安土桃山時代の出来事

安土桃山時代の出来事を年表にまとめた。

安土桃山時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 江戸時代

関連記事

安土桃山時代の概要

1573年に

織田信長 により

室町幕府 15代将軍 足利義昭 が京都から放逐されて

室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれてから

1603年に

徳川家康征夷大将軍に任じられ 江戸幕府 を開くまで

約30年間。

始期は、

織田信長足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、

義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、

安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。

終期は、

豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、

関ヶ原の戦い徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、

家康が伏見城征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。

織田信長

豊臣秀吉 が中央政権を握っていた時代である。

織田信長による政権の確立

織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が天皇室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。

兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。

楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市 の支配や 撰銭令 などの経済政策が実施された。

元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。
信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな 南蛮文化 が花開いた。

豊臣秀吉による天下統一

本能寺の変 を知った 羽柴秀吉 は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である 明智光秀を破った。

これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。

天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本国内の統一を達成した。

農民一揆を防止するため 刀狩令 を出した。

京都 方広寺 の大仏作りを口実とした 全国各地で 太閤検地 を行い 石高 制度を導入し、度量衝が統一された。

荘園制 は完全に解体し在地 土豪 の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。

秀吉は1592年(文禄元年)に 人掃令 を出して全国的な戸口調査を実施した。

1591年(天正19年)に 身分統制令 を出して 兵農分離 が推進された。

鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人 との交流が開始された。

カステラ など南蛮料理が食べられるようにになり、タバコ南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。

豊臣時代の終結

豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政前田玄以石田三成増田長盛長束正家の5人による 五奉行 制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派と加藤清正福島正則などの武断派に分裂して 五大老の筆頭である 徳川家康伏見城で実力者としての頭角を現した。

朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。

これに対し 石田三成 を中心とした反家康勢力が 慶長5年(1600年)に全国を二分する 関ヶ原の戦い が勃発した。

これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。

これにより安土桃山時代は終わり、江戸時代 が始まった。

安土桃山時代の文化

美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に 桃山文化「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。

それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。

当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。

安土桃山時代の出来事

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1570年 (元亀元年) 石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 7月槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

1573年 (天正元年) 9月 一乗谷城の戦い

一乗谷城 ( 福井県福井市城戸ノ内町 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

越前国戦国大名 朝倉義景 の間で行なわれた合戦である。

織田軍が勝利し

朝倉義景は自刃。

1573年 (天正元年) 9月 小谷城の戦い

小谷城 ( 滋賀県長浜市 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

北近江の戦国大名 浅井長政 との間で行なわれた戦いである。

浅井長政

正室お市の方を3人の娘( 浅井三姉妹 )と共に織田軍に引き渡した。

織田軍が勝利し

浅井長政は自害し 浅井氏は滅亡した。

1575年 (天正3年) 長篠の戦い

三河国 長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、

3万8千人の 織田信長

徳川家康 連合軍と、

1万5千人の 武田勝頼 の軍勢が戦った合戦である。

織田・徳川連合軍が勝利し

勝頼は信濃に後退した。

1576年 (天正4年) 織田信長 安土城 築城

1579年 (天正7年) 安土宗論

安土城下の浄厳院で行われた 浄土宗法華宗宗論

織田信長 の斡旋により、

浄土宗の僧 ( 玉念・貞安・洞庫 ) 等と、

法華僧 ( 日珖・日諦・日淵 ) 等の間で行われた。

1580年 (天正8年) 石山合戦 終了

石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1580年 (天正8年) 4月 に

顕如は降伏し 石山本願寺を退去した。

石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。

顕如の退去後に 嫡子で新門跡の 教如 が石山を占拠した。

後に、東本願寺西本願寺に分裂する遠因ともなった。

1581年 (天正9年) 京都御馬揃え

織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。

1582年 (天正10年) 本能寺の変

明智光秀 が謀反を起こし、

京都 本能寺 に滞在する主君 織田信長 を襲撃した事件である。

1582年 (天正10年) 天正遣欧少年使節

キリシタン大名である 大友義鎮大村純忠有馬晴信らの名代として4名の少年を中心とした使節団がローマへ派遣された。

1583年 (天正11年) 賤ヶ岳の戦い

本能寺の変 にて

織田信長 が討たれると、

織田氏 の有力家臣の間で勢力争いとなった。

近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の 賤ヶ岳 付近で起きた

羽柴秀吉柴田勝家の戦いである。

羽柴軍が勝利 し

勝家は自害した。

勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。

1583年 (天正11年) 羽柴秀吉 大坂城 築城

1584年 (天正12年) 小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉 陣営と

織田信雄徳川家康 陣営の間で行われた戦い。

織田・徳川連合軍が勝利し

秀吉は大坂城に戻った。

合戦から半年以上経った11月に

秀吉は信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。

信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は三河に帰国した。

秀吉は美濃・伊賀・伊勢南部における織田信雄の影響力を排除した。

1585年 (天正13年) 羽柴秀吉 関白

1585年 (天正13年) 11月 天正地震

1586年 (天正14年) 羽柴秀吉 豊臣姓 を賜る

正親町天皇 から

羽柴秀吉

豊臣氏 が下賜され、

これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた 藤原の氏豊臣 に改めた。

1586年 (天正14年) 10月 徳川家康 豊臣秀吉 に臣従

1585年 (天正13年) 11月に

徳川家康の側近 石川数正 が 家康の元から出奔し 豊臣秀吉に 臣従した。

1586年 (天正14年) 4月に

秀吉は 臣従要求を拒み続ける家康に対して 実妹 朝日姫正室として差し出し

秀吉と家康は義兄弟となる。

10月 に

秀吉が 生母 大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、

家康は浜松を出立し上洛した。

同年 10月27日に

家康は 大坂城 において 秀吉に謁見し、

諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

1586年 (天正14年) 12月 後陽成天皇 即位

後陽成天皇

正親町天皇 の皇子の 誠仁親王(陽光院太上天皇)の第一皇子。

誠仁親王薨去

皇祖父 正親町天皇が譲位し、後陽成天皇践祚

1587年 (天正15年) バテレン追放令

豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令した

キリスト教 宣教と 南蛮貿易 に関する禁制。

1588年 (天正16年) 刀狩令

武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。

全国単位で 兵農分離 を進めた政策となった。

1588年 (天正16年) 海賊停止令

豊臣秀吉 が出した海賊衆 ( 水軍 ) に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。

1590年 (天正18年) 小田原征伐

主に 小田原城 において

関白 豊臣秀吉 が、

徳川家康 らに命じて

小田原北条氏 を降した戦役。

豊臣軍が勝利し

北条氏は降伏。

当主 北条氏直 は小田原を退去し

前当主である 北条氏政切腹

北条氏の旧領はほぼそのまま 徳川家康 に宛がわれることとなった。

後に

徳川家康江戸城に入り、

徳川譜代の 大久保忠世小田原城主となった。

1591年 (天正19年) 豊臣秀次 関白に

豊臣秀次

豊臣秀吉 の姉である 瑞竜院日秀 の長男。

秀吉の異父弟 豊臣秀長

秀吉の嫡男 鶴松 が相次いで死去したことにより

秀吉の養嗣子となった。

秀吉より 関白の職を譲られ 2代目 武家関白となった。

1591年 (天正19年) 身分統制令

豊臣秀吉が発した3ヶ条の法令。 侍(さむらい)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)ら 武家奉公人 が百姓・町人になること、百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事すること、逃亡した奉公人をほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。

1592年 (文禄元年) 文禄の役

関白 豊臣秀吉

征服をめざして

李氏朝鮮 に侵略した戦争。

日本軍は

小西行長 ら一番隊が 700艘の大小軍船で 釜山(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E5%BA%83%E5%9F%9F%E5%B8%82) に上陸した。

朝鮮半島を北上し

漢城 を占領したのち

小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間で休戦成立。

秀吉は明降伏という報告を受け、

明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。

1597年 (慶長2年) に

講和交渉決裂によって

慶長の役

1592年(文禄元年) 豊臣秀吉 伏見城 築城

*伏見城 は、

現在の京都市伏見区桃山丘陵 にあった日本の城。

豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。

廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年頃から 桃山 と呼ばれるようになり、 織田・豊臣政権期の時代区分 安土 桃山 時代 や、その時代に花開いた 桃山 文化 などの呼称の元となった。

