江戸時代中期の出来事

江戸時代中期の出来事を年表にまとめた。

江戸時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 安土桃山時代

後は 明治時代

関連記事

参考

江戸時代の小区分

江戸時代は

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1868年に

明治天皇一世一元の詔 を発布し、 慶応 から 明治改元されるまで

約300年間。

大きく5つに区分される。

初期

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

前期

江戸幕府の創成期。 1603年から 1690年ごろまで

中期

江戸幕府の全盛期。 1690年ごろから 1780年ごろまで

後期

江戸幕府の衰退期。 1780年ごろから1850年ごろまで

幕末期

江戸幕府の終焉期。 1853年 から1868年まで

江戸時代中期の概要

江戸幕府の全盛期。

1690年ごろから 1780年ごろまで

概要

元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済 が農村にも浸透し、四木( )・三草( 紅花 または 木綿 )など 商品作物 の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海 の沿岸では 入浜式塩田 が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。
手工業 では 綿織物 が発達し、伝統的な 絹織物 では高級品の 西陣織 が作られ、また、灘五郷伊丹酒造業有田瀬戸窯業 も発展した。

人と物の流れが活発になる中で、城下町港町宿場町門前町鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。

18世紀初頭の 京都大阪 はともに40万近い人口を抱えていた。
同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。

家宣 期

1709年に 徳川家宣 が6代将軍になる。

将軍に就任すると、 宝永通宝 の流通と酒税生類憐れみの令 の一部を順次廃止した。

さらに、柳沢吉保 の辞職により側用人間部詮房、学者として 新井白石 らを登用して、5代将軍 徳川綱吉時代から始まった 文治政治 を推進した。

宝永令 の発布、正徳金銀 の発行などの財政改革を試み、 正徳の治 と呼ばれる。

家継 期

1713年に 徳川家継 が 4歳で 7代将軍になる。

幕政は 幼少の家継に代わって 生母・月光院側用人間部詮房 、顧問格だった 新井白石 らが主導した。

先代 家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革 を続行した。

1716年 4月に 8歳で 死去した。

吉宗 期

1716年に 徳川吉宗 が 8代将軍になる。

将軍に就任すると、6代将軍・徳川家宣 の代からの側用人 間部詮房新井白石 を罷免したが、新たに 御側御用取次 という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

水野忠之 を老中に任命して財政再建を始める。

吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。
貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。
そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田 開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令堂島米会所 の公認などを行った。 「米将軍」と称された。

定免法」や「上米令」による幕府財政収入の安定化、「新田開発」の推進、足高の制 の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる 大岡忠相 の登用、また訴訟の迅速化のため 公事方御定書 を制定しての司法制度改革、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである 享保の改革 を行った。

江戸の治政として

大岡忠相」を南町奉行に任じ、  目安箱 の設置による庶民の意見を政治へ反映し、 小石川養生所 や 江戸 町火消し を設置した。

家重 期

1745年に 徳川家重 が9代将軍になる。

吉宗の推進した 享保の改革 の遺産があり、綱吉 が創設した 勘定吟味役 を充実させ、現在の 会計検査院 に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令酒造統制規制緩和など、幾つかの独自の 経済政策 を行った。

しかし負の遺産も背負うこととなり、「享保の改革」による 増税 策により 一揆 が続発し( 直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である )、社会不安が増していった。

また 薩摩藩に対して 木曽三川 の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた( 宝暦治水事件 )。

京都で 宝暦事件 が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。

家治 期

1760年に 徳川家治 が 10代将軍になる。

田沼意次側用人に重用し、老中・松平武元 らと共に政治に励んだ。
しかし 松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。( 田沼時代 )

田沼時代

「田沼時代」は 日本の歴史において、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。

第9代将軍 徳川家重 と第10代将軍 徳川家治 の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導した。

幕府幕閣は米以外の税収入を推し進める。
株仲間 の推奨、銅座 などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地 の開発計画、俵物 などの専売、下総国 印旛沼手賀沼干拓に着手するなど、この時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、金融からも利益を引き出すなどといった大胆な財政政策を試みた。

江戸時代中期の文化

正徳の治享保の改革 によって引き締められると、武士の文化活動は抑制的となった。

田沼時代になると、政治・社会も文化的に寛容になり、 宝暦・天明文化 が花開いた。

絵画の分野では、京都で与謝蕪村池大雅らが文雅の世界を理想とする文人画を描く一方、写生を基礎とした 円山応挙はより写実的な画風を生み出した

江戸では 鈴木春信錦絵 の技法を完成させ、 喜多川歌麿東洲斎写楽 によって 浮世絵 の全盛期の幕開けを迎えることになる

学問の世界では 国学蘭学が隆盛を見せる。
蘭学はまず医学や天文学の分野から受容され、杉田玄白前野良沢らが医学書 ターヘル・アナトミア を翻訳した 解体新書 を刊行した。
また、医学と密接な関係にあった 本草学 の世界では 田村藍水 およびその弟子で エレキテル で知られる 平賀源内 が活躍した。

江戸時代中期の出来事

1680年 (延宝8年) 徳川綱吉 5代将軍に

1687年 (貞享4年) 東山天皇 即位

1688年 (貞享5年) 日本永代蔵

日本永代蔵井原西鶴 作の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。

1689年(元禄2年)3月 松尾芭蕉 奥の細道 の旅に出る

松尾芭蕉 は 江戸時代の 俳諧師

芭蕉」は、和歌 の余興の言捨ての 滑稽 から始まり、滑稽や 諧謔 を主としていた 俳諧を、蕉風 と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では「俳聖」として世界的にも知られる、

奥の細道 は 「松尾芭蕉」の 紀行 及び 俳諧

芭蕉」が 1689年(元禄2年)に、門人の 河合曾良 を伴って 江戸 を発って、奥州北陸道を巡った紀行文である。

日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名な作品である。

1692年(元禄5年)竹島一件

竹島一件 は 1692年(元禄5年)から1698年(元禄11年)3月まで日本と朝鮮との間で争われた 鬱陵島 の領有問題。

鬱陵島日本海に位置し、大韓民国 慶尚北道鬱陵郡に属する火山島である。

当時の日本では、現在の鬱陵島竹島、現在の竹島は松島と呼ばれていた。

1694年 (元禄7年) 高田馬場の決闘

高田馬場の決闘 は 、江戸郊外戸塚村高田馬場(現 新宿区西早稲田)で起きた、伊予国西条藩 松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門 らと 村上庄左衛門らによる決闘である。

堀部安兵衛こと 堀部武庸 が菅野に助太刀して名を挙げた。

1697年(元禄10年) 酒税 施行

江戸幕府は運上金 (租税) の一種として、酒の売価の3分の1を酒運上 (酒税) として課すよう全国に布達した。

これは酒価を引き上げて消費を抑制するためとされるが、酒に対する需要は減少せず、1709年に 廃止された。

1702年 (元禄15年) 赤穂事件

赤穂事件吉良上野介 を討ち損じて切腹に処せられた 浅野内匠頭 の代わりに、その家臣である 大石内蔵助 以下47人が、吉良を討った事件である。

日本三大 仇討ち の1つとされる。

十七士は 本所 の吉良邸から引き揚げて、吉良の首を 泉岳寺浅野内匠頭の墓前に供えた。 四十六士は 幕府の指示に従って全員切腹した。

事件は 歌舞伎の 仮名手本忠臣蔵 を始め、数多くの芝居、講談、そして映画やテレビドラマの題材に取り上げられた。

赤穂事件を扱った創作物については、忠臣蔵 と呼ぶことが多い。

1703年 (元禄16年) 筑前国続風土記 編纂

筑前国風土記福岡藩儒学者貝原益軒を著者とし、甥の 貝原好古、高弟の竹田定直らが編纂した 筑前国 の地誌である。 元禄16年(1703年)に編纂が完了し福岡藩4代藩主・黒田綱政に上程された。

1703年 (元禄16年) 5月 曽根崎心中 初演

曽根崎心中 は 世話物浄瑠璃( 江戸時代における現代劇浄瑠璃 )。 近松門左衛門 作。
1703年(元禄16年)竹本座初演の 人形浄瑠璃
のちに 歌舞伎 の演目にもなる。
相愛の若い男女の心中の物語である。 元禄16年 4月(1703年)に 大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛」が西成郡 曾根崎村露天神 の森で情死した事件を題材にしている。

1703年 (元禄16年) 12月 元禄地震

1707年 (宝永4年) 10月 宝永地震

1707年 (宝永4年) 11月 宝永大噴火

1708年 (宝永5年) 宝永通宝 発行

宝永通宝 は 江戸時代に鋳造された銭貨の一種で 宝永5年に 発行された十文銭である。

1709年 (宝永6年) 中御門天皇 即位

中御門天皇東山天皇 の第五皇子。

1709年 6月に、 父 東山天皇から譲位されて、7歳で即位。

父の東山上皇院政を行う。

同年12月に上皇が、同月に母の櫛笥賀子も崩御した。

そのため、祖父の霊元上皇が復帰して院政を行った。

1709年 (宝永6年) 徳川家宣 6代将軍に

徳川家宣

第3代将軍・徳川家光の三男で 甲府徳川家徳川綱重の長男。

第5代将軍・徳川綱吉 は父の異母弟。

1704年に 43歳で 綱吉の養子になる。

家宣 の将軍後継に伴い「甲府徳川家」は絶家となる。

入れ替わりに 甲府には 綱吉の寵臣 柳沢吉保 が入いる。

1709年に 綱吉が亡くなり、48歳で 第6代将軍に就任する。

家宣の治政

将軍に就任すると、 宝永通宝 の流通と酒税生類憐れみの令 の一部を順次廃止した。

さらに、柳沢吉保 の辞職により側用人間部詮房、学者として 新井白石 らを登用して、綱吉時代から始まった 文治政治 を推進し、宝永令 の発布、新井白石による 正徳金銀 の発行などの財政改革を試みた。 ( 正徳の治 )

また、琉球李氏朝鮮 との外交を行った。

1709年 (宝永6年) 正徳の治

正徳の治江戸幕府において、6代将軍 徳川家宣、7代将軍 徳川家継 のもとで、儒学者 新井白石 が進めた 文治政治 である。

5代将軍 徳川綱吉 の政治を立て直すため、貨幣の質を戻したり、貿易を制限したりした。

1710年 (宝永7年) 宝永令 制定

宝永令 は 宝永7年に 制定された 武家諸法度

和漢混交文を和文に改訂した上で、儒教の仁政思想( 徳治主義 )を取り込んで文治政治の理念を明瞭化するなど、より具体的な条文に改定した。  

1713年 (正徳3年) 徳川家継 7代将軍に

徳川家継

第6代将軍・徳川家宣 の四男。

1712年 10月 に、 父 家宣が死去した。

元服に際し 名字書出 をするものがいなくなり、 霊元上皇 が行うことになった

1713年 3月 に 江戸城に 朝廷の勅使を迎え、大老井伊直該 を烏帽子親として元服の儀式を行った。

同年 4月に 、 家継 は 将軍宣下を受けて 4歳で 第7代将軍に就任した。

家継の治政

幕政は 幼少の家継に代わって 生母・月光院側用人の 間部詮房 、顧問格だった 新井白石 らが主導して、 正徳の改革 を続行した。

1716年 (正徳6年) 4月に 家継 は 8歳で死去した。

紀州藩 主の 徳川吉宗 が第8代将軍に迎えられた

1714年(正徳4年) 正徳小判 発行

正徳小判 は 正徳4年より 通用開始された 一両 としての額面を持つ小判である。

正徳小判および 正徳一分判 を総称して「正徳金」と呼ぶ。

同時に吹替えが行われた 正徳銀と合わせて「正徳金銀」と呼ぶ。

朱子学者である 新井白石 は、朝鮮貿易にて 宝永銀 の受取を拒否され人参代往古銀 の鋳造を余儀なくされた経過を国辱として受け止め、金銀貨の品位低下および量目(質量)低下は公儀の威信の低下に連動すると力説し、慶長の幣制への復帰を建議し、吹替えが行われた。

1714年(正徳4年) 江島生島事件

江島生島事件江戸城大奥御年寄の 江島 が歌舞伎役者の 生島新五郎 らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された 綱紀粛正 事件。

江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)であったが、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩 内藤清枚 にお預けとなった。

江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の 五代目山村長太夫伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。

1715年(正徳5年) 海舶互市新例

海舶互市新例新井白石が国際貿易額を制限するために制定した法令。

1716年 (享保元年) 徳川吉宗 8代将軍に

徳川吉宗

紀州藩徳川光貞の四男。

1705年 に 長兄である藩主・綱教 が死去し、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。

1716年 に 7代将軍 徳川家継 が早世し、 吉宗 が 第8代征夷大将軍に就任した。

吉宗は 従兄の 徳川宗直紀州家の家督を譲り、紀州藩を存続させた。

吉宗の治政

将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣 の代からの側用人 間部詮房新井白石 を罷免したが、新たに 御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之 を老中に任命して財政再建を始める。

定免法上米令 による幕府財政収入の安定化、新田開発 の推進、足高の制 の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる 大岡忠相 の登用、また訴訟の迅速化のため 公事方御定書 を制定しての司法制度改革、江戸 町火消し を設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである 享保の改革 を行った。

また、目安箱 の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所 を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁( のちの 蘭学 興隆の一因となる )といった改革も行う。

また、大奥の整備を行い、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。

1716年 (享保元年) 享保の改革

享保の改革 は 第8代将軍 徳川吉宗 によって主導された幕政改革である。

主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。

江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革天保の改革 が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。

1717年 (享保2年) 大岡 忠相 江戸町奉行

大岡 忠相 は 江戸時代中期の幕臣

8代将軍・徳川吉宗 に登用され 享保の改革 を支えた。

町奉行 は 江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。

江戸の町奉行は北町奉行所と南町奉行所が月番制で担当した。
忠相南町奉行のときの北町奉行は「中山時春」。

忠相江戸町奉行のときに 町火消いろは四十七組 に再編成したり、 小石川養生所 を設置したり、 「大岡捌き」と呼ばれる 公正で人情味のある裁定を行い、 「名奉行」といわれた。

忠相 は 越前守だったことと時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では「大岡越前」として知られている。

1721年(享保6年) 目安箱 設置

目安箱 は 施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言の投書を集めるために設置した箱、及びその制度のことである。

徳川吉宗は 和田倉御門近くの評定所 前に毎月2日、11日、21日の月3回、目安箱を設置することを日本橋高札 を立て公示した。
目安箱には政治・経済から日常の問題まで、町人百姓などの要望や不満を人々に 直訴 させた。
投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。
箱は鍵が掛けられた状態で回収された投書は将軍自ら検分した。

採用された例としては、漢方医で町医者の 小川笙船 が江戸の貧民の窮状を訴えて施療院を建てさせる進言をして実現している( 小石川養生所 )。

このほか 町火消 が整備され、幕府が行っていた新田開発では、開発可能地の意見も参考にされた。

1722年 (享保7年) 上米の制

上米の制江戸幕府8代将軍の 徳川吉宗享保の改革 の際に出した制度。

大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした。

幕府の増収に貢献したが、問題点も多く 1730年 に廃止された。

1723年 (享保8年) 足高の制 制定

足高の制江戸幕府8代将軍・徳川吉宗 が施行した法令。

江戸幕府の各役職には各々禄高の基準を設けられていた。
それ以下の禄高の者が就任する際に、在職中のみ不足している役料( 石高 )を補う制度が「足高の制」である。

能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用することをその目的としている。

この政策により要職に登用された人物として、大岡忠相田中丘隅 などがいる。

1723年(享保7年)小石川養生所 設置

小石川養生所江戸幕府が江戸に設置した無料の医療施設。
享保 から 幕末 まで140年あまり貧民救済施設として機能した。

漢方医小川笙船目安箱施薬院の設置を嘆願する投書を行った。

8代将軍 徳川吉宗 は笙船の上書を取り上げ、有馬氏倫 に施薬院の設立を命じた。

養生所小石川薬園( 現在の 小石川植物園 )内に開設された。
建物は 柿葺長屋 で薬膳所が2カ所に設置され収容人数は40名であった

1731年 (享保16年) 徳川御三卿 創立

徳川御三卿 は 江戸時代中期に創立した 徳川将軍家一門

以下の3家が該当する。

御三卿」は 大名 として を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば 部屋住み として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした。

御三卿」は 江戸幕府第8代将軍 徳川吉宗 が、 1731年(享保16年)に 次男の 宗武(田安家初代)へ、 1740年(元文5年)に 四男の 宗尹(一橋家初代)へ それぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、
吉宗の長男で第9代将軍となった 徳川家重が、 1759年(宝暦9年)に 次男の 重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った。

将軍家に後嗣がないときは 御三家 および「御三卿」から 後継者が選定された。
一橋家から第11代将軍 徳川家斉 と第15代将軍 徳川慶喜 が出ている。

1732年(享保17年) 享保の大飢饉

享保の大飢饉 は 江戸時代中期に起こった 飢饉 である。
江戸四大飢饉の一つ。

1735年 (享保20年) 桜町天皇即位

桜町天皇

中御門天皇の第一皇子。

父帝の譲位により践祚

1736年 (元文元年) 元文小判 発行

元文小判 は 元文元年5月 から鋳造が始まり同年6月 より通用開始された一両としての額面を持つ小判である。

「文字小判」とも呼び、後の 文政小判 が発行されてからは、これと区別するため、「古文字小判」とも呼ばれた

徳川吉宗 は米価引き上げ策を講じて、財政に困窮する武士および農民を救済しようと試みるが思うような効果を挙げるものではなかった。
そこで町奉行であるとともに、官僚として優れた才覚を有する 大岡忠相 らの提案を受け入れ、貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる吹替えに着手した。
旧金( 享保金 および 慶長金 )100両に対し、新金(文字金)165両という大幅な増歩を付けて交換するというものであった。
純金量を約44%低下させる吹替えであったため、このような大幅な増歩を付けても幕府には出目が入った。

1739年 (元文4年) 元文の黒船

元文の黒船 は 元文4年 夏、牡鹿半島房総半島、および 伊豆下田 などに、ロシア帝国 の探検船が来航した事件である。

鎖国」期における、江戸幕府ロシア帝国との初めての接触であった。

1742年 (寛保2年) 公事方御定書

公事方御定書江戸幕府基本法典。
享保の改革 を推進した8代将軍・徳川吉宗の下で作成された。

上巻・下巻の2巻からなる。
上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録した。

1742年 (寛保2年) 8月 寛保の洪水・高潮

1744年(延享元年) 11月 御触書寛保集成

御触書集成江戸幕府が出した御触書をまとめた法令集のこと。
江戸時代を通じて4回に亘って作成された。

概要

寛保2年 (1742年) 7月に 老中 松平乗邑 が、大目付目付表右筆組頭 に対して江戸幕府創設以来の御触書の書抜の評定所御定書御用掛( 公事方御定書 の編纂実務機関 )への提出を求めたことに由来する。
これを受けて幕府の法制度が整備された慶長20年 (1615年) 以後、寛保3年 (1743年) までの129年間に出された御条目・高札・御触書のうち3550通を主題ごとに分類・整理を行った上で、延享元年(1744年) 11月に 完成、将軍のもとに、これを収めた一箱及び扣箱一箱が提出された。

1745年 (延享2年) 徳川家重 9代将軍に

徳川家重

8代将軍 徳川吉宗 の長男

父 吉宗より将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。

家重の治政

吉宗の推進した 享保の改革 の遺産があり、綱吉 が創設した 勘定吟味役 を充実させ、現在の 会計検査院 に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令酒造統制規制緩和など、幾つかの独自の 経済政策 を行った。

しかし負の遺産も背負うこととなり、「享保の改革」による 増税 策により 一揆 が続発し( 直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である )、社会不安が増していった。

