上古時代の出来事

上古時代の出来事を年表にまとめた。

関連記事

参考

wikipedia: 上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧

上古時代の天皇

この記事では 初代 神武天皇 から 13代 成務天皇 までとする。

日本の時代区分の 弥生時代 に相当する。

欠史八代

第2代 綏靖天皇 から 第9代 開化天皇 までの8代の天皇は 系譜情報のみからなり、具体的な事績が存在しないことにより、 後世の創作によるものと見られる。

14代 仲哀天皇 以降は 古墳時代の出来事 に記載する。

弥生時代の概要

弥生時代は 日本列島における時代区分の一つであり、 「日本で 食糧生産 が始まってから 前方後円墳 が出現するまでの時代」とされる。
年代としては紀元前10世紀あるいは紀元前9-8世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。
採集経済縄文時代 の後、 水稲農耕を主とした生産経済の時代である。
弥生時代後期後半の紀元1世紀頃 東海・北陸を含む西日本各地で 広域地域勢力 が形成され、 2世紀末畿内倭国 が成立した。

上古時代の出来事

神代の時代

出雲大社 創建

出雲大社 (いずもたいしゃ) は 島根県 出雲市 大社町杵築東にある神社。

創建

出雲大社 の創建については、 日本神話 などにその伝承が語られている。

国譲り

天津神国津神 ( 大国主神 ) から 葦原中国 の国譲りを受ける説話。

大国主神は国譲りに応じる条件として 「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、 千木 が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、 そこに隠れておりましょう」と述べ、 これに従って 出雲 の「多芸志の浜」に「天之御舎」を造った。

天岩戸神社 創建

天岩戸神社 (あまのいわとじんじゃ) は 宮崎県西臼杵郡 高千穂町 にある神社。

岩戸川 を挟んで東本宮と西本宮がある。

東本宮の主祭神は [天照皇大神 ( 天照大神 )

西本宮の主祭神は 大日孁尊 ( 天照大神 )

西本宮の神体は 岩戸川対岸の断崖中腹にある「天岩戸」と呼ばれる岩窟(跡)

こ岩窟は日本神話に登場する 天岩屋 であると伝える。

歴史

東西両本宮は元来は独立した別の社であった。

西本宮の社伝によれば 日向三代 の 初代の 瓊瓊杵尊 が 「天岩戸」の故事を偲び、その古跡に鎮祭したのが起源である。

紀元前

BC756年頃 神武東征

神武東征 は 磐余彦尊が 日向 を発ち、 奈良盆地 とその周辺を統治していた 長髄彦 を滅ぼした後に、 初代天皇 ( 神武天皇 ) の位についたという一連の説話をさす用語。

BC660年 初代 神武天皇 (51歳) 即位

BC711年 に 彦波瀲武鸕鶿草葺不合命 の第四子として 日向 に誕生。(磐余彦尊)

天照大御神 の五世孫にあたる。

神武東征

45歳時に 兄や子を集め東征を開始。

奈良盆地 一帯の指導者 長髄彦 らを滅ぼして 一帯を征服。

即位

BC660年 2月11日に 畝傍橿原宮 に遷都し、 51歳で即位して 初代天皇となる。

媛蹈鞴五十鈴媛命 を皇后とする。

BC585年 (神武天皇76年) に 橿原宮崩御。(宝算 127)

陵所 畝傍山東北陵 (四条ミサンザイ) ( 奈良県 橿原市 大久保町 )

名称

日本書紀 記載の名称は 神日本磐余彦天皇 (かんやまといわれびこのすめらみこと) 。

幼名は 磐余彦尊 (いわれびこのみこと) 。

「神武」は、8世紀後半に 淡海三船 によって撰進された名称とされる。

即位年月日について

日本書紀 の記述 「辛酉年春正月庚辰朔」に基づき、 明治期に法的・慣習的に「紀元前660年2月11日」とされている

明治期に 2月11日 を 紀元節 に定められた。

1966年(昭和41年)に 同じ2月11日が 建国記念の日 に定められた。

系譜

父 : 彦波瀲武鸕鶿草葺不合命

母 : 玉依姫

皇后 : 媛蹈鞴五十鈴媛命

皇子 : 彦八井耳命

第2皇子 : 神八井耳命

孫 : 健磐龍命

第3皇子 : 綏靖天皇

妃 : 吾平津媛

第1皇子 : 手研耳命

BC660年 (神武天皇元年) 鹿島神宮 創建

鹿島神宮茨城県鹿嶋市 宮中 にある神社。

主祭神武甕槌大神

古代には朝廷から蝦夷の平定神として、 また藤原氏から氏神として崇敬された。
その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、 歴代の武家政権からは武神として崇敬された。
現在も武道では篤く信仰される神社である。

創建・伝承

創建について、 鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』では 神武天皇 元年に初めて宮柱を建てたといい、 神宮側では この神武天皇元年 (BC660年) を創建年としている。