1592年(文禄元年) 人掃令

関白 豊臣秀次の名で出された朝鮮出兵のための法令。

全国の戸口調査を命じ、一村単位の家数、人数、男女、老若、職業などを明記した書類を作成して提出させたもの。

1595年 (文禄4年) 秀次事件

豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がり 切腹となった事件。

1596年 (文禄5年) サン=フェリペ号事件

日本の土佐国でスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」。

豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である 日本二十六聖人 殉教のきっかけとなった。

1596年 (文禄5年) 9月 慶長伏見地震

1597年 (慶長元年) 日本二十六聖人 殉教

サン=フェリペ号事件 をきっかけに

関白 豊臣秀吉 の命令によって

長崎で26人のカトリック信者が磔の刑に処された。

日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。

1598年 (慶長3年) 豊臣秀吉 死去

死の床にあった秀吉は

嫡子 豊臣秀頼 成人までの政治運営にあたっては、

徳川家康 ら有力大名5人と

石田三成 ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。

五大老五奉行 が制度化された。

1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着

豊後国(現大分県)に オランダ共和国の商船 リーフデ号が漂着した。

生存者の ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス江戸幕府の外交顧問になった。

徳川家康

関ヶ原の戦い にて、

リーフデ号 の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。

1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い

美濃国不破郡関ヶ原岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた

徳川家康 を総大将とし

福島正則(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87][)・黒田長政 らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元 を総大将とし

宇喜多秀家石田三成 らを中心に結成された反徳川の西軍との戦い。

東軍が勝利し

石田三成は斬首、

毛利輝元は減封。

勝者である徳川家康は 強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた 五大老五奉行 体制は崩壊した。

家康の権力掌握は徳川氏を中心とする 江戸幕府の成立に繋がる。

1600年 (慶長5年) 12月 九条兼孝 関白に

九条兼孝

関白 二条晴良 の長男。

秀次事件 により

空位となってた関白に

家康の奏上により任じられた。

豊臣氏による関白職世襲を止め 旧来の 五摂家 に関白職が戻る。

1603年 (慶長8年) 2月 徳川家康 征夷大将軍

征夷大将軍」の官職を獲得した 徳川家康

独自の政権( 江戸幕府 ) を構築していく。

同年7月に

豊臣秀吉 の遺言に従い

家康の三男・徳川秀忠 の娘である 千姫

豊臣秀頼 と結婚させた。

1604年 (慶長9年) 徳川家康 江戸城 大改修

1603年 (慶長8年)に

徳川家康は 最高権力者の地位を象徴する「征夷大将軍」の官職を獲得した。

徳川家康は 諸大名を動員して江戸城の大改修( 天下普請 )を行わせ、

江戸幕府 を構築していく。

1604年 (慶長9年) 12月 慶長地震

1605年 (慶長9年) 4月 徳川秀忠 2代将軍に

徳川秀忠

徳川家康の三男。

父 家康は 将軍職を譲り、2代将軍となる。

1607年 (慶長11年) 広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による

方広寺大仏・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、

大坂の陣 の契機の一つとなった事件。

問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、

前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、

後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

1609年 (慶長14年) 琉球侵攻

薩摩藩琉球王国 に対する軍事行動

対する 中山王府 は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった。

琉球王国薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。

1611年(慶長16年)3月 二条城会見

山城国京都 二条城 において、

徳川家康

豊臣秀頼 が行った会見である。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする。

1611年 (慶長16年) 5月後水尾天皇 即位

後水尾天皇

後陽成天皇の第三皇子。

後陽成天皇から譲位され践祚

1611年 (慶長16年) 12月 慶長三陸地震

1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

豊臣方は 浪人衆を全国から集めて

籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

徳川方は 織田有楽斎 を通じて豊臣方との和平交渉を行うが。

和議交渉が暗礁に乗り上げると、本丸への砲撃を行った。

淀殿の侍女8人に命中し、

豊臣方は 和議に応ずる。

和議の条件として、大坂城の堀を埋めた。

1615年 (慶長20年) 大坂夏の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

大坂冬の陣 ののち

豊臣方は 再び 浪人衆を集めた。

徳川方は 約15万の大軍で大坂城を包囲し、

城内に続々と乱入した。

徳川方が勝利 し

豊臣秀頼は自害し 豊臣氏は滅亡した。

家康の孫娘で 豊臣秀頼正室であった 千姫は 事前に脱出した。

1615年 (元和元年) 9月 元和偃武

1615年の 大坂夏の陣 により

江戸幕府大坂城主の豊臣家 を攻め滅ぼしたことにより

応仁の乱 以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。

同年 7月に

江戸幕府は朝廷に元号慶長 から 元和 と改めさせたことで、

天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。

室町時代の出来事

室町時代の出来事を年表にまとめた。

室町時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 安土桃山時代

室町時代の 初期を

南北朝時代

終期を

戦国時代

と細分化することもある。

関連記事

室町時代の概要

1336年に

足利尊氏建武式目を制定して 室町幕府が成立してから

1573年に

織田信長 によって 15代将軍 足利義昭 が京都から追放され、

室町幕府が事実上の滅亡するまで。

約240年間。

歴史

1336年に

後醍醐天皇 と対立した 足利尊氏持明院統北朝)の天皇を擁立し幕府を開いた。

1392年に

3代将軍 足利義満 によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。

将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる 守護大名 がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した。( 室町幕府-守護体制

義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱 以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、

それまでの 幕府 - 守護体制

荘園公領制 が崩壊するとともに、

各地に独立勢力とも言える 戦国大名 が並立するようになる。

室町時代の文化

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化東山文化 と呼ばれることがある。

南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、

8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。

建築・庭園

建築では、義満が北山に建造した 鹿苑寺金閣寝殿造禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。

義政の建てた 慈照寺銀閣禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。

宗教・思想

日本仏教では、禅宗武家層にも広まり、武家の保護を受けた禅の 五山 が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。

都市部では 日蓮宗 が広まり、京都では 日親 が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。

1536年には 日蓮宗比叡山延暦寺と衝突して 天文法華の乱 と呼ばれる騒動となる。

1549年には ヨーロッパからキリスト教フランシスコ・ザビエル などによってもたらされている。

室町時代の小区分

政治の状況に応じて大まかに3つに分けられる。

前史

室町前期

室町幕府の創世記

1336年に

足利尊氏室町幕府が成立してから

1392年に

南朝北朝が合一するまで。

約56年間

南北朝時代

1337年に

後醍醐天皇南朝を開いてから

1392年に

南朝北朝が合一するまで

約55年間

室町中期

室町幕府の全盛期

1392年に

南朝北朝が合一してから

1467年の応仁の乱まで

約75年間

室町後期

室町幕府の衰退期

1467年の応仁の乱から

1573年に

織田信長によって15代将軍義昭が京都から追放され、

室町幕府が事実上の滅亡するまで。

約106年間

戦国時代

1467年の応仁の乱から

1568年に

織田信長が上洛するまで。

約100年間

室町時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 後醍醐天皇 即位

後醍醐天皇

後宇多天皇の第二皇子。

花園天皇の譲位を受けて践祚

1331年 (元弘元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

室町前期

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

光明天皇

後伏見天皇の第九皇子。(豊仁親王)

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた。(光明天皇

北朝 が開かれる。

南北朝時代

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

1338年 (建武5年) 8月 藤島の戦い

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1338年 (建武5年) 9月 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1339年 (延元4年) 後村上天皇 即位

後村上天皇

後醍醐天皇 の第7皇子。

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺 は、

京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1348年 (貞和4年) 2月 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

1348年 (貞和4年) 11月 北朝第3代 崇光天皇 即位

崇光天皇

北朝初代 光厳天皇の第一皇子。

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 11月 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝崇光天皇 が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

後光厳天皇

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子。

正平一統 にて

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 2代将軍に

足利 義詮

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男。

父 尊氏が没し、征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

1368年 (正平23年) 長慶天皇 即位

長慶天皇

後村上天皇 の第一皇子。

村上天皇崩御により

摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1369年 (応安2年) 足利義満 3代将軍に

足利義満

2代将軍 足利義詮 の子。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満 に政務を委譲し、

細川頼之管領 として 義満 の後見・教導を託した。

1369年 (応安2年) 12月 に

義満 は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

後円融天皇

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子。

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1375年 (天授元年) 五百番歌合

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

後小松天皇

北朝第5代 後円融天皇 の第一皇子。

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 後亀山天皇 即位

後亀山天皇

後村上天皇 の第二皇子。

第一皇子は 長慶天皇

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

室町中期

1392年 (明徳3年) 足利義満 金閣寺 創建

鹿苑寺(別名 金閣寺)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。

開基は 3将軍 足利義満

1395年 (応永元年) 足利義持 4代将軍に

足利義持

3代将軍 足利義満の嫡男。

父義満より将軍職を譲られ、9歳で第4代将軍に就任する。

政治の実権は全て義満に握られていた。

1399年 (応永6年) 応永の乱

守護大名大内義弘室町幕府に対して起こした反乱である。

1412年 (応永19年) 称光天皇 即位

称光天皇

後小松天皇 の第一皇子。

後小松天皇の譲位を受けて即位する。

1416年 (応永23年) 上杉禅秀の乱

関東管領 である 上杉氏憲(禅秀)が 鎌倉公方足利持氏 に対して起した反乱である。

1419年(応永26年)応永の外寇

李氏朝鮮による対馬への侵攻。

朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、

宗貞盛 の抵抗により、大敗を喫した。

1421年 (応永28年) 伊豆大島 噴火

1423年 (応永30年) 足利 義量 5代将軍に

足利義量

4代将軍 足利義持 の長男。

足利義持から将軍職を譲られて5代将軍に就任した。

1428年 (正長元年) 後花園天皇 即位

伏見宮貞成親王 ( 崇光天皇の孫 ) の第一王子。 (彦仁親王)

