵国が自然銅を献上したのを機に和銅改元され、翌2月には、貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。

平城遷都と橘賜姓

藤原京 は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮 のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点もあった。
30数年ぶりに帰国した遣唐使粟田真人 が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、 藤原京長安 との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる。

この年(和銅元年)、遷都を主導した 藤原不比等 は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代 は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。

和同開珎と蓄銭叙位令

都城の造営は短期間にすすめられたが、貨幣の鋳造のスピードもはやかった。
708年2月に催鋳銭司がおかれ、同年5月にははやくも 和同開珎 の銀銭、同じく8月には銅銭が発行されている。

大和朝廷はその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする 蓄銭叙位令 を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。

奈良時代の文化

政府は、学生や僧を唐へ留学させ、さまざまな文物を取り入れた。
また、朝鮮半島との交流も盛んであった。
これらの交易物などは、正倉院 宝物でも、その一端をうかがい知ることができる。

奈良時代の小区分

政治的に、3つに分けられる。

前期

710年の 平城京 遷都から

729年の 長屋王の変 まで

中期

藤原四兄弟 の専権から

764年の 藤原仲麻呂の乱 まで

後期

称徳天皇 および 道鏡 の執政以降

奈良時代の出来事

前史

701年 (大宝元年) 大宝律令 制定

大宝律令 は日本の律令

律令を参考にした。

刑部親王らが撰述した。

707年 (慶雲4年) 元明天皇 即位

元明天皇

天智天皇の第四皇女子。

文武天皇 の母。

子の文武天皇 が25歳で崩御

孫の首皇子 ( 後の聖武天皇 )はまだ幼かったため、 初めて皇后を経ないで即位した。

708年 (和銅元年) 和同開珎 鋳造

和同開珎
日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。
日本で最初の流通貨幣と言われる。
皇朝十二銭の1番目にあたる。

708年 (和銅元年) 私鋳銭禁止令

私鋳銭 とは 政府が作った公の銭ではなく、私的に偽造された銭のこと。

役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。

奈良時代 前期

710年 (和銅3年) 平城京 遷都

平城京 は、 奈良時代の日本の首都。

唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城

現在の奈良県奈良市大和郡山市に存在する。

710年に

元明天皇藤原京から 平城京 へ遷都。

711年 (和銅4年) 蓄銭叙位令

銭の流通を促進するためと、政府への還流を計って施行された法令。 一定量の銭を蓄えた者に 位階を与えるよう定められた令。

712年 (和銅5年) 古事記 完成

古事記 は 日本の日本神話を含む歴史書

内容は天地のはじまりから 推古天皇 の記事である。

712年 (和銅5年) 出羽国 設置

出羽国は かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。

現在の山形県秋田県。上国。

大和朝廷蝦夷 の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。

712年に 出羽郡出羽国 に昇格。

713年 (和銅6年) 大隅国 設置

大隅国 は かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。

薩摩と並んで 隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地。

713年 (和銅6年) 風土記 編纂

風土記 は 地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。

律令制度の各国別で記された。

715年 (霊亀元年) 元正天皇 即位

元正天皇

天武天皇 の皇太子であった 草壁皇子 の長女。

母は 元明天皇

母の元明天皇から譲位を受け即位。

716年 (霊亀2年) 第8次 遣唐使 派遣

遣唐執節使 粟田真人

718年 (養老2年) 養老律令 制定

養老律令 は 古代日本で 施行された基本法令。

大宝律令 に続く律令として施行され、 古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。

藤原不比等らに命じて撰定した。

720年 (養老4年) 日本書紀 完成

日本書紀奈良時代に成立した日本の歴史書

天地開闢から始まる神代から 持統天皇 代までを扱う編年体の歴史書である。

720年 (養老4年) 隼人の反乱

隼人大隅陽侯史麻呂 を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。

大和朝廷大伴旅人 を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。

722年 (養老6年) 良田百万町歩開墾計画

大和朝廷が掲げた計画である。
百万町歩という数字はほぼ不可能であり、ただの理想、スローガンであるともされている。

723年 (養老7年) 三世一身法 発布

墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。

724年 (神亀元年) 聖武天皇 即位

聖武天皇

文武天皇 の第一皇子。

元正天皇 は父の姉。

元正天皇より皇位を譲られて即位。

724年 (神亀元年) 2月 辛巳事件

聖武天皇 が生母の藤原宮子 に対して勅によって与えられた称号が 左大臣 長屋王議政官の上奏によって撤回された事件。

724年 (神亀元年) 多賀城 築城

多賀城 は 現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代 城柵

奈良平城京律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。

平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。

727年 (神亀4年) 渤海使 来日

渤海使渤海より日本を訪問した使節である。

渤海靺鞨族大祚栄により建国された 現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。

渤海大武芸 の時代になると 新羅 と外交的に対立するようになる。

国際的孤立に陥りそうになった渤海が、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。

729年 (神亀6年) 長屋王の変

藤原氏 による 皇親の大官である 長屋王 の 排斥事件。

辛巳事件 により 長屋王聖武天皇 および藤原氏から好ましくない人物とみられる。

729年 (神亀6年)に

左京の人で従七位下の漆部造君足と 中臣宮処連東人 が 「左大臣で正二位の長屋王がひそかに左道を学んで国家を傾けようとしています」と密告した。

朝廷はその夜のうちに、式部卿従三位 藤原朝臣宇合 らを遣わして、六衛府の兵を率いて、平城京左京三条二坊の長屋王の宅を取り囲んだ。

翌日、右中弁 小野朝臣牛養 らを長屋王宅に派遣し、王の罪を糾問した。

その次の日、王は自殺した。

この変は 藤原四兄弟 が協力して主導したされる。

奈良時代 中期

735年 (天平7年) 天平の疫病大流行

740年 (天平12年) 藤原広嗣の乱

藤原広嗣が政権への不満から九州の 大宰府 で挙兵したが、官軍によって鎮圧された事件。

740年 (天平12年) 恭仁京 遷都。

恭仁京奈良時代都城の1つ。

山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。

大極殿平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。

条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。

聖武天皇 の勅命により

平城京 から遷都された。

740年 (天平12年) 五月一日経

五月一日経

光明皇后 が父 藤原不比等、母 県犬養橘三千代 の菩提供養のために発願した一切経のことである。

741年 (天平13年) 国分寺建立の詔

国分寺

聖武天皇 が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。

総本山は 大和国東大寺

日本各地に 国分寺 という地名が残る。

東京都 国分寺市 もその一つ。

743年 (天平15年) 墾田永年私財法 発布

墾田(自分で新しく開墾した田地)の耕作権の永年私財化を認める法令である。

743年 (天平15年) 大仏造立の詔

奈良の大仏

聖武天皇 の発願で制作された。

744年 (天平16年) 難波宮 遷都

難波宮

難波 (現在の大阪市) 法円坂 周辺に造られた古代の宮殿。

天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。

745年 (天平17年) 紫香楽宮 遷都

紫香楽宮

聖武天皇近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮

749年 (天平勝宝元年) 孝謙天皇 即位

聖武天皇の皇女。

母は 光明皇后

父・聖武天皇の譲位により即位した。

治世の前期は皇太后光明皇后)が後見し 皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。

太上天皇時代

天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王淳仁天皇 )に譲位し、太上天皇となる。

天平宝字4年(760年)7月16日に 光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。
同年8月に 孝謙上皇淳仁天皇らは 小治田宮に移り、 天平宝字5年(761年)には 保良宮 に移った。

ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧 道鏡 を寵愛するようになった。

750年 (天平勝宝2年) 第12次 遣唐使 派遣

大使に 藤原清河

751年 (天平勝宝3年) 懐風藻

懐風藻 は、現存する最古の日本漢詩集。

753年 (天平勝宝5年) 鑑真 来日

鑑真 は 唐代の僧人。

日本における 律宗 の開祖。

757年 (天平勝宝9年) 橘奈良麻呂の変

橘奈良麻呂藤原仲麻呂 を滅ぼそうとし 天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった事件。

事件前史

橘奈良麻呂の父の左大臣 橘諸兄 は、聖武天皇 の治世に政権を担当していた。

743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂佐伯全成 に対し 小野東人らと謀り、次期天皇長屋王の子 黄文王 を擁立する旨の計画を漏らす。

749年(天平21年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王孝謙天皇 ) が即位すると、天皇の母の 光明皇太后 に信任されていた藤原仲麻呂が 皇太后のために新設された 紫微中台 の長官(紫微令)に任命される。

仲麻呂孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。

同年3月、皇太子 道祖王孝謙天皇の不興を受けて廃された。

4月に入ると、天皇は群臣を集めて次の皇太子について意見を述べさせた。

天皇は、大炊王淳仁天皇 )を立太子することを宣言した。

大炊王仲麻呂が後ろ盾となっており庇護していた人物であった。

陰謀の計画と発覚

仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。

翌29日(7月23日)に太政官院(太政官の庁舎)の庭に橘奈良麻呂大伴古麻呂小野東人黄文王安宿王 ら20名ほどが集まり、 7月2日(7月26日)の宵に挙兵することを誓約した。

その日の夕方、中衛府の舎人 上道斐太都 から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。

翌7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成中納言藤原永手 らが小野東人を訊問。

東人は無実を主張した。

同日、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節 らを拷問にかけた 。

東人らは一転して謀反を自白した。

その内容は、橘奈良麻呂大伴古麻呂安宿王黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王道祖王安宿王黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分

東人の供述により、7月4日(7月28日)に 奈良麻呂を始め、道祖王黄文王大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。

訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した 。

この後すぐに獄に移され、杖で全身を打つ拷問が行われた。

道祖王黄文王、古麻呂、東人、犢養、角足は 過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。

首謀者である 奈良麻呂は 同じく拷問死した。

安宿王佐渡島に配流され、 塩焼王は 直接関与した証拠がなかったために不問とされた。

他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。

758年 (天平宝字2年) 淳仁天皇

天武天皇 の皇子 舎人親王 の七男。(大炊王)

756年に
聖武天皇の遺言によって 新田部親王の子の 道祖王立太子したが、

757年4月4月22日 に
孝謙天皇によって道祖王は廃され、

4日後の同年4月26日に
光明皇后 を後ろ盾にもつ 藤原仲麻呂の強い推挙により 大炊王立太子した。

(758年に
孝謙天皇 から譲位を受け践祚した。

践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、専横が目立つようになる。

760年に

光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。

759年 (天平宝字3年) 鑑真 唐招提寺 創建

唐招提寺奈良県奈良市五条町にある 律宗の総本山の寺院。

本尊は盧舎那仏

開基(創立者)は唐出身の僧 鑑真。

759年 (天平宝字3年) 万葉集

万葉集 は 日本に現存する最古の和歌集。

万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている (万葉仮名を含む)。

764年 (天平宝字8年) 藤原仲麻呂の乱

孝謙太上天皇道鏡と対立した太師(太政大臣藤原仲麻呂 が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件。

背景

藤原仲麻呂は、叔母の 光明皇后の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。

孝謙上皇道鏡 を側に置いて寵愛するようになり、仲麻呂淳仁天皇 を通じて、孝謙道鏡との関係を諌めさせたが、孝謙の怒りを買った。

反乱計画

焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙道鏡に対抗しようとし、 天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。
諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂 に命令の発令を指示した。
押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。
9月5日には、仲麻呂船親王 と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。
また 池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。
親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。

戦乱

9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙少納言 山村王淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印を回収させた。
これを知った押勝は子息 訓儒麻 に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。
孝謙はただちに授刀少尉 坂上苅田麻呂 と授刀将曹 牡鹿嶋足 を派遣して、訓儒麻呂を射殺した。

押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人 紀船守 に射殺された。

孝謙は勅して、押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。

9月18日、討賊将軍に任ぜられた備前守 藤原蔵下麻呂 が増援に加わった討伐軍によって、海陸から激しく攻められた仲麻呂軍は、ついに敗れた。

乱後

仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁天皇は廃位され淡路国に流された。
代わって孝謙重祚する( 称徳天皇 )。
以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。

奈良時代 後期

764年 (天平宝字8年) 孝謙天皇 重祚

藤原仲麻呂の乱 により

孝謙天皇

淳仁天皇 を廃位し

自らが復位し 「称徳天皇」となる。

弓削道鏡孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。

復位した称徳天皇のもとで 道鏡はその片腕となり

765年 (天平神護元年) に 僧籍のまま「太政大臣」となり

766年 (天平神護2年) に「法王」となる。

769年 (神護景雲3年) 宇佐八幡信託事件

宇佐八幡宮 より

称徳天皇 ( 孝謙天皇重祚 )に対して「道鏡皇位に就くべし」との神託を受けて

弓削道鏡天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。

同年11月 に

称徳天皇 が詔を発し

道鏡には皇位は継がせない」と宣言したため、事件の決着がついた。

770年 (宝亀元年) に

称徳天皇崩御すると 道鏡下野国薬師寺へ左遷(配流)された。

770年 (神護景雲4年) 光仁天皇

光仁天皇

天智天皇の第7皇子 志貴皇子 の第6皇子。( 白壁王 )