BC643年 (神武天皇18年) 香取神宮 創建

香取神宮 は 千葉県 香取市 香取にある神社

主祭神経津主大神

古代に 香取神宮鹿島神宮 とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされる。

創建

社伝では 初代神武天皇18年 (BC643年) の創建と伝える。

BC600年頃 宮﨑神宮 創建

宮﨑神宮(みやざきじんぐう)は 宮崎県宮崎市神宮にある神社である。

主祭神神武天皇

由緒

社伝によれば 鎮座地は「神武天皇」が 東征 以前に宮を営んだ地で、 後に九州に下向してきた 皇孫の 建磐龍命 がその縁にちなんで創祀したという。

BC581年 2代 綏靖天皇 (51歳) 即位

BC632年 (神武天皇29年) に 神武天皇 の第三皇子として誕生。

タギシミミの反逆

BC585年 (神武天皇76年) に 父帝が崩御した。

3年後の BC582年に 異母兄の 手研耳命 を誅殺。

翌 BC581年に 51歳で 即位して 葛城高丘宮に都を移す。

BC549年 (即位33年) に 崩御。(宝算 84)

陵所 桃花鳥田丘上陵 (塚根山) ( 奈良県 橿原市 四条町 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 神武天皇

母 : 媛蹈鞴五十鈴媛命

皇后 : 五十鈴依媛命

皇子 : 安寧天皇

BC548年 3代 安寧天皇 (28歳) 即位

BC577年 (綏靖天皇5年) に 綏靖天皇 の皇子として誕生。

BC549年 に 父帝が崩御する。 7月に 28歳で即位。

即位2年に 片塩浮孔宮へ都を移す。

BC511年 (即位38年) に 崩御。 (宝算 57)

陵所 畝傍山西南御陰井上陵 (アネイ山) ( 奈良県 橿原市 吉田町 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 綏靖天皇

母 : 五十鈴依媛命

皇后 : 渟名底仲媛命

第一皇子 : 息石耳命

第二皇子 : 懿徳天皇

BC510年 4代 懿徳天皇 (43歳) 即位

年 BC553年 (綏靖天皇29年) に 安寧天皇 の第二皇子として誕生。

BC511年 に 父帝が崩御した。
翌BC510年 に 43歳で即位。

即位2年 に 軽之境岡宮 に都を移す。

BC477年 (即位34年) に 崩御。 (宝算 77)

陵所は 畝傍山南繊沙渓上陵 (マナゴ山) ( 奈良県 橿原市 西池尻町 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 安寧天皇

母 : 渟名底仲媛命

皇后 : 天豊津媛命

皇子 : 孝昭天皇

BC475年 5代 孝昭天皇 (31歳) 即位

BC506年 (懿徳天皇5年) に 懿徳天皇 の皇子として誕生。

BC477年 に 父帝が崩御した。

翌々年 BC475年 に 31歳で即位。

同年7月に 掖上池心宮へ都を移す。

BC393年 (即位83年) に 崩御。(宝算 113)

陵所は 掖上博多山上陵 (博多山) ( 奈良県 御所市 大字三室 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 懿徳天皇

母 : 天豊津媛命

皇后 : 世襲足媛

第一皇子 : 天足彦国押人命

第二皇子 : 孝安天皇

BC400年頃 狭野神社 創建

狭野神社 (さのじんじゃ) は 宮崎県西諸県郡 高原町 にある神社。

主祭神神武天皇

歴史

孝昭天皇 の時代に 「神武天皇」が誕生した地 ( 高千穂峰の麓の皇子原 ) に創建されたといわれている。

BC392年 6代 孝安天皇 (35歳) 即位

BC427年 (孝昭天皇49年) に 孝昭天皇 の第二皇子として誕生。

BC393年 に 父帝が崩御した。
翌 BC392年に 35歳で即位。

即位2年 に 室秋津島宮 に都を移す。

BC291年 (即位102年) に 崩御。(宝算 137)

陵所は 玉手丘上陵 ( 奈良県 御所市 大字玉手 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 孝昭天皇

母 : 世襲足媛

皇后 : 押媛

皇子 : 孝霊天皇

BC290年 7代 孝霊天皇 (50歳) 即位

BC342年 (孝安天皇51年) に 孝安天皇 の皇子として誕生。

BC291年 に 父帝が崩御した

12月 に 黒田廬戸宮 に都を移す。

翌 BC290年に 50歳で即位。

BC215年 (即位76年) に 崩御。(宝算 128)

陵所は 片丘馬坂陵 ( 奈良県北葛城郡 王寺町 本町 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 孝安天皇

母 : 押媛

皇后 : 細媛命

皇子 : 孝元天皇

妃 : 春日千乳早山香媛

皇女 : 千千速比売命

妃 : 倭国香媛

皇子 : 吉備津彦命

皇女 :倭迹迹日百襲姫命

BC281年 (孝霊天皇9年) 阿蘇神社 創建

阿蘇神社(あそじんじゃ)は 熊本県阿蘇市 にある神社。

主祭神健磐龍命

概史

孝霊天皇9年に 神武天皇 の孫の 「健磐龍命」の子で、 のちに初代 阿蘇国造 となる 速瓶玉命が、両親を祀ったのに始まると伝える。

BC214年 8代 孝元天皇 (59歳) 即位

BC273年 (孝霊天皇18年) に 孝霊天皇 の皇子として誕生。

BC215年 に 先帝が崩御した。

翌BC214年に 59歳で即位。

即位4年 に の境原宮 ( 牟佐坐神社 ) へ都を移す。

BC158年 (即位57年) に 崩御。(宝算 116)

陵所は 剣池嶋上陵 ( 中山塚墳 ) ( 奈良県 橿原市 石川町 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 孝霊天皇