称光天皇崩御すると、

彦仁親王称光天皇の父 後小松上皇 の猶子となって親王宣下のないまま、践祚し、即位した。

先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は658年ぶりである。

南朝勢力の激しい反発を招き、以後、約60年にわたって南朝復興運動 ( いわゆる 後南朝 ) が繰り広げられる引き金になった。

1428年 (正長元年) 正長の土一揆

近江坂本や大津の 馬借徳政 を求めた。

その一揆畿内一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた一揆勢が酒屋、土倉、寺院( 祠堂銭 )を襲い、

私徳政 を行った。

1429年 (正長2年) 足利 義教 6代将軍に

足利義教

3代将軍 足利義満 の四男。

4代将軍 足利義持 は同母兄。

5代将軍 足利義量 は従兄弟。

5代将軍 足利義量 が急死し、

管領 畠山満家 ら群臣たちにより

次期将軍に選ばれる。

1438年 (永享10年) 永享の乱

4代 鎌倉公方足利持氏

関東管領上杉憲実 の対立に端を発する、

室町幕府 6代将軍 足利義教 が持氏討伐を命じた事件である。

幕府軍が勝利し

持氏は 幕府軍により幽閉された。

1440年 (永享12年) 結城合戦

関東地方で起こった室町幕府

結城氏朝結城持朝 父子ら関東の諸豪族との間の戦いである。

幕府軍が勝利し

結城氏朝・持朝は 討死した。

1441年 (嘉吉元年) 嘉吉の乱

播磨・備前・美作の守護 赤松満祐

6代将軍 足利義教 を殺害し、

領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。

1441年 (嘉吉元年)嘉吉の徳政一揆

政令を求めて 京都・近江坂本の 馬借 を中心に農民が蜂起、地侍 が指導し、数万人の一揆にふくれあがった。

1442年 (嘉吉2年) 足利 義勝 7代将軍に

足利 義勝

6代将軍 足利義教 の長男。

嘉吉の変 により 父・義教が殺害されたため、

将軍職を継ぎ、7代将軍となった。

1443年 (嘉吉3年) 禁闕の変

京都で起こった 後花園天皇 の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件である。

吉野朝廷南朝)復興を唱える勢力( 後南朝 )が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れたが、鎮圧された。

1443年 (嘉吉3年) 嘉吉条約

李氏朝鮮対馬国宗貞盛 との間で結ばれた貿易に関する協定である。

1444年 (文安元年) 文安の麹騒動

京都において酒造工程の一つである 造りを支配していた座(北野麹座)が室町幕府に鎮圧されて没落した事件。

この結果、麹の専門業界は没落して酒屋業へ組み入れられた。

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 は同母兄。

7代将軍 足利義勝が早逝したため、

管領 畠山持国 などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

、 8代将軍 足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

室町幕府足利将軍家と結んだ 山内上杉家

扇谷上杉家 が、

鎌倉公方 足利成氏 と争い、関東地方一円に拡大した。

関東地方における戦国時代の始まり。

1457年 (長禄元年) 長禄の変

赤松氏 の遺臣らが 後南朝 の行宮を襲い、

南朝 の皇胤である

自天王

忠義王 とされる兄弟を討って神璽を持ち去った事件。

1457年 (長禄元年) コシャマインの戦い

現在の北海道 渡島半島 における

コシャマイン

アイヌ

武田信広

和人 との戦い。

和人側が勝利し

コシャマイン父子は戦死した。

松前藩 形成の元となった。

1459年 (長禄3年) 長禄・寛正の飢饉

長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。

1464年 (寛正5年) 後土御門天皇

後土御門天皇

後花園天皇の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1466年 (文正元年) 文正の政変

8代将軍 足利義政 の側近

伊勢貞親

季瓊真蘂 らが諸大名の反発で追放された事件である。

この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は 応仁の乱 を起こしていく。

室町後期

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

足利義尚

8代将軍・足利義政の次男。

父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

9代将軍 足利義尚 が早世し、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方

足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

明応の政変 により

10代将軍 足利義材が 追放されたため、

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後柏原天皇

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1506年 (永正3年) 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

これを契機に

20年以上にわたる 両細川の乱 が勃発した。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

足利義澄 が 病死したため、

12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後奈良天皇

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒( 天台宗 )が 京都の日蓮宗徒( 法華宗 ) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

主に 川中島 ( 長野県長野市 ) で行われた

甲斐国戦国大名である 武田信玄 と、

越後国戦国大名である 上杉謙信 との間の数次の戦い。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

足利 義輝

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害されたため、

14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

戦国時代の出来事

戦国時代の出来事を年表にまとめた。

戦国時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 安土桃山時代

広義の室町時代に含まれる。

戦国時代の概要

1467年の 応仁の乱 から、

1568年の 織田信長 の上洛まで。

約100年。

始期を 1493年 の 明応の政変

終期を

1573年に 室町幕府が滅亡したとき

1590年の 小田原征伐

とすることもある。

世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名 に代わって全国各地に 戦国大名が台頭した。

領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。

経済と社会

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。

戦国時代初期には 勘合貿易 および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や 南蛮貿易 によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。

また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された 石見銀山 に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し 楽市・楽座 により自由な市場取引を推奨した。

戦国時代の文化

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。

下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする 桃山文化 の発露への布石となる。

戦国時代に活動した画家

戦国時代の出来事

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利 義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 の同母弟にあたる。

1443年 (嘉吉3年) 7月 に

7代将軍 義勝が早逝した。

1449年 (文安6年) 4月に

将軍宣下を受けて、第8代将軍として就任した。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

8代将軍 足利義政 の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

関東地方一円に拡大した。

1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位

後花園天皇 の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1470年 (文明2年) 京極騒乱

京極氏家督相続を巡る御家騒動の一つ。

1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件

伯耆国守護職山名豊之 が同国由良郷の嶋の地で殺害された事件。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

8代将軍・足利義政の次男

1473年 (文明5年) 12月に

9歳のとき、父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任

1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱

因幡の国人 毛利貞元(次郎)が

守護 山名氏 に対して起こした反乱。

1487年 (長享元年) 長享の乱

山内上杉家上杉顕定関東管領)と

扇谷上杉家上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。

この戦いによって上杉氏は衰退し、

伊勢宗瑞( 北条早雲 )を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆

加賀の本願寺門徒(一向衆徒)が中心となった 国人や農民による惣国一揆

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

第8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

1489年 (長享3年) に

従兄で9代将軍の 足利義尚 が早世した。

1490年 (延徳2年) に

義尚の父で8代将軍の 足利義政 の死後、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方 足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

1493年 (明応2年) に

明応の政変 により

従兄の10代将軍・足利義材管領 細川政元 によって追放される。

1495年 (明応3年) に

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1504年 (永正元年) 立河原の戦い

武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、

上杉顕定足利政氏 らの連合軍と

上杉朝良今川氏親北条早雲 らの連合軍との間で行われた合戦である。

長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いである。

この戦いに勝利した上杉朝良は 結果的に上杉顕定に降伏した。

1506年 (永正3年) 9月 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1506年 (永正3年) 10月 般若野の戦い

越中般若野(現在の富山県砺波市)で行われた

越中一向一揆

越後守護代 長尾能景 との間の戦い。

一向一揆勢が勝利し

能景は討ち取られた。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

1509年 (永正6年) 片角軍萱の戦い

下野国にて

長沼政義 ( 鴫山城 ) は 主家である 宇都宮氏を裏切り、下野国 片角軍萱に侵攻したことに対し、

下野の戦国大名 宇都宮成綱 が迎え撃ち、長沼軍を撃退した戦いである。

再起不能に近い形で大敗した政義は 下野国の自領を捨て、田島城に逃亡した。

1509年 (永正6年) 7月 如意ヶ嶽の戦い

現在の京都市左京区如意ヶ嶽 周辺で行われた

細川高国大内義興 連合軍と

細川澄元三好之長 連合軍との戦い。

高国・義興 連合軍が勝利し

澄元・之長らは阿波へ逃走した。

1511年 (永正8年) 7月 深井城の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

深井城 (大阪府堺市) で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍が勝利し

高国軍の残兵は堺へ逃亡。

1511年 (永正8年) 8月 芦屋河原の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

摂津国武庫郡鷹尾城 と芦屋河原周辺で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍は軍勢を二分して進軍、