称徳天皇崩御

62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。

774年 (宝亀5年) 桃生城襲撃事件

古代日本の律令国家(朝廷)が陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵である 桃生城 を、反乱を起こした 海道 蝦夷 が襲撃した事件。

いわゆる 三十八年騒乱 の発端となった。

780年 (宝亀11年) 宝亀の乱

現在の宮城県にあたる陸奥国にて

古代日本の律令国家(朝廷、中央政権)に対し

上治郡の蝦夷の族長であった 伊治呰麻呂 が起こした反乱。

概要

政府側に帰服して上治郡の大領に任じられていた「蝦夷」である伊治公呰麻呂が、覚鱉城 造営に着手するために 伊治城(現在の宮城県栗原市にあった城柵)に駐留することとなった陸奥按察使 紀広純 およびそれに付き従っていた陸奥大伴真綱牡鹿郡大領であった 道嶋大楯らを襲撃。
紀広純、道嶋大楯の殺害に至ったのち、呰麻呂に呼応して反乱した軍勢が陸奥国府であった 多賀城 を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くしたものである。

陸奥国出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害され、多賀城が失陥したことにより、政府による東北地方の経営は大打撃を被った。

ただちに 征東大使、出羽 鎮狄将軍を派遣して軍事的な鎮圧に当たらしめたが、陸奥国の動乱はより深まっていき、 首謀者であった呰麻呂は捕らえられることはなかった。

781年 (天応元年) 桓武天皇 即位

光仁天皇の第一皇子。

光仁天皇から譲位されて即位。

782年 (延暦元年) 氷上川継の乱

天武天皇 の曾孫の 氷上川継 が謀反を計画し、事前に発覚して失敗した事件。

川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇 の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされた。

784年 (延暦3年) 長岡京 遷都

長岡京
山城国乙訓郡にあった 都城(現在の京都府長岡京市)。

桓武天皇 により 平城京 から遷都された。

平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。

長岡京 の近くには 桂川宇治川 など、3本の大きな川が 淀川となる合流点があった。

全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。

そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。

794年 (延暦13年) 平安京 遷都

平安京

日本における 古代 最後の 宮都

桓武天皇 により、長岡京に代わる都として山背国(山城国愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の 長安城を模して建設された。

794年(延暦13年) に 長岡京より遷都。

以降、1869年 (明治2年) まで 日本の首都。

安土桃山時代の出来事

安土桃山時代の出来事を年表にまとめた。

安土桃山時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 江戸時代

関連記事

安土桃山時代の概要

1573年に

織田信長 により

室町幕府 15代将軍 足利義昭 が京都から放逐されて

室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれてから

1603年に

徳川家康征夷大将軍に任じられ 江戸幕府 を開くまで

約30年間。

始期は、

織田信長足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、

義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、

安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。

終期は、

豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、

関ヶ原の戦い徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、

家康が伏見城征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。

織田信長

豊臣秀吉 が中央政権を握っていた時代である。

織田信長による政権の確立

織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が天皇室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。

兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。

楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市 の支配や 撰銭令 などの経済政策が実施された。

元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。
信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな 南蛮文化 が花開いた。

豊臣秀吉による天下統一

本能寺の変 を知った 羽柴秀吉 は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である 明智光秀を破った。

これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。

天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本国内の統一を達成した。

農民一揆を防止するため 刀狩令 を出した。

京都 方広寺 の大仏作りを口実とした 全国各地で 太閤検地 を行い 石高 制度を導入し、度量衝が統一された。

荘園制 は完全に解体し在地 土豪 の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。

秀吉は1592年(文禄元年)に 人掃令 を出して全国的な戸口調査を実施した。

1591年(天正19年)に 身分統制令 を出して 兵農分離 が推進された。

鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人 との交流が開始された。

カステラ など南蛮料理が食べられるようにになり、タバコ南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。

豊臣時代の終結

豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政前田玄以石田三成増田長盛長束正家の5人による 五奉行 制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派と加藤清正福島正則などの武断派に分裂して 五大老の筆頭である 徳川家康伏見城で実力者としての頭角を現した。

朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。

これに対し 石田三成 を中心とした反家康勢力が 慶長5年(1600年)に全国を二分する 関ヶ原の戦い が勃発した。

これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。

これにより安土桃山時代は終わり、江戸時代 が始まった。

安土桃山時代の文化

美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に 桃山文化「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。

それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。

当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。

安土桃山時代の出来事

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1570年 (元亀元年) 石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 7月槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