母 : 細媛命

皇后 : 欝色謎命

第一皇子 : 大彦命

第二皇子 : 開化天皇

BC157年 9代 開化天皇 (51歳) 即位

BC208年 (孝元天皇7年) に 孝元天皇 の第二皇子として誕生。

BC158年 に 父帝が崩御

BC157年に 51歳で即位。

翌 BC156年に 春日の率川宮 ( 率川神社 ) に都を移す。

BC98年 (即位60年) に 崩御。(宝算 115)

陵所 春日率川坂上陵 ( 念仏寺山古墳 ) ( 奈良県 奈良市 油阪町字山ノ寺 )

欠史八代の1人である。

系譜

父 : 孝元天皇

母 : 欝色謎命

皇后 : 伊香色謎命

第二皇子 : 崇神天皇

妃 : 丹波竹野媛

第一皇子 : 彦湯産隅命

BC97年 10代 崇神天皇 (52歳) 即位

BC149年 (開化天皇9年) に 開化天皇 の第二皇子として誕生。

BC98年に 父帝が崩御した。

翌BC97年に 52歳で即位。

皇居は 磯城瑞籬宮

疫病と祭祀

即位5年 に 疫病が流行して人口の半ばが失われた。
祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に 天照大神倭大国魂神 を宮中の外に出すことにした。
天照大神豊鍬入姫命 に託して 笠縫邑 ( 現在の 檜原神社 ) に祀らせた。
倭大国魂神渟名城入媛命 に託し長岡岬に祀らせた。
しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

四道将軍

即位10年 に 武埴安彦 の反乱を鎮め、 四道将軍 を各地に派遣した。

御肇国天皇

即位12年に 戸口 を調査して初めて 課役 を科した。
この偉業をもって「御肇国天皇」と称えられている。

BC30年 (即位68年) に 崩御。(宝算 120)

陵所は 山邊道勾岡上陵 ( 行燈山古墳 ) ( 奈良県天理市 柳本町 )

実在した可能性のある最初の天皇とする説がある。

系譜

皇后 : 御間城姫

第三皇子 : 垂仁天皇

妃 : 遠津年魚眼眼妙媛

皇子 : 豊城入彦命

皇女 : 豊鍬入姫命

妃 : 尾張大海媛

皇子 : 大入杵命

皇女 : 渟名城入媛命

BC92年 (崇神天皇6年) 大和神社 創建

大和神社 (おおやまとじんじゃ) は 、奈良県 天理市 新泉町星山にある神社。

主祭神 倭大国魂大神

歴史

日本書紀 によれば

元々「倭大国魂神」は 大地主大神 として 天照大神 とともに 孝昭天皇 の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていたが、 世の中が乱れたり謀反を起こそうとする者がでるなどは、 両神の勢いの為であると畏れられるようになった。
そのため 崇神天皇 は神威をおそれ、 崇神天皇6年に 天照大神を皇女 豊鋤入姫命 に命じて 大倭国笠縫邑 に移して祀ることとし、 「倭大国魂神」は皇女 渟名城入姫 を斎主としてこれも宮中の外で祀らせるようにした。 しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。

崇神天皇7年2月に 孝霊天皇 の 皇女 倭迹迹日百襲姫命 が夢で 「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。

また同年8月7日に 倭迹迹日百襲姫命大水口宿禰伊勢麻績君 らが同じ夢を見た。

そのため、同年11月に 神武天皇 の 臣 椎根津彦 の子孫で 大倭直 の祖である 市磯長尾市 を祭主として、 新たに神地が定められ当社が創建された。

BC91年 (崇神天皇7年) 石上神宮 創建

石上神宮(いそのかみじんぐう)は 奈良県 天理市 布留町にある神社。

主祭神布都御魂大神

歴史

社伝によれば 崇神天皇7年に 勅命により 物部氏伊香色雄命 が 「布都御魂剣」という剣を現在地に遷し、 「石上大神」として祀ったのが当社の創建とする。

BC90年頃 鵜戸神宮 創建

鵜戸神宮(うどじんぐう)は 宮崎県 日南市にある神社である。

主祭神日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊

日向灘 に面した断崖の中腹、 東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、 参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、 神社としては珍しい「下り宮」となっている。

歴史

社伝によれば、 本殿の鎮座する岩窟は 神武天皇 の伯母の 豊玉姫主祭神「日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊」を産むための産屋を建てた場所で、 その縁により 崇神天皇 の御代に 6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、 推古天皇 の御代に 岩窟内に社殿を創建して 鵜戸神社 と称したと伝える。

BC29年 11代 垂仁天皇 即位

BC69年 (崇神天皇29年) に

崇神天皇 の第三皇子として誕生。

BC30年 に 父帝が崩御した。 翌 BC29年に 即位。

皇居は 纒向珠城宮

狭穂彦の謀反

即位2年に 狭穂姫命立后

即位5年に 皇后の兄の 狭穂彦王 が叛乱を起こした。 皇后もこれに従って兄と共に焼死した。

即位15年に 天皇丹波道主王の娘たちと再婚し、 長女の 日葉酢媛命 を皇后とした。

祭祀の振興

即位25年に 武渟川別彦国葺大鹿嶋物部十千根大伴武日 の五大夫を集めて先皇(崇神天皇)の偉業を称え、 先皇と同様に神を祀ることを誓った。

同年に 天照大神 を 異母姉妹の 豊鍬入姫命 から離し、 その祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の 倭姫命 に託した。