また 薩摩藩に対して 木曽三川 の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた( 宝暦治水事件 )。

京都で 宝暦事件 が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。

1745年(延享2年) 8月 人形浄瑠璃 夏祭浪花鑑 初演

夏祭浪花鑑人形浄瑠璃 および 歌舞伎 狂言 の題名。

1745年8月 に 大坂 竹本座 で初演。

作者は初代 並木千柳・三好松洛・初代 竹田小出雲
初演後間もなく歌舞伎化され、人気演目となった。

物語は 元禄11年 冬、大坂長町裏で起きた魚屋による殺人事件を題材にしている。

1746年 (延享3年) 7月 加賀騒動

加賀騒動加賀藩 で起こったお家騒動のこと。 三大お家騒動の一つ。

騒動の背景

加賀藩 第五代藩主となった 前田綱紀 は藩主による独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。

一方加賀藩の財政は元禄期以降、100万石の 家格 を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化の一途を辿っていた。

1723年、藩主綱紀が隠居し 息子の 前田吉徳 が第六代藩主となった。

足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった 大槻伝蔵 を側近として抜擢し、吉徳・大槻のコンビで藩主独裁体制を目指す一方、藩の財政改革にも着手する。
大槻は米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。
しかし、それらにより藩の財政は悪化が止まったものの、回復には至らなかった。さらに、悪化を食い止めたことを良しとした吉徳が大槻を厚遇したことで、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や、倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募り、前田直躬 を含む藩内の保守派たちは、吉徳の長男 前田宗辰 に大槻を非難する弾劾状を四度にわたって差出すに至った。

1745年 6月12日、 大槻を支え続けた藩主吉徳が病死し、宗辰が第七代藩主となった。
その翌年の吉徳の一周忌も過ぎた 1746年 7月2日、大槻は「吉徳に対する看病が不充分だった」などの理由で宗辰から蟄居を命ぜられた。

さらに 1748年 4月18日には 禄を没収され、越中五箇山に配流となる。

加賀騒動

その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、異母弟の 前田重煕 が第八代藩主を継いだ。

延享5年6月26日および7月4日、藩主重熙と浄珠院への毒殺未遂事件が発覚する。
浄珠院は宗辰の生母であり、重熙の養育も任されていた人物である。 藩内で捜査した結果、これは奥女中「浅尾」の犯行であり、さらにこの事件の主犯が吉徳の側室だった 真如院 であることが判明した。
これを受けて「真如院」の居室を捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通の証拠として取り上げられ、一大スキャンダルとなる。

1748年 9月12日、「真如院」の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は五箇山の配所で自害した。

1749年には 禁固中の「浅尾」も殺害され、「真如院」 と真如院の子 前田利和 は幽閉されていたが、「真如院」は自ら絞殺を望んでその通りに殺されたという。

大槻一派に対する粛清は 1754年 まで続いた。

1746年 (延享3年) 8月 菅原伝授手習鑑 初演

菅原伝授手習鑑人形浄瑠璃 および 歌舞伎 の演目のひとつ。
五段続。延享3年(1746年)8月、大坂 竹本座 初演。
初代竹田出雲竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳 の合作。
平安時代菅原道真 の失脚事件( 昌泰の変 )を中心に、道真の周囲の人々の生き方を描く。
歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。

1747年 (延享4年) 桃園天皇 即位

桃園天皇

桜町天皇の第一皇子

父の桜町天皇の譲りを受けて践祚

1748年 (寛延元年) 8月 人形浄瑠璃 仮名手本忠臣蔵 初演

仮名手本忠臣蔵人形浄瑠璃 および 歌舞伎 の演目のひとつ。
1748年 8月、大坂 竹本座にて初演。
二代目 竹田出雲・三好松洛・並木千柳 の合作。
通称『忠臣蔵』。
赤穂事件 を題材とするが、人物や時代背景を室町時代に仮託した内容となっている。

1749年 (寛延2年) 5月 定免制 全面施行

定免法 は 江戸時代における 年貢 徴収法のひとつ。

概要

従来の年貢徴収法は、年毎に収穫量を見てその量を決める 検見法 が採用されていたが、これでは収入が安定しないので、享保の改革 の一環で導入された。

定免法」では、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず数年間は一定の年貢高を納めることになった。
しかし、余りにも凶作のときは「破免」(年貢の大幅減)が認められることがあった。

1749年 (寛延2年) 稲生物怪録

稲生物怪録 は 備後三次( 現在の広島県 三次市 )に実在した 稲生正令 が16歳の年に体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。

1749年 (寛延2年) 7月 寛延二年大洪水

1753年 (宝暦3年) 籾摺騒動

籾摺騒動宇都宮藩 で起きた 百姓一揆 である。

概要

寛延4年(1751年)に 宇都宮城主の 松平忠祇 が財政難のため「上納米は籾1升6合摺の割合で納入すべし」と百姓に命令した。
それに対し百姓たちは「代々の領主は年貢は5合摺だった」との嘆願書を出した。
さらに、城に出入りする商人数名にも「役人に頼んでほしい」と繰り返し訴えるが効果がなかった。

宝暦3年(1753年)9月13日に 領内の百姓約45,000人が 八幡山 に集結。
打ちこわしを開始した。
城の役人が非常召集され、大目付の松野源太夫が百姓たちに事情を聞き、場を収めた。

しかし翌14日も暴動が起きる。
15日に平定された。
16日に隠し目付により指導者4人が捕らえられ拷問を受けた。
白状したことにより多数の首謀者が捕らえられた。
だが、御田長島村(現・宇都宮市御田長島町)の庄屋である「鈴木源之丞」だけが捕まえられなかった。
9月下旬に小頭たちが「源之丞」を発見したが、抵抗され撤退する。
「源之丞」は危険を感じたため妻のキミを離縁しようとしたが、「運命をともにする」と言われた。
翌日の明け方に寝込みを襲われたが抵抗はしなかった。
この後に百姓の願いは認められた。

しかし10月19日に「鈴木源之丞」と水沼亀右衛門(上平出村庄屋後見)と増淵六平(小左衛門〈今泉〉新田庄屋)が市中引き回し・打ち首にされ、篠崎太郎左衛門(羽牛田村)が水牢、山崎嘉七(御田村)が追放の刑に処せられた。

1754年 (宝暦4年) 宝暦治水事件

宝暦治水事件江戸幕府によって行われた 木曽三川木曽川長良川揖斐川 )の治水事業、いわゆる宝暦治水の過程で、薩摩藩 士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害したとされる事件。

1754年 (宝暦4年) 郡上一揆

郡上一揆美濃国 郡上藩( 現岐阜県 郡上市 )で発生した大規模な一揆のことである。

郡上藩主 金森氏 が改易され、老中若年寄 といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。

1755年 (宝暦5年) 宝暦暦 発布

宝暦暦 は かつて日本で使われていた 太陰太陽暦暦法和暦 )である。

1758年 (宝暦8年) 宝暦事件

宝暦事件 は 江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件。

尊王論竹内式部大義名分論の講義を受けた 徳大寺公城 ら公卿十数人は,侍講を説いて式部の説を 桃園天皇 に進講させた。
関白 一条道香京都所司代 松平輝高 への告訴で 幕府は公卿を罷官・謹慎に,式部を京都から追放した。

1760年 (宝暦10年) 徳川家治 10代将軍に

徳川家治

第9代将軍 徳川家重 の長男。

父 家重 の隠居により 徳川宗家の家督を相続し、第10代将軍職を継承する。

家治の治世

父の遺言に従い、田沼意次側用人に重用し、老中・松平武元 らと共に政治に励んだ。
しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。( 田沼時代 )

田沼は 印旛沼手賀沼 干拓を実施し、蝦夷地 開発や対 ロシア 貿易を計画する。

1761年(宝暦11年)上田騒動

上田騒動信濃国 上田藩で発生した農民一揆である。

1762年 (宝暦12年) 後桜町天皇 即位

後桜町天皇

桜町天皇 の第二皇女。

桃園天皇 は異母弟。

桃園天皇遺詔を受けて践祚

1764年 (明和元年) 12月 中山道伝馬騒動

中山道伝馬騒動武蔵国 を中心に 中山道 沿いで発生した一揆

1766年 (明和2年) 9月 五匁銀 発行

五匁銀 は 江戸時代の一時期に発行された銀貨の一種。

金貨と銀貨の 為替レート の固定を狙った最初の銀貨。
田沼意次の命を受けた 川井久敬 が考案、 明和2年(1765年)9月4日に発行された。

1767年(明和4年) 田沼時代

田沼時代 は 日本の歴史において、老中・田沼意次 が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。

概ね意次が 側用人 職に昇格した1767年(明和4年)から 意次が失脚する1786年(天明6年)まで。

この時代の特徴として通俗的には伝統的な緊縮財政策を捨て、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策を取ったとされている。
一方では政治腐敗の時代、暗黒時代などとみなされ、賄賂政治の代名詞としても有名。

1767年(明和4年) 明和事件

明和事件 は 江戸時代中期におこった幕府による 尊王論 者弾圧事件。

1768年 (明和5年) 9月 新潟明和騒動

新潟明和騒動越後国新潟町( 現新潟県 新潟市 )において町民が藩政に抵抗しおよそ2ヶ月にわたる町民自治を行なった事件。

1771年 (明和7年) 後桃園天皇即位

桃園天皇

桃園天皇 の第一皇子。

後桜町天皇は 父の異母姉。

伯母の後桜町天皇の譲位を受けて即位。

1771年 (明和8年) 3月 八重山地震

1771年 (明和8年) 7月 モーリツ・ベニョヴスキー 来日

モーリツ・ベニョヴスキー は 東欧出身の軍人、冒険家であり、その数奇な遍歴において鎖国中の日本を含む多くの国を訪れた。

1771年 (明和8年) 7月、阿波国 徳島藩日和佐(現徳島県美波町)に来航する。
徳島藩は幕府の咎めを恐れて上陸を許さなかったが、水と食料を提供した。

1772年 (明和9年) 2月 明和の大火

明和の大火 は 江戸時代に発生した大火災。

江戸三大大火の1つ。

火元

出火元は目黒の 大円寺
出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主が盗みのために庫裡に放火したことによる。 真秀は火付盗賊改長官である 長谷川宣雄 の配下によって捕縛され、
市中引き回しの上、小塚原 で火刑に処された。

被害

目黒の大円寺から出火した炎は 南西からの風にあおられ、麻布京橋日本橋 を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田千住 方面まで燃え広がった。 類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。
山王神社神田明神湯島天神浅草本願寺湯島聖堂 も被災した。 死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。

1772年 (明和9年) 9月 南鐐二朱銀 発行

南鐐二朱銀 は 江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の 二朱銀 を指す。

南鐐二朱銀は明和9年9月(1772年)に勘定奉行川井久敬 の建策により創鋳される。
これは出目(でめ/改鋳利益)による収益を目的として含んでいたことは確かであるが、田沼時代 の商業を重用した積極的経済策が背景にあったとされる。

1774年 (安永3年) 解体新書出版

解体新書 は 日本語で書かれた安永3年(1774年)発行の解剖学書。

ドイツ人医師 ヨハン・アダム・クルムス医学書 "Anatomische Tabellen "(1722年初版。日本語通称は無し)の蘭訳本(オランダ語訳書)である "Ontleedkundige Tafelen "(1734年刊行。日本語での訛称および通称は ターヘル・アナトミア )を主な底本として、江戸時代の日本人が西洋医学書を日本語に翻訳した書物である。

著者は 前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。 江戸時代中期にあたる安永3年(1774年)、江戸・日本橋の板元・須原屋市兵衛 の下で刊行された。

1776年 (安永5年) エレキテル 復元

エレキテル は 江戸時代の博物学平賀源内 が復元した摩擦 起電器 のことで、オランダ語ラテン語)のelektriciteit(電気、電流)がなまったもの。
静電気 の発生装置。

1779年 (安永8年) 桜島 安永大噴火

安永大噴火 は 安永8年10月1日(1779年11月8日)から天明2年(1782年)にかけてに発生したとされる桜島の噴火である。

江戸時代前期の出来事

江戸時代前期の出来事を年表にまとめた。

江戸時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 安土桃山時代

後は 明治時代

関連記事

参考

江戸時代の小区分

江戸時代は

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1868年に

明治天皇一世一元の詔 を発布し、 慶応 から 明治改元されるまで

約300年間。

大きく5つに区分される。

初期

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

前期

江戸幕府の創成期。 1603年から 1690年ごろまで

中期

江戸幕府の全盛期。 1690年ごろから 1780年ごろまで

後期

江戸幕府の衰退期。 1780年ごろから1850年ごろまで

幕末期

江戸幕府の終焉期。 1853年 から1868年まで

江戸時代初期の概要

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

1590年の 小田原征伐 の後、

豊臣秀吉 の意向で

徳川家康江戸城 に入った。

当時の 江戸江戸湾 の入江で湿地帯であった。( 日比谷入江 )

徳川家康は 町造りのため、 3つの大事業に着手した。

江戸時代前期の概要

江戸幕府の創成期。

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1690年ごろまで

約90年間。

家康 期

1603年に
徳川家康征夷大将軍に任じられる。

領地である江戸に幕府を開き、ここに 江戸幕府徳川幕府)が誕生する。

豊臣秀吉 死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れる。

秀忠 期

1605年に 徳川秀忠 が2代将軍になる。

江戸城に住む将軍・秀忠と 駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になる。

大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃し、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。

以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、元和偃武 とよばれる平和状態が日本にもたらされた。

かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名 として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。

徳川氏一門の 親藩大名 は大領を持ったが幕政には関与せず。

関ヶ原の戦い 以前から徳川家に仕えていた 譜代大名旗本 によって幕政は運営された。

武家諸法度 によって大名は厳しく統制され、大大名も 改易 処分となり大領を失うことがしばしば発生した。

京都・大坂・長崎といった全国の要所は直轄領( 天領 )として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。

朝廷に対しては 禁中並公家諸法度京都所司代 による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。

また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な 新田開発 が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。

外交面では、

1609年に 李氏朝鮮己酉約条 を結び、 朝鮮との貿易が再開された。

1609年に 長崎 平戸オランダ商館 を設置し、 オランダとの貿易を始める。

1613年に ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 を契機に 禁教令

キリスト教宣教師が日本から追放される。

家光 期

1623年に 徳川家光 が3代将軍になる。

家康 以降の 武断政治 を継承し、江戸幕府の基盤を固めた。

設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、 寛永10年ごろに 老中 若年寄 などの末期まで続く制度が確立した。

武家諸法度 を改訂し、大名に参勤交代 を義務づけた。

江戸の町造りとして、

関東郡代伊奈忠治 により、 荒川 の西遷が行われ、 隅田川 が荒川の本流となった。

隅田川の西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える舟運の重要地となった。

外交面では、

1634年に 長崎 に 出島 を築造し、 オランダ商館平戸 から移転し、 長崎奉行所 の厳しい管理下に置いた。

1638年の島原の乱を契機に 幕府は 鎖国 政策を採った。

長崎 出島 での中国(明・清)・オランダとの交流と 対馬藩 を介しての 李氏朝鮮 との交流以外は外国との交流を禁止された。

鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの 日本町 が形成された。 またタイに渡った 山田長政 のように、その国で重用される例も見られた。

鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。
そのため 三都 ( 京・大坂・江戸 ) を中軸とする全国経済と各地の 城下町 を中心とする藩経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し( 天下の台所 )そこから全国に拡散した。

家綱 期

1651年に 徳川家綱 が4代将軍になる。

関ヶ原の戦い大坂の陣 以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増していた。

浪人たちの不満は幕府に向かい、 慶安の変承応の変 が起きた。

幕府はそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。 改易を少しでも減らすために 末期養子の禁 を緩和するなど、外様大名に一定の配慮を行ない、 これまでの武力に頼った武断政治から 文治政治 への政策切り替えが行われた。

経済政策では、

河村瑞賢に命じて 東廻海運西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開された。

江戸の町造りとして、

1650年頃、 江戸の飲料水不足を解消するため
老中 松平信綱 の命により 玉川兄弟玉川上水 を開削した。

1657年の明暦の大火 の後、江戸の街は大改修された。

新たに 本所上水青山上水三田上水 が整備された。

外交面では、

蝦夷地での シャクシャイン蜂起 や、イングランドリターン号 による通商再開要求、台湾 鄭氏政権による援兵要請 ( 日本乞師 ) などが起こっているが、家光期以来の 鎖国 政策が堅持された。

綱吉 期

1680年に 徳川綱吉が5代将軍になる。

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる 文治政治 を推進した。

湯島聖堂 を建立するなど 学問を推奨した。

綱吉の治世の前半は、善政を行い「天和の治」と称えられている。

後半は、側用人柳沢吉保 らを重用して 老中を遠ざけるようになった。

生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった

元禄時代

元禄時代」は 元禄年間を中心とした5代将軍 徳川綱吉 の治世 (1680〜1709) の総称。

元禄 は 日本の元号の一つ。 1688年から1704年まで。

前代 徳川家綱 までに幕府機構はととのい,藩体制も整備され,幕府支配体制の安定期を迎えていた。
綱吉は将軍の権力を強化し,専制的政治を実施した。

農業をはじめ、さまざまな産業が発展し、経済力をつけた町人も現れました。
豊かになった町人が、学問や娯楽にいそしみ、絵画や文学、演芸などのジャンルで活躍し、元禄文化 が花開いた。

江戸時代前期の文化

農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが 元禄時代である。

この時代には文学や絵画の面でも繁栄し 元禄文化 が花開いた。

江戸時代 初期・前期 の出来事

#### 1586年 (天正14年) 後陽成天皇 即位

後陽成天皇

正親町天皇 の皇子の 誠仁親王 の第一皇子。(和仁親王)

誠仁親王薨去すると、

皇祖父 正親町天皇が譲位し、和仁親王践祚し、即位。和仁親王践祚。(後陽成天皇)

1590年 (天正18年) 小田原征伐

主に 小田原城 において

関白 豊臣秀吉 が、

徳川家康 らに命じて

小田原北条氏 を降した戦役。

豊臣軍が勝利し

北条氏は降伏。

当主 北条氏直 は小田原を退去し

前当主である 北条氏政切腹

北条氏の旧領はほぼそのまま 徳川家康 に宛がわれることとなった。

1590年8月1日に

徳川家康江戸城に入る。

後に 八朔の儀式 となる。

徳川譜代の 大久保忠世小田原城主となった。

1590年(天正18年) 利根川東遷事業

利根川東遷事業 は 江戸時代初期に始められた 利根川下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。

江戸時代の利根川は江戸市中を流れていた。

現在の 古利根川中川隅田川 の流路である。

家康は 伊奈忠次関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。

以後、忠治忠克と伊奈氏3代により、利根川の治水工事が行われた。

この事業により、
利根川は、 現在の茨城県と千葉県の県境を流れ、 銚子 で海に至るようになる。

1590年(天正18年) 神田上水 開削

神田上水 は 江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。

徳川家康 の命を受けた 大久保藤五郎 によって開かれた。

江戸の六上水 のひとつであり、 古くは 玉川上水とともに「二大上水」とされた。

神田上水は、井之頭池( 東京都三鷹市 井の頭恩賜公園 内 )を水源とし、 「自然流下方式」で 武蔵野台地 を流れ、 淀橋 を経て、 関口大洗堰 ( 東京都文京区関口 大滝橋 に記念碑あり ) に至る。約60km。

「関口大洗堰」は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷 ( 現 小石川後楽園 ) に流し、 右側を余水として 平川( 現神田川) )に流した。