1573年 (天正元年) 9月 一乗谷城の戦い

一乗谷城 ( 福井県福井市城戸ノ内町 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

越前国戦国大名 朝倉義景 の間で行なわれた合戦である。

織田軍が勝利し

朝倉義景は自刃。

1573年 (天正元年) 9月 小谷城の戦い

小谷城 ( 滋賀県長浜市 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

北近江の戦国大名 浅井長政 との間で行なわれた戦いである。

浅井長政

正室お市の方を3人の娘( 浅井三姉妹 )と共に織田軍に引き渡した。

織田軍が勝利し

浅井長政は自害し 浅井氏は滅亡した。

1575年 (天正3年) 長篠の戦い

三河国 長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、

3万8千人の 織田信長

徳川家康 連合軍と、

1万5千人の 武田勝頼 の軍勢が戦った合戦である。

織田・徳川連合軍が勝利し

勝頼は信濃に後退した。

1576年 (天正4年) 織田信長 安土城 築城

1579年 (天正7年) 安土宗論

安土城下の浄厳院で行われた 浄土宗法華宗宗論

織田信長 の斡旋により、

浄土宗の僧 ( 玉念・貞安・洞庫 ) 等と、

法華僧 ( 日珖・日諦・日淵 ) 等の間で行われた。

1580年 (天正8年) 石山合戦 終了

石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1580年 (天正8年) 4月 に

顕如は降伏し 石山本願寺を退去した。

石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。

顕如の退去後に 嫡子で新門跡の 教如 が石山を占拠した。

後に、東本願寺西本願寺に分裂する遠因ともなった。

1581年 (天正9年) 京都御馬揃え

織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。

1582年 (天正10年) 本能寺の変

明智光秀 が謀反を起こし、

京都 本能寺 に滞在する主君 織田信長 を襲撃した事件である。

1582年 (天正10年) 天正遣欧少年使節

キリシタン大名である 大友義鎮大村純忠有馬晴信らの名代として4名の少年を中心とした使節団がローマへ派遣された。

1583年 (天正11年) 賤ヶ岳の戦い

本能寺の変 にて

織田信長 が討たれると、

織田氏 の有力家臣の間で勢力争いとなった。

近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の 賤ヶ岳 付近で起きた

羽柴秀吉柴田勝家の戦いである。

羽柴軍が勝利 し

勝家は自害した。

勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。

1583年 (天正11年) 羽柴秀吉 大坂城 築城

1584年 (天正12年) 小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉 陣営と

織田信雄徳川家康 陣営の間で行われた戦い。

織田・徳川連合軍が勝利し

秀吉は大坂城に戻った。

合戦から半年以上経った11月に

秀吉は信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。

信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は三河に帰国した。

秀吉は美濃・伊賀・伊勢南部における織田信雄の影響力を排除した。

1585年 (天正13年) 羽柴秀吉 関白

1585年 (天正13年) 11月 天正地震

1586年 (天正14年) 羽柴秀吉 豊臣姓 を賜る

正親町天皇 から

羽柴秀吉

豊臣氏 が下賜され、

これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた 藤原の氏豊臣 に改めた。

1586年 (天正14年) 10月 徳川家康 豊臣秀吉 に臣従

1585年 (天正13年) 11月に

徳川家康の側近 石川数正 が 家康の元から出奔し 豊臣秀吉に 臣従した。

1586年 (天正14年) 4月に

秀吉は 臣従要求を拒み続ける家康に対して 実妹 朝日姫正室として差し出し

秀吉と家康は義兄弟となる。

10月 に

秀吉が 生母 大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、

家康は浜松を出立し上洛した。

同年 10月27日に

家康は 大坂城 において 秀吉に謁見し、

諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

1586年 (天正14年) 12月 後陽成天皇 即位

後陽成天皇

正親町天皇 の皇子の 誠仁親王(陽光院太上天皇)の第一皇子。

誠仁親王薨去

皇祖父 正親町天皇が譲位し、後陽成天皇践祚

1587年 (天正15年) バテレン追放令

豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令した

キリスト教 宣教と 南蛮貿易 に関する禁制。

1588年 (天正16年) 刀狩令

武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。

全国単位で 兵農分離 を進めた政策となった。

1588年 (天正16年) 海賊停止令

豊臣秀吉 が出した海賊衆 ( 水軍 ) に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。

1590年 (天正18年) 小田原征伐

主に 小田原城 において

関白 豊臣秀吉 が、

徳川家康 らに命じて

小田原北条氏 を降した戦役。

豊臣軍が勝利し

北条氏は降伏。

当主 北条氏直 は小田原を退去し

前当主である 北条氏政切腹

北条氏の旧領はほぼそのまま 徳川家康 に宛がわれることとなった。

後に

徳川家康江戸城に入り、

徳川譜代の 大久保忠世小田原城主となった。

1591年 (天正19年) 豊臣秀次 関白に

豊臣秀次

豊臣秀吉 の姉である 瑞竜院日秀 の長男。

秀吉の異父弟 豊臣秀長

秀吉の嫡男 鶴松 が相次いで死去したことにより

秀吉の養嗣子となった。

秀吉より 関白の職を譲られ 2代目 武家関白となった。

1591年 (天正19年) 身分統制令

豊臣秀吉が発した3ヶ条の法令。 侍(さむらい)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)ら 武家奉公人 が百姓・町人になること、百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事すること、逃亡した奉公人をほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。

1592年 (文禄元年) 文禄の役

関白 豊臣秀吉

征服をめざして

李氏朝鮮 に侵略した戦争。

日本軍は

小西行長 ら一番隊が 700艘の大小軍船で 釜山 に上陸した。

朝鮮半島を北上し

漢城 を占領したのち

小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間で休戦成立。

秀吉は明降伏という報告を受け、

明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。

1597年 (慶長2年) に

講和交渉決裂によって

慶長の役

1592年(文禄元年) 豊臣秀吉 伏見城 築城

*伏見城 は、

現在の京都市伏見区桃山丘陵 にあった日本の城。

豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。

廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年頃から 桃山 と呼ばれるようになり、 織田・豊臣政権期の時代区分 安土 桃山 時代 や、その時代に花開いた 桃山 文化 などの呼称の元となった。

1592年(文禄元年) 人掃令

関白 豊臣秀次の名で出された朝鮮出兵のための法令。

全国の戸口調査を命じ、一村単位の家数、人数、男女、老若、職業などを明記した書類を作成して提出させたもの。

1595年 (文禄4年) 秀次事件

豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がり 切腹となった事件。

1596年 (文禄5年) サン=フェリペ号事件

日本の土佐国でスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」。

豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である 日本二十六聖人 殉教のきっかけとなった。

1596年 (文禄5年) 9月 慶長伏見地震

1597年 (慶長元年) 日本二十六聖人 殉教

サン=フェリペ号事件 をきっかけに

関白 豊臣秀吉 の命令によって

長崎で26人のカトリック信者が磔の刑に処された。

日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。

1598年 (慶長3年) 豊臣秀吉 死去

死の床にあった秀吉は

嫡子 豊臣秀頼 成人までの政治運営にあたっては、

徳川家康 ら有力大名5人と

石田三成 ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。

五大老五奉行 が制度化された。

1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着

豊後国(現大分県)に オランダ共和国の商船 リーフデ号が漂着した。

生存者の ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス江戸幕府の外交顧問になった。

徳川家康

関ヶ原の戦い にて、

リーフデ号 の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。

1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い

美濃国不破郡関ヶ原岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた

徳川家康 を総大将とし

福島正則黒田長政 らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元 を総大将とし

宇喜多秀家石田三成 らを中心に結成された反徳川の西軍との戦い。

東軍が勝利し

石田三成は斬首、

毛利輝元は減封。

勝者である徳川家康は 強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた 五大老五奉行 体制は崩壊した。