宇陀近江美濃 と周った倭姫命は 最終的に 伊勢 に落ち着き 伊勢神宮を建立した。 ( 元伊勢 伝承 )

加羅と新羅との関係

垂仁2年に 来日した 加羅国 王の息子 都怒我阿羅斯等赤絹 を下賜し、 先代崇神天皇の諱である「みまな」任那 という国を建てるよう詔し、 帰国させたとされる。

70年 (即位99年) に 崩御。(宝算 140)

陵所は 菅原伏見東陵 ( 宝来山古墳 ) ( 奈良県 奈良市 尼ヶ辻町 )

系譜

父 : 崇神天皇

母 : 御間城姫命

皇后 (前) : 狭穂姫命

第一皇子 : 誉津別命

皇后 (後) : 日葉酢媛命

第三皇子 : 景行天皇

第四皇女 : 倭姫命

異母妹 : 豊鍬入姫命

BC4年 (垂仁天皇26年) 伊勢神宮 創建

伊勢神宮三重県 伊勢市 にある神社。

概要

伊勢神宮皇室氏神 である 天照大御神 を祀るため、 歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い。

創祀年の考証

阪本広太郎は、日本神話の神宮創祀伝承を史実として認める立場をとり、 伝承の通り 垂仁天皇25年 (BC5年) に 垂仁天皇 の皇女の 倭姫命
笠縫邑 を発し、 その後の 伊勢 までの巡行に1年を要したとして、 丁巳年に当たる 垂仁天皇26年に 伊勢神宮 が創祀されたとする説を提示し、 その西暦年代については 日本書紀紀年法に従って機械的に換算した紀元前4年とした。

阪本の説は 現在の 伊勢神宮 の公式見解とされる。

1世紀

71年 12代 景行天皇 (84歳) 即位

BC13年 (垂仁天皇17年) に 垂仁天皇 の第三皇子として誕生。

70年に 父皇が崩御した。 翌71年に84歳で即位。

皇居は 纒向日代宮

九州巡幸

即位12年8月に 熊襲 が背いたので征伐すべく天皇自ら西下。

同年9月に 周防国 の娑麼 (山口県防府市) に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。
神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。
そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。

同月に 筑紫 に入り 豊前国長峡県 に行宮を設けた。
そこでここを 京都郡 (福岡県行橋市) と呼ぶ。

日本武尊の活躍

即位25年に 武内宿禰東国 を視察させて豊かな土地 ( 蝦夷日高見国 ) を発見する。

即位27年8月に 熊襲 が再叛。

10月に 小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させる。
小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して「日本武尊」の名を得る。
翌年に復命。

即位40年に 大碓皇子 に東国の蝦夷を平定するよう命じる。
しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し 美濃国 に封じられた。
結局、「日本武尊」が東征に向かうこととなり、 途中の 伊勢神宮 で 叔母の 倭姫命 から 草薙剣 を授かった。
陸奥国 に入り、戦わずして蝦夷を平定。

即位58年に 近江国行幸高穴穂宮 に滞在すること3年。

130年 (即位60年) に 同地で崩御。(宝算143)

陵所は 山辺道上陵 ( 渋谷向山古墳 ) ( 奈良県 天理市 渋谷町 )

系譜

皇后 (前) : 播磨稲日大郎姫

皇子 : 大碓皇子

皇子 : 日本武尊

孫 : 仲哀天皇

皇后 (後) : 八坂入媛命

第四皇子 : 成務天皇

同母妹 : 倭姫命

#### 80年頃 河堀稲生神社 創建

河堀稲生神社 (こぼれいなりじんじゃ) は 大阪市天王寺区 大道) にある神社。

主祭神宇賀魂大神

歴史

景行天皇 の時代、 当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に 稲生の神 を祀ったのが最初とされている。

聖徳太子四天王寺 を建立した際に社殿が造営され、 崇峻天皇 を合祀して 四天王寺七宮 の一つに数えられた。

2世紀

131年 成務天皇 (49歳) 即位

82年 (景行天皇14年)に 景行天皇 の第四皇子として誕生。

130年に 父帝が崩御した。
翌131年に 49歳で即位。

皇居は 志賀高穴穂宮

治世

即位5年に 諸国に 国造稲城 を置き山河で国境を定めた。

190年 (即位60年) に 崩御。(宝算107)

陵所は 狭城盾列池後陵 ( 佐紀石塚山古墳 ) ( 奈良県奈良市 山陵町御陵前 )

実在性

通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる。

系譜

父 : 景行天皇

母 : 八坂入媛命

妃 : 弟財郎女

皇子: 和謌奴気王

131年 (成務天皇元年) 日牟禮八幡宮 創建

日牟禮八幡宮 (ひむれはちまんぐう) は 滋賀県 近江八幡市 宮内町にある神社。

主祭神比賣神

創建

伝承によれば 成務天皇元年 (131年) に 成務天皇高穴穂の宮 に即位の時、 武内宿禰 に命じてこの地に大嶋大神 ( 大国主神 ) を祀ったのが草創とされている。