水戸屋敷を出た上水は 神田上水懸樋 ( 現 水道橋 あたり ) を通り、 東京都 千代田区 神田三崎町 あたりから、 地下に 木樋 を埋め、 市中に分配した。

1592年(天正20年) 日比谷入り江 埋立

日比谷入江 は 現在の東京都千代田区東部に江戸時代初頭まであった入り江である。

天下普請により 神田山( 駿河台 ) を切り崩し 埋め立てられ、大名屋敷となった。

1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着

豊後国(現大分県)に オランダ共和国の商船 リーフデ号が漂着した。

生存者の ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス江戸幕府の外交顧問になった。

徳川家康

関ヶ原の戦い にて、

リーフデ号 の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。

1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い

美濃国不破郡関ヶ原 ( 岐阜県不破郡 関ケ原町 )を主戦場として行われた

徳川家康 を総大将とし

福島正則黒田長政 らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元 を総大将とし

宇喜多秀家石田三成 らを中心に結成された反徳川の西軍との戦い。

東軍が勝利し

石田三成は斬首、

毛利輝元は減封。

勝者である徳川家康は 強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた 五大老五奉行 体制は崩壊した。

家康の権力掌握は徳川氏を中心とする 江戸幕府の成立に繋がる。

1601年 (慶長6年) 慶長小判 発行

慶長小判 は 慶長6年(1601年)より発行された小判で一両としての額面の計数貨幣である

関ヶ原の戦い に勝利した 徳川家康は幕府設立に先立ち、貨幣制度の整備を重要課題の一つとし、後藤庄三郎光次 に全国流通を前提とした小判の鋳造を命じた。

1602年 (慶長7年) フランシスコ・デ・モラレス 来日

フランシスコ・デ・モラレス は スペインの ドミニコ会 宣教師である。

1602年に ドミニコ会初の来日宣教師として、マニラ から薩摩に来航し、同地や長崎を中心に布教活動を行う。

1609年の 禁教令 により マニラに追放された。

1603年 (慶長8年) ルイス・ソテロ 来日

ルイス・ソテロ は スペイン生まれの フランシスコ会 宣教師である。

1603年に フィリピン総督の書簡を携えて来日し 徳川家康 に謁見、 日本での布教に従事した。

1603年 (慶長8年) 2月 徳川家康 征夷大将軍

徳川家康

三河国 岡崎城松平広忠 の嫡男。

征夷大将軍」の官職を獲得した 徳川家康

独自の政権( 江戸幕府 ) を構築していく。

同年7月に

豊臣秀吉 の遺言に従い

家康の三男・徳川秀忠 の娘である 千姫

豊臣秀頼 と結婚させた。

1604年 (慶長9年) 徳川家康 江戸城 大改修

1603年に

徳川家康は 最高権力者の地位を象徴する「征夷大将軍」の官職を獲得した。

徳川家康は 諸大名を動員して江戸城の大改修( 天下普請 )を行わせ、

江戸幕府 を構築していく。

1604年 (慶長9年) 12月 慶長地震

1605年 (慶長9年) 4月 徳川秀忠 2代将軍に

徳川秀忠

初代将軍 徳川家康の三男。

父 家康が 将軍職を譲り、2代将軍となる。

秀忠の治政

将軍・秀忠は江戸城 に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、 本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。

1606年(慶長11年) 院内銀山 開山

院内銀山秋田県雄勝郡 院内町 にあった鉱山である。
「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。

1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、開山した

1607年 (慶長11年) 広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による

方広寺大仏・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた事件。

大坂の陣 の契機の一つとなった。

問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、

前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、

後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

1609年(慶長14年) 平戸オランダ商館 設置

平戸オランダ商館 は オランダとの正式国交が開けた時に 平戸 に設置され、ヤックス・スペックス が初代商館長となった。

1609年(慶長14年) 己酉約条

己酉約条対馬宗氏李氏朝鮮 の間で結ばれた条約のこと。

徳川家康 が朝鮮との講和を実現したことをうけて結ばれた。

これにより、文禄・慶長の役 以来断絶していた朝鮮との貿易が再開された。

講和の実現に際し、 対馬藩主・宗義成 は 国書を偽造するという強引な手段を用いた。

後に 柳川一件 となる。

1610年 (慶長14年) ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

長崎における 有馬晴信 による ポルトガル貿易船「ダ・グラサ号」の爆沈事件。

事件の発端

1608年に

肥前日野江藩主の有馬晴信占城 (南ベトナム) に派遣した朱印船マカオ に越冬寄港中に、日本人船員が取引をめぐって騒擾事件を起こし、それをマカオカピタン・モール(総司令官)であったアンドレペソアが鎮圧し、このために日本人側に多数の死者が出たことであった。

翌 1609年に、ペソアが日本航海の司令官として長崎に来着した。

ペソアマカオでの騒擾事件に関する調書を長崎奉行長谷川左兵衛藤広 に対して提出し、自身が駿府に赴いて大御所の徳川家康に陳弁する申し出をした。

藤広は、マカオでの事件に対する報復を考えていた晴信を教唆し、ペソアの捕縛と商船捕獲とを 徳川家康 に請願させた。

焼き討ち

1610年1月に 長崎に到着した晴信は、藤広の支援を得て兵船30艘と1,200人の兵を動員し、「ダ・グラサ号」を攻撃。

事件後

1610年に 徳川家康 の信任が厚かった通詞の ジョアン・ロドリゲス 神父が、藤広と長崎代官であった 村山等安の中傷によって、マカオに追放された。

家康は 追放されたロドリゲスに代わって、イギリス人の ウィリアム・アダムスを重用した。 ロドリゲスを失ったことにより、イエズス会キリシタン界は、幕府に対する有力な窓口を失った。

1610年 (慶長15年) 徳川御三家 創設

徳川御三家 は 徳川氏のうち宗家たる将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川の名字を称することを認められていた3つの分家。
江戸幕府初代将軍 徳川家康 の男子をそれぞれ始祖とする 尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家 を指す。

家康は3人の息子 九男 徳川義直、 十男 徳川頼宣、 十一男 徳川 頼房 に それぞれ所領を与えて 親藩 大名とし、 徳川姓を名乗ることや 三つ葉葵 の家紋使用が許された。

1611年(慶長16年)3月 二条城会見

山城国京都 二条城 において、

徳川家康

豊臣秀頼 が行った会見である。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする。

1611年 (慶長16年) 5月後水尾天皇 即位

後水尾天皇

後陽成天皇の第三皇子。

後陽成天皇から譲位され践祚

1611年 (慶長16年) 12月 慶長三陸地震

1612年 (慶長17年) 岡本大八事件

岡本大八事件 は 江戸時代初期の疑獄事件。

岡本大八

徳川家康の側近

本多正純重臣

はじめは 長崎奉行 長谷川左兵衛藤広 に仕えた。

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

1610年の ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 にて

肥前日野江藩主の 有馬晴信 は 長谷川左兵衛藤広に教唆され 「ダ・グラサ号」を攻撃した。

ダ・グラサ号事件の経緯は 大八、藤広 を通じて家康に報告されてた。

大八の虚偽の発覚

晴信には、龍造寺氏 との代々の争いで生じた失地を回復するという 肥前有馬氏 の悲願があった。

晴信は、藤広と不仲になり、 「次は藤広を沈めてやる」と口走るほどであった。

大八は 晴信に 「藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」 と虚偽を語り、仲介のための資金を無心した。

大八は 家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を運動資金と称してだまし取った。

晴信は 自ら正純のもとに赴いて恩賞を談判、大八の虚偽が発覚することとなった。

断罪

大八は 朱印状偽造の罪により駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられた。

晴信は 旧領回復の弄策と長崎奉行殺害企図の罪で甲斐国郡内に流罪を命じられ、晴信の所領である島原藩4万石は改易のうえ没収に処された。

一方、藤広には咎めは一切なかった。

事件の影響

大八と晴信は キリシタンであった。

幕府は公的に幕府直轄地に対してキリスト教禁教令 を発布して 大名に棄教を迫った。

キリシタン大名は改易など厳しい処分を受けた。

1613年 (慶長18年) 禁教令

日本で慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令。

江戸幕府は当初はキリスト教に対してはこれまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。

1602年に 宣教師 フランシスコ・デ・モラレス が、

1603年に 宣教師 ルイス・ソテロ が、 布教を行っている。

しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し 幕府は キリスト教に対して 次第に態度を硬化させていった。

そんな中で 1609年に ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 が発生する。

それ自体はキリスト教と何の関係もなかったが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった 有馬晴信 と目付役で同じくキリシタンであった 岡本大八収賄事件が発覚する( 岡本大八事件 )。

この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始める。

宣教師 のフランシスコ・デ・モラレスとルイス・ソテロは 日本から追放された。

キリシタン大名は 棄教を迫られ、 改易など厳しい処分を受けた。

キリシタン大名 高山 右近

内藤 如安 とともに

マニラ に追放された。

1614年 (慶長19年) 東廻海運 開拓

東廻海運日本海沿岸の 酒田 から 津軽海峡 を経て太平洋を回航し、東北地方と 江戸 とを結ぶ航路による海上輸送。

大坂の陣 に備え 盛岡藩蔵米三陸沿岸から江戸に廻漕されたのが最初とされる。

1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣

大坂冬の陣

1614年 11月 (冬) に

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

豊臣方は 浪人衆を全国から集めて

籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

徳川方は 織田有楽斎 を通じて豊臣方との和平交渉を行うが。

和議交渉が暗礁に乗り上げると、本丸への砲撃を行った。

淀殿の侍女8人に命中し、

豊臣方は 和議に応ずる。

和議の条件として、大坂城の堀を埋めた。

1615年 (慶長20年) 大坂夏の陣

大坂夏の陣

1615年4月(夏)に

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

大坂冬の陣 ののち

豊臣方は 再び 浪人衆を集めた。

徳川方は 約15万の大軍で大坂城を包囲し、

城内に続々と乱入した。

徳川方が勝利 し

豊臣秀頼は自害し 豊臣氏は滅亡した。

家康の孫娘で 豊臣秀頼正室であった 千姫は 事前に脱出した。

1615年 (元和元年) 9月 元和偃武

1615年の 大坂夏の陣 により

江戸幕府大坂城主の豊臣家 を攻め滅ぼしたことにより

応仁の乱 以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。

同年 7月に

江戸幕府は朝廷に元号慶長 から 元和 と改めさせたことで、

天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。

1615年 (元和元年) 武家諸法度 制定

武家諸法度江戸幕府が諸 大名 の統制のために制定した 武家法 である。

ここでいう武家とは 旗本御家人藩士など広い意味での武家は含まず、大名 のことを指す

1615年 (元和元年) 禁中並公家諸法度 制定

禁中並公家諸法度江戸幕府禁中天皇 )及び 公家 に対する関係を確立するために定めた制定法

1615年 (元和元年) 一国一城令 制定

一国一城令江戸幕府が制定した法令である。
諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じたもの。

1617年 (元和3年) 徳川 秀忠 日光東照宮 創建

日光東照宮 は 栃木県日光市に所在する神社。
江戸幕府初代将軍・徳川家康 を神格化した 「 東照大権現 」 を主祭神として祀る。

1620年(元和6年)仙台堀 開削

仙台堀仙台藩伊達政宗 が 神田山 (本郷台地) に開削した 神田川 のこと。

第二代将軍 徳川秀忠 の時代に、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。 秀忠の命を受け、仙台藩祖の伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの 牛込橋 付近から秋葉原駅近くの 和泉橋 までの開削を担当した。
小石川見附門(現在の三崎橋付近)から東に神田山を切り通して湯島台と 駿河台 とに分け、現在の 御茶の水 に人工の谷(茗渓)を開削した。
このため、この区間は特に「仙台堀」と呼ばれる。

JR 御茶の水駅 そばの川である。 聖橋 が 仙台堀を渡り湯島台と駿河台を繋ぐ。( 本郷通り )

1620年 (元和6年) 平山常陳事件

平山常陳事件 は 堺の平山常陳が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件。

江戸幕府キリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教 といわれる激しい弾圧の引き金となった。

1622年 (元和8年) 元和の大殉教

元和の大殉教 は 長崎の西坂でカトリックキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。 日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。

1623年(元和9年) 徳川家光 3代将軍に

徳川家光

徳川家康の三男 徳川秀忠 の次男。(幼名 竹千代)

母は

(国松( のちの 徳川忠長 )は 同母弟。

乳母は 斎藤福( のちの 春日局 )

父 秀忠から移譲され3代将軍に。

家光の治世

秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた

逸話

幼少時の 家光 は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。
1606年 に 弟・国松が誕生する。 秀忠・江夫妻は 国松を寵愛しており、竹千代 廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。

1625年 (寛永2年) 徳川家光 寛永寺 創建

寛永寺 は 東京都台東区上野桜木一丁目にある 天台宗 関東総本山の寺院。

開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光である。

本尊は薬師如来である。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。

1629年 (寛永6年) 明正天皇 即位

明正天皇

後水尾天皇の第二皇女。

父・後水尾天皇のにわか譲位を受けて践祚した

1629年 (寛永6年) 紫衣事件

紫衣事件江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。

紫衣と事件に至る事情

紫衣 とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。

1615年 に 江戸幕府禁中並公家諸法度 を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

事件の概要

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇 は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

これを知った幕府( 将軍 徳川家光 )は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代板倉重宗 に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。

幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、 大徳寺 住職・沢庵宗彭 や、妙心寺東源慧等 ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。

1629年に 幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国陸奥国への流罪に処した。

この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。

1629年 (寛永6年) 荒川西遷事業

荒川西遷事業 は 洪水防御、新田開発、舟運開発等を目的に、 荒川 から 利根川 を分離する 河川付け 替え工事。

利根川東遷事業 の一環である。

「荒川」は古くから 「利根川」の支流である。

江戸時代の「荒川」は、現在の 元荒川 の川筋を通り、現在の埼玉県 越谷市 付近で「利根川」と合流した。

1629年に

関東郡代伊奈忠治ら が 現在の熊谷市久下 で河道を締切り、現在の 元荒川 を流下していた河道を、和田吉野川 の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なった。

さらに、 現在の熊谷市久下から 川越市 古谷本郷 まで開削した。

この工事により、 隅田川 の河道は荒川の本流となった。

この頃に 隅田川は、 吾妻橋 周辺から 現在の河口( レインボーブリッジ周辺 )への河道へほぼ一本化され、 「大川」と呼ばれた。

隅田川の西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える舟運の重要地となった。

なお、現在の荒川下流は、明治時代に、人工的な排水路「荒川放水路」として開削されたもの。

1633年 (寛永10年) 第1次 鎖国

鎖国江戸幕府が、オランダ を除くキリスト教国の人の来航、 及び日本人の 東南アジア 方面への出入国を禁止し、 貿易を管理・統制・制限した対外政策である。

1633年に

老中奉書 のない船の海外渡航が禁止される。

1633年 (寛永10年) カピタン江戸参府 定例化

カピタン江戸参府オランダ商館 責任者である商館長( カピタン ) の、日蘭貿易「御礼」のための江戸への旅。

オランダ商館長は 対日貿易の維持・発展を願って、貿易業務後の閑期に江戸へ参り、将軍に謁見(拝礼)と献上物の呈上を行った。

カピタンの「御礼」に対し江戸幕府側は、貿易の許可・継続条件の「御条目」5か条の読み聞かせと 「被下物」の授与をもって返礼とした。

1633年より 毎年春1回に定例化する。

1790年に 貿易半減に伴って4年に1回と改定された。

1633年 (寛永10年) 黒田騒動

黒田騒動福岡藩 で発生したお家騒動。 「栗山大膳事件」ともいう。

三大お家騒動の一つ。

経緯

藩主 黒田長政 は世継ぎ継承にあたり長男・忠之 の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。

書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。

これに後見役の 栗山大膳 は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。
そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると 血判状 をとった。

この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した

そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。

1624年 に 忠之は藩主に就任すると、 早々に、忠之およびその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。 忠之は豪華な大船「鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽を新規に雇い入れるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。
これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

1632年 6月に 大膳も忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴し、 藩側は「大膳は狂人である」との主張を行行った。

1633年 2月に 将軍 徳川家光 が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年におよぶ抗争に幕を閉じた。

大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなった。

題材にした作品

森鷗外 が小説 栗山大膳 において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている

1956年には 東映で映画 黒田騒動 が公開されている。

1634年 (寛永11年) 長崎 出島 築造

出島江戸幕府が対外政策の一環として長崎に築造した日本初の本格的な扇型の人工島。

1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、  1641年から1859年までは対オランダ貿易が行われた。

1637年12月に島原の乱が発生すると、 幕府は長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁する。

1634年 (寛永11年) 伊賀越の仇討ち

伊賀越の仇討ち は 、渡辺数馬と 荒木又右衛門が数馬の弟の仇である 河合又五郎伊賀国上野の 鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。 日本三大仇討ちの一つ。

1634年 (寛永11年) 徳川家光 日光東照宮 大造替

日光東照宮 は 栃木県日光市に所在する神社。 江戸幕府初代将軍・徳川家康 を神格化した 「 東照大権現 」を主祭神として祀る。

1617年に 2代将軍 徳川秀忠により、創建された。

1634年に 3代将軍 徳川家光により、 21年神忌に向けて「寛永の大造替」が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。

1635年(寛永12年) 参勤交代 義務化

参勤交代 は 江戸時代において各藩の主である 大名交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。

1635年 に 徳川家光 によって 徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。

1635年 (寛永12年) 諸士法度

諸士法度江戸幕府旗本御家人 を対象として出した法令。

1万石以上の大名を対象とした 武家諸法度 と対応する法令である。

1635年(寛永12年) 柳川一件

柳川一件対馬藩主・宗義成 と家老・柳川調興 が日本と 李氏朝鮮 の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事

事件の経緯

豊臣政権 による朝鮮出兵文禄・慶長の役 )が行われ、日朝、日明関係が断絶した。

戦後、日本で 徳川家康による 江戸幕府 が成立すると、幕府は 李氏朝鮮 との国交正常化交渉を開始する。

日本と朝鮮の中間に位置する 対馬藩 は地理的条件から経済を 朝鮮 との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

朝鮮側は 満州女真族 の勢力拡大で北方防備の必要もあったため 交渉に宥和的となった。

1605年に 朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。

朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。

使節江戸城 で2代将軍・秀忠駿府大御所 の家康と謁見した。

対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、

1609年に 貿易協定である 己酉約条 を締結させた。

対馬藩の家老であった 柳川調興 は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。

そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。

大名・幕閣の動向

当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。 一方、仙台藩主・伊達政宗 など 大名たちは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。

家光の判断

1635年4月に 3代将軍・家光 の目の前で、宗義成柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。

江戸にいる1,000石以上の旗本と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開された。

結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興津軽流罪とされた。

また、以酊庵 の庵主であった 規伯玄方 も国書改竄に関わったとして南部に流された。

宗義成は対朝鮮外交における権限を回復することができたが、当時の外交に不可欠であった漢文知識が不足しており、また朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方のノウハウを失った事で、対朝鮮外交を完全に停滞させてしまった。

1635年(寛永12年) 生駒騒動

生駒騒動 は 讃岐 高松藩 生駒家 で起こったお家騒動。
重臣が争い、生駒家は改易となった

1638年(寛永15年) 島原の乱

島原の乱 は 島原・天草地域で引き起こされた、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件である。

島原藩主の 松倉勝家 が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。

一揆

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化し反乱した。

島原藩では制圧できず、 幕府は九州諸藩から12万以上の軍勢を集め制圧した。

処分

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。

影響

幕府はローマカトリック系のキリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、ポルトガル人の貿易商を国外追放した。