家康の権力掌握は徳川氏を中心とする 江戸幕府の成立に繋がる。

1600年 (慶長5年) 12月 九条兼孝 関白に

九条兼孝

関白 二条晴良 の長男。

秀次事件 により

空位となってた関白に

徳川家康 の奏上により任じられた。

豊臣氏による関白職世襲を止め 旧来の 五摂家 に関白職が戻る。

1603年 (慶長8年) 2月 徳川家康 征夷大将軍

征夷大将軍」の官職を獲得した 徳川家康

独自の政権( 江戸幕府 ) を構築していく。

同年7月に

豊臣秀吉 の遺言に従い

家康の三男・徳川秀忠 の娘である 千姫

豊臣秀頼 と結婚させた。

1604年 (慶長9年) 徳川家康 江戸城 大改修

1603年 (慶長8年)に

徳川家康は 最高権力者の地位を象徴する「征夷大将軍」の官職を獲得した。

徳川家康は 諸大名を動員して江戸城の大改修( 天下普請 )を行わせ、

江戸幕府 を構築していく。

1604年 (慶長9年) 12月 慶長地震

1605年 (慶長9年) 4月 徳川秀忠 2代将軍に

徳川秀忠

徳川家康の三男。

父 家康は 将軍職を譲り、2代将軍となる。

1607年 (慶長11年) 方広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による

方広寺大仏・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、

大坂の陣 の契機の一つとなった事件。

問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、

前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、

後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

1609年 (慶長14年) 琉球侵攻

薩摩藩琉球王国 に対する軍事行動

対する 中山王府 は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった。

琉球王国薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。

1611年(慶長16年)3月 二条城会見

山城国京都 二条城 において、

徳川家康

豊臣秀頼 が行った会見である。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする。

1611年 (慶長16年) 5月後水尾天皇 即位

後水尾天皇

後陽成天皇の第三皇子。

後陽成天皇から譲位され践祚

1611年 (慶長16年) 12月 慶長三陸地震

1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

豊臣方は 浪人衆を全国から集めて

籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

徳川方は 織田有楽斎 を通じて豊臣方との和平交渉を行うが。

和議交渉が暗礁に乗り上げると、本丸への砲撃を行った。

淀殿の侍女8人に命中し、

豊臣方は 和議に応ずる。

和議の条件として、大坂城の堀を埋めた。

1615年 (慶長20年) 大坂夏の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

大坂冬の陣 ののち

豊臣方は 再び 浪人衆を集めた。

徳川方は 約15万の大軍で大坂城を包囲し、

城内に続々と乱入した。

徳川方が勝利 し

豊臣秀頼は自害し 豊臣氏は滅亡した。

家康の孫娘で 豊臣秀頼正室であった 千姫は 事前に脱出した。

1615年 (元和元年) 9月 元和偃武

1615年の 大坂夏の陣 により

江戸幕府大坂城主の豊臣家 を攻め滅ぼしたことにより

応仁の乱 以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。

同年 7月に

江戸幕府は朝廷に元号慶長 から 元和 と改めさせたことで、

天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。

室町時代の出来事

室町時代の出来事を年表にまとめた。

室町時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 安土桃山時代

室町時代の 初期を

南北朝時代

終期を

戦国時代

と細分化することもある。

関連記事

室町時代の概要

1336年に

足利尊氏建武式目を制定して 室町幕府が成立してから

1573年に

織田信長 によって 15代将軍 足利義昭 が京都から追放され、

室町幕府が事実上の滅亡するまで。

約240年間。

歴史

1336年に

後醍醐天皇 と対立した 足利尊氏持明院統北朝)の天皇を擁立し幕府を開いた。

1392年に

3代将軍 足利義満 によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。

将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる 守護大名 がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した。( 室町幕府-守護体制

義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱 以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、

それまでの 幕府 - 守護体制

荘園公領制 が崩壊するとともに、

各地に独立勢力とも言える 戦国大名 が並立するようになる。

室町時代の文化

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化東山文化 と呼ばれることがある。

南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、

8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。

建築・庭園

建築では、義満が北山に建造した 鹿苑寺金閣寝殿造禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。

義政の建てた 慈照寺銀閣禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。

宗教・思想

日本仏教では、禅宗武家層にも広まり、武家の保護を受けた禅の 五山 が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。

都市部では 日蓮宗 が広まり、京都では 日親 が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。

1536年には 日蓮宗比叡山延暦寺と衝突して 天文法華の乱 と呼ばれる騒動となる。

1549年には ヨーロッパからキリスト教フランシスコ・ザビエル などによってもたらされている。

室町時代の小区分

政治の状況に応じて大まかに3つに分けられる。

前史

室町前期

室町幕府の創世記

1336年に

足利尊氏室町幕府が成立してから

1392年に

南朝北朝が合一するまで。

約56年間

南北朝時代

1337年に

後醍醐天皇南朝を開いてから

1392年に

南朝北朝が合一するまで

約55年間

室町中期

室町幕府の全盛期

1392年に

南朝北朝が合一してから

1467年の応仁の乱まで

約75年間

室町後期

室町幕府の衰退期

1467年の応仁の乱から

1573年に

織田信長によって15代将軍義昭が京都から追放され、

室町幕府が事実上の滅亡するまで。

約106年間

戦国時代

1467年の応仁の乱から

1568年に

織田信長が上洛するまで。

約100年間

室町時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 後醍醐天皇 即位

後醍醐天皇

後宇多天皇の第二皇子。

花園天皇の譲位を受けて践祚

1331年 (元弘元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

室町前期

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

光明天皇

後伏見天皇の第九皇子。(豊仁親王)

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた。(光明天皇

北朝 が開かれる。

南北朝時代

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

1338年 (建武5年) 8月 藤島の戦い

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1338年 (建武5年) 9月 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1339年 (延元4年) 後村上天皇 即位

後村上天皇

後醍醐天皇 の第7皇子。

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺 は、

京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1348年 (貞和4年) 2月 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

1348年 (貞和4年) 11月 北朝第3代 崇光天皇 即位

崇光天皇

北朝初代 光厳天皇の第一皇子。

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 11月 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝崇光天皇 が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