一方が阿波より堺に上陸 深井城の合戦 となり、

もう一方が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦 となった。

澄元軍は鷹尾城を占領。

1511年 (永正8年) 8月 船岡山合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

室町幕府 10代将軍 足利義稙 を擁立する 細川高国大内義興

11代将軍 足利義澄 を擁立する 細川澄元との間で起きた、

幕府の政権と細川氏家督をめぐる戦いである。

細川高国大内義興 連合軍が勝利。

1512年 (永正9年) 宇都宮錯乱

下野宇都宮氏 で発生した内紛。

当主 宇都宮成綱

家臣 芳賀高勝 を殺害、

それをきっかけに 芳賀氏 が反乱を起こした。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1521年 (大永元年) 大永の内訌

下野宇都宮氏18代当主・宇都宮忠綱 と、

芳賀高経 ら芳賀氏を中心とした家臣団との 対立で起こった内訌(内輪揉め)である。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

1511年 (永正8年) に

義澄は 病死した。

1521年)(大永元年) に

10代将軍 足利義稙

後柏原天皇 の信任を失う。

管領 細川高国

義稙の放逐を決意し 新将軍の擁立を決めた。

1522年 (大永元年) に

義晴 が12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1524年 (大永4年) 5月 大永の五月崩れ

出雲守護代 尼子経久伯耆 進攻をいう。

1524年 (大永4年) 7月 佐東銀山城の戦い

安芸 武田氏 の 本拠であった安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)の 佐東銀山城

大内氏 が攻めた合戦である。

安芸武田氏は佐東銀山城を守りきり

大内軍は撤退した。

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1527年 (大永7年) 桂川原の戦い

京都 桂川 原一帯で行われた

12代将軍 足利義晴 を擁する

細川 高国

細川晴元 との戦い。

晴元が勝利し

義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とした。

和泉国 を本拠とした晴元は、

都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、

義晴の弟 足利義維 を将軍に戴く 堺公方府 という擬似幕府を創設した。

1531年 (享禄4年) 大物崩れ

摂津 天王寺辺りで

細川晴元

三好元長 の連合軍が、

細川高国

浦上村宗 の連合軍を壊滅させた。

高国が 大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で捕らえられ処刑された。

1532年 (天文元年) 山科本願寺の戦い

細川晴元

六角定頼

・京都の 法華一揆 の連合軍と

山科本願寺 に籠る

浄土真宗本願寺勢力( 一向一揆 )との戦い。

晴元方が勝利し

山科本願寺は 社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

1534年 (天文3年) 勢場ヶ原の戦い

豊後 大村山 付近(現大分県杵築市山香町山浦近辺)で行われた

中国地方の大名 大内義隆

豊後の大名 大友義鑑 との合戦。

引き分けとなる。

1535年 (天文4年) 森山崩れ

三河国岡崎城松平清康 が、

尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、

家臣の 阿部正豊 に暗殺された事件。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒が 京都の日蓮宗徒( 法華宗) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1540年 (天文9年) 吉田郡山城の戦い

安芸国吉田の 吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、

毛利氏当主 毛利元就

中国地方の守護 尼子晴久 との戦い。

毛利氏が勝利し

尼子軍が撤退し、晴久は帰国した。

1541年 (天文10年) 海野平の戦い

信濃国 小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。

甲斐守護 武田信虎 と、村上義清諏訪頼重 など武田と結んだ信濃国人の連合軍が 小県郡へ侵攻し、

小県を領する 海野棟綱根津元直滋野三家 ( 海野氏禰津氏望月氏 ) や 真田氏 との間で行われた。

武田の連合軍が勝利し

滋野一族は 上野国へ亡命する。

1542年 (天文11年) 天文の乱

天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、

伊達氏当主 伊達稙宗

嫡男 晴宗 父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

領土拡大を目指し 北信濃に侵攻した 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

信濃信濃中部の豪族から助けを求められた 越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との間で、

主に川中島で行われた数次の戦い。

1542年 (天文11年) 月山富田城の戦い

1542年から1543年・1565年から1566年に

尼子氏 の本拠である出雲国月山富田城(現:島根県安来市)を

大内義隆 を総大将とする大内軍が攻撃した。

尼子方が勝利し

大内方は撤退し 義隆は山口に帰還した。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景 土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1545年 (天文14年) 河越城の戦い

武蔵国の枢要な城であった 河越城の争奪を巡る 一連の戦いをいう。

後北条氏の2代目当主 北条氏綱武蔵国征服のため、

武蔵国を支配していた 上杉氏 の居城・河越城に侵攻し、

1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。

北条軍が勝利し、

上杉氏が滅亡した。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) 江口の戦い

摂津 江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において

三好長慶 軍と

同族の 三好政長 が衝突した戦いである。

三好長慶軍が勝利し

政長は戦死。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1550年 (天文19年) 二階崩れの変

豊後の戦国大名 大友氏 の内紛、お家騒動。

大友家重臣 津久見美作、田口鑑親らが

大友館 の2階で就寝していた

当主 大友義鑑塩市丸 、そしてその生母を襲撃した。

塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。

津久見・田口の両名もその場で壮絶な最期を遂げた。

義鑑も 数日後に死去。

1551年 (天文20年) 大寧寺の変

周防山口の戦国大名 大内義隆

家臣の 陶晴賢 の謀反により自害させられた政変である。

この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた 大内氏 が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。

1554年 (天文23年) 3月 三本松城の戦い

大内義長

陶晴賢 が、

石見国三本松城( 現在の 津和野城 )城主である

吉見正頼 を攻めた戦いである。

大内軍の優勢で和睦。

1554年 (天文23年) 6月 折敷畑の戦い

陶晴賢( 派遣部将は宮川房長 )と

毛利元就との間に行われた戦いである

毛利軍が勝利し

宮川房長は討死。

1555年 (天文24年) 厳島の戦い

安芸国 厳島

毛利元就

陶晴賢 との間で行れた合戦である

毛利方が勝利し

晴賢は自刃して果てた。

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1561年 (永禄4年) 4月 善明堤の戦い

今川氏から独立した家康の三河統一事業の過程で起きた合戦の一つである。

三河国(現・愛知県)において

松平元康( 後の徳川家康 )と

吉良義昭 との間で起った戦い。

吉良軍が勝利し

松平元康軍は 松平 好景板倉好重 など、多くの一族、家臣を失った。

1561年 (永禄4年) 8月 第4次川中島の戦い

第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、

川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦い。

川中島の戦い

主に川中島 で行われた

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との戦い。

1561年 (永禄4年) 8月に

上杉謙信は 兵13000を率いて犀川千曲川を渡り長野盆地南部の 妻女山 に陣取った。

武田信玄は、兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。

武田軍の別働隊1万2千が妻女山に向い、

信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。

上杉謙信軍は 夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。

川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。

武田軍は完全に裏をかかれた形になり、武田軍は防戦一方となる。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した

双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

1561年 (永禄4年) 9月 藤波畷の戦い

東条吉良氏 の居城 東条城 をめぐる吉良氏と松平元康( 徳川家康 )の一連の攻防戦の一つ。

松平軍が勝利し

吉良義昭 は降伏した。

1563年 (永禄6年) 4月 湯所口の戦い

鳥取城 城下の 湯所口 における

因幡国 重臣武田高信

因幡国山名豊数 率いる布施(勢)屋形勢の間で起こった戦い。

武田勢が勝利し

豊数は逃走した。

1563年 (永禄6年) 4月 新加納の戦い

織田信長

斎藤龍興 の戦い。

斎藤方が勝利し

織田方は敗退した。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1566年 (永禄9年) 河野島の戦い

織田信長

斎藤龍興 との間で行われた戦い。

木曽川 で対峙したが

木曽川が氾濫し 双方が撤退。

1567年 (永禄10年) 稲葉山城の戦い

美濃国井之口(現:岐阜県岐阜市)の 斎藤龍興 の居城 稲葉山城 を、

織田信長 が攻め取った攻城戦である。

斎藤龍興は伊勢の長島へと脱出した。

この戦によって織田信長稲葉山城岐阜城に改名して居城とした上で、

天下布武 の朱印を用いるようになり、

本格的に天下統一を目指すようになる。

1567年 (永禄10年) 東大寺大仏殿の戦い

大和 東大寺 周辺で

松永久秀

三好義継

三好三人衆

筒井順慶

池田勝正 らが繰り広げた市街戦。

大仏殿が全焼した。

松永久秀軍が勝利し

三人衆軍、池田軍は敗退した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

1568年 (永禄11年) 3月に

足利 義栄 は 朝廷から征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

足利義輝 が殺害された。

細川藤孝幕臣の援助を受けて 南都 から脱出した。

その後、朝倉義景 の庇護を受ける。

1568年 (永禄11年) 7月に

足利義昭 は美濃に入り、

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 9月に

足利義昭織田信長に擁されて上洛した。

10月に

14代将軍 足利義栄は 腫物を患って 阿波で養生することになった。

同月にその地で死去した。

11月に

足利義昭 は朝廷から将軍宣下を受けて、15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする 後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府 )を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 藤島の戦い