1639年には 鎖国政策を引き締めて、キリスト教の禁教令を強化した。

1639年(寛永16年)ポルトガル船の来航を禁止

島原の乱 ののち、

幕府は キリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、ポルトガル人の貿易商を国外追放した。

鎖国 の完成と言われる。

1640年(寛永17年) 寛永の大飢饉

寛永の大飢饉 は 江戸初期における最大の飢饉である。 江戸四大飢饉 の1つ。

1641年(寛永18年) 出島 オランダ商館

平戸オランダ商館長崎 出島 に移転。

出島に滞在するオランダ人は商館長、次席、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など 9人から12-13人で、自由だった平戸とは違い「国立の牢獄」と呼ぶほど長らく不自由な生活を送っていた。

1641年(寛永18年) 江戸川 開削

利根川東遷事業 により 江戸川利根川 の本流が流れるようになる。

1641年に 江戸川上流部が人工水路として開削された。

その後、江戸幕府による舟運路の整備により、江戸への廻米などの輸送経路として繁栄した。

明治時代に、 「江戸川放水路」が開削され、 そちらが本流とされ、元の川のほうは 旧江戸川 という名称となった。

現在の江戸川は、 全区間にわたり東京都と千葉県の県境を流れ、 東京都江戸川区 江戸川大橋 あたりで 「旧江戸川」と分岐し、 千葉県 市川市 田尻 あたりで海にる。

「旧江戸川」は、 千葉県浦安市 舞浜 あたりで海に至る。

1643年 (寛永20年) 後光明天皇

光明天皇

後水尾天皇の第四皇子。

明正天皇 は異母姉。

先帝 明正天皇の譲位を受けて践祚

1644年 (正保元年) 正保御国絵図

正保国絵図江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図で、これに基づき、正保日本図(日本総図)が作成された。

概要

正保元年(1644年)郷帳( 正保郷帳 )、城絵図( 正保城絵図 )などと併せて、作成が命じられた。
大目付 井上政重が作成責任者として事業にあたったが、完了は慶安4年(1651年)よりかなり後となった。

「正保国絵図」は、全国68ヶ国についてすべて収集され、主に軍事と交通関連の情報が記載されているほか、縮尺も1/21600(1里6寸)に統一されるなど、実用性が意識されていた。  

1645年 (寛永22年) 日本乞師

日本乞師 の滅亡後南下してきた に対抗する 南明 及びその支持勢力( 鄭氏政権など )が日本( 江戸幕府 )に対して軍事支援を求めた行動。

既に鎖国体制に入っていた江戸幕府は軍事的な支援には否定的であり、貿易などの形式で 倭刀 などの武器や物資の調達を許すことはあっても、支援そのものには黙殺の姿勢を貫いた。

1651年 (慶安4年) 徳川家綱 4代将軍に

徳川家綱

3代将軍・徳川家光 の長男。

父 家光が薨去すると、将軍宣下を受けて 4代将軍に。

治世前半

家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。
特に 保科正之 を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から 文治政治 への政策切り替えが行われた。

治世後半

寛永の遺老 と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。

彼らに代わって 酒井忠清大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。

河村瑞賢に命じて 東廻海運西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開された。

1651年 (慶安4年) 慶安の変

慶安の変兵学者・由井正雪 による幕府顛覆計画が発覚した事件。 「由井正雪の乱」とも呼ばれる。

井正雪と社会状況

由井正雪 は優秀な軍学者で、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。

この頃、江戸幕府では3代将軍・徳川家光 の下で厳しい 武断政治 が行なわれていた。

関ヶ原の戦い大坂の陣 以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、巷には多くの浪人があふれていた。

正雪はそうした浪人の支持を集めた。

計画と露見

そのような情勢下の 1651年4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱 が継ぐこととなった。
新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。

一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。

正雪は 町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。

事件後の影響

江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した 承応の変 を教訓に、老中・阿部忠秋 らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。

1652年 (慶安5年) 承応の変

承応の変軍学者戸次庄左衛門 らが幕府老中たちを討ち取ろうと計画した事件。 「戸次庄左衛門」とも呼ばれる。

概要

別木庄左衛門

越前国 大野藩藩士で200石を領していた。

大野藩関ヶ原の戦い で西軍に与したため、戦後に改易された。

別木は 浪人となって江戸に出て、軍学を講じた。

別木らは、崇源院徳川秀忠の正妻)の27回忌が 増上寺 で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、幕府老中たちを討ち取ろうと計画した。

一味の一人 長嶋刑部が 老中・松平信綱 に密告した。

別木らは 町奉行に捕えられ、浅草で磔にされた。

慶安の変同様、それまでの 武断政治 の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。

以後、幕府は 文治政治 へ政治方針を転換した。

1653年 (承応2年) 玉川上水 開削

玉川上水 は 江戸市中への飲料水が流れていた上水道
江戸の六上水 の一つで、 古くは 神田上水 とともに「二大上水」とされた。

幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。
工事の総奉行に老中で川越藩主の 松平信綱、水道奉行に 伊奈忠治 が就き、 庄右衛門・清右衛門兄弟( 玉川兄弟 )が工事を請負った。

多摩川羽村 から 四谷までの高低差92.3メートルの間に全長42.74キロメートルが築かれた。

1655年 (承応3年) 後西天皇 即位

後西天皇

後水尾天皇の第八皇子。

後光明天皇 は異母兄。

識仁親王霊元天皇 ) は異母弟。

光明天皇崩御した時、

同帝の養子になっていた識仁親王は まだ生後間もなく、

識仁親王が 成長し即位するまでの繋ぎとして、践祚した。

1657年 (明暦3年) 明暦の大火

明暦の大火 は 明暦3年に 江戸の大半を焼いた大火災。

概要

江戸三大大火の一つ。
延焼面積・死者ともに江戸時代最大である。

外堀以内のほぼ全域、天守を含む 江戸城 や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。
この大火で焼失した江戸城天守は、その後、再建されることがなかった。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。

防衛のため 千住大橋だけであった隅田川 の架橋( 両国橋永代橋 など )が行われ、隅田川東岸に 深川 など市街地が拡大されるとともに、吉祥寺下連雀 など郊外への移住も進んだ。

さらに防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として「広小路」が設置された。
現在でも「上野広小路」などの地名が残っている。
幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。

1659年 (万治2年) 本所上水 開削

本所上水江戸の六上水のひとつである。

明暦の大火 後、江戸の街は大改修され、新しく発展した隅田川東岸(本所・深川方面、いわゆる江東地区)を給水する目的で開かれた上水道であった。

この上水は、埼玉郡 瓦曽根溜井(現在の埼玉県越谷市瓦曽根周辺)より分水し、開渠で亀有・寺島・小梅を経て法恩寺橋東 ( 現在の 東京都墨田区 法恩寺 周辺 ) に達し、本所 方面一帯を給水した。

1660年 (万治3年) 青山上水 開削

青山上水江戸の六上水のひとつである。

玉川上水四谷大木戸 の水番所付近から分水し、青山・赤坂・麻布・六本木から飯倉を経て芝方面まで給水した。

1662年 (寛文2年) 寛文近江・若狭地震

1663年 (寛文3年) 霊元天皇 即位

霊元天皇

後水尾天皇 の第十九皇子。 (識仁親王)

後西天皇 は異母兄。

1662年 12月に 識仁親王元服し、

翌年 1663年 1月に 兄の後西天皇から譲位されて践祚した。

1664年(寛文4年)三田上水 開削

三田上水江戸の六上水 のひとつである

玉川上水下北沢村 から分水して、代々木・渋谷・目黒・大崎・白金付近まで開渠で導き、伏樋伊皿子三田 まで給水した。

1664年 (寛文4年) 4月 寛文印知

寛文印知江戸幕府が日本全国の大名に対して一斉に領知判物・領知朱印状・領知目録を交付した法律。
また、翌1665年には 公家・門跡・寺社などに対しても同様の措置が取られ、江戸幕府の大名領知権と日本全国の土地支配権を名実ともに確立した。

全国の大名・公家・寺社などが持っていた朱印状が一斉に回収・再交付されたため、これを特に「寛文朱印改と呼び、これに基づいて交付された朱印状を特に「寛文朱印状」と呼ぶ。

1666年 (寛文6年) 諸国山川掟

諸国山川掟江戸幕府が示した、下流域の治水を目的に上流域の森林の開発を制限する掟。

1669年(寛文9年) シャクシャインの戦い

シャクシャインの戦い は 、アイヌシャクシャイン を中心として起きた蜂起。

アイヌ2部族の抗争、報復の最中に 松前藩 に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。

和人とアイヌの統合

15世紀頃から 交易や 和人 あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、

17世紀には、 河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、 和人から「惣大将」と呼ばれる有力首長が現れていた。

シブチャリ( 静内町 ) の首長 シャクシャイン や、 ハエ( 波恵川 流域 ) の首長 オニビシ などがこれに相当する。

アイヌ民族部族間対立・報復合戦

シブチャリ( 静内町 ) 以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団 メナシクル とシブチャリからシラオイ(白老町) にかけてのアイヌ民族集団である シュムクル は、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた

1653年に メナシクルの首長であったカモクタインがシュムクルによって殺害されたために、 副首長であったシャクシャインが首長となった。

1655年に
惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗出し 両集団は一旦講和する。

1667年に オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲り、シャクシャインによって殺されたのを機に再燃。

1668年に オニビシをシャクシャインらが数十人で襲い殺害した。

武器供与要請・誤報・蜂起

シャクシャインにオニビシを殺されたハエ(波恵川流域) のアイヌ松前藩庁に使者を遣わし、報復のため武器の提供を希望したが、対立の深化を望まない藩側に拒否された。 その帰路に、使者の一人でサル(沙流郡)の首長でオニビシの姉婿であったウタフが疱瘡にかかり死亡してしまった。 このウタフ死亡の知らせが、「松前藩による毒殺」と流布された。

これによって、シャクシャインは敵対していたシュムクルを筆頭に蝦夷地各地の各アイヌ部族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。

1669年に シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ( 石狩 )を除く東は 釧路 のシラヌカ( 白糠町 )から西は 天塩 のマシケ( 増毛町 )周辺において一斉蜂起が行われた。

松前藩の反撃とその後

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(長万部国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。

シャクシャインは弓矢主体で鉄砲27丁を所有していたのに対し、松前藩は鉄砲16丁であったので、津軽南部藩などから鉄砲を借り受け、計70丁で応じた。

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、償いの宝物などの提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった

1669年11月に シャクシャインは和睦に応じ ピポク(新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。

指導者を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。

翌1670年に 松前軍はヨイチ(余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。

この「シャクシャインの戦い」を経て、松前藩蝦夷地 における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。

1670年 (寛文10年) 本朝通鑑

本朝通鑑江戸幕府により編集された漢文編年体の歴史書

林家の 林羅山林鵞峯 父子を中心に編纂された。

神代から 後陽成天皇 の代までを記している。
倫理的な判断を避け、史実を書くことが方針とされているという。

1671年 (寛文11年) 宗門人別改帳 制度化

宗門人別改帳宗門人別改 で宗門改帳と人別改帳が統合された民衆調査のための台帳。
現在で言う戸籍原簿や租税台帳である。

1671年 (寛文11年)伊達騒動

伊達騒動伊達家仙台藩 で起こったお家騒動である。

「三大お家騒動」の一つ。

騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っているが、 一般に伊達騒動と呼ばれるのは「寛文事件」である。

寛文事件

藩主 伊達綱宗 は不行跡のかどで幕府から隠居を命ぜられ、 幼少の 綱村家督を相続。

その後見役 伊達兵部宗勝 が家老 原田甲斐宗輔 らと宗家横領を企てたとして、伊達安芸宗重 が幕府に訴えた。

大老 酒井忠清 邸での評定の席で宗重は宗輔に斬られ、宗輔も殺害された。

事件の事後処理では 藩主綱村は幼少のためお構い無しとされた。

年長の後見人としての責務を問われた宗勝の 一関藩 は改易となった。

山本周五郎の小説 樅ノ木は残った などの題材となった。

1671年 (寛文11年) 東廻海運 新航路 開拓

東廻海運日本海沿岸の 酒田 から 津軽海峡 を経て太平洋を回航し、東北地方と 江戸 とを結ぶ航路による海上輸送。

当初、東北地方から江戸への廻船の入り方は、銚子 までは海路をとり、利根川 の水運を利用する内川江戸廻りであった。

1671年に 江戸幕府の命を受けた 河村瑞賢 が、房総半島 を迂回し 外海江戸廻りで直接江戸に運ぶことに成功した。

1672年 (寛文12年) 西廻海運 開拓

西廻海運 は  日本海沿岸を西廻りに、酒田 から佐渡小木・能登福浦・下関などを経て 大阪 に至り、さらに 紀伊半島 を迂回して 江戸 に至る航路による海上輸送。

江戸の商人 河村瑞賢 の幕命を受けて行った海運の刷新によって確立した。

1673年 (延宝元年) リターン号 来航

リターン号 は 長崎に来航したイングランド船。

日本で売るための羊毛を積み、日本の江戸幕府に貿易再開を求めたが、幕府は上陸を拒絶した。

1680年 (延宝8年) 徳川綱吉 5代将軍に

徳川綱吉

3代将軍 徳川家光 の四男。

4代将軍 徳川家綱 は異母兄。

家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱の養嗣子となる。

家綱が死去したため、将軍宣下を受け, 5代将軍に。

綱吉の治政

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる 文治政治 を推進した。

学問の中心地として 湯島聖堂 を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

綱吉の治世の前半は、善政を行い「天和の治」と称えられている。

後半は、側用人柳沢吉保 らを重用して 老中を遠ざけるようになった。

生類憐みの令 をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行なった。

特に犬を保護したことが多く、綱吉は「犬公方」と呼ばれた。

1679年 (延宝7年) 越後騒動

越後騒動越後国 高田藩 で起こったお家騒動。
一門重臣たちが争い、将軍 徳川綱吉 の親裁で厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。

1681年 (延宝9年) 小倉事件

小倉事件

霊元天皇皇位継承を巡って第1皇子である「一宮」( 後の 済深法親王 )を強引に出家させてその外戚に当たる 小倉家 一族を粛清した事件。

経過

霊元天皇の正妃である 鷹司房子 には男子がなかった。

そこで当時院政を敷いていた 後水尾法皇江戸幕府との間には、万が一 鷹司房子に男子が生まれないまま天皇崩御した場合には 小倉実起 の娘が生んだ第1皇子である「一宮」が継承するという合意が密かにできており、 天皇摂関家などの有力公家の合意を取り付けていた。

1674年 9月 に 松木宗子は第4皇子である「五宮」( 後の 東山天皇 )が誕生すると、天皇は当時4歳の「一宮」よりも「五宮」に皇位を継がせたいと考えるようになる。

1677年 に 天皇は幕府の意向を確かめるべく江戸に使者を派遣するが、 当時の将軍 徳川家綱法皇とその正妃東福門院(家綱の叔母)の同意のないこの提案には反対した。

この年に東福門院が死去し、 3年後に後水尾法皇と家綱が相次いで病死すると、 天皇大覚寺 にいた異母兄・性真法親王に「一宮」の弟子入りを、 新将軍 徳川綱吉 には「一宮」の出家と「五宮」への皇位継承の承諾を求める勅使を出した。

681年 4月に 「一宮」の大覚寺入りが正式に決定される。
だが、外祖父にあたる小倉実起はこれに反対して、「一宮」を自邸に匿ってしまう。
その後も天皇は小倉家に決定の履行を迫るが小倉家側はこれを拒んだ。

これに激怒した天皇は、宮中警護の武士を小倉邸に派遣して同邸を制圧、「一宮」を飛鳥井雅豊邸に幽閉した上、幕府に対し小倉実起への処分を要請した。

綱吉は、小倉の勅命違反の事実を重視して、小倉実起と嫡男の公連、その弟の竹淵季件を佐渡へと流刑を命じた。

この事態に後水尾法皇の側近であった左大臣 近衛基熙権大納言 中院通茂天皇に激しく抗議した。

年が明けて 1682年 に入ると、霊元天皇は積極的に行動に出る。

2月14日に 空席になっていた関白の後任に左大臣近衛基熙ではなく、それより下位の右大臣 一条冬経 を任命する。

3月25日に 「五宮」の次期皇位継承者(儲君)と鷹司房子の中宮擁立が発表され、

8月16日に 「一宮」を大覚寺の代わりに 勧修寺 に入れて出家させた。

霊元天皇の「五宮」擁立の真意は、 院政を開始して摂家や幕府の干渉を排して思いのままの政治を行うための長期計画の一環であり、 すぐに成人を迎えてしまう年長の「一宮」に皇位を譲ることが不都合であったからである。

以後、院政を展開しようとする霊元上皇とこれを阻もうとする近衛基熙江戸幕府との長い確執が始まることになる。

1687年 (貞享4年) 東山天皇 即位

東山天皇

霊元天皇 の第四皇子。

1681年の 小倉事件 により

霊元天皇は 次期天皇として朝幕間で内定していた 一宮( 済深法親王 )を 大覚寺 に入寺させた。

1682年 3月に 儲君 となり、

12月に 親王宣下 があった。

1687年 3月に 父 霊元天皇の譲位にともない践祚した。

霊元上皇は東山践祚の後は院政を敷くつもりでいた。

しかし 幕府は譲位をなかなか認めようとせず、幕府との確執が始まる。

1687年 (貞享4年) 生類憐みの令

生類憐れみの令 は 5代将軍・徳川綱吉 によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。
1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である。

犬公方

特に犬を保護したことが多く、綱吉が「犬公方」と呼ばれる一因となった。

幕府の施設として 野犬を収容する 犬小屋 が設置された。

犬小屋の広さは、中野は16万坪、大久保がおよそ2万5000坪、四谷の犬小屋は1万8928坪7合だった。

評価

庶民の生活に大きな影響を与えたため、「天下の悪法」との評価が定着した。

近年では、 儒教に基づく文治政治の一環であるとして、再評価がなされている。

生類憐れみの令の一環として出された「捨て子禁止令」が綱吉の死後も続き、 福祉や動物愛護の先駆的な施策とされる。

1690年 (元禄3年) 徳川綱吉 湯島聖堂 創建

湯島聖堂 は 5代将軍 徳川綱吉 によって建てられた 孔子廟 であり、 後に幕府直轄の学問所となった。(東京都文京区湯島一丁目)

1696年(元禄9年)千川上水 開削

千川上水玉川上水を水源とし、仙川村の境橋( 現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近 )から江戸城城北 地域へ流れた総延長約22kmの用水路( 上水 )である。

江戸の六上水のひとつ。

5代将軍 徳川綱吉により上水開削が命じられる。

飛鳥時代の出来事

飛鳥時代の出来事を年表にまとめた。

飛鳥時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 古墳時代

後は 奈良時代

関連記事

飛鳥時代の概要

広義には、

593年に 聖徳太子が摂政になったときから

710年に 平城京 に遷都するまで。

約118年間。

狭義には 終期を

694年に 藤原京 に遷都するまで。

約117年間。

名称

現在の奈良県高市郡 明日香村 付近に相当する 飛鳥 の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。

推古朝

552年(欽明天皇13年) に、百済聖王 が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教 が公伝される。
587年(用明天皇2年)、大王の仏教 帰依 について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。 聖徳太子蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした( 丁未の乱 )。
物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。

588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺飛鳥寺 )の建立を始める。

587年(用明天皇2年)、馬子は丁未の乱蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが( 崇峻天皇 )、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、 592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。
こののち馬子は日本初の女帝となる 推古天皇 を立てた。
593年(推古天皇元年)、聖徳太子厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったといわれている。

603年(推古天皇11年)には、冠位十二階 を制定。聖徳太子が604年に 十七条憲法 を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。

607年(推古天皇15年)、小野妹子ら を隋に 遣隋使 として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」の国書 を送る。
留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。