後光厳天皇

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子。

正平一統 にて

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 2代将軍に

足利 義詮

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男。

父 尊氏が没し、征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

1368年 (正平23年) 長慶天皇 即位

長慶天皇

後村上天皇 の第一皇子。

村上天皇崩御により

摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1369年 (応安2年) 足利義満 3代将軍に

足利義満

2代将軍 足利義詮 の子。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満 に政務を委譲し、

細川頼之管領 として 義満 の後見・教導を託した。

1369年 (応安2年) 12月 に

義満 は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

後円融天皇

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子。

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1375年 (天授元年) 五百番歌合

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

後小松天皇

北朝第5代 後円融天皇 の第一皇子。

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 後亀山天皇 即位

後亀山天皇

後村上天皇 の第二皇子。

第一皇子は 長慶天皇

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

室町中期

1392年 (明徳3年) 足利義満 金閣寺 創建

鹿苑寺(別名 金閣寺)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。

開基は 3将軍 足利義満

1395年 (応永元年) 足利義持 4代将軍に

足利義持

3代将軍 足利義満の嫡男。

父義満より将軍職を譲られ、9歳で第4代将軍に就任する。

政治の実権は全て義満に握られていた。

1399年 (応永6年) 応永の乱

守護大名大内義弘室町幕府に対して起こした反乱である。

1412年 (応永19年) 称光天皇 即位

称光天皇

後小松天皇 の第一皇子。

後小松天皇の譲位を受けて即位する。

1416年 (応永23年) 上杉禅秀の乱

関東管領 である 上杉氏憲(禅秀)が 鎌倉公方足利持氏 に対して起した反乱である。

1419年(応永26年)応永の外寇

李氏朝鮮による対馬への侵攻。

朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、

宗貞盛 の抵抗により、大敗を喫した。

1421年 (応永28年) 伊豆大島 噴火

1423年 (応永30年) 足利 義量 5代将軍に

足利義量

4代将軍 足利義持 の長男。

足利義持から将軍職を譲られて5代将軍に就任した。

1428年 (正長元年) 後花園天皇 即位

伏見宮貞成親王 ( 崇光天皇の孫 ) の第一王子。 (彦仁親王)

称光天皇崩御すると、

彦仁親王称光天皇の父 後小松上皇 の猶子となって親王宣下のないまま、践祚し、即位した。

先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は658年ぶりである。

南朝勢力の激しい反発を招き、以後、約60年にわたって南朝復興運動 ( いわゆる 後南朝 ) が繰り広げられる引き金になった。

1428年 (正長元年) 正長の土一揆

近江坂本や大津の 馬借徳政 を求めた。

その一揆畿内一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた一揆勢が酒屋、土倉、寺院( 祠堂銭 )を襲い、

私徳政 を行った。

1429年 (正長2年) 足利 義教 6代将軍に

足利義教

3代将軍 足利義満 の四男。

4代将軍 足利義持 は同母兄。

5代将軍 足利義量 は従兄弟。

5代将軍 足利義量 が急死し、

管領 畠山満家 ら群臣たちにより

次期将軍に選ばれる。

1438年 (永享10年) 永享の乱

4代 鎌倉公方足利持氏

関東管領上杉憲実 の対立に端を発する、

室町幕府 6代将軍 足利義教 が持氏討伐を命じた事件である。

幕府軍が勝利し

持氏は 幕府軍により幽閉された。

1440年 (永享12年) 結城合戦

関東地方で起こった室町幕府

結城氏朝結城持朝 父子ら関東の諸豪族との間の戦いである。

幕府軍が勝利し

結城氏朝・持朝は 討死した。

1441年 (嘉吉元年) 嘉吉の乱

播磨・備前・美作の守護 赤松満祐

6代将軍 足利義教 を殺害し、

領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。

1441年 (嘉吉元年)嘉吉の徳政一揆

政令を求めて 京都・近江坂本の 馬借 を中心に農民が蜂起、地侍 が指導し、数万人の一揆にふくれあがった。

1442年 (嘉吉2年) 足利 義勝 7代将軍に

足利 義勝

6代将軍 足利義教 の長男。

嘉吉の変 により 父・義教が殺害されたため、

将軍職を継ぎ、7代将軍となった。

1443年 (嘉吉3年) 禁闕の変

京都で起こった 後花園天皇 の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件である。

吉野朝廷南朝)復興を唱える勢力( 後南朝 )が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れたが、鎮圧された。

1443年 (嘉吉3年) 嘉吉条約

李氏朝鮮対馬国宗貞盛 との間で結ばれた貿易に関する協定である。

1444年 (文安元年) 文安の麹騒動

京都において酒造工程の一つである 造りを支配していた座(北野麹座)が室町幕府に鎮圧されて没落した事件。

この結果、麹の専門業界は没落して酒屋業へ組み入れられた。

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 は同母兄。

7代将軍 足利義勝が早逝したため、

管領 畠山持国 などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

、 8代将軍 足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

室町幕府足利将軍家と結んだ 山内上杉家

扇谷上杉家 が、

鎌倉公方 足利成氏 と争い、関東地方一円に拡大した。

関東地方における戦国時代の始まり。

1457年 (長禄元年) 長禄の変

赤松氏 の遺臣らが 後南朝 の行宮を襲い、

南朝 の皇胤である

自天王

忠義王 とされる兄弟を討って神璽を持ち去った事件。

1457年 (長禄元年) コシャマインの戦い

現在の北海道 渡島半島 における

コシャマイン

アイヌ

武田信広

和人 との戦い。

和人側が勝利し

コシャマイン父子は戦死した。

松前藩 形成の元となった。

1459年 (長禄3年) 長禄・寛正の飢饉

長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。

1464年 (寛正5年) 後土御門天皇

後土御門天皇

後花園天皇の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1466年 (文正元年) 文正の政変

8代将軍 足利義政 の側近

伊勢貞親

季瓊真蘂 らが諸大名の反発で追放された事件である。

この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は 応仁の乱 を起こしていく。

室町後期

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

足利義尚

8代将軍・足利義政の次男。

父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

9代将軍 足利義尚 が早世し、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方

足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

明応の政変 により

10代将軍 足利義材が 追放されたため、

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後柏原天皇

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1506年 (永正3年) 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

これを契機に

20年以上にわたる 両細川の乱 が勃発した。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

足利義澄 が 病死したため、

12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後奈良天皇

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒( 天台宗 )が 京都の日蓮宗徒( 法華宗 ) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

主に 川中島 ( 長野県長野市 ) で行われた

甲斐国戦国大名である 武田信玄 と、

越後国戦国大名である 上杉謙信 との間の数次の戦い。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

足利 義輝

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害されたため、

14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

戦国時代の出来事

戦国時代の出来事を年表にまとめた。

戦国時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 安土桃山時代

広義の室町時代に含まれる。

戦国時代の概要

1467年の 応仁の乱 から、

1568年の 織田信長 の上洛まで。

約100年。

始期を 1493年 の 明応の政変

終期を

1573年に 室町幕府が滅亡したとき

1590年の 小田原征伐

とすることもある。

世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名 に代わって全国各地に 戦国大名が台頭した。

領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。

経済と社会

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。

戦国時代初期には 勘合貿易 および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や 南蛮貿易 によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。

また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された 石見銀山 に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し 楽市・楽座 により自由な市場取引を推奨した。

戦国時代の文化

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。

下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする 桃山文化 の発露への布石となる。

戦国時代に活動した画家

戦国時代の出来事

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利 義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 の同母弟にあたる。