古墳時代の出来事

古墳時代の出来事を年表にまとめた。

古墳時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 弥生時代

後は 飛鳥時代

関連記事

参考

古墳時代の概要

3世紀から7世紀にかけて 古墳が多く作られた時代である。

前方後円墳 の出現を特徴とする。

大王 を首長とする ヤマト王権 が地域の豪族 を束ねていった時代と考えられている。

対外関係では、4世紀以降、朝鮮半島に進出し、 新羅百済 を臣従させ、高句麗 と激しく戦ったとも解釈される好太王広開土王碑 文などから知られる。
( 高句麗と倭の戦争

5世紀には 倭の五王 が中国に使者を遣わした。

倭が 朝鮮半島 で得た鉄資源は、 甲冑武器農具工具 などに用いられた。

大陸からは 文字漢字 )と 仏教儒教 がもたらされた。

また、隋書 によると、 新羅百済は、倭国は珍物が多い大国であるとし、倭へ使いを通わしているとの記述が存在する。

5世紀後半には朝鮮半島南部にも前方後円墳形墳墓が見られるようになるが、倭人が造ったか、日本列島からの影響を受けて造られたものと考えられている。

古墳時代の150年間を通じて北海道、東北北部、南西諸島を除いた日本列島全体に約5200基の前方後円墳が造られている。

古墳時代の生活と文化

この時代の人々は、食器・調理具・貯蔵具などの器として、 土師器須恵器 を用いた。
土師器は縄文土器弥生土器以来の伝統的な 野焼き) 焼成によって生産されたが、 前期末(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)ごろに 朝鮮半島から渡来人により陶質土器と 窖窯 の技術がもたらされ、 大阪府南部の 陶邑窯跡群 を始めとして須恵器の生産が始まった。

集落における人々の住居や工房・倉庫・家畜小屋などの建築として、 竪穴建物 ( 竪穴住居 ) のほか、 平地建物高床建物 ( 掘立柱建物壁建ち建物 などを含む ) などが建てられていた。

古墳時代天皇

14代 仲哀天皇 から 32代 崇峻天皇 までとする。

21代 雄略天皇 は 実在した最古の天皇とされる。

13代 成務天皇 以前は 上古時代の出来事 に記載する。

33代 推古天皇 以降は 飛鳥時代の出来事 に記載する。

古墳時代の時代区分

古墳時代前期

初期ヤマト王権

3世紀前半に 奈良県纏向遺跡 に90メートル級の巨大な前方後円墳が五基造られ、 3世紀中ごろに さらに巨大な 箸墓古墳 が造営されたことを以て古墳時代大和時代)の幕開けとされる。

倭国大乱

倭国大乱魏志倭人伝 において記述が見られる、 2世紀後半(弥生時代末期)に 倭国 で起こったとされる争乱。

女子 卑弥呼 を王に共立することで国中が服した。

邪馬台国

3世紀前期に の歴史文献 魏志倭人伝 において 倭国王 卑弥呼 が現れ、 その本拠地 邪馬台国 が音の類似性により後の ヤマト王権 の母体であるとする説があるが考古学的な検証が得られずはっきりしない。 ( 邪馬台国#論争 )

卑弥呼」 を 神功皇后 とする説がある。

卑弥呼の死去

247年に 卑弥呼が死去。 以降に 男王が立ったが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「 台与 」13歳を王に立てると国中が遂に鎮定した。

空白の4世紀

西暦266年から413年にかけて 中国の歴史文献における 倭国 の記述がなく詳細を把握できないため、 この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる

古墳時代中期

ヤマト王権と豪族層が共に力をつけていった。豪族層の武力は 国造軍 と呼ばれ倭軍を担った。
前方後円墳が全国に広がった。

倭の五王の時代

五世紀には前方後円墳はもっとも巨大化し、 築造地も大和から河内に移動し、 世界最大級の墓ともされる 仁徳天皇陵大仙陵古墳 )などが造営された。
また五世紀の中国の王朝である宋の正史 宋書 倭国伝には五人の倭国王倭の五王 )が朝貢したことの記録がある。

仁徳天皇 とする説がある。

安康天皇とする説がある。

雄略天皇 とする説がある。

対外戦争

4世紀後半から5世紀にかけて、 倭軍が朝鮮半島百済新羅高句麗と戦ったことが「高句麗 広開土王碑」文にみえる。
( 倭・高句麗戦争 )

古墳時代後期

古代国家の成立

安閑 (531年 - 535年)、宣化 (535年 - 539年)、 欽明 (539年 - 571年) の各王朝を通じて、 地域国家から脱して初期国家を形成していった。  

国際関係

朝鮮との関係

古墳時代には朝鮮半島の人々と交流したと記録されている。

4世紀以降、朝鮮半島で鉄資源の供給地としてのいわゆる任那地域などに進出したことが、広開土王碑文(西暦414年に建てたとされる)などからも知られる。

中国との関係

この時代において、 中国の 華北 には 五胡十六国 (316年 - 439年) が興亡したのち、 北魏東魏西魏北斉北周と続く 北朝 の時代となるが、 これらの諸国家と倭国との外交や交易などについての史料は知られていない