舒明・皇極朝

621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。 聖徳太子推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立った。 推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と 山背大兄王 であった。
蝦夷推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族 境部摩理勢山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。
舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。
さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、 643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。

孝徳朝

645年(皇極天皇4年)の 乙巳の変 で、中大兄皇子中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに 孝徳天皇 が即位した。
孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなど次々と改革を進めていった( 大化の改新 )。

649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める。

650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。

天智朝

孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。 中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊を称していた母親・ 皇極天皇 を、再度即位( 重祚 )させた( 斉明天皇)。

663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、 白村江の戦い新羅・唐連合軍に大敗した。
そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る 水城 を造り、対馬隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海防人 や烽を置いた。 。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい 近江大津宮 に移された。
そのほか、大和に 高安城 が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬金田城 が築かれている。

668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍( 庚午年籍 )を作り、人民を把握する国内政策も推進した。

671年 (天智天皇10 年) 、天智天皇が急死する。

天武・持統朝

天智天皇が没すると、天智天皇の弟である 大海人皇子 と、息子である 大友皇子 との間で争いが起こった。 672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に 天武天皇 となった。
天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

672年(天武天皇元年)の末に、宮を 飛鳥浄御原宮 に移した。
官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。
5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没する。
8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される 飛鳥浄御原令 が制定され、頒布される。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。
690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。
692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。
公地公民制 を基礎とした班田収授法を実施した。 702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。
さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる 藤原京 に都を遷した。

持統天皇は、子の 草壁皇子 に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である 文武天皇 を即位させる。
この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、 700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、 翌年の701年(文武天皇5年)に 大宝律令 が制定された。
これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。

中央行政組織は太政官神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。
租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。
また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

文武天皇の死後、母の 元明天皇 が即位。
710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した。

飛鳥時代の外交

律令制 による 中央集権 の国家を形成する 一方で、 諸外国との交流もあった。

飛鳥時代の文化

大化の改新 を境に 前半を「飛鳥文化」、後半を「白鳳文化」という。

飛鳥文化

推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。
時期としては、一般に 仏教渡来 から 大化の改新 までをいう。

朝鮮半島百済高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。
多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。

代表的な美術品
- 玉虫厨子
- 天寿国繍帳
- 法華経義疏

白鳳文化

645年の大化の改新 から710年の 平城京 遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化である。 法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。

古代の都で最大の規模を誇り、条坊制を布いた本格的な中国風都城藤原京 を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化であった。 律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調とする。

代表的な美術品
- 薬師寺「金堂薬師三尊像」
- 興福寺「銅造仏頭」
- 法隆寺阿弥陀三尊像」
- 法隆寺 金堂壁画
- 高松塚古墳「壁画」

飛鳥時代の仏教寺院

552年に 仏教が伝来し 仏教寺院が建てられる。

飛鳥時代の出来事

528年 (継体天皇22年) (528年) 糟屋屯倉 設置

糟屋屯倉筑紫国にあった 屯倉。( 現在の福岡県糟屋郡付近 )

531年 (継体天皇25年) 安閑天皇 即位

安閑天皇

継体天皇 の長子。

継体天皇 が 譲位。

535年 (安閑天皇2年) 屯倉 全国に多数設置

屯倉ヤマト王権 の支配制度の一つ。 全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。

536年 (安閑天皇2年) 宣化天皇

宣化天皇

継体天皇の第二子。(檜隈高田王)

安閑天皇 の同母弟。

先代の安閑天皇崩御したとき

子どもがなかったために 同母弟の 檜隈高田王 が69歳にして即位した。(宣化天皇)

538年 (宣化天皇3年) 仏教公伝

百済 から古代日本( 大和朝廷 )に仏教 が伝えられた。

539年 (宣化天皇4年) 欽明天皇 即位

欽明天皇

継体天皇 の嫡男。

先帝 宣化天皇崩御し即位。

572年 (敏達天皇元年) 敏達天皇 即位

敏達天皇

欽明天皇 の第二皇子。

欽明天皇崩御し 即位。

578年 (敏達天皇7年) 金剛組 創業

金剛組 は、大阪府大阪市天王寺区に本社を置く、日本の建設会社である。

聖徳太子 が招聘した 宮大工が、 飛鳥時代の578年に 創業した世界最古の企業である。

585年(敏達天皇14年) 用明天皇 即位

用明天皇

欽明天皇 の第四皇子。

先帝 敏達天皇崩御し即位。

587年(用明天皇2年) 丁未の乱

仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子 と対立した 大連物部守屋 が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。

588年 (崇峻天皇元年) 崇峻天皇 即位

崇峻天皇

欽明天皇 の第十二皇子。

用明天皇 の異母弟。

587年5月に 先帝 用明天皇崩御する。

大臣の 蘇我馬子 によって推薦され 即位した。(崇峻天皇)

592年10月に 蘇我馬子により暗殺された。

588年(崇峻天皇元年) 蘇我馬子 飛鳥寺 建立

飛鳥寺奈良県高市郡明日香村飛鳥にある 真言宗豊山派の寺院。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。 開基(創立者)は蘇我馬子

592年 (崇峻天皇5年) 推古天皇 即位

推古天皇

欽明天皇の皇女。

崇峻天皇の異母姉。

先帝 崇峻天皇

蘇我馬子 により殺害され

群臣の推戴を受け 即位した

593年 (推古天皇元年) 厳島神社 創建

厳島神社広島県廿日市市厳島(宮島)にある神社。

当地方の有力豪族・佐伯鞍職 が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に 市杵島姫命 を祀る社殿を創建したことが始まりとされる。

593年 (推古天皇元年) 聖徳太子 摂政に

聖徳太子

用明天皇 の第二皇子。

推古天皇 は父の妹

概要

叔母の推古天皇の下、 蘇我馬子 と協調して政治を行い、 国際的緊張のなかで 遣隋使 を派遣するなど中国大陸を当時統治していた から進んだ文化や制度をとりいれて、 冠位十二階十七条憲法 を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。
このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった ( 太子信仰 ) 。

600年 (推古天皇8年) 遣隋使 派遣

遣隋使

倭国 が技術や制度を学ぶために に派遣した 朝貢 使。

600年(推古8年)から 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。

600年の派遣の後、 冠位十二階 や、 十七条憲法 など隋風の政治改革が行われた。

朝貢使は 倭の五王による南朝 への奉献以来約1世紀を経て再開された。

ただし、 倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(したがって臣下ではない)外交原則とした。

603年(推古11年) 小墾田宮 遷宮

小墾田宮飛鳥時代の推古朝の宮殿。

推古天皇

豊浦宮 から遷宮した。

603年 (推古天皇11年) 冠位十二階 制定

冠位十二階 は 日本で初めての冠位・位階である。
この制定により人材登用の道が開かれた。
朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるものである。

604年 (推古天皇12年) 十七条憲法 制定

十七条憲法聖徳太子 が制定した全17条からなる日本最初の成文法。

憲法の名を冠しているが、政府と国民の関係を規律する後年の近代憲法とは異なり、その内容は官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強い。
思想的には 儒教を中心とし、仏教法家 の要素も織り交ぜられている。

607年 (推古天皇15年) 遣隋使 派遣

小野妹子 が大唐国に国書を持って派遣された。

国書が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と書き出されていた。 中華思想では天子は1人で、それなのに辺境の地の首長が「 天子 」を名乗ったことに、 煬帝は 立腹した。

小野妹子は、その後返書を持たされて返されている。 煬帝の勅使として 裴世清 が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は 「返書を百済に盗まれて無くしてしまった」と言明している。

607年 (推古天皇15年) 聖徳太子 法隆寺 創建

法隆寺奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある 聖徳宗の総本山の寺院。
本尊は釈迦如来
開基は 推古天皇聖徳太子

607年 (推古天皇15年) 聖徳太子 中宮寺 創建

中宮寺奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北にある 聖徳宗の寺院。
本尊は如意輪観音
開基(創立者)は聖徳太子または 間人皇后 とされる。

法隆寺 に隣接し、聖徳太子が母后のために創建した尼寺である。

608年 (推古天皇16年) 裴世清 来日

裴世清 は 中国隋・唐代の官吏。

607年に 倭国遣隋使 を派遣した。

煬帝裴世清を 答礼使としてに倭国が派遣した。

629年 (舒明天皇元年) 舒明天皇 即位

舒明天皇

敏達天皇 の皇子 押坂彦人大兄皇子 の皇子。(田村皇子)

先帝推古天皇崩御した時 継嗣を定めていなかった。

蘇我蝦夷 は群臣に諮って その意見が 田村皇子山背大兄王 に分かれていることを知り 田村皇子 を立てて天皇にした。(舒明天皇)

630年 (舒明天皇2年) 遣唐使 派遣

遣唐使 は 日本が に派遣した使節である。

中国大陸では 618年に が滅び が建ったので、 日本は 遣隋使 に代わり 「遣唐使」を派遣した。

630年 に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、「遣唐使」を派遣した。

最初の「遣唐使」は 630年に 犬上御田鍬 を派遣した。

639年 舒明天皇 大安寺 創建

大安寺奈良県奈良市大安寺二丁目にある 高野山真言宗 の寺院。

本尊は十一面観音。
開基は舒明天皇と伝える。
南都七大寺 の1つ。

日本書紀 によれば 病床の 聖徳太子 を田村皇子(後の舒明天皇)が見舞った際に、皇子に「熊凝精舎」を大寺として造営してほしいと告げた、という。

642年 (皇極天皇元年) 皇極天皇

皇極天皇

押坂彦人大兄皇子 の王子 茅渟王 の第一王女。

舒明天皇 の皇后。

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、 皇極天皇 として即位した。

在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、 その子・蘇我入鹿 が自ら国政を執った。

643年(皇極天皇2年) 板蓋宮 遷都

板蓋宮皇極天皇 が営んだ皇居。

642年 9月に、 皇極天皇は 大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。
これにより完成したのが 板蓋宮 である。 643年 4月に、 遷る。

645年 (皇極天皇4年) 乙巳の変

乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足 らが 蘇我入鹿を宮中にて暗殺して 蘇我氏 を滅ぼした政変。

蘇我氏全盛の時代

622年4月、摂政・聖徳太子薨去した。
聖徳太子の死により大豪族である蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は皇室を凌ぐほどになった

626年6月、蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷 がかわって大臣となった。

641年11月1、舒明天皇崩御し、皇后であった宝皇女が即位した( 皇極天皇 )。
蘇我氏の勢力は更に甚だしくなった。

644年には、 蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べ立て、これを「上の宮門、」「谷の宮門」と称し、入鹿の子供を「王子」と呼ばせた。

上宮王家の滅亡

643年12月、蘇我氏の血をひく 古人大兄皇子皇極天皇 の次期天皇に擁立しようと望んだ入鹿は、巨勢徳多土師娑婆連 の軍勢をさしむけ、山背大兄王 の住む 斑鳩宮を攻めさせた。 山背大兄王は 王子と共に自殺。
このことによって 聖徳太子 の血を引く上宮王家は滅亡した。

蘇我入鹿暗殺

神祇を職とする一族の中臣鎌足 は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた 法興寺 の打毬で、中大兄皇子 の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。
これが縁となって2人は親しむようになった。
中大兄皇子鎌足南淵請安 の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。

645年、三韓新羅百済高句麗)から 進貢(三国の調)の使者が来日した。 6月、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。
中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。
海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ 佐伯子麻呂葛城稚犬養網田 に与えた。
入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖のあまりに、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだったた。

中大兄皇子は 子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。
子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。

蘇我本宗家の滅亡と大化の改新

古人大兄皇子 は私宮へ逃げ帰り、 飛鳥寺で出家した。

翌6月13日、蘇我蝦夷 は舘に火を放ち自殺した こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。

翌6月14日、皇極天皇軽皇子へ譲位した。
孝徳天皇 である。
中大兄皇子は皇太子に立てられた。
中大兄皇子阿倍内麻呂左大臣蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、 後に 大化の改新 と呼ばれる改革を断行する。

645年 (皇極天皇4年) 7月 孝徳天皇 即位

孝徳天皇

敏達天皇 の孫で、押坂彦人大兄皇子 の王子、茅渟王 の長男。(軽皇子)

皇極天皇 の同母弟。

乙巳の変の後、

皇極天皇 から譲位を受け、軽皇子 が即位した。(孝徳天皇)

645年 (皇極天皇4年) 12月 難波長柄豊碕宮 遷都

難波長柄豊碕宮摂津国難波にあった飛鳥時代の宮。

乙巳の変 の後、 中大兄皇子らによって企画され、652年に完成し、 孝徳天皇 が遷都した。

646年 (大化2年) 大化の改新

大化の改新乙巳の変 に始まる一連の国政改革。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。 中大兄皇子中臣鎌足 は、退位した皇極天皇に代わり、弟の軽皇子を即位させた( 孝徳天皇 )。 新たな時代の始まりとして日本で初めての 元号大化 」を定めたとされる。

概要

大化の改新 は、乙巳の変により始まった。
同年 (大化元年) に、 初となる 元号 大化 の使用、 男女の法 の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師 の任命、国博士 および内臣左大臣右大臣 の新設、私地私民の売買の禁止。'
仁徳天皇が皇居を置いていた難波高津宮の跡地周辺に 難波長柄豊碕宮が造られた。 飛鳥から難波に遷都の決定など様々な改革が進められた。 翌 646年 正月には、 新政権の方針を大きく4か条にまとめた 改新の詔も発布された。

645年 (大化元年) 男女の法 制定

男女の法 は 大化元年(645年)に定められた法令。 良人と奴婢の間の子は奴婢とし、主人が異なる奴婢の間の子は母(婢)の主人に属するとされた。

後に「良賤法」となる。

645年 (大化元年) 改新の詔 発布

改新の詔大化の改新 において、新たな施政方針を示すために発せられた詔。

概要

大化元年(645年)の 乙巳の変 により 新たに即位した 孝徳天皇は、翌大化2年(646年)正月1日に政治の方針を示した。
豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の 中央集権国家 を目指すものであった。

日本書紀 』編纂に際し書き替えられたことが明白となり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明している。

646年 (大化2年)(646年)遣新羅使

遣新羅使 は 日本が 新羅に派遣した使節である。

特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。
779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。

646年に

高向玄理遣新羅使 として 新羅に赴き、新羅から 任那 への 調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめた。

翌647年に

新羅王子・金春秋 を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった。

647年 (大化3年) 七色十三階冠 制定

七色十三階冠 は 従来の 12階 を6または7階に統合し、新たに上に6階を設けた。

冠位の名称は冠の材質と色をもとにしたものとなり、これを各大小2つに分け、最下位に建武を加えた。

649年 (大化5年) 冠位十九階 制定

冠位十九階 は 以前の 七色十三階冠 を改正した 位階

十九階 の制定は、冠位十二階が七色十三階冠に改まってからわずか2年後のことである。 2年おきの改正があったとみられる。

653年 (白雉4年) 第二次 遣唐使 派遣

吉士長丹 らを唐へ派遣。

654年 (白雉5年) 第三次 遣唐使 派遣

高向 玄理 らを唐へ派遣。

655年 (斉明天皇元年) 皇極天皇 重祚

皇極天皇

茅渟王 の第一王女。

舒明天皇 の皇后。

舒明天皇の後 皇極天皇として即位した。

乙巳の変 にて 同母弟の軽皇子に大王位を譲った。( 孝徳天皇 )

孝徳天皇崩御後 再び皇位に即いて 「斉明天皇」 となる。

655年 (斉明天皇元年) 飛鳥川原宮 遷都

川原宮斉明天皇 が営んだ宮。

板蓋宮 が火災に遭ったため、斉明天皇は川原宮へ遷った。

663年 (天智天皇2年) 白村江の戦い

白村江の戦い

朝鮮半島 の白村江(現在の錦江 河口付近)で行われた 百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と 新羅 連合軍との間の戦争のことである。

唐・新羅 連合軍が勝利し

日本・百済遺民 連合軍は大敗し

百済復興勢力は崩壊した。

白村江に集結した倭船のうち400隻余りが炎上した。

九州の豪族である筑紫君 薩夜麻土師富杼氷老大伴部博麻 が唐軍に捕らえられて、 8年間も捕虜として唐に抑留された。

664年 (天智天皇3年) 3月 冠位二十六階 制定

冠位二十六階

以前の 冠位十 九階 を改正した冠位制度である。

664年 (天智天皇3年) 6月 郭務悰 来日

郭 務悰 は 中国唐代の官吏。

白村江の戦い の後に 日唐関係修復交渉のため 倭国(日本)を訪問した。

664年 (天智天皇3年) 10月 防人 設置

防人律令制度下で行われた軍事制度である。

白村江の戦い の後に

唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から 九州沿岸の防衛が強化された。

対馬壱岐筑紫防人 を設置し、
筑紫の 大宰府水城 を築いた。

667年 (天智天皇6年) 近江大津宮 遷都

近江大津宮
天智天皇近江国滋賀郡に営んだ都。

飛鳥 から遷都した。

背景

斉明天皇6年(660年)、百済新羅と唐に攻められて亡んだ。
倭国 にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。
しかし、天智天皇2年(663年)の 白村江の戦い において倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。

百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。
そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の 大宰府 には 水城 という防衛施設を設置して、防備を固めた。

遷都

このような状況下で、天智天皇6年(667年)3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。
その翌年(668年)1月、称制 実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
日本で最初の律令法典となる 近江令 が制定されたともいわれる。

遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。

廃絶とその後

天智天皇10年(671年)、天皇崩御すると、子の 大友皇子 が近江朝廷の首班となった。

生前の天智天皇から皇太子に指名されていた 大海人皇子 は近江朝廷に反旗を翻し、 天武天皇元年(672年)6月に吉野から東国へ脱出。
美濃国を拠点に軍兵を徴発して近江へ進軍し、 同年7月、近江朝廷軍を破って大友皇子を自殺に追い込んだ( 壬申の乱 )。
勝利した大海人は即位して飛鳥に 浄御原宮 を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となった。

667年 (天智天皇6年) 高安城 築城

安城奈良県生駒郡平群町大阪府八尾市にまたがる、高安山 の山頂部にあったとされる日本の古代山城。

概要

白村江の戦い で唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、倭の防衛のため、対馬畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。
安城 は、667年、金田城・屋嶋城とともに築かれた。
安城 は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった。

667年 (天智天皇6年) 金田城 築城

金田城長崎県対馬市美津島町黒瀬(対馬国下県郡)にあった日本の古代山城。

概要

667年に築城された朝鮮式山城 で、西日本各地に築城された一連の古代山城のうちでは朝鮮半島への最前線に位置する。

668年 (天智天皇7年) 天智天皇 即位

天智天皇

舒明天皇の第二皇子。 母は 斉明天皇

乙巳の変にて 皇太子となる。(中大兄皇子)

661年8月に 母で先帝の 斉明天皇崩御し、 皇太子のまま 称制 した。

668年2月に 即位した。(天智天皇)

668年 (天智天皇7年) 近江令 制定

近江令 は 日本の飛鳥時代天智天皇 の治世 )に制定されたとされる法令体系。 全22巻。 古代日本政府による最初の律令法典に位置づけられる。

669年 (天智天皇8年) 遣唐使 派遣

河内鯨 ら任ずる。

669年 (天智天皇8年) 唐使 郭務悰 来日

郭 務悰 は 中国唐代の官吏。

白村江の戦い 後に日唐関係修復交渉のため、倭国(日本)を訪問する。

669年 (天智天皇8年) 藤原不比等 興福寺 創建

興福寺奈良県奈良市登大路町にある 法相宗大本山の寺院。

本尊は中金堂の釈迦如来
開祖は藤原不比等南都七大寺の一つ。

670年 (天智天皇9年) 庚午年籍

庚午年籍

670年(庚午の年)につくられた 戸籍 である。

畿内はもちろん、西は九州から東は常陸、上野まで造籍の実施された。

671年 (天智天皇10年) 漏刻台 完成

漏刻台水時計の一種。

天智天皇 が「水時計」を作らせ、時報 を始めたと伝えられている。
サイフォンの原理を利用して 階段状の水槽に水を滴り落とさせる構造から「 漏刻 」と名付けられている。