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺

京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある

臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった「亀山殿」を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第2期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 2月 打出浜の戦い

観応の擾乱 における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた 高氏 は没落した。

1351年 (観応2年) 11月 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝崇光天皇 が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 12月 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1352年 (観応3年) 八幡の戦い

観応の擾乱 の余波として発生した合戦の一つ。

山城国 京都 から 男山八幡(京都府八幡市石清水八幡宮 )において、

後村上天皇南朝方の軍勢と、

足利義詮北朝方の軍勢との間で行われた合戦である。

京都の南朝方は、急遽 足利義詮へ攻撃を開始した。

不意を突かれた北朝方は苦戦に陥り、

足利義詮は近江に逃れ

南朝方は南北朝分裂以降初めて京都を奪回した。

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇 即位

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第3期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 打出浜の戦い

観応の擾乱における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。

1351年 (観応2年) 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝天皇が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

#### 1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%86%E8%9E%8D%E5%A4%A9%E7%9A%87)の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第3期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 打出浜の戦い

観応の擾乱における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。

1351年 (観応2年) 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝天皇が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

#### 1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%86%E8%9E%8D%E5%A4%A9%E7%9A%87)の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

鎌倉時代の出来事

鎌倉時代の出来事を年表にまとめた。

鎌倉時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 平安時代

後は 室町時代

鎌倉時代の概要

鎌倉時代

1185年(文治元年) に

平家 が滅亡し

源頼朝

鎌倉幕府

を成立してから

1333年 (正慶2年) に

後醍醐天皇

討幕のため 挙兵し

足利尊氏

室町幕府

を成立するまでの

約150年間

源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。

京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で支配構造ができあがった。

二度にわたる元寇(蒙古襲来)があり、内乱、地震、疫病、飢饉などの災害が多く発生した時代である。

鎌倉時代の政治

鎌倉幕府は当初、将軍( 実際には 鎌倉殿 ) を中心としていた。

征夷大将軍 は必須ではない。

河内源氏 ( 源頼朝 ) 系 ) の直系の将軍は3代で絶え、

将軍は公家( 摂家将軍)、

後には皇族( 皇族将軍 )を置く傀儡の座となり、

実権は将軍から、十三人の合議制 へ移る。

さらに、実権は 北条政子 を経て、

執権であった 北条氏へ移っていった。

北条氏以外の他氏族を幕府から排除して、権力を北条氏に集中させていった。

北条氏の功績としては 御成敗式目 の制定が挙げられる。

これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。

北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。

8代執権 北条時宗の代に

2度に渡る元寇 があり、

鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。

9代執権 北条貞時 の代になると御内人の権力は増長し、 得宗の権威すら凌ぐようになる。

貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。

多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。

弘安徳政

永仁の徳政令 を実施して

没落する御家人の救済を図ったが、

恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。

後醍醐天皇 による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。

鎌倉時代の文化

鎌倉文化の特徴は、文化の中心地は平安時代と変わらず京都と奈良であるが、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗した点で、文化の二元性が出てきたところにある。

随筆

軍記物語

歌集

彫刻

鎌倉時代の出来事

1160年 (平治元年) 源頼朝 伊豆国に 配流

1180年 (治承4年) 源頼朝 挙兵

1180年 (治承4年) 源頼朝 鶴岡八幡宮 を遷す

鶴岡八幡宮

1063年 (康平6年) 8月に

河内源氏 2代目 棟梁 の

源頼義 が、

前九年の役 に際して

戦勝を祈願した京都の 石清水八幡

鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが

始まりとなった。

1180年 (治承4年) 10月に

平家打倒の兵を挙げ 鎌倉に入った 河内源氏後裔の 源頼朝 は、12日に 宮を現在の地である小林郷北山 (現 雪ノ下2丁目) に遷す。

1183年 (寿永2年) 後鳥羽天皇 即位

神器なき即位

祖父 後白河法皇 の意向で

異母兄 安徳天皇 が在位のまま

三種の神器がなきまま

4歳で即位した。

即位後の執務は 後白河法皇 が行った。

1183年(寿永2年) 寿永二年十月宣旨

朝廷から

源頼朝 に下された宣旨。

頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、

頼朝による東国支配権を公認したものとされる

1184年 (元暦元年) 源頼朝 勝長寿院 建立

源頼朝が父 義朝 の菩提を弔うための寺の建立。

頼朝は 後白河院 に依頼して義朝の首を探し出し、

義朝と その腹心 鎌田政清 の首は 鎌倉に届けられた。

1185年 (文治元年) 9月に

義朝の遺骨と政清の首は南御堂の地に埋葬され、

頼朝の他は

平賀義信 とその子息・惟義、源頼隆

平治の乱 の関係者のみが立ち会いを許された。

本尊は 阿弥陀如来 像。

1185年(文治元年) に

仏師 成朝

源頼朝の招きに応じて関東に下り、

頼朝発願の 阿弥陀如来像を制作する。

1185年(文治元年) 文治の勅許

朝廷より

源頼朝 に対し与えられた

諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した勅許のことである。

これを以って

鎌倉幕府 の成立とする。

1189年(文治5年) 奥州合戦

鎌倉政権

奥州藤原氏 との間で

東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。

この戦役により、

源頼朝 による

武士政権が確立した。

1189年 (文治5年) 北条時政 願成就院 建立

本尊は 阿弥陀如来像 ( 運慶 作 )

1189年 (文治5年) 和田 義盛 浄楽寺 建立

本尊は 阿弥陀如来像 ( 運慶 作 )