1443年 (嘉吉3年) 7月 に

7代将軍 義勝が早逝した。

1449年 (文安6年) 4月に

将軍宣下を受けて、第8代将軍として就任した。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

8代将軍 足利義政 の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

関東地方一円に拡大した。

1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位

後花園天皇 の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1470年 (文明2年) 京極騒乱

京極氏家督相続を巡る御家騒動の一つ。

1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件

伯耆国守護職山名豊之 が同国由良郷の嶋の地で殺害された事件。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

8代将軍・足利義政の次男

1473年 (文明5年) 12月に

9歳のとき、父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任

1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱

因幡の国人 毛利貞元(次郎)が

守護 山名氏 に対して起こした反乱。

1487年 (長享元年) 長享の乱

山内上杉家上杉顕定関東管領)と

扇谷上杉家上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。

この戦いによって上杉氏は衰退し、

伊勢宗瑞( 北条早雲 )を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆

加賀の本願寺門徒(一向衆徒)が中心となった 国人や農民による惣国一揆

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

第8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

1489年 (長享3年) に

従兄で9代将軍の 足利義尚 が早世した。

1490年 (延徳2年) に

義尚の父で8代将軍の 足利義政 の死後、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方 足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

1493年 (明応2年) に

明応の政変 により

従兄の10代将軍・足利義材管領 細川政元 によって追放される。

1495年 (明応3年) に

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1504年 (永正元年) 立河原の戦い

武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、

上杉顕定足利政氏 らの連合軍と

上杉朝良今川氏親北条早雲 らの連合軍との間で行われた合戦である。

長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いである。

この戦いに勝利した上杉朝良は 結果的に上杉顕定に降伏した。

1506年 (永正3年) 9月 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1506年 (永正3年) 10月 般若野の戦い

越中般若野(現在の富山県砺波市)で行われた

越中一向一揆

越後守護代 長尾能景 との間の戦い。

一向一揆勢が勝利し

能景は討ち取られた。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

1509年 (永正6年) 片角軍萱の戦い

下野国にて

長沼政義 ( 鴫山城 ) は 主家である 宇都宮氏を裏切り、下野国 片角軍萱に侵攻したことに対し、

下野の戦国大名 宇都宮成綱 が迎え撃ち、長沼軍を撃退した戦いである。

再起不能に近い形で大敗した政義は 下野国の自領を捨て、田島城に逃亡した。

1509年 (永正6年) 7月 如意ヶ嶽の戦い

現在の京都市左京区如意ヶ嶽 周辺で行われた

細川高国大内義興 連合軍と

細川澄元三好之長 連合軍との戦い。

高国・義興 連合軍が勝利し

澄元・之長らは阿波へ逃走した。

1511年 (永正8年) 7月 深井城の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

深井城 (大阪府堺市) で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍が勝利し

高国軍の残兵は堺へ逃亡。

1511年 (永正8年) 8月 芦屋河原の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

摂津国武庫郡鷹尾城 と芦屋河原周辺で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍は軍勢を二分して進軍、

一方が阿波より堺に上陸 深井城の合戦 となり、

もう一方が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦 となった。

澄元軍は鷹尾城を占領。

1511年 (永正8年) 8月 船岡山合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

室町幕府 10代将軍 足利義稙 を擁立する 細川高国大内義興

11代将軍 足利義澄 を擁立する 細川澄元との間で起きた、

幕府の政権と細川氏家督をめぐる戦いである。

細川高国大内義興 連合軍が勝利。

1512年 (永正9年) 宇都宮錯乱

下野宇都宮氏 で発生した内紛。

当主 宇都宮成綱

家臣 芳賀高勝 を殺害、

それをきっかけに 芳賀氏 が反乱を起こした。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1521年 (大永元年) 大永の内訌

下野宇都宮氏18代当主・宇都宮忠綱 と、

芳賀高経 ら芳賀氏を中心とした家臣団との 対立で起こった内訌(内輪揉め)である。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

1511年 (永正8年) に

義澄は 病死した。

1521年)(大永元年) に

10代将軍 足利義稙

後柏原天皇 の信任を失う。

管領 細川高国

義稙の放逐を決意し 新将軍の擁立を決めた。

1522年 (大永元年) に

義晴 が12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1524年 (大永4年) 5月 大永の五月崩れ

出雲守護代 尼子経久伯耆 進攻をいう。

1524年 (大永4年) 7月 佐東銀山城の戦い

安芸 武田氏 の 本拠であった安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)の 佐東銀山城

大内氏 が攻めた合戦である。

安芸武田氏は佐東銀山城を守りきり

大内軍は撤退した。

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1527年 (大永7年) 桂川原の戦い

京都 桂川 原一帯で行われた

12代将軍 足利義晴 を擁する

細川 高国

細川晴元 との戦い。

晴元が勝利し

義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とした。

和泉国 を本拠とした晴元は、

都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、

義晴の弟 足利義維 を将軍に戴く 堺公方府 という擬似幕府を創設した。

1531年 (享禄4年) 大物崩れ

摂津 天王寺辺りで

細川晴元

三好元長 の連合軍が、

細川高国

浦上村宗 の連合軍を壊滅させた。

高国が 大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で捕らえられ処刑された。

1532年 (天文元年) 山科本願寺の戦い

細川晴元

六角定頼

・京都の 法華一揆 の連合軍と

山科本願寺 に籠る

浄土真宗本願寺勢力( 一向一揆 )との戦い。

晴元方が勝利し

山科本願寺は 社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

1534年 (天文3年) 勢場ヶ原の戦い

豊後 大村山 付近(現大分県杵築市山香町山浦近辺)で行われた

中国地方の大名 大内義隆

豊後の大名 大友義鑑 との合戦。

引き分けとなる。

1535年 (天文4年) 森山崩れ

三河国岡崎城松平清康 が、

尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、

家臣の 阿部正豊 に暗殺された事件。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒が 京都の日蓮宗徒( 法華宗) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1540年 (天文9年) 吉田郡山城の戦い

安芸国吉田の 吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、

毛利氏当主 毛利元就

中国地方の守護 尼子晴久 との戦い。

毛利氏が勝利し

尼子軍が撤退し、晴久は帰国した。

1541年 (天文10年) 海野平の戦い

信濃国 小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。

甲斐守護 武田信虎 と、村上義清諏訪頼重 など武田と結んだ信濃国人の連合軍が 小県郡へ侵攻し、

小県を領する 海野棟綱根津元直滋野三家 ( 海野氏禰津氏望月氏 ) や 真田氏 との間で行われた。

武田の連合軍が勝利し

滋野一族は 上野国へ亡命する。

1542年 (天文11年) 天文の乱

天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、

伊達氏当主 伊達稙宗

嫡男 晴宗 父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

領土拡大を目指し 北信濃に侵攻した 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

信濃信濃中部の豪族から助けを求められた 越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との間で、

主に川中島で行われた数次の戦い。

1542年 (天文11年) 月山富田城の戦い

1542年から1543年・1565年から1566年に

尼子氏 の本拠である出雲国月山富田城(現:島根県安来市)を

大内義隆 を総大将とする大内軍が攻撃した。

尼子方が勝利し

大内方は撤退し 義隆は山口に帰還した。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景 土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1545年 (天文14年) 河越城の戦い