672年(弘文天皇元年) 弘文天皇 即位

弘文天皇
天智天皇の第一皇子。

天智天皇崩御により即位。

672年(弘文天皇元年) 壬申の乱

672年 ( 壬申 の年 ) に起こった 古代日本最大の内乱である。

天智天皇崩御後、

天智天皇の太子・大友皇子 に対し、天智天皇の弟・大海人皇子 が兵を挙げて勃発した。

反乱者である大海人皇子が勝利し、

天武天皇 となる。

673年 (天武天皇2年) 天武天皇 即位

天武天皇

舒明天皇皇極天皇舒明天皇の皇后)の皇子。

天智天皇 は兄。

天智天皇崩御後、 672年の 壬申の乱にて 大友皇子 を倒し その翌年に即位した。

673年 (天武天皇2年) 飛鳥浄御原宮 遷都

飛鳥浄御原宮

天武天皇

持統天皇 の2代が営んだ宮。

近江大津宮 から遷る。

675年 (天武天皇4年) 遣新羅使 派遣

大伴国麻呂 らを派遣。

680年 (天武天皇9年) 天武天皇 薬師寺 創建

薬師寺奈良県奈良市西ノ京町にある 法相宗大本山の仏教寺院。

本尊は薬師三尊。(国宝) 開基は天武天皇南都七大寺 の一つ。

681年 (天武天皇10年) 飛鳥浄御原令 編纂開始

飛鳥浄御原令 は 日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。
令22巻。
律令のうち令のみが制定・施行されたものである。
日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。

690年 (持統天皇4年) 持統天皇

持統天皇

天智天皇 の皇女。 (鸕野讃良皇女)

天武天皇 の皇后。

草壁皇子 の母。

686年に 天武天皇崩御

689年に 皇太子 草壁皇子 が病気により薨去

草壁皇子の子 軽皇子は 幼く、

鸕野讃良 は 自ら天皇に即位することにした。(持統天皇)

690年 (持統天皇4年) 庚寅年籍

庚寅年籍 は 690年( 庚寅の年 ) に 戸令 に基づいて作成された全国的な 戸籍

人民を地域により編成するという作業はほぼ完了し、 692年には、 庚寅年籍 に基づく 口分田 の班給が 畿内で開始された。

694年 (持統天皇8年) 藤原京 遷都

藤原京
飛鳥京の西北部、奈良県 橿原市明日香村 にかかる地域にあった飛鳥時代都城

壬申の乱 により即位した 天武天皇 の計画により日本史上で初めて唐風の 条坊制 が用いられた。

697年 (文武天皇元年) 文武天皇 即位

文武天皇

天武天皇 の皇子 草壁皇子 の第一皇子。

持統天皇 は祖母。

祖母・持統天皇が譲位し 即位する。

670年 (天智天皇9年) 法隆寺 全焼

701年 (大宝元年) 大宝律令 制定

大宝律令律令を参考に作成された日本の律令

刑部親王らが撰述した。

706年 (慶雲3年) 慶雲の改革

慶雲の改革* は 飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)以降、文武天皇 統治下の朝廷において行われた律令体制改革をいう。

大宝律令の不備

壬申の乱の 勝利後に史上初の「天皇」として即位し、思い切った国制改革を進めた 天武天皇 が没した後、大后の持統天皇 が即位。
天武の遺志を継ぎ、日本初の本格的都城である 藤原京の建設を進めたほか、飛鳥浄御原令 の制定など、唐を参考にした律令の整備・国史編纂事業などを継続した。

その持統天皇の譲位を受けて即位した孫の文武天皇の時期には、天武・持統以来の改革の集大成となる律令の制定が急がれ、 大宝元年(701年)に 大宝律令 の完成という形で結実した。
しかし律令編纂には入唐経験のある 伊吉博徳 や、唐から帰化した薩弘恪 などが加わってはいたものの、作成を主導した 刑部親王藤原不比等 らは唐律令の実態に精通していた訳ではなく、やや理想的な傾向を残すものでもあった。
その結果、施行してみて初めて分かった矛盾・不備なども認識されるようになる。 大宝3年(703年)持統太上天皇崩御すると、実際に施行されはじめた律令と、現実的運用とのギャップから、細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになる。

遣唐使の帰還

大宝元年、大宝令の編纂にも携わった 粟田真人 が遣唐大使に任命され、文武天皇から節刀を授けられた。 翌年に筑紫を発し、唐に漂着した。
彼らが都・長安で見た実際の都城律令制の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものであった。
たとえば藤原京では大極殿を含む宮(藤原宮)を都城の中央に配置していたが、長安城をはじめとする中国の都城では太極宮を含む皇城は、都城の北端中央にあるのが通例であった。
律令の運用形態も日本とは異なり、律令の不備を行う格式なども制定されていた。
大きな衝撃を受けて慶雲元年に帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城律令制の差異を報告し、文武朝の改革に生かされていく。

改革の詳細

慶雲2年(705年)4月、大納言の定員を2人削減するとともに、大宝令制定に伴い廃止されていた中納言が朝廷の議政官として復活し(令外の官 の始まり )、高向麻呂粟田真人阿倍宿奈麻呂 を任命した。
また大宝令で停廃されていた采女肩巾田(うねめのひれだ。采女の経費を充当するために出身地に置かれた田)を復活した。

707年 (慶雲4年) 元明天皇 即位

元明天皇

天智天皇の第四皇女子。

文武天皇 の母。

子の文武天皇 が25歳で崩御

孫の首皇子 ( 後の聖武天皇 )はまだ幼かったため、 初めて皇后を経ないで即位した。

708年 (和銅元年) 和同開珎 鋳造

和同開珎
日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。

日本で最初の流通貨幣と言われる。
皇朝十二銭の1番目にあたる。

710年 (和銅3年) 平城京 遷都

平城京奈良盆地 (現在の奈良県奈良市大和郡山市) にあった 奈良時代の日本の首都。

唐の都 長安 を模倣して大和国に建造された都城

710年に

元明天皇藤原京から遷都。

奈良時代の出来事

奈良時代の出来事を年表にまとめた。

奈良時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 飛鳥時代

後は 平安時代

関連記事

参考

奈良時代の概要

710年に

元明天皇 によって 平城京 に遷都してから

794年に

桓武天皇 によって 平安京に都が遷されるまで

約84年間。

狭義では 終期を

784年に

桓武天皇によって 長岡京 に都が遷されるまでとする。

元明天皇 により平城京聖武天皇難波宮 に都が置かれた時代。

日本仏教 による 鎮護国家を目指して 天平文化が花開いた時期。

特徴

平城京遷都には 藤原不比等が重要な役割を果たした。
平城京は、中国の都 長安 を模した都を造営したとされる。
政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。

平城京への遷都に先立って撰定・施行された 大宝律令 が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、 律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。
また、天平文化 が華開いた時代でもあった。

律令国家の完成とその転換

奈良時代の前半は、刑部親王らが撰述し、701年(大宝元年)に完成・施行された大宝律令が、基本法であった。

718年(養老2年)藤原不比等らに命じて、 養老律令を新たに撰定した。
字句の修正などが主であり、根本は大宝律令を基本としていたが、その施行は遅れ、757年(天平宝字9年)、藤原仲麻呂 主導においてであった。

律令制下の天皇権力

律令制下の天皇には、以下のような権力があった。

貴族や官人の官職及び位階を改廃する権限、令外官(りょうげのかん)の設置権、官人の叙位および任用権限、五衛府(ごえふ)や軍団兵士に対するすべての指揮命令権、罪刑法定主義を原則とする律の刑罰に対して勅断権と大赦権、外国の使者や外国へ派遣する使者に対する詔勅の使用などの外交権、皇位継承の決定権などである。

中央官制、税制と地方行政組織

大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。
中央官制は、二官八省弾正台五衛府から構成されていた。
地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。
さらに 道制 として、畿内東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道の七道に区分された。

農地拡大政策と律令国

律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。
いっぽう、日本の律令に規定された班田収受法には、開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった。
そのため、長屋王 を中心とする朝廷は722年(養老6年)に 良田百万町歩開墾計画 を立て、計画遂行を期して723年(養老7年)には田地開墾を促進する 三世一身法 を施行した。

平城京の造営と和同開珎

元明天皇 即位の翌年にあたる708年(慶雲5年)正月、武蔵国が自然銅を献上したのを機に和銅改元され、翌2月には、貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。

平城遷都と橘賜姓

藤原京 は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮 のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点もあった。
30数年ぶりに帰国した遣唐使粟田真人 が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、 藤原京長安 との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる。

この年(和銅元年)、遷都を主導した 藤原不比等 は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代 は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。

和同開珎と蓄銭叙位令

都城の造営は短期間にすすめられたが、貨幣の鋳造のスピードもはやかった。
708年2月に催鋳銭司がおかれ、同年5月にははやくも 和同開珎 の銀銭、同じく8月には銅銭が発行されている。

大和朝廷はその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする 蓄銭叙位令 を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。

奈良時代の文化

政府は、学生や僧を唐へ留学させ、さまざまな文物を取り入れた。
また、朝鮮半島との交流も盛んであった。
これらの交易物などは、正倉院 宝物でも、その一端をうかがい知ることができる。

奈良時代の小区分

政治的に、3つに分けられる。

前期

710年の 平城京 遷都から

729年の 長屋王の変 まで

中期

藤原四兄弟 の専権から

764年の 藤原仲麻呂の乱 まで

後期

称徳天皇 および 道鏡 の執政以降

奈良時代の出来事

前史

701年 (大宝元年) 大宝律令 制定

大宝律令 は日本の律令

律令を参考にした。

刑部親王らが撰述した。

707年 (慶雲4年) 元明天皇 即位

元明天皇

天智天皇の第四皇女子。

文武天皇 の母。

子の文武天皇 が25歳で崩御

孫の首皇子 ( 後の聖武天皇 )はまだ幼かったため、 初めて皇后を経ないで即位した。

708年 (和銅元年) 和同開珎 鋳造

和同開珎
日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。
日本で最初の流通貨幣と言われる。
皇朝十二銭の1番目にあたる。

708年 (和銅元年) 私鋳銭禁止令

私鋳銭 とは 政府が作った公の銭ではなく、私的に偽造された銭のこと。

役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。

奈良時代 前期

710年 (和銅3年) 平城京 遷都

平城京 は、 奈良時代の日本の首都。

唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城

現在の奈良県奈良市大和郡山市に存在する。

710年に

元明天皇藤原京から 平城京 へ遷都。

711年 (和銅4年) 蓄銭叙位令

銭の流通を促進するためと、政府への還流を計って施行された法令。 一定量の銭を蓄えた者に 位階を与えるよう定められた令。

712年 (和銅5年) 古事記 完成

古事記 は 日本の日本神話を含む歴史書

内容は天地のはじまりから 推古天皇 の記事である。

712年 (和銅5年) 出羽国 設置

出羽国は かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。

現在の山形県秋田県。上国。

大和朝廷蝦夷 の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。

712年に 出羽郡出羽国 に昇格。

713年 (和銅6年) 大隅国 設置

大隅国 は かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。

薩摩と並んで 隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地。

713年 (和銅6年) 風土記 編纂

風土記 は 地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。

律令制度の各国別で記された。

715年 (霊亀元年) 元正天皇 即位

元正天皇

天武天皇 の皇太子であった 草壁皇子 の長女。

母は 元明天皇

母の元明天皇から譲位を受け即位。

716年 (霊亀2年) 第8次 遣唐使 派遣

遣唐執節使 粟田真人

718年 (養老2年) 養老律令 制定

養老律令 は 古代日本で 施行された基本法令。

大宝律令 に続く律令として施行され、 古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。

藤原不比等らに命じて撰定した。

720年 (養老4年) 日本書紀 完成

日本書紀奈良時代に成立した日本の歴史書

天地開闢から始まる神代から 持統天皇 代までを扱う編年体の歴史書である。

720年 (養老4年) 隼人の反乱

隼人大隅陽侯史麻呂 を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。

大和朝廷大伴旅人 を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。

722年 (養老6年) 良田百万町歩開墾計画

大和朝廷が掲げた計画である。
百万町歩という数字はほぼ不可能であり、ただの理想、スローガンであるともされている。

723年 (養老7年) 三世一身法 発布

墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。

724年 (神亀元年) 聖武天皇 即位

聖武天皇

文武天皇 の第一皇子。

元正天皇 は父の姉。

元正天皇より皇位を譲られて即位。

724年 (神亀元年) 2月 辛巳事件

聖武天皇 が生母の藤原宮子 に対して勅によって与えられた称号が 左大臣 長屋王議政官の上奏によって撤回された事件。

724年 (神亀元年) 多賀城 築城

多賀城 は 現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代 城柵

奈良平城京律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。

平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。

727年 (神亀4年) 渤海使 来日

渤海使渤海より日本を訪問した使節である。

渤海靺鞨族大祚栄により建国された 現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。

渤海大武芸 の時代になると 新羅 と外交的に対立するようになる。

国際的孤立に陥りそうになった渤海が、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。

729年 (神亀6年) 長屋王の変

藤原氏 による 皇親の大官である 長屋王 の 排斥事件。

辛巳事件 により 長屋王聖武天皇 および藤原氏から好ましくない人物とみられる。

729年 (神亀6年)に

左京の人で従七位下の漆部造君足と 中臣宮処連東人 が 「左大臣で正二位の長屋王がひそかに左道を学んで国家を傾けようとしています」と密告した。

朝廷はその夜のうちに、式部卿従三位 藤原朝臣宇合 らを遣わして、六衛府の兵を率いて、平城京左京三条二坊の長屋王の宅を取り囲んだ。

翌日、右中弁 小野朝臣牛養 らを長屋王宅に派遣し、王の罪を糾問した。

その次の日、王は自殺した。

この変は 藤原四兄弟 が協力して主導したされる。

奈良時代 中期

735年 (天平7年) 天平の疫病大流行

740年 (天平12年) 藤原広嗣の乱

藤原広嗣が政権への不満から九州の 大宰府 で挙兵したが、官軍によって鎮圧された事件。

740年 (天平12年) 恭仁京 遷都。

恭仁京奈良時代都城の1つ。

山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。

大極殿平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。

条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。

聖武天皇 の勅命により

平城京 から遷都された。

740年 (天平12年) 五月一日経

五月一日経

光明皇后 が父 藤原不比等、母 県犬養橘三千代 の菩提供養のために発願した一切経のことである。

741年 (天平13年) 国分寺建立の詔

国分寺

聖武天皇 が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。

総本山は 大和国東大寺

日本各地に 国分寺 という地名が残る。

東京都 国分寺市 もその一つ。

743年 (天平15年) 墾田永年私財法 発布

墾田(自分で新しく開墾した田地)の耕作権の永年私財化を認める法令である。

743年 (天平15年) 大仏造立の詔

奈良の大仏

聖武天皇 の発願で制作された。

744年 (天平16年) 難波宮 遷都

難波宮

難波 (現在の大阪市) 法円坂 周辺に造られた古代の宮殿。

天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。

745年 (天平17年) 紫香楽宮 遷都

紫香楽宮

聖武天皇近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮

749年 (天平勝宝元年) 孝謙天皇 即位

聖武天皇の皇女。

母は 光明皇后

父・聖武天皇の譲位により即位した。

治世の前期は皇太后光明皇后)が後見し 皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。

太上天皇時代

天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王淳仁天皇 )に譲位し、太上天皇となる。

天平宝字4年(760年)7月16日に 光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。
同年8月に 孝謙上皇淳仁天皇らは 小治田宮に移り、 天平宝字5年(761年)には 保良宮 に移った。

ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧 道鏡 を寵愛するようになった。

750年 (天平勝宝2年) 第12次 遣唐使 派遣

大使に 藤原清河

751年 (天平勝宝3年) 懐風藻

懐風藻 は、現存する最古の日本漢詩集。

753年 (天平勝宝5年) 鑑真 来日

鑑真 は 唐代の僧人。

日本における 律宗 の開祖。

757年 (天平勝宝9年) 橘奈良麻呂の変

橘奈良麻呂藤原仲麻呂 を滅ぼそうとし 天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった事件。

事件前史

橘奈良麻呂の父の左大臣 橘諸兄 は、聖武天皇 の治世に政権を担当していた。

743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂佐伯全成 に対し 小野東人らと謀り、次期天皇長屋王の子 黄文王 を擁立する旨の計画を漏らす。

749年(天平21年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王孝謙天皇 ) が即位すると、天皇の母の 光明皇太后 に信任されていた藤原仲麻呂が 皇太后のために新設された 紫微中台 の長官(紫微令)に任命される。

仲麻呂孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。

同年3月、皇太子 道祖王孝謙天皇の不興を受けて廃された。

4月に入ると、天皇は群臣を集めて次の皇太子について意見を述べさせた。

天皇は、大炊王淳仁天皇 )を立太子することを宣言した。

大炊王仲麻呂が後ろ盾となっており庇護していた人物であった。

陰謀の計画と発覚

仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。

翌29日(7月23日)に太政官院(太政官の庁舎)の庭に橘奈良麻呂大伴古麻呂小野東人黄文王安宿王 ら20名ほどが集まり、 7月2日(7月26日)の宵に挙兵することを誓約した。

その日の夕方、中衛府の舎人 上道斐太都 から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。

翌7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成中納言藤原永手 らが小野東人を訊問。

東人は無実を主張した。

同日、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節 らを拷問にかけた 。

東人らは一転して謀反を自白した。

その内容は、橘奈良麻呂大伴古麻呂安宿王黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王道祖王安宿王黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分

東人の供述により、7月4日(7月28日)に 奈良麻呂を始め、道祖王黄文王大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。

訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した 。

この後すぐに獄に移され、杖で全身を打つ拷問が行われた。

道祖王黄文王、古麻呂、東人、犢養、角足は 過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。

首謀者である 奈良麻呂は 同じく拷問死した。

安宿王佐渡島に配流され、 塩焼王は 直接関与した証拠がなかったために不問とされた。

他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。

758年 (天平宝字2年) 淳仁天皇

天武天皇 の皇子 舎人親王 の七男。(大炊王)

756年に
聖武天皇の遺言によって 新田部親王の子の 道祖王立太子したが、

757年4月4月22日 に
孝謙天皇によって道祖王は廃され、

4日後の同年4月26日に
光明皇后 を後ろ盾にもつ 藤原仲麻呂の強い推挙により 大炊王立太子した。

(758年に
孝謙天皇 から譲位を受け践祚した。

践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、専横が目立つようになる。

760年に

光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。

759年 (天平宝字3年) 鑑真 唐招提寺 創建

唐招提寺奈良県奈良市五条町にある 律宗の総本山の寺院。

本尊は盧舎那仏

開基(創立者)は唐出身の僧 鑑真。

759年 (天平宝字3年) 万葉集

万葉集 は 日本に現存する最古の和歌集。

万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている (万葉仮名を含む)。

764年 (天平宝字8年) 藤原仲麻呂の乱

孝謙太上天皇道鏡と対立した太師(太政大臣藤原仲麻呂 が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件。

背景

藤原仲麻呂は、叔母の 光明皇后の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。

孝謙上皇道鏡 を側に置いて寵愛するようになり、仲麻呂淳仁天皇 を通じて、孝謙道鏡との関係を諌めさせたが、孝謙の怒りを買った。

反乱計画

焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙道鏡に対抗しようとし、 天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。
諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂 に命令の発令を指示した。
押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。
9月5日には、仲麻呂船親王 と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。
また 池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。
親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。