1192年(建久3年) 源頼朝 征夷大将軍 就任

1193年(建久4年) 曾我兄弟の仇討ち

1196年 (建久7年) 建久七年の政変

九条兼実 が関白を罷免され失脚した事件。

1198年 (建久9年) 土御門天皇 即位

後鳥羽天皇 の譲位により 3歳で践祚し 即位。

後鳥羽上皇による院政がしかれた。

1199年(建久10年) 源 頼家 第2代鎌倉殿 に

父・源頼朝 の死により

18歳で家督を相続し 第2代鎌倉殿に。

3年半後に 征夷大将軍となる。

1200年 (正治2年) 十三人の合議制 開始

源 頼家

訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。

1200年 (正治2年) 梶原景時の変

鎌倉幕府内部で起こった政争。

源頼朝 の腹心であった

梶原景時

御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。

頼朝死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。

1201年(建仁元年) 建仁の乱

城長茂 ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。

1202年(建仁2年) 千五百番歌合 成立

1203年(建仁3年) 北条時政 初代執権に

1203年(建仁3年) 比企能員の変

2代将軍 源頼家外戚として

権勢を握った 比企能員 とその一族が、

北条時政の謀略によって

粛清、族滅された。

頼家の鎌倉追放が決定され、伊豆修禅寺に幽閉された。。

実弟源実朝 が3代将軍に就任

1204年(元久元年)に

頼家は北条氏の放った刺客によって暗殺された。享年23歳

1203年(建仁3年)源実朝 第3代鎌倉殿 に

比企能員の変により

源頼朝 の長男で 第2代鎌倉殿 の

源頼家 が幽閉される。

頼朝 の次男 源実朝 が第3代鎌倉殿 に。

1204年(元久元年) 三日平氏の乱

伊勢国

伊賀国

平家

の残党が蜂起した事件。

伊勢平氏 の若菜盛高らが蜂起し、

討伐に向かった鎌倉幕府軍の

平賀朝雅

三日間で反乱軍を鎮圧した。

1205年(元久2年) 畠山重忠の乱

武蔵国 二俣川 (現・神奈川県横浜市旭区) において、

武蔵国の有力御家人畠山重忠

武蔵掌握を図る

北条時政 の策謀により、

北条義時 率いる大軍に

攻められて滅ぼされた事件。

鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。

1205年(元久2年) 牧氏事件

鎌倉幕府の執権 北条時政 の後妻

牧の方

時政 と共謀,

将軍 源実朝 を殺害し,

女婿で 源頼朝猶子

平賀朝雅

将軍にしようとした事件。

北条政子

北条義時

親に対しても躊躇しないという態度をとった。

時政 と 牧の方 は出家し、鎌倉から追放され

伊豆国 へ隠居させられることになった。

京都守護を兼ねていた 朝雅 は 京都で、

政子と義時の命をうけた 在京御家人によって討たれた。

1205年(元久2年) 北条義時 2代執権に

牧氏事件 にて

初代執権で父の 北条時政 が隠居したことにより。

1205年(元久2年)新古今和歌集 成立

1210年 (承元4年) 順徳天皇 即位

後鳥羽上皇 の強い意向により、

異母兄 土御門天皇

の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する。

1213年(建暦3年) 泉親衡の乱

鎌倉幕府御家人 泉親衡

源頼家 の遺児

千寿丸

鎌倉殿 に擁立し

執権 北条義時 を打倒しようとした 陰謀と

それに続いた合戦を指す。

和田合戦 の前哨戦とされている。

1213年 (建暦3年) 和田合戦

有力御家人 和田義盛 の反乱である。

泉親衡の乱 の折に

和田義盛

息子の 義直義重と、

甥の 胤長

が捕縛される。

息子2人は赦免となるも、義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長の赦免も懇請したが、

胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪となり、その後は屋敷も没収される。

これらの件で北条氏と和田氏の関係は悪化する。

義盛は姻戚関係にあった横山党や

同族の 三浦義村 と結び、

北条氏打倒のために挙兵。

だが土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。

合戦は2日間に渡るが、

征夷大将軍 源実朝 を擁し

兵力で勝る義時側が最終的な勝利をおさめ、義盛は敗死し和田一族は滅亡した。

1219年 (建保7年) 源実朝 暗殺される

1217年 (建保5年) に

園城寺で学んでいた

第2代鎌倉殿 源頼家 の子

公暁 が鎌倉に帰着し、

政子 の命により

鶴岡八幡宮別当に就く。

1218年 (建保6年) に

左大臣 九条良輔薨去により

第3代鎌倉殿 源実朝 は 武士としては初めて 右大臣へ転ずる。

1218年 (建保6年) に

実朝 は昇任を祝うため 鶴岡八幡宮に拝賀する。

夜になり神拝を終え退出の最中、

「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ 公暁 に襲われ、実朝 は落命した。享年28歳

1220年 (承久2年) 三寅 ( のちの九条頼経 ) 鎌倉殿に

1218年 (建保6年) に

九条頼経

摂政関白 九条道家 の三男として生まれる。

源頼朝

同母妹( 坊門姫 ) の曾孫にあたる。

生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を 三寅(みとら)と言った。

1219年 (建保7年) に

第3代鎌倉殿 源実朝 が暗殺された後、

鎌倉幕府後鳥羽上皇 の皇子を将軍に迎えようとしたが、

後鳥羽に拒否される。

後鳥羽は、

皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと

鎌倉殿

として下して構わないと妥協案を示した。

幕府は やむなく

親王将軍 をあきらめ、

2歳の 三寅 が鎌倉に迎え入れられた。( 第4代鎌倉殿 )

鎌倉下向から数年間は

北条政子

尼将軍 として

三寅 を後見して将軍の代行をしていた。

1225年 (嘉禄元年) に

元服し頼経と名乗る。

1226年 (嘉禄2年) に

将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。

1221年 (承久3年) 4月 仲恭天皇 即位

4月20日

順徳天皇 より譲位され、4歳で践祚

践祚はしていたが即位礼を行う前に

同年の 承久の乱 によって

7月に

皇位を廃された。

歴代の天皇の中で、在位期間が約2ヶ月と最も短い天皇である。

1221年(承久3年)5月 承久の乱

後鳥羽上皇

鎌倉幕府執権の 北条義時

に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。

後鳥羽上皇隠岐島 に配流された。

父の計画に協力した

順徳上皇佐渡島に流された。

関与しなかった

土御門上皇御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。

1221年 (承久3年) 6月 六波羅探題 の設置

承久の乱 ののち、

幕府がそれまでの 京都守護 を改組し

京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関

朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧 平清盛 邸の跡地を拠点にし、

北条泰時

北条時房の2人が

六波羅の北と南に駐留して、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行った。

1221年 (承久3年) 7月 後堀河天皇 即位

同年の 承久の乱 により、

鎌倉幕府

後鳥羽上皇

土御門上皇

順徳上皇 の三上皇を配流し、

仲恭天皇 を退位させた。

皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し

後鳥羽上皇の兄 守貞親王 の三男である

茂仁王 を即位させた。(後堀河天皇

1224年(元仁元年) 伊賀氏事件

伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。

6月13日に

第2代執権・北条義時 が急死した。

28日に

鎌倉殿 後見である

北条政子

義時の長男の 泰時

御所に招いた。

政子は泰時を執権に任命することを決め、

大江広元 もそれに賛同している。

義時の後妻 伊賀の方

義時の五男で実子の

北条政村 を執権職に就けて、

兄の 伊賀光宗 に後見させ、

娘婿の 一条実雅 を将軍に擁立しようとした。

7月になると、

光宗とその弟たちは鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である

三浦義村 邸にたびたび出入りした。

政子は

万が一、義村が政村・光宗と手を結べば幕府は転覆しかねないと憂慮した。

7日の深夜に

政子は ひそかに義村を訪ね、政村・光宗との関係を詰問し、光宗らと謀反を企てているのでなければ事態の収拾に協力せよと迫った。

義村は 政村に 謀反の気持ちはないと弁明するとともに、光宗兄弟の暴走を制止すると誓った。

閏7月1日 に

政子は

鎌倉殿 三寅 を連れて泰時邸に入り、

義村以下の宿老を招集。

政子は 謀反の計画の存在を語り、謀反を防ぐために協力してほしいと呼びかけた。

御家人たちが 泰時 を支持したことで大勢は決した。

伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ配流となり、

公卿である実雅は朝廷に配慮して京都へ送還された後に越前へ配流となった。

しかし 彼らに担ぎ上げられそうになった 政村は 処罰を免れた。

1224年(元仁元年) 北条 泰時 3代執権に

2代執権で父の 北条 義時の死去により。

1224年(元仁元年)連署 の設置

連署は、鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」である。

1224年(貞応3年)に

執権 北条泰時

叔父の 北条時房 を任命したのが最初。

1225年(嘉禄元年) 評定衆 の設置

評定衆は、行政・司法・立法のすべてを行う幕府の最高機関である。

1226年(嘉禄2年) 九条頼経 4代将軍に

1218年 (建保6年) に

九条頼経

摂政関白 九条道家 の三男として生まれる。

1219年 (建保7年) に

3代目鎌倉殿 源実朝 が暗殺される。

1220年 (建保8年) に

鎌倉に迎え入れられ、2歳で 4代目鎌倉殿となる。

北条政子 が後見役となった。

1226年 (嘉禄2年) に

将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。

摂家将軍 の開始

1232年 (貞永元年) 8月 御成敗式目 の制定

3代執権 北条泰時 により

源頼朝 以来の先例や、

道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、

武家政権のための法令( 式目 )である。

1232年 (貞永元年) 12月 四条天皇 即位

後堀河天皇 の譲位に伴って2歳で践祚し、即位。

1242年 (仁治3年) 仁治三年の政変

年明けの

四条天皇崩御に伴う皇統断絶( 京洛政変 )に始まり、

執権北条泰時 の死去による得宗家の家督継承( 関東政変 )に至る

政治的変動の総称である。

両者は直接の関連性はないものの、京都朝廷と鎌倉幕府でほぼ同時並行で起こったこの政治的変動は

4年後に発生する 宮騒動 の前段階として位置づけられる。

1242年 (仁治3年) 後嵯峨天皇 即位

四条天皇 が12歳で崩御したため、

土御門上皇 の皇子 邦仁親王が即位した。(後嵯峨天皇)

1242年 (仁治3年) 北条 経時 4代執権に

3代執権で 父の 北条泰時 の死去による。

1244年 (寛元2年) 藤原 頼嗣 5代将軍に

1239年 (延応元年) に

4代将軍 藤原頼経 の子として 鎌倉で生まれる。

1244年 (寛元2年) に

執権 北条経時 を烏帽子親として元服し、

父頼経の譲りによりわずか6歳で 5代将軍に就任した。

1246年(寛元4年) 北条 時頼 5代執権に

4代執権 北条経時は病気になり

弟 時頼に 執権職を譲る。

1246年(寛元4年) 宮騒動

1246年(寛元4年) に

4代執権 北条経時 が早世すると、

弟の 北条時頼 が4代執権となる。

北条光時

前将軍 藤原頼経と共謀して

新執権 時頼を廃しようとした謀反 が発覚する。

光時は 伊豆国江間郷へ配流となる。

藤原頼経 は京都へ追放された。

1246年(寛元4年) 後深草天皇 即位

1243年 (寛元 元年) 6月に

後嵯峨天皇 の皇子として誕生。

1246年(寛元4年) 2月に

後嵯峨天皇の譲位により 数え4歳 で践祚・即位。

在位中は後嵯峨上皇院政を敷き、直接政務を見ることはなかった。

1247年(宝治元年) 宝治合戦

執権北条氏

有力御家人三浦氏 の対立から

鎌倉で武力衝突が起こり、

北条氏と

外戚安達氏らによって

三浦一族とその与党が滅ぼされた。

1249年(建長元年) 引付衆 の設置

引付衆 は、裁判の公正と迅速化をはかるために設置した鎌倉幕府の職名の一つ。

執権 北条時頼 により

評定衆 の下に

御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかる為に設置された。

1251年 (建長3年) 続後撰和歌集 成立

1252年(建長4年)宗尊親王 6代将軍に

1251年 (建長3年)12月に

了行・矢作常氏・長久連ら 宝治合戦 残党の謀叛事件に

4代将軍 藤原頼経 が関係したとして、

頼経の子で 5代将軍の 藤原頼嗣

14歳で将軍職を解任され、京へ追放された。

1252年 (建長4年) 4月に

後嵯峨上皇の皇子 宗尊親王

11歳で鎌倉に迎えられ、

異母弟の後深草天皇 より

征夷大将軍の宣下を受ける。(6代将軍)