武蔵国の枢要な城であった 河越城の争奪を巡る 一連の戦いをいう。

後北条氏の2代目当主 北条氏綱武蔵国征服のため、

武蔵国を支配していた 上杉氏 の居城・河越城に侵攻し、

1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。

北条軍が勝利し、

上杉氏が滅亡した。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) 江口の戦い

摂津 江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において

三好長慶 軍と

同族の 三好政長 が衝突した戦いである。

三好長慶軍が勝利し

政長は戦死。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1550年 (天文19年) 二階崩れの変

豊後の戦国大名 大友氏 の内紛、お家騒動。

大友家重臣 津久見美作、田口鑑親らが

大友館 の2階で就寝していた

当主 大友義鑑塩市丸 、そしてその生母を襲撃した。

塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。

津久見・田口の両名もその場で壮絶な最期を遂げた。

義鑑も 数日後に死去。

1551年 (天文20年) 大寧寺の変

周防山口の戦国大名 大内義隆

家臣の 陶晴賢 の謀反により自害させられた政変である。

この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた 大内氏 が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。

1554年 (天文23年) 3月 三本松城の戦い

大内義長

陶晴賢 が、

石見国三本松城( 現在の 津和野城 )城主である

吉見正頼 を攻めた戦いである。

大内軍の優勢で和睦。

1554年 (天文23年) 6月 折敷畑の戦い

陶晴賢( 派遣部将は宮川房長 )と

毛利元就との間に行われた戦いである

毛利軍が勝利し

宮川房長は討死。

1555年 (天文24年) 厳島の戦い

安芸国 厳島

毛利元就

陶晴賢 との間で行れた合戦である

毛利方が勝利し

晴賢は自刃して果てた。

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1561年 (永禄4年) 4月 善明堤の戦い

今川氏から独立した家康の三河統一事業の過程で起きた合戦の一つである。

三河国(現・愛知県)において

松平元康( 後の徳川家康 )と

吉良義昭 との間で起った戦い。

吉良軍が勝利し

松平元康軍は 松平 好景板倉好重 など、多くの一族、家臣を失った。

1561年 (永禄4年) 8月 第4次川中島の戦い

第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、

川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦い。

川中島の戦い

主に川中島 で行われた

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との戦い。

1561年 (永禄4年) 8月に

上杉謙信は 兵13000を率いて犀川千曲川を渡り長野盆地南部の 妻女山 に陣取った。

武田信玄は、兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。

武田軍の別働隊1万2千が妻女山に向い、

信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。

上杉謙信軍は 夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。

川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。

武田軍は完全に裏をかかれた形になり、武田軍は防戦一方となる。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した

双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

1561年 (永禄4年) 9月 藤波畷の戦い

東条吉良氏 の居城 東条城 をめぐる吉良氏と松平元康( 徳川家康 )の一連の攻防戦の一つ。

松平軍が勝利し

吉良義昭 は降伏した。

1563年 (永禄6年) 4月 湯所口の戦い

鳥取城 城下の 湯所口 における

因幡国 重臣武田高信

因幡国山名豊数 率いる布施(勢)屋形勢の間で起こった戦い。

武田勢が勝利し

豊数は逃走した。

1563年 (永禄6年) 4月 新加納の戦い

織田信長

斎藤龍興 の戦い。

斎藤方が勝利し

織田方は敗退した。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1566年 (永禄9年) 河野島の戦い

織田信長

斎藤龍興 との間で行われた戦い。

木曽川 で対峙したが

木曽川が氾濫し 双方が撤退。

1567年 (永禄10年) 稲葉山城の戦い

美濃国井之口(現:岐阜県岐阜市)の 斎藤龍興 の居城 稲葉山城 を、

織田信長 が攻め取った攻城戦である。

斎藤龍興は伊勢の長島へと脱出した。

この戦によって織田信長稲葉山城岐阜城に改名して居城とした上で、

天下布武 の朱印を用いるようになり、

本格的に天下統一を目指すようになる。

1567年 (永禄10年) 東大寺大仏殿の戦い

大和 東大寺 周辺で

松永久秀

三好義継

三好三人衆

筒井順慶

池田勝正 らが繰り広げた市街戦。

大仏殿が全焼した。

松永久秀軍が勝利し

三人衆軍、池田軍は敗退した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

1568年 (永禄11年) 3月に

足利 義栄 は 朝廷から征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

足利義輝 が殺害された。

細川藤孝幕臣の援助を受けて 南都 から脱出した。

その後、朝倉義景 の庇護を受ける。

1568年 (永禄11年) 7月に

足利義昭 は美濃に入り、

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 9月に

足利義昭織田信長に擁されて上洛した。

10月に

14代将軍 足利義栄は 腫物を患って 阿波で養生することになった。

同月にその地で死去した。

11月に

足利義昭 は朝廷から将軍宣下を受けて、15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする 後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府 )を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 藤島の戦い

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺

京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある

臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった「亀山殿」を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第2期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 2月 打出浜の戦い

観応の擾乱 における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた 高氏 は没落した。

1351年 (観応2年) 11月 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝崇光天皇 が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 12月 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1352年 (観応3年) 八幡の戦い

観応の擾乱 の余波として発生した合戦の一つ。

山城国 京都 から 男山八幡(京都府八幡市石清水八幡宮 )において、

後村上天皇南朝方の軍勢と、

足利義詮北朝方の軍勢との間で行われた合戦である。

京都の南朝方は、急遽 足利義詮へ攻撃を開始した。

不意を突かれた北朝方は苦戦に陥り、

足利義詮は近江に逃れ

南朝方は南北朝分裂以降初めて京都を奪回した。

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇 即位

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第3期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 打出浜の戦い

観応の擾乱における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。

1351年 (観応2年) 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝天皇が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

#### 1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%86%E8%9E%8D%E5%A4%A9%E7%9A%87)の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第3期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 打出浜の戦い

観応の擾乱における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。

1351年 (観応2年) 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝天皇が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

#### 1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%86%E8%9E%8D%E5%A4%A9%E7%9A%87)の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。