戦乱

9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙少納言 山村王淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印を回収させた。
これを知った押勝は子息 訓儒麻 に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。
孝謙はただちに授刀少尉 坂上苅田麻呂 と授刀将曹 牡鹿嶋足 を派遣して、訓儒麻呂を射殺した。

押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人 紀船守 に射殺された。

孝謙は勅して、押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。

9月18日、討賊将軍に任ぜられた備前守 藤原蔵下麻呂 が増援に加わった討伐軍によって、海陸から激しく攻められた仲麻呂軍は、ついに敗れた。

乱後

仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁天皇は廃位され淡路国に流された。
代わって孝謙重祚する( 称徳天皇 )。
以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。

奈良時代 後期

764年 (天平宝字8年) 孝謙天皇 重祚

藤原仲麻呂の乱 により

孝謙天皇

淳仁天皇 を廃位し

自らが復位し 「称徳天皇」となる。

弓削道鏡孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。

復位した称徳天皇のもとで 道鏡はその片腕となり

765年 (天平神護元年) に 僧籍のまま「太政大臣」となり

766年 (天平神護2年) に「法王」となる。

765年 (天平神護元年) 孝謙上皇 西大寺 創建

西大寺奈良県奈良市西大寺芝町にある 真言律宗の総本山の寺院。

本尊は釈迦如来
開基は 孝謙上皇南都七大寺の1つ。

769年 (神護景雲3年) 宇佐八幡信託事件

宇佐八幡宮 より

称徳天皇 ( 孝謙天皇重祚 )に対して「道鏡皇位に就くべし」との神託を受けて

弓削道鏡天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。

同年11月 に

称徳天皇 が詔を発し

道鏡には皇位は継がせない」と宣言したため、事件の決着がついた。

770年 (宝亀元年) に

称徳天皇崩御すると 道鏡下野国薬師寺へ左遷(配流)された。

770年 (神護景雲4年) 光仁天皇

光仁天皇

天智天皇の第7皇子 志貴皇子 の第6皇子。( 白壁王 )

称徳天皇崩御

62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。

774年 (宝亀5年) 桃生城襲撃事件

古代日本の律令国家(朝廷)が陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵である 桃生城 を、反乱を起こした 海道 蝦夷 が襲撃した事件。

いわゆる 三十八年騒乱 の発端となった。

780年 (宝亀11年) 宝亀の乱

現在の宮城県にあたる陸奥国にて

古代日本の律令国家(朝廷、中央政権)に対し

上治郡の蝦夷の族長であった 伊治呰麻呂 が起こした反乱。

概要

政府側に帰服して上治郡の大領に任じられていた「蝦夷」である伊治公呰麻呂が、覚鱉城 造営に着手するために 伊治城(現在の宮城県栗原市にあった城柵)に駐留することとなった陸奥按察使 紀広純 およびそれに付き従っていた陸奥大伴真綱牡鹿郡大領であった 道嶋大楯らを襲撃。
紀広純、道嶋大楯の殺害に至ったのち、呰麻呂に呼応して反乱した軍勢が陸奥国府であった 多賀城 を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くしたものである。

陸奥国出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害され、多賀城が失陥したことにより、政府による東北地方の経営は大打撃を被った。

ただちに 征東大使、出羽 鎮狄将軍を派遣して軍事的な鎮圧に当たらしめたが、陸奥国の動乱はより深まっていき、 首謀者であった呰麻呂は捕らえられることはなかった。

781年 (天応元年) 桓武天皇 即位

光仁天皇の第一皇子。

光仁天皇から譲位されて即位。

782年 (延暦元年) 氷上川継の乱

天武天皇 の曾孫の 氷上川継 が謀反を計画し、事前に発覚して失敗した事件。

川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇 の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされた。

784年 (延暦3年) 長岡京 遷都

長岡京
山城国乙訓郡にあった 都城(現在の京都府長岡京市)。

桓武天皇 により 平城京 から遷都された。

平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。

長岡京 の近くには 桂川宇治川 など、3本の大きな川が 淀川となる合流点があった。

全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。

そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。

794年 (延暦13年) 平安京 遷都

平安京

日本における 古代 最後の 宮都

桓武天皇 により、長岡京に代わる都として山背国(山城国愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の 長安城を模して建設された。

794年(延暦13年) に 長岡京より遷都。

以降、1869年 (明治2年) まで 日本の首都。

安土桃山時代の出来事

安土桃山時代の出来事を年表にまとめた。

安土桃山時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 江戸時代

関連記事

安土桃山時代の概要

1573年に

織田信長 により

室町幕府 15代将軍 足利義昭 が京都から放逐されて

室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれてから

1603年に

徳川家康征夷大将軍に任じられ 江戸幕府 を開くまで

約30年間。

始期は、

織田信長足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、

義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、

安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。

終期は、

豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、

関ヶ原の戦い徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、

家康が伏見城征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。

織田信長

豊臣秀吉 が中央政権を握っていた時代である。

織田信長による政権の確立

織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が天皇室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。

兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。

楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市 の支配や 撰銭令 などの経済政策が実施された。

元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。
信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな 南蛮文化 が花開いた。

豊臣秀吉による天下統一

本能寺の変 を知った 羽柴秀吉 は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である 明智光秀を破った。

これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。

天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本国内の統一を達成した。

農民一揆を防止するため 刀狩令 を出した。

京都 方広寺 の大仏作りを口実とした 全国各地で 太閤検地 を行い 石高 制度を導入し、度量衝が統一された。

荘園制 は完全に解体し在地 土豪 の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。

秀吉は1592年(文禄元年)に 人掃令 を出して全国的な戸口調査を実施した。

1591年(天正19年)に 身分統制令 を出して 兵農分離 が推進された。

鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人 との交流が開始された。

カステラ など南蛮料理が食べられるようにになり、タバコ南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。

豊臣時代の終結

豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政前田玄以石田三成増田長盛長束正家の5人による 五奉行 制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派と加藤清正福島正則などの武断派に分裂して 五大老の筆頭である 徳川家康伏見城で実力者としての頭角を現した。

朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。

これに対し 石田三成 を中心とした反家康勢力が 慶長5年(1600年)に全国を二分する 関ヶ原の戦い が勃発した。

これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。

これにより安土桃山時代は終わり、江戸時代 が始まった。

安土桃山時代の文化

美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に 桃山文化「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。

それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。

当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。

安土桃山時代の出来事

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1570年 (元亀元年) 石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 7月槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

1573年 (天正元年) 9月 一乗谷城の戦い

一乗谷城 ( 福井県福井市城戸ノ内町 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

越前国戦国大名 朝倉義景 の間で行なわれた合戦である。

織田軍が勝利し

朝倉義景は自刃。

1573年 (天正元年) 9月 小谷城の戦い

小谷城 ( 滋賀県長浜市 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

北近江の戦国大名 浅井長政 との間で行なわれた戦いである。

浅井長政

正室お市の方を3人の娘( 浅井三姉妹 )と共に織田軍に引き渡した。

織田軍が勝利し

浅井長政は自害し 浅井氏は滅亡した。

1575年 (天正3年) 長篠の戦い

三河国 長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、

3万8千人の 織田信長

徳川家康 連合軍と、

1万5千人の 武田勝頼 の軍勢が戦った合戦である。

織田・徳川連合軍が勝利し

勝頼は信濃に後退した。

1576年 (天正4年) 織田信長 安土城 築城

1579年 (天正7年) 安土宗論

安土城下の浄厳院で行われた 浄土宗法華宗宗論

織田信長 の斡旋により、

浄土宗の僧 ( 玉念・貞安・洞庫 ) 等と、

法華僧 ( 日珖・日諦・日淵 ) 等の間で行われた。

1580年 (天正8年) 石山合戦 終了

石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1580年 (天正8年) 4月 に

顕如は降伏し 石山本願寺を退去した。

石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。

顕如の退去後に 嫡子で新門跡の 教如 が石山を占拠した。

後に、東本願寺西本願寺に分裂する遠因ともなった。

1581年 (天正9年) 京都御馬揃え

織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。

1582年 (天正10年) 本能寺の変

明智光秀 が謀反を起こし、

京都 本能寺 に滞在する主君 織田信長 を襲撃した事件である。

1582年 (天正10年) 天正遣欧少年使節

キリシタン大名である 大友義鎮大村純忠有馬晴信らの名代として4名の少年を中心とした使節団がローマへ派遣された。

1583年 (天正11年) 賤ヶ岳の戦い

本能寺の変 にて

織田信長 が討たれると、

織田氏 の有力家臣の間で勢力争いとなった。

近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の 賤ヶ岳 付近で起きた

羽柴秀吉柴田勝家の戦いである。

羽柴軍が勝利 し

勝家は自害した。

勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。

1583年 (天正11年) 羽柴秀吉 大坂城 築城

1584年 (天正12年) 小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉 陣営と

織田信雄徳川家康 陣営の間で行われた戦い。

織田・徳川連合軍が勝利し

秀吉は大坂城に戻った。

合戦から半年以上経った11月に

秀吉は信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。

信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は三河に帰国した。

秀吉は美濃・伊賀・伊勢南部における織田信雄の影響力を排除した。

1585年 (天正13年) 羽柴秀吉 関白

1585年 (天正13年) 11月 天正地震

1586年 (天正14年) 羽柴秀吉 豊臣姓 を賜る

正親町天皇 から

羽柴秀吉

豊臣氏 が下賜され、

これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた 藤原の氏豊臣 に改めた。

1586年 (天正14年) 10月 徳川家康 豊臣秀吉 に臣従

1585年 (天正13年) 11月に

徳川家康の側近 石川数正 が 家康の元から出奔し 豊臣秀吉に 臣従した。

1586年 (天正14年) 4月に

秀吉は 臣従要求を拒み続ける家康に対して 実妹 朝日姫正室として差し出し

秀吉と家康は義兄弟となる。

10月 に

秀吉が 生母 大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、

家康は浜松を出立し上洛した。

同年 10月27日に

家康は 大坂城 において 秀吉に謁見し、

諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

1586年 (天正14年) 12月 後陽成天皇 即位

後陽成天皇

正親町天皇 の皇子の 誠仁親王(陽光院太上天皇)の第一皇子。

誠仁親王薨去

皇祖父 正親町天皇が譲位し、後陽成天皇践祚

1587年 (天正15年) バテレン追放令

豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令した

キリスト教 宣教と 南蛮貿易 に関する禁制。

1588年 (天正16年) 刀狩令

武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。

全国単位で 兵農分離 を進めた政策となった。

1588年 (天正16年) 海賊停止令

豊臣秀吉 が出した海賊衆 ( 水軍 ) に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。

1590年 (天正18年) 小田原征伐

主に 小田原城 において

関白 豊臣秀吉 が、

徳川家康 らに命じて

小田原北条氏 を降した戦役。

豊臣軍が勝利し

北条氏は降伏。

当主 北条氏直 は小田原を退去し

前当主である 北条氏政切腹

北条氏の旧領はほぼそのまま 徳川家康 に宛がわれることとなった。

後に

徳川家康江戸城に入り、

徳川譜代の 大久保忠世小田原城主となった。

1591年 (天正19年) 豊臣秀次 関白に

豊臣秀次

豊臣秀吉 の姉である 瑞竜院日秀 の長男。

秀吉の異父弟 豊臣秀長

秀吉の嫡男 鶴松 が相次いで死去したことにより

秀吉の養嗣子となった。

秀吉より 関白の職を譲られ 2代目 武家関白となった。

1591年 (天正19年) 身分統制令

豊臣秀吉が発した3ヶ条の法令。 侍(さむらい)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)ら 武家奉公人 が百姓・町人になること、百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事すること、逃亡した奉公人をほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。

1592年 (文禄元年) 文禄の役

関白 豊臣秀吉

征服をめざして

李氏朝鮮 に侵略した戦争。

日本軍は

小西行長 ら一番隊が 700艘の大小軍船で 釜山 に上陸した。

朝鮮半島を北上し

漢城 を占領したのち

小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間で休戦成立。

秀吉は明降伏という報告を受け、

明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。

1597年 (慶長2年) に

講和交渉決裂によって

慶長の役

1592年(文禄元年) 豊臣秀吉 伏見城 築城

*伏見城 は、

現在の京都市伏見区桃山丘陵 にあった日本の城。

豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。

廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年頃から 桃山 と呼ばれるようになり、 織田・豊臣政権期の時代区分 安土 桃山 時代 や、その時代に花開いた 桃山 文化 などの呼称の元となった。

1592年(文禄元年) 人掃令

関白 豊臣秀次の名で出された朝鮮出兵のための法令。

全国の戸口調査を命じ、一村単位の家数、人数、男女、老若、職業などを明記した書類を作成して提出させたもの。

1595年 (文禄4年) 秀次事件

豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がり 切腹となった事件。

1596年 (文禄5年) サン=フェリペ号事件

日本の土佐国でスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」。

豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である 日本二十六聖人 殉教のきっかけとなった。

1596年 (文禄5年) 9月 慶長伏見地震

1597年 (慶長元年) 日本二十六聖人 殉教

サン=フェリペ号事件 をきっかけに

関白 豊臣秀吉 の命令によって

長崎で26人のカトリック信者が磔の刑に処された。

日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。

1598年 (慶長3年) 豊臣秀吉 死去

死の床にあった秀吉は

嫡子 豊臣秀頼 成人までの政治運営にあたっては、

徳川家康 ら有力大名5人と

石田三成 ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。

五大老五奉行 が制度化された。

1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着

豊後国(現大分県)に オランダ共和国の商船 リーフデ号が漂着した。

生存者の ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス江戸幕府の外交顧問になった。

徳川家康

関ヶ原の戦い にて、

リーフデ号 の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。

1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い

美濃国不破郡関ヶ原岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた

徳川家康 を総大将とし

福島正則黒田長政 らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元 を総大将とし

宇喜多秀家石田三成 らを中心に結成された反徳川の西軍との戦い。

東軍が勝利し

石田三成は斬首、

毛利輝元は減封。

勝者である徳川家康は 強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた 五大老五奉行 体制は崩壊した。

家康の権力掌握は徳川氏を中心とする 江戸幕府の成立に繋がる。

1600年 (慶長5年) 12月 九条兼孝 関白に

九条兼孝

関白 二条晴良 の長男。

秀次事件 により

空位となってた関白に

徳川家康 の奏上により任じられた。

豊臣氏による関白職世襲を止め 旧来の 五摂家 に関白職が戻る。

1603年 (慶長8年) 2月 徳川家康 征夷大将軍

征夷大将軍」の官職を獲得した 徳川家康

独自の政権( 江戸幕府 ) を構築していく。

同年7月に

豊臣秀吉 の遺言に従い

家康の三男・徳川秀忠 の娘である 千姫

豊臣秀頼 と結婚させた。

1604年 (慶長9年) 徳川家康 江戸城 大改修

1603年 (慶長8年)に

徳川家康は 最高権力者の地位を象徴する「征夷大将軍」の官職を獲得した。

徳川家康は 諸大名を動員して江戸城の大改修( 天下普請 )を行わせ、

江戸幕府 を構築していく。

1604年 (慶長9年) 12月 慶長地震

1605年 (慶長9年) 4月 徳川秀忠 2代将軍に

徳川秀忠

徳川家康の三男。

父 家康は 将軍職を譲り、2代将軍となる。

1607年 (慶長11年) 方広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による

方広寺大仏・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、

大坂の陣 の契機の一つとなった事件。

問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、

前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、

後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

1609年 (慶長14年) 琉球侵攻

薩摩藩琉球王国 に対する軍事行動

対する 中山王府 は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった。

琉球王国薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。

1611年(慶長16年)3月 二条城会見

山城国京都 二条城 において、

徳川家康

豊臣秀頼 が行った会見である。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする。

1611年 (慶長16年) 5月後水尾天皇 即位

後水尾天皇

後陽成天皇の第三皇子。

後陽成天皇から譲位され践祚

1611年 (慶長16年) 12月 慶長三陸地震

1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

豊臣方は 浪人衆を全国から集めて

籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

徳川方は 織田有楽斎 を通じて豊臣方との和平交渉を行うが。

和議交渉が暗礁に乗り上げると、本丸への砲撃を行った。

淀殿の侍女8人に命中し、

豊臣方は 和議に応ずる。

和議の条件として、大坂城の堀を埋めた。

1615年 (慶長20年) 大坂夏の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

大坂冬の陣 ののち

豊臣方は 再び 浪人衆を集めた。

徳川方は 約15万の大軍で大坂城を包囲し、

城内に続々と乱入した。

徳川方が勝利 し

豊臣秀頼は自害し 豊臣氏は滅亡した。

家康の孫娘で 豊臣秀頼正室であった 千姫は 事前に脱出した。

1615年 (元和元年) 9月 元和偃武

1615年の 大坂夏の陣 により

江戸幕府大坂城主の豊臣家 を攻め滅ぼしたことにより

応仁の乱 以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。

同年 7月に

江戸幕府は朝廷に元号慶長 から 元和 と改めさせたことで、

天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。

室町時代の出来事

室町時代の出来事を年表にまとめた。

室町時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 安土桃山時代

室町時代の 初期を

南北朝時代

終期を

戦国時代

と細分化することもある。

関連記事

室町時代の概要

1336年に

足利尊氏建武式目を制定して 室町幕府が成立してから

1573年に

織田信長 によって 15代将軍 足利義昭 が京都から追放され、

室町幕府が事実上の滅亡するまで。

約240年間。

歴史

1336年に

後醍醐天皇 と対立した 足利尊氏持明院統北朝)の天皇を擁立し幕府を開いた。

1392年に

3代将軍 足利義満 によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。

将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる 守護大名 がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した。( 室町幕府-守護体制

義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱 以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、

それまでの 幕府 - 守護体制

荘園公領制 が崩壊するとともに、

各地に独立勢力とも言える 戦国大名 が並立するようになる。

室町時代の文化

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化東山文化 と呼ばれることがある。

南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、

8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。

建築・庭園

建築では、義満が北山に建造した 鹿苑寺金閣寝殿造禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。

義政の建てた 慈照寺銀閣禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。

宗教・思想

日本仏教では、禅宗武家層にも広まり、武家の保護を受けた禅の 五山 が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。

都市部では 日蓮宗 が広まり、京都では 日親 が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。

1536年には 日蓮宗比叡山延暦寺と衝突して 天文法華の乱 と呼ばれる騒動となる。

1549年には ヨーロッパからキリスト教フランシスコ・ザビエル などによってもたらされている。

室町時代の小区分

政治の状況に応じて大まかに3つに分けられる。

前史

室町前期

室町幕府の創世記

1336年に

足利尊氏室町幕府が成立してから

1392年に

南朝北朝が合一するまで。

約56年間

南北朝時代

1337年に

後醍醐天皇南朝を開いてから

1392年に

南朝北朝が合一するまで

約55年間

室町中期

室町幕府の全盛期

1392年に

南朝北朝が合一してから

1467年の応仁の乱まで

約75年間

室町後期

室町幕府の衰退期

1467年の応仁の乱から

1573年に

織田信長によって15代将軍義昭が京都から追放され、

室町幕府が事実上の滅亡するまで。

約106年間

戦国時代

1467年の応仁の乱から

1568年に

織田信長が上洛するまで。

約100年間

室町時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 後醍醐天皇 即位

後醍醐天皇

後宇多天皇の第二皇子。

花園天皇の譲位を受けて践祚

1331年 (元弘元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

室町前期

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

光明天皇

後伏見天皇の第九皇子。(豊仁親王)