1266年 (文永3年) 7月に

宗尊親王が 将軍を解任され京へ送還される。

宗尊親王正室 近衛宰子 と 娘の掄子女王の振る舞いを口実にされた。

11月に

幕府は 宰子と掄子を京に送還し、宗尊の今後の生活のために所領5か所を献上した。

宮将軍 の開始となる。

1252年 (建長4年) 鎌倉大仏 造立

高徳院 は、

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。

開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。

本尊は 国宝銅造阿弥陀如来坐像 (鎌倉大仏)

大仏の造像の経緯についても、不明な点が多い。

吾妻鏡 によれば

1252年 (建長4年) から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始された。

大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。

地震津波で倒壊したとされる。

1253年 (建長5年) 北条時頼 建長寺 創建

1256年 (康元元年) 北条 長時 6代執権に

義兄で5代執権の 北条 時頼 が病のため

1260年 (正元 元年) 亀山天皇 即位

1249年(建長元年) 7月 に

後嵯峨天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 後深草天皇

1251年 (建長3年) 1259年 (翌正元 元年) 1月に

父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向により

兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚し 即位

1264年 (文永 元年) 北条政村 7代執権に

6代執権で甥の 北条長時が病で出家したため。

1265年 (文永2年) 続古今和歌集 成立

1266年 (文永3年) 惟康親王 7代将軍に

1264年 (文永元年) 4月 に

第6代将軍 宗尊親王 の嫡男として相模鎌倉に生まれる。

1266年 (文永3年) 7月に

父が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。

1268年 (文永5年) 元の国書 到来

1266年 に

元の皇帝 クビライ・ハン

元への服属を求める内容の国書を日本に送った。

1268年(文永5年) 1月に

国書を持参した 高麗使節団が

大宰府 に到来。

大宰府鎮西奉行少弐資能

国書を受け取り、鎌倉へ送達する

参考 元寇 第一次日本侵攻までの経緯

1268年 (文永5年) 北条 時宗 8代執権に

1268年 (文永5年) 1月に

元への服属を求める内容の国書が到来する。

同年3月に

元寇 という難局を前に権力の一元化を図るため、

7代執権 北条 政村

執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は連署として補佐に。

1272年 (文永9年) 2月 二月騒動

元寇 の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。

8代執権 北条時宗 の命により、

謀反を企てたとして

鎌倉で

名越流北条氏の 名越時章

名越 教時 兄弟、

京では

六波羅探題南方で時宗の異母兄 北条時輔

それぞれ討伐された。

1274年 (文永11年)後宇多天皇 即位

(1267年 (文永4年)に

亀山天皇 の第二皇子として誕生する。

1274年 (文永11年)1月に

亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚し、即位。

亀山上皇による院政が行われた。

1274年(文永11年) 文永の役

鎌倉時代中期に

モンゴル帝国 ( 元朝 ) および 属国の高麗 は 2度にわたり日本に侵攻した。(蒙古襲来)

1度目を 文永の役(1274年)、 2度目を弘安の役(1281年)という。

1271年 (文永7年) に

元は 日本に服属を求める国書を持ち来航する。

執権 北条時宗 を中心とする鎌倉幕府はこれを拒んだ。

西国の御家人に沿岸の警備を命じる。

1274年(文永11年) 10月に

元・高麗の連合軍(900艘の船艦と2万8千の軍兵)は対馬に上陸した。

元軍は対馬に入ると島人を多く殺害し、 子供男女 数百人を捕虜とした。

10月14日に、

対馬に続き、元軍は壱岐島に上陸した。

日本側は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れた。

対馬壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人大宰府に集結した。

10月20日

元軍は博多湾に上陸し、

日本側は迎え撃った。

日本側は武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍に敗れた。

夕暮れになり 元軍は 船に引きあげた。

夜になると、 日本側は兵船数艘で奇襲をかけ、元軍を討ち取った。

さらに 暴風雨になり元軍の船が破損した。

翌21日に

元軍は 姿を消した。

1279年 (弘安2年) 無学祖元 来日

無学祖元(むがく そげん)は、鎌倉時代臨済宗の僧。

8代執権 北条時宗 の招きに応じて来日。

日本に帰化して 鎌倉で 建長寺 の住持となる。

時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。

1281年(弘安4年) 弘安の役

鎌倉時代中期に

モンゴル帝国 ( 元朝 ) および 属国の高麗 は 2度にわたり日本に侵攻した。(蒙古襲来)

1度目を 文永の役(1274年)、 2度目を 弘安の役(1281年)という。

弘安の役

元軍が 文永の役 に続き 再度博多に来襲した戦役。

文永の役後、

幕府は

異国警固番役 を強化し、

引き続き九州の御家人に元軍の再襲来に備えて九州沿岸の警固に当たせるともに。

博多湾沿岸一帯に 石築地 ( 元寇防塁 ) を築造した。

1281年 (弘安4年) 5月21日に

元軍は 軍が軍船900艘と14万の大軍で 対馬沖に到着し 対馬に上陸した。

5月26日に

元軍は壱岐に襲来した。

なお、元軍は 壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し 兵士や水夫が行方不明になるという事態に遭遇している。

対馬壱岐を襲来した元軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。

しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地 ( 元寇防塁 ) を築いており、

元軍は 博多湾岸からの上陸を断念した。

7月30日夜半に

台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

元軍は 日本侵攻 を断念し 撤退した。

1284年 (弘安7年) 北条貞時 9代執権に

8代執権で父の 北条時宗 の急死により

1284年(弘安7年)新式目 制定

鎌倉幕府が出した38か条からなる 追加法

後に 弘安徳政 と言われた

鎌倉幕府の改革の中核となった法令である。

大きく分けると

徳政 の重要性を提示した前半18か条と

神領興行

越訴奉行 の設置

御家人領

甲乙人 からの保護などの

具体的政策を示した後半20か条に分けることができる。

1284年 (弘安7年) 弘安徳政

1284年 (弘安7年) 5月に

8代執権 北条時宗 が死去してから

翌年の 霜月騒動 にかけての

約1年半の間に鎌倉幕府で実施された幕政改革のこと。

そのおもな内容は,

(1)今後御家人所領の売買・質入れを禁止する,

(2)すでに売買・質入れされた所領は,無償で本主に返付させる,

(3)ただし買得安堵状を下付されたもの,または20年の年紀を超過したものは除外する,

(4)債権債務に関する訴訟を受理しない。

永仁の徳政令 の先例となる。

1285年(弘安8年)霜月騒動

1285年 (弘安8年) 旧暦11月 (霜月) に

鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。

9代執権 北条貞時外戚

有力御家人 安達泰盛 が進めた

改革・弘安徳政 が行き詰まりを見せると、

内管領

平頼綱

反対派の勢力と対立が激化し、

頼綱方の先制攻撃を受けて 泰盛は討たれ、その一族郎党も尽く滅ぼされた。

騒動はさらに関東、九州を中心に地方へ広がり幕府を二分する大規模な内乱となった。

源頼朝 没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、

この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人政治勢力は壊滅し、

平頼綱 率いる 得宗 家被官( 御内人 )勢力の覇権が確立した。

1287年 (弘安10年) 伏見天皇 即位

265年 (文永2年) 5月に

後深草天皇 の第二皇子として誕生。

1287年 (弘安10年) 11月に

後深草天皇鎌倉幕府( 執権 北条貞時 ) の意向で

従兄弟にあたる 後宇多天皇 より譲位され 即位

1289年 (正応2年) 久明親王 8代将軍に

1276年 (建治2年) 9月に

後深草天皇 の第六皇子として誕生。

1289年 (正応2年) 9月に

従兄の7代将軍 惟康親王 が京に送還されたことにともない、 征夷大将軍に就任した。

1292年(正応5年) 鎮西探題 設置

幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。 行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。