古墳時代の出来事

2世紀

192年 14代 仲哀天皇 即位

生年不詳 景行天皇 の 皇子である 日本武尊 の第二子として誕生。

190年 (成務天皇60年) に 先帝 成務天皇崩御した。 2年後の192年に 即位。

皇居は 近江志賀高穴穂宮 ( 滋賀県大津市 穴太 )

再叛した 熊襲 を討つため親征し 穴門 豊浦宮 に滞在。

即位8年に 筑紫橿日宮 に至るも 熊襲との戦いに敗れる。

200年 (即位9年) に 親征先の筑紫で崩御。(宝算52)

陵所は 恵我長野西陵 ( 岡ミサンザイ古墳 ) ( 大阪府 藤井寺市 藤井寺 )

系譜

祖父 : 景行天皇

父 : 日本武尊

母 : 両道入姫命

皇后 : 気長足姫尊 ( 神功皇后 )

第四皇子 : 応神天皇

妃:大中姫命 ( 彦人大兄 の女 )

第一皇子 : 麛坂皇子

第二皇子 : 忍熊皇子

199年 (仲哀天皇8年) 忌宮神社 創建

忌宮神社 (いみのみやじんじゃ) は 山口県 下関市 にある神社

主祭神仲哀天皇

仲哀天皇熊襲 平定の際に滞在した 行宮である「豊浦宮」の跡とされる。

歴史

仲哀天皇元年(192年)に 仲哀天皇熊襲の征討に訪れ、 仲哀天皇2年(193年)に 行宮「豊浦宮」を建てられた。

仲哀天皇8年(199年)に 天照大神住吉三神 による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、 神功皇后三韓征伐 からの帰途、 「豊浦宮」の跡に祀ったのに始まると伝える。

199年 (仲哀天皇8年) 3月 氣比神宮 創建

氣比神宮 (けひじんぐう) は 福井県 敦賀市 曙町にある神社。

主祭神伊奢沙別命

創建・伝承

社伝では 上古に主祭神の「伊奢沙別命」は東北方の天筒山 に霊跡を垂れ、 境内北東方にある 土公 の地に降臨したという。

そして『気比宮社記』によれば 神功皇后三韓征伐 出兵にあたって気比神に祈願をすると、 海神を祀るように神託があり、 皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。
そして 仲哀天皇8年 (199年) 3月に 神功皇后武内宿禰安曇連 に命じて気比神を祀らせたといい、 これが神宮の創建になるとしている。

200年 (仲哀天皇9年) 三韓征伐

三韓征伐仲哀天皇 の后で 応神天皇 の母である 神功皇后 が、 仲哀天皇の没後 新羅 に出兵し、 朝鮮半島 の広い地域 ( 三韓 ) を服属下においたとする日本における伝承である。

神功皇后#三韓征伐

仲哀天皇9年4月 に 松浦郡 で誓約を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、 神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。
そして 角髪 を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。

9月に 筑紫夜須にて 大三輪神 を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。
また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。
さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。

10月に 住吉三神 の託宣によりお腹に子供 ( のちの 応神天皇 )を妊娠したまま 筑紫 から 玄界灘 を渡り 朝鮮半島 に出兵して 新羅 の国を攻めた。

その勢いは船が山に登らんばかりだったという。

新羅の王は 「吾聞く、東に日本という 神国 有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、 戦わずして降服し朝貢することを誓った。
皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、 また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。
新羅王の 波沙寐錦 は 微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、 さらに金・銀・絹を献上した。
これを見た 高句麗百済朝貢を約束した。

帰国した後の12月に 皇后は 筑紫誉田別尊 を出産した。
出産した土地を「生み」から転じて 宇美 という。
そして穴門の山田邑で 住吉三神 を祀った。 ( 住吉神社) )

200年(仲哀天皇9年) 天照皇大神宮 創建

天照皇大神宮 は 福岡県糟屋郡 久山町 猪野にある神社。

主祭神天照大神

概要

仲哀天皇9年 (200年) に 熊襲 征伐の途中、 仲哀天皇 は 「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣を疑ったために、 その祟りをうけ 香椎宮崩御したといわれる。
そのことを知った 神功皇后 は、 小山田の村に 斎宮 を建て、自ら神主となり、天照大神を祀ったとされる。

200年 (仲哀天皇9年) 大己貴神社 創建

大己貴神社 ( おおなむちじんじゃ) は 福岡県朝倉郡 筑前町にある神社。

主祭神 大己貴神 ( 大国主神 )

概要

日本書紀 によれば 神功皇后三韓征伐 の折り、 この地に 大三輪の神 を奉ったところ、 軍勢が集まり新羅 との戦いのため海を渡ったとする。

200年 (仲哀天皇9年) 住吉神社 創建

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 山口県 下関市 一の宮住吉にある神社。

主祭神住吉三神

概史

日本書紀 によれば 三韓征伐 の際、 新羅 に向う 神功皇后住吉三神神託してその渡海を守護し、 帰途、大神が「我が荒魂を穴門の山田邑に祀れ」と再び神託があり、 穴門直践立を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。

3世紀

201年 神功皇后 (31歳) 摂政 に

170年 (成務天皇40年) に 息長宿禰王 の王女として誕生。

開化天皇 の5世孫にあたる。

皇居は 磐余若桜

193年 (仲哀天皇2年) 1月 に 仲哀天皇 の皇后となる。

天皇の九州熊襲征伐に随伴する。200年(仲哀天皇9年)2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。『古事記』分注の没年干支では仲哀天皇崩御は西暦362年に比定される。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済高句麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。

翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である麛坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

熊襲征伐

仲哀天皇2年2月に 天皇の九州熊襲征伐に随伴する。

仲哀天皇9年2月に 天皇 崩御

3月に 遺志を継ぎ、熊襲征伐を達成する。

三韓征伐

200年 (仲哀天皇9年) 10月に 海を越えて新羅 へ攻め込み 百済高句麗 をも服属させる。

12月に 天皇の遺児である誉田別尊 ( 応神天皇 ) を出産。

忍熊王との戦い

仲哀天皇の嫡男、次男である 麛坂皇子忍熊皇子誉田別尊( 応神天皇 ) の誕生を知り、挙兵した。

忍熊皇子らとの滋賀付近での戦いで勝利し、 そのまま都に凱旋した。

この勝利により 神功皇后 は31歳で皇太后 摂政 となり、 誉田別尊を太子とした。

新羅再征

摂政47年に 新羅百済朝貢してきた。
百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。

摂政49年に 新羅を再征伐。

摂政62年に 新羅朝貢してこないので 葛城襲津彦 に征伐させる。

269年 (摂政69年) に 崩御。( 宝算 100)

陵所は 狹城盾列池上陵( 五社神古墳 ) ( 奈良県 奈良市 山陵町字宮ノ谷 )

明治時代までは 初の女性天皇とされていたが、 1926年 ( 大正15年 ) に 正式に歴代天皇から外された。

卑弥呼との関係

魏志倭人伝 にあらわれる卑弥呼神功皇后 とする説がある。

七支刀銘文

神功皇后52年に 百済肖古王 から 神功皇后 に七枝刀が献上された。 通説ではこの七枝刀とは 石上神宮 につたわる 七支刀 と考えられている。

系譜

祖父( 開化天皇 の曾孫 ) : 迦邇米雷王

父 : 息長宿禰王

母 : 葛城高顙媛

配偶者 : 仲哀天皇

第四皇子 : 応神天皇

211年 (神功皇后摂政11年) 住吉大社 創建

住吉大社 (すみよしたいしゃ) は 大阪府大阪市住吉区 住吉 にある神社。

主祭神住吉三神

創建

日本書紀 によれば 住吉三神(筒男三神)は 神功皇后新羅征討において皇后に託宣を下し、 その征討を成功に導いた

そして神功皇后摂政元年に 皇后は大和への帰還中に 麛坂皇子忍熊皇子 の反乱に遭い、 さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡」で祀るように託宣を下した。

そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。

通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され、 この記事をもって住吉大社の鎮座とされる。
日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、 帝王編年記 では 「神功皇后摂政11年」(211年) としており、 現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする。

247年 皆既日食

日食太陽 によって覆われ、 太陽が欠けて見えたり、 あるいは全く見えなくなったりする 天文現象 である。

月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を 皆既日食 という。

古代の日本で皆既日食が起こり 天の磐戸 の神話になったとされる。

国立天文台 より 『天の磐戸』日食候補について が公表されている。

天文学的な推測により 158年7月13日、 247年03月24日、 248年9月5日に 日食 が起こったとされる。

このうち 247年の日食は、北部九州や奈良盆地皆既日食として目撃された可能性がある。

卑弥呼の死と皆既日食

この頃に 卑弥呼 が死去している。

皆既日食卑弥呼の死に関係するという説がある。

参考 :「天の岩戸」の日食はあったのか

270年 15代 応神天皇 (70歳) 即位

200年(仲哀天皇9年)に 仲哀天皇 の第四皇子として誕生。

269年に 母の 神功皇后崩御する。 翌270年に 70歳で 即位。

皇居は 軽島豊明宮 ( 軽寺跡 )

離宮大隅宮 ( 大隅神社 )

国土開発と渡来人

在位中には様々な渡来人の来朝があった。

儒教漢字 が伝わったという。

即位11年に 武内宿禰 に命じて 「剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る」

即位40年に 大鷦鷯尊大山守皇子 に相談の上で 菟道稚郎子立太子

310年 (即位41年) に 崩御。( 宝算 111)

陵所は 惠我藻伏崗 ( 誉田御廟山古墳 ) ( 大阪府 羽曳野市誉田 )

系譜

父 : 仲哀天皇

母 : 神功皇后

皇后 : 仲姫命

第四皇子 : 仁徳天皇

妃 : 高城入姫命

皇子 : 額田大中彦皇子

皇子 : 大山守皇子

妃:宮主宅媛

皇子 : 菟道稚郎子皇子

4世紀

310年頃 大隅神社 創建

大隅神社 (おおすみじんしゃ) は 大阪市東淀川区 大桐 に鎮座する神社。

主祭神応神天皇

歴史

大隅島( 現 大阪市東淀川区 大隅 ) に 「応神天皇」の離宮 大隅宮 があった。 310年に 「応神天皇」が崩御すると、 里人が祠を建て帝を奉祀したという。

313年 16代 仁徳天皇 (42歳) 即位

271年 (応神天皇2年) に 応神天皇 の第四皇子として誕生。

310年 に 父帝が崩御する。

異母弟で皇太子の 菟道稚郎子 と互いに皇位を譲り合い、3年 空位となる。
( 即位 )

313年 に 太子の去により 42歳で即位。

皇居* は 難波高津宮

399年 (即位87年) に 崩御。(宝算 110)

墳墓は 仁徳天皇陵 ( 大仙陵古墳 )

4世紀末から5世紀前半に実在した可能性のある天皇

聖帝の治世

即位4年に 天皇が高い山から国を見渡すと、どの家にも煙が昇っていなかった。
これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知った。
そこで以後三年間、課税と労役を全てとりやめることにした

皇后の嫉妬

即位2年に 葛城襲津彦の娘で 武内宿禰 の孫にあたる 葛城磐之媛 を皇后とした。 仁徳天皇 は他にも多くの妃を持っていた。
なおかつ皇后の磐之媛命は嫉妬深い人物だったため、女性関係に悩むことになった。

即位30年 に 異母妹の 八田皇女を妃にしたため、 皇后が山背の筒城岡に別居

外交

即位12年に 高句麗朝貢

即位17年に 砥田宿禰 と賢遺臣を新羅に遣わす。

即位53年に 上毛野竹葉瀬 と 田道の兄弟に新羅征伐を命じる。

即位58年に 呉と高句麗朝貢

倭の五王への比定

宋書 に記される 倭の五王とする説がある。

系譜

父 : 応神天皇

母 : 仲姫命

皇后 : 葛城磐之媛

第一皇子 : 履中天皇

孫 : 磐坂市辺押磐皇子

第三皇子 : 反正天皇

第四皇子 : 允恭天皇

孫 : 安康天皇

孫 : 雄略天皇

皇子 : 住吉仲皇子

皇后 (後) : 八田皇女 (異母妹にあたる)

子女はいない

異母弟 : 菟道稚郎子

366年 第1次羅済同盟

百済近肖古王新羅奈勿尼師今 が、 高句麗に対抗するため同盟を結んだ。

371年に 近肖古王平壌高句麗故国原王 を戦死させるなどの戦果を挙げた。

しかし、4世紀末に 新羅高句麗に接近し同盟は壊れた。

369年 七支刀 制作

七支刀奈良県 天理市石上神宮 に伝来した古代の鉄剣である。

剣身の左右に段違いに3本ずつ、6本の枝刃を持つ特異な形状をしており、 権力や祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。

石上神宮ではその由来は遠い昔に忘れ去られ伝わっていない。

銘文によれば、 「 太和4年 (369年?) に 百済近肖古王 の 世子 近仇首王倭王 ( 仁徳天皇 ? ) のために百兵を退ける力をもった七支刀を作った 」

日本書紀 によれば 神功皇后52年 (252年?) に 肖古王から 神功皇后 に「七枝刀」が献上された。

391年 倭・高句麗戦争

倭・高句麗戦争古墳時代初期(4世紀終わりから5世紀に掛けて)に朝鮮半島で行われた倭と高句麗の間での戦争。

広開土王碑 文 によれば 391年以降、倭軍が海を渡って百済新羅など三韓諸国を幾度に渡って攻撃し、自らの勢力圏を徐々に広げた。

391年 高句麗 領土拡大

391年に 広開土王高句麗の王に即位すると 積極的に領土を拡大するようになる。

396年に 高句麗漢江 を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、 百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。

397年に 百済倭国との同盟を望み 阿莘王 の 太子 腆支王 を人質として倭に送り通好する。

397年 百済の腆支王 倭国の人質に

396年に 高句麗漢江 を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、 百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。

397年に 百済倭国との同盟を望み 阿莘王 の 太子 腆支王 を人質として倭に送り通好する。

応神天皇8年 (397年) に 百済の皇子直支の来朝

405年に 阿莘王が薨去する。

倭国で阿莘王の死を聞いた腆支王は、帰国することを 応神天皇 に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国し、 百済王として即位した。

400年 17代 履中天皇 (64歳) 即位

336年 (仁徳天皇24年) に 仁徳天皇 の第一皇子 として誕生。

399年に 父帝が崩御

同母弟の 住吉仲皇子皇位を奪おうとして叛するが、 同母弟の瑞歯別皇子 ( 後の反正天皇 ) に命じてこれを誅殺させる。

翌400年に 64歳で即位。

皇居は 磐余稚桜宮

405年 (即位6年) に 病気のため磐余稚桜宮で崩御。(宝算 70)

陵所 百舌鳥耳原南陵 (上石津ミサンザイ古墳 ) ( 大阪府堺市 西区 石津 )

5世紀前半に実在したと見られる天皇

系譜

父 : 仁徳天皇

母 : 磐之媛

皇妃:黒媛

第一皇子 : 磐坂市辺押磐皇子

孫 : 仁賢天皇

孫 : 顕宗天皇

同母弟 : 反正天皇

同母弟 : 住吉仲皇子

5世紀

402年 新羅の未斯欣 倭国の人質に

新羅 の 18代の王 実聖尼師今百済 に対抗するため、 百済と同盟関係にある倭国と和睦することで、 百済倭国 間に楔を打ち込むことができると考え、 たびたび侵攻を受けていた倭国と和睦することを選ぶ。

実聖王元年 (402年?) に 倭国と国交を結び、 先王 奈勿尼師今 の第3子の 未斯欣 を人質として 倭国に送った。

19代の王 訥祇麻