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた。(光明天皇

北朝 が開かれる。

南北朝時代

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

1338年 (建武5年) 8月 藤島の戦い

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1338年 (建武5年) 9月 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1339年 (延元4年) 後村上天皇 即位

後村上天皇

後醍醐天皇 の第7皇子。

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺 は、

京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1348年 (貞和4年) 2月 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

1348年 (貞和4年) 11月 北朝第3代 崇光天皇 即位

崇光天皇

北朝初代 光厳天皇の第一皇子。

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 11月 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝崇光天皇 が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

後光厳天皇

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子。

正平一統 にて

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 2代将軍に

足利 義詮

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男。

父 尊氏が没し、征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

1368年 (正平23年) 長慶天皇 即位

長慶天皇

後村上天皇 の第一皇子。

村上天皇崩御により

摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1369年 (応安2年) 足利義満 3代将軍に

足利義満

2代将軍 足利義詮 の子。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満 に政務を委譲し、

細川頼之管領 として 義満 の後見・教導を託した。

1369年 (応安2年) 12月 に

義満 は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

後円融天皇

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子。

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1375年 (天授元年) 五百番歌合

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

後小松天皇

北朝第5代 後円融天皇 の第一皇子。

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 後亀山天皇 即位

後亀山天皇

後村上天皇 の第二皇子。

第一皇子は 長慶天皇

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。

室町中期

1392年 (明徳3年) 足利義満 金閣寺 創建

鹿苑寺(別名 金閣寺)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。

開基は 3将軍 足利義満

1395年 (応永元年) 足利義持 4代将軍に

足利義持

3代将軍 足利義満の嫡男。

父義満より将軍職を譲られ、9歳で第4代将軍に就任する。

政治の実権は全て義満に握られていた。

1399年 (応永6年) 応永の乱

守護大名大内義弘室町幕府に対して起こした反乱である。

1412年 (応永19年) 称光天皇 即位

称光天皇

後小松天皇 の第一皇子。

後小松天皇の譲位を受けて即位する。

1416年 (応永23年) 上杉禅秀の乱

関東管領 である 上杉氏憲(禅秀)が 鎌倉公方足利持氏 に対して起した反乱である。

1419年(応永26年)応永の外寇

李氏朝鮮による対馬への侵攻。

朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、

宗貞盛 の抵抗により、大敗を喫した。

1421年 (応永28年) 伊豆大島 噴火

1423年 (応永30年) 足利 義量 5代将軍に

足利義量

4代将軍 足利義持 の長男。

足利義持から将軍職を譲られて5代将軍に就任した。

1428年 (正長元年) 後花園天皇 即位

伏見宮貞成親王 ( 崇光天皇の孫 ) の第一王子。 (彦仁親王)

称光天皇崩御すると、

彦仁親王称光天皇の父 後小松上皇 の猶子となって親王宣下のないまま、践祚し、即位した。

先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は658年ぶりである。

南朝勢力の激しい反発を招き、以後、約60年にわたって南朝復興運動 ( いわゆる 後南朝 ) が繰り広げられる引き金になった。

1428年 (正長元年) 正長の土一揆

近江坂本や大津の 馬借徳政 を求めた。

その一揆畿内一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた一揆勢が酒屋、土倉、寺院( 祠堂銭 )を襲い、

私徳政 を行った。

1429年 (正長2年) 足利 義教 6代将軍に

足利義教

3代将軍 足利義満 の四男。

4代将軍 足利義持 は同母兄。

5代将軍 足利義量 は従兄弟。

5代将軍 足利義量 が急死し、

管領 畠山満家 ら群臣たちにより

次期将軍に選ばれる。

1438年 (永享10年) 永享の乱

4代 鎌倉公方足利持氏

関東管領上杉憲実 の対立に端を発する、

室町幕府 6代将軍 足利義教 が持氏討伐を命じた事件である。

幕府軍が勝利し

持氏は 幕府軍により幽閉された。

1440年 (永享12年) 結城合戦

関東地方で起こった室町幕府

結城氏朝結城持朝 父子ら関東の諸豪族との間の戦いである。

幕府軍が勝利し

結城氏朝・持朝は 討死した。

1441年 (嘉吉元年) 嘉吉の乱

播磨・備前・美作の守護 赤松満祐

6代将軍 足利義教 を殺害し、

領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。

1441年 (嘉吉元年)嘉吉の徳政一揆

政令を求めて 京都・近江坂本の 馬借 を中心に農民が蜂起、地侍 が指導し、数万人の一揆にふくれあがった。

1442年 (嘉吉2年) 足利 義勝 7代将軍に

足利 義勝

6代将軍 足利義教 の長男。

嘉吉の変 により 父・義教が殺害されたため、

将軍職を継ぎ、7代将軍となった。

1443年 (嘉吉3年) 禁闕の変

京都で起こった 後花園天皇 の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件である。

吉野朝廷南朝)復興を唱える勢力( 後南朝 )が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れたが、鎮圧された。

1443年 (嘉吉3年) 嘉吉条約

李氏朝鮮対馬国宗貞盛 との間で結ばれた貿易に関する協定である。

1444年 (文安元年) 文安の麹騒動

京都において酒造工程の一つである 造りを支配していた座(北野麹座)が室町幕府に鎮圧されて没落した事件。

この結果、麹の専門業界は没落して酒屋業へ組み入れられた。

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 は同母兄。

7代将軍 足利義勝が早逝したため、

管領 畠山持国 などの後見を得て、8歳でその後継者として選出された。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

、 8代将軍 足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

室町幕府足利将軍家と結んだ 山内上杉家

扇谷上杉家 が、

鎌倉公方 足利成氏 と争い、関東地方一円に拡大した。

関東地方における戦国時代の始まり。

1457年 (長禄元年) 長禄の変

赤松氏 の遺臣らが 後南朝 の行宮を襲い、

南朝 の皇胤である

自天王

忠義王 とされる兄弟を討って神璽を持ち去った事件。

1457年 (長禄元年) コシャマインの戦い

現在の北海道 渡島半島 における

コシャマイン

アイヌ

武田信広

和人 との戦い。

和人側が勝利し

コシャマイン父子は戦死した。

松前藩 形成の元となった。

1459年 (長禄3年) 長禄・寛正の飢饉

長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。

1464年 (寛正5年) 後土御門天皇

後土御門天皇

後花園天皇の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1466年 (文正元年) 文正の政変

8代将軍 足利義政 の側近

伊勢貞親

季瓊真蘂 らが諸大名の反発で追放された事件である。

この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は 応仁の乱 を起こしていく。

室町後期

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

足利義尚

8代将軍・足利義政の次男。

父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

9代将軍 足利義尚 が早世し、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方

足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

明応の政変 により

10代将軍 足利義材が 追放されたため、

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後柏原天皇

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1506年 (永正3年) 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

これを契機に

20年以上にわたる 両細川の乱 が勃発した。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

足利義澄 が 病死したため、

12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後奈良天皇

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒( 天台宗 )が 京都の日蓮宗徒( 法華宗 ) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

主に 川中島 ( 長野県長野市 ) で行われた

甲斐国戦国大名である 武田信玄 と、

越後国戦国大名である 上杉謙信 との間の数次の戦い。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

足利 義輝

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害されたため、

14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

戦国時代の出来事

戦国時代の出来事を年表にまとめた。

戦国時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 安土桃山時代

広義の室町時代に含まれる。

戦国時代の概要

1467年の 応仁の乱 から、

1568年の 織田信長 の上洛まで。

約100年。

始期を 1493年 の 明応の政変

終期を

1573年に 室町幕府が滅亡したとき

1590年の 小田原征伐

とすることもある。

世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名 に代わって全国各地に 戦国大名が台頭した。

領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。

経済と社会

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。

戦国時代初期には 勘合貿易 および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や 南蛮貿易 によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。

また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された 石見銀山 に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し 楽市・楽座 により自由な市場取引を推奨した。

戦国時代の文化

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。

下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする 桃山文化 の発露への布石となる。

戦国時代に活動した画家

戦国時代の出来事

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利 義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 の同母弟にあたる。

1443年 (嘉吉3年) 7月 に

7代将軍 義勝が早逝した。

1449年 (文安6年) 4月に

将軍宣下を受けて、第8代将軍として就任した。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

8代将軍 足利義政 の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

関東地方一円に拡大した。

1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位

後花園天皇 の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1470年 (文明2年) 京極騒乱

京極氏家督相続を巡る御家騒動の一つ。

1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件

伯耆国守護職山名豊之 が同国由良郷の嶋の地で殺害された事件。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

8代将軍・足利義政の次男

1473年 (文明5年) 12月に

9歳のとき、父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任

1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱

因幡の国人 毛利貞元(次郎)が

守護 山名氏 に対して起こした反乱。

1487年 (長享元年) 長享の乱

山内上杉家上杉顕定関東管領)と

扇谷上杉家上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。

この戦いによって上杉氏は衰退し、

伊勢宗瑞( 北条早雲 )を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆

加賀の本願寺門徒(一向衆徒)が中心となった 国人や農民による惣国一揆

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

第8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

1489年 (長享3年) に

従兄で9代将軍の 足利義尚 が早世した。

1490年 (延徳2年) に

義尚の父で8代将軍の 足利義政 の死後、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方 足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

1493年 (明応2年) に

明応の政変 により

従兄の10代将軍・足利義材管領 細川政元 によって追放される。

1495年 (明応3年) に

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1504年 (永正元年) 立河原の戦い

武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、

上杉顕定足利政氏 らの連合軍と

上杉朝良今川氏親北条早雲 らの連合軍との間で行われた合戦である。

長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いである。

この戦いに勝利した上杉朝良は 結果的に上杉顕定に降伏した。

1506年 (永正3年) 9月 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1506年 (永正3年) 10月 般若野の戦い

越中般若野(現在の富山県砺波市)で行われた

越中一向一揆

越後守護代 長尾能景 との間の戦い。

一向一揆勢が勝利し

能景は討ち取られた。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

1509年 (永正6年) 片角軍萱の戦い

下野国にて

長沼政義 ( 鴫山城 ) は 主家である 宇都宮氏を裏切り、下野国 片角軍萱に侵攻したことに対し、

下野の戦国大名 宇都宮成綱 が迎え撃ち、長沼軍を撃退した戦いである。

再起不能に近い形で大敗した政義は 下野国の自領を捨て、田島城に逃亡した。

1509年 (永正6年) 7月 如意ヶ嶽の戦い

現在の京都市左京区如意ヶ嶽 周辺で行われた

細川高国大内義興 連合軍と

細川澄元三好之長 連合軍との戦い。

高国・義興 連合軍が勝利し

澄元・之長らは阿波へ逃走した。

1511年 (永正8年) 7月 深井城の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

深井城 (大阪府堺市) で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍が勝利し

高国軍の残兵は堺へ逃亡。

1511年 (永正8年) 8月 芦屋河原の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

摂津国武庫郡鷹尾城 と芦屋河原周辺で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍は軍勢を二分して進軍、

一方が阿波より堺に上陸 深井城の合戦 となり、

もう一方が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦 となった。

澄元軍は鷹尾城を占領。

1511年 (永正8年) 8月 船岡山合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

室町幕府 10代将軍 足利義稙 を擁立する 細川高国大内義興

11代将軍 足利義澄 を擁立する 細川澄元との間で起きた、

幕府の政権と細川氏家督をめぐる戦いである。

細川高国大内義興 連合軍が勝利。

1512年 (永正9年) 宇都宮錯乱

下野宇都宮氏 で発生した内紛。

当主 宇都宮成綱

家臣 芳賀高勝 を殺害、

それをきっかけに 芳賀氏 が反乱を起こした。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1521年 (大永元年) 大永の内訌

下野宇都宮氏18代当主・宇都宮忠綱 と、

芳賀高経 ら芳賀氏を中心とした家臣団との 対立で起こった内訌(内輪揉め)である。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

1511年 (永正8年) に

義澄は 病死した。

1521年)(大永元年) に

10代将軍 足利義稙

後柏原天皇 の信任を失う。

管領 細川高国

義稙の放逐を決意し 新将軍の擁立を決めた。

1522年 (大永元年) に

義晴 が12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1524年 (大永4年) 5月 大永の五月崩れ

出雲守護代 尼子経久伯耆 進攻をいう。

1524年 (大永4年) 7月 佐東銀山城の戦い

安芸 武田氏 の 本拠であった安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)の 佐東銀山城

大内氏 が攻めた合戦である。

安芸武田氏は佐東銀山城を守りきり

大内軍は撤退した。

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1527年 (大永7年) 桂川原の戦い

京都 桂川 原一帯で行われた

12代将軍 足利義晴 を擁する

細川 高国

細川晴元 との戦い。

晴元が勝利し

義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とした。

和泉国 を本拠とした晴元は、

都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、

義晴の弟 足利義維 を将軍に戴く 堺公方府 という擬似幕府を創設した。

1531年 (享禄4年) 大物崩れ

摂津 天王寺辺りで

細川晴元

三好元長 の連合軍が、

細川高国

浦上村宗 の連合軍を壊滅させた。

高国が 大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で捕らえられ処刑された。

1532年 (天文元年) 山科本願寺の戦い

細川晴元

六角定頼

・京都の 法華一揆 の連合軍と

山科本願寺 に籠る

浄土真宗本願寺勢力( 一向一揆 )との戦い。

晴元方が勝利し

山科本願寺は 社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

1534年 (天文3年) 勢場ヶ原の戦い

豊後 大村山 付近(現大分県杵築市山香町山浦近辺)で行われた

中国地方の大名 大内義隆

豊後の大名 大友義鑑 との合戦。

引き分けとなる。

1535年 (天文4年) 森山崩れ

三河国岡崎城松平清康 が、

尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、

家臣の 阿部正豊 に暗殺された事件。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒が 京都の日蓮宗徒( 法華宗) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1540年 (天文9年) 吉田郡山城の戦い

安芸国吉田の 吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、

毛利氏当主 毛利元就

中国地方の守護 尼子晴久 との戦い。

毛利氏が勝利し

尼子軍が撤退し、晴久は帰国した。

1541年 (天文10年) 海野平の戦い

信濃国 小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。

甲斐守護 武田信虎 と、村上義清諏訪頼重 など武田と結んだ信濃国人の連合軍が 小県郡へ侵攻し、

小県を領する 海野棟綱根津元直滋野三家 ( 海野氏禰津氏望月氏 ) や 真田氏 との間で行われた。

武田の連合軍が勝利し

滋野一族は 上野国へ亡命する。

1542年 (天文11年) 天文の乱

天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、

伊達氏当主 伊達稙宗

嫡男 晴宗 父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

領土拡大を目指し 北信濃に侵攻した 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

信濃信濃中部の豪族から助けを求められた 越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との間で、

主に川中島で行われた数次の戦い。

1542年 (天文11年) 月山富田城の戦い

1542年から1543年・1565年から1566年に

尼子氏 の本拠である出雲国月山富田城(現:島根県安来市)を

大内義隆 を総大将とする大内軍が攻撃した。

尼子方が勝利し

大内方は撤退し 義隆は山口に帰還した。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景 土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1545年 (天文14年) 河越城の戦い

武蔵国の枢要な城であった 河越城の争奪を巡る 一連の戦いをいう。

後北条氏の2代目当主 北条氏綱武蔵国征服のため、

武蔵国を支配していた 上杉氏 の居城・河越城に侵攻し、

1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。

北条軍が勝利し、

上杉氏が滅亡した。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) 江口の戦い

摂津 江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において

三好長慶 軍と

同族の 三好政長 が衝突した戦いである。

三好長慶軍が勝利し

政長は戦死。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1550年 (天文19年) 二階崩れの変

豊後の戦国大名 大友氏 の内紛、お家騒動。

大友家重臣 津久見美作、田口鑑親らが

大友館 の2階で就寝していた

当主 大友義鑑塩市丸 、そしてその生母を襲撃した。

塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。

津久見・田口の両名もその場で壮絶な最期を遂げた。

義鑑も 数日後に死去。

1551年 (天文20年) 大寧寺の変

周防山口の戦国大名 大内義隆

家臣の 陶晴賢 の謀反により自害させられた政変である。

この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた 大内氏 が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。

1554年 (天文23年) 3月 三本松城の戦い

大内義長

陶晴賢 が、

石見国三本松城( 現在の 津和野城 )城主である

吉見正頼 を攻めた戦いである。

大内軍の優勢で和睦。

1554年 (天文23年) 6月 折敷畑の戦い

陶晴賢( 派遣部将は宮川房長 )と

毛利元就との間に行われた戦いである

毛利軍が勝利し

宮川房長は討死。

1555年 (天文24年) 厳島の戦い

安芸国 厳島

毛利元就

陶晴賢 との間で行れた合戦である

毛利方が勝利し

晴賢は自刃して果てた。

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1561年 (永禄4年) 4月 善明堤の戦い

今川氏から独立した家康の三河統一事業の過程で起きた合戦の一つである。

三河国(現・愛知県)において

松平元康( 後の徳川家康 )と

吉良義昭 との間で起った戦い。

吉良軍が勝利し

松平元康軍は 松平 好景板倉好重 など、多くの一族、家臣を失った。

1561年 (永禄4年) 8月 第4次川中島の戦い

第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、

川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦い。

川中島の戦い

主に川中島 で行われた

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との戦い。

1561年 (永禄4年) 8月に

上杉謙信は 兵13000を率いて犀川千曲川を渡り長野盆地南部の 妻女山 に陣取った。

武田信玄は、兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。

武田軍の別働隊1万2千が妻女山に向い、

信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。

上杉謙信軍は 夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。

川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。

武田軍は完全に裏をかかれた形になり、武田軍は防戦一方となる。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した

双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

1561年 (永禄4年) 9月 藤波畷の戦い

東条吉良氏 の居城 東条城 をめぐる吉良氏と松平元康( 徳川家康 )の一連の攻防戦の一つ。

松平軍が勝利し

吉良義昭 は降伏した。

1563年 (永禄6年) 4月 湯所口の戦い

鳥取城 城下の 湯所口 における

因幡国 重臣武田高信

因幡国山名豊数 率いる布施(勢)屋形勢の間で起こった戦い。

武田勢が勝利し

豊数は逃走した。

1563年 (永禄6年) 4月 新加納の戦い

織田信長

斎藤龍興 の戦い。

斎藤方が勝利し

織田方は敗退した。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1566年 (永禄9年) 河野島の戦い

織田信長

斎藤龍興 との間で行われた戦い。

木曽川 で対峙したが

木曽川が氾濫し 双方が撤退。

1567年 (永禄10年) 稲葉山城の戦い

美濃国井之口(現:岐阜県岐阜市)の 斎藤龍興 の居城 稲葉山城 を、

織田信長 が攻め取った攻城戦である。

斎藤龍興は伊勢の長島へと脱出した。

この戦によって織田信長稲葉山城岐阜城に改名して居城とした上で、

天下布武 の朱印を用いるようになり、

本格的に天下統一を目指すようになる。

1567年 (永禄10年) 東大寺大仏殿の戦い

大和 東大寺 周辺で

松永久秀

三好義継

三好三人衆

筒井順慶

池田勝正 らが繰り広げた市街戦。

大仏殿が全焼した。

松永久秀軍が勝利し

三人衆軍、池田軍は敗退した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

1568年 (永禄11年) 3月に

足利 義栄 は 朝廷から征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

足利義輝 が殺害された。

細川藤孝幕臣の援助を受けて 南都 から脱出した。

その後、朝倉義景 の庇護を受ける。

1568年 (永禄11年) 7月に

足利義昭 は美濃に入り、

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 9月に

足利義昭織田信長に擁されて上洛した。

10月に

14代将軍 足利義栄は 腫物を患って 阿波で養生することになった。

同月にその地で死去した。

11月に

足利義昭 は朝廷から将軍宣下を受けて、15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。