1293年(正応6年) 鎌倉大地震

1293年(正応6年) 平禅門の乱

8代執権 北条時宗 の死去後、

北条氏得宗家の内管領として、

幕府の実権を握った 平頼綱 が、

主君である9代執権 北条貞時 によって滅ぼされた事件。

1297年(永仁5年) 永仁の徳政令

9代執権 北条貞時が発令した、

日本で最初とされる 徳政令 。 内容は以下の通りである。

(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。

(2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。

(2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。 ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、買主が御家人の場合で領有後20年を経過した土地は、返却せずにそのまま領有を続けよ。

(2-c)非御家人(幕府と御家人関係を結んでいない侍身分の者)・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)が買主の場合は、年限に関係なく(20年を経過していても)、元の領主が領有せよ。

(3)債権・債務の争いに関する訴訟は受理しない。

1298年 (永仁6年) 後伏見天皇 即位

1288年 (弘安11年) 3月に

伏見天皇 の第一皇子として誕生。

1298年 (永仁6年) に

父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。

伏見上皇院政を執り行った。

1299年 (正安 元年) 一山一寧 来日

*一山一寧(いっさん いちねい)は、元の渡来僧。

二度の日本遠征( 元寇 ) に失敗した

元の皇帝 クビライ

再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とする構想を持つ。

1294年 に

クビライの後を継いだ 世祖 は日本の属国化を図り

一寧に日本への 朝貢 督促の国使を命じた。

1299年 (正安元年)に

一寧は 門人一同のほかに 西礀子曇 を伴って日本に渡った。

大宰府に入った一寧は 元の 国書を 9代執権 北条貞時 に奉呈するが、

元軍再来を警戒した鎌倉幕府は 一寧らの真意を疑い伊豆 修禅寺に幽閉した。

貞時は ほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。

一寧の 名望は高まり多くの僧俗が連日のように彼の草庵を訪れた。

貞時も 疑念を解き、建長寺 の住職に迎え、自ら帰依した。

1301年 (正安3年) 後二條天皇 即位

1285年 (弘安8年) 2月 に

後宇多天皇 の第一皇子として誕生。

1301年 (正安3年) 1月 に

大覚寺統 や幕府の圧力があり

後伏見天皇 の譲位を受けて践祚し 即位。

1301年 (正安3年) 北条 師時 10代執権に

9代執権 で 従兄弟の 北条 貞時 の出家に伴い、

師時が 執権。

1305年(嘉元3年) 嘉元の乱

鎌倉幕府内での騒乱。

1305年(嘉元3年 4月22に

既に執権職を退きながらも実権を握っていた得宗 北条貞時 の屋敷で火災があった。

その翌日の23日深夜に

貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人の一団が

葛西ヶ谷にあった 連署 北条時村 の屋敷を襲い 時村ら50余人を殺害。

孫の 北条煕時 はかろうじて難を逃れたが、

葛西ヶ谷の時村邸一帯は出火により焼失した。

その12日後に

引付衆一番頭人大仏宗宣 らが

貞時の従兄弟で得宗家執事の 北条宗方 を追討。

二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷には火をかけられ 宗方の多くの郎等が討死した。

7月22日に

宗方討伐の大将・宗宣が、殺された時村の後任として連署に就任した。

1308年 (延慶元年) 花園天皇 即位

1297年 (永仁5年) 8月に

伏見天皇 の第四皇子として誕生。

1308年 (延慶元年) 8月に

先帝 後二条天皇 が急死した。 . 翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。

在位の前半は 父の伏見上皇が、

後半は 兄の後伏見上皇院政を布いた。

1308年 (延慶元年) 守邦親王 9代将軍に

1301年 (正安3年) 5月 に

8代将軍 久明親王 の子として誕生。

1308年 (延慶元年) 8月に

9代執権 北条 貞時 によって

久明親王は 将軍職を廃され、京に送還されたため、

守邦親王は 8歳で征夷大将軍に就任した。

鎌倉幕府の最後の将軍

2311年 (応長元年) 北条 宗宣 11代執権に

10代執権 北条師時 の死去により、

宗宣が 執権に。

1312年 (応長2年) 北条 煕時 12代執権に

11代執権 北条 宗宣の出家により、

煕時が 執権に。

1315年 (正和4年) 北条 基時 13代執権に

12代執権 北条 煕時が病で執権職を辞任したため

基時が 執権に。

1316年 (正和5年) 北条 高時 14代執権に

13代執権北条 基時より執権職を譲られて。

高時が 執権に。

1317年(文保元年) 文保の和談

後嵯峨天皇 の皇子である

後深草天皇の子孫 ( 持明院統 )と

亀山天皇の子孫 ( 大覚寺統 )の

両血統の天皇が交互に即位する( 両統迭立 )ことを定めたとされる合意。

1318年 (文保2年) 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇 の第二皇子 として誕生。

1318年 (文保2年) 2月に

花園天皇 の譲位を受け 31歳で践祚し 即位。

1324年(正中元年) 正中の変

後醍醐天皇

その腹心の

日野資朝

日野俊基 が、

鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件。

後醍醐と俊基は 処分なし。

資朝は 佐渡国新潟県佐渡市)へ遠流となった。

1325年(正中2年) 建長寺船

勝長寿院

建長寺

の修復のため、鎌倉幕府公認で元におくられた民間の貿易船。

社寺の造営料を得る目的で派遣された 寺社造営料唐船 のひとつで、 特定の条件下にある入元の船である。

1326年(嘉暦 元年) 嘉暦の騒動

鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る

内管領 長崎氏 と、

外戚 安達氏 の抗争による内紛。

1326年 (正中3年) 3月13日に

14代執権 北条高時 が病のために24歳で出家する。

高時の長子 太郎邦時得宗家の後継者に推し、

北条氏庶流の 金沢貞顕 を15代執権に推挙する。

安達氏側は邦時の家督継承を阻止するべく、

高時の弟で 大方殿 の子

北条泰家 を高時の後継として推していた。

3月16日朝 に

貞顕の元に執権就任を告げる長崎氏の使者が訪れ、貞顕は素直に喜びその日から評定に出席した。

しかし同日に 泰家がこれを恥辱として出家を遂げる。

憤った泰家とその母大方殿が貞顕を殺そうとしているという風説が流れ、貞顕は窮地に立たされる。

3月26日に

貞顕は 15代執権を辞任し、出家を遂げた。

在職10日余りであった。

貞顕の出家後、泰家と安達氏の憤りを恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、

4月24日に

引付衆一番頭人 赤橋守時 が就任し、

これが最後の北条氏執権となる。

1326年 (正中3年)北条 貞顕 15代執権に

14代執権 北条高時 が病のために出家したため

1326年 (正中3年) 北条 守時 16代執権に

15代執権 北条 貞顕 が執権職を辞任したため。

鎌倉幕府の最後の執権

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

鎌倉幕府及び

執権 北条高時 を当主とする

北条得宗家 の勢力の間で行われた全国的内乱。

元弘の変

1331年 (元弘 元年) に

後醍醐天皇

尊良親王

護良親王 の二皇子と共に

笠置山の戦い を起こした。

武将 楠木正成 桜山茲俊 もこれに呼応して、

正成は 下赤坂城の戦い を開始、

茲俊は備後の地吉備津宮 で挙兵した。

しかし、鎌倉幕府の反撃に遭い

後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、

護良と正成は逃げ延び、

茲俊は吉備津宮に火をかけ自害して果てた。

後醍醐天皇は退位を強制され、光厳天皇 が即位し、後醍醐天皇隠岐島へ、

尊良親王土佐国高知県)に流された。

鎌倉幕府滅亡

1333年 (元弘3年) に

楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵した。

後醍醐天皇尊良親王流刑地を脱出した。

倒幕を促す後醍醐の綸旨(天皇の命令文)と護良の令旨(皇族の命令文)が全国に出回ったこと等により、

戦況は徐々に後醍醐勢力が盛り返してきた。

足利尊氏 が幕府から離反したことが大きな転機となって、

鎌倉からの遠征軍と 京の六波羅探題が壊滅。

関東では

御家人新田義貞 らが倒幕に応じ、

5月に

東勝寺合戦 で、

得宗北条高時

内管領長崎高資を中心とする

幕府・得宗家の本体を滅ぼした。

7月に

勝利した 後醍醐天皇は、光厳天皇を廃位し

建武の新政 を開始した。

1331年 (元弘 元年) 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として誕生。

1326年 (嘉暦元年) 7月に

後醍醐天皇 の皇太子となる。

元弘の変 の折り

後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

1331年 (元弘 元年) 9月に

鎌倉幕府( 執権 北条高時 ) の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚し即位。

1333年(元弘3年) 鎌倉幕府 滅亡

元弘の乱 により

鎌倉幕府

北条氏 は滅亡した。

1336年 (延元元年) 室町幕府 成立

1336年 (延元元年) に

足利尊氏

室町幕府 の施政方針を示した

建武式目 を制定した。

これを以って 室町幕府の成立とする。

1338年(延元3年) に

足利尊氏征夷大将軍に補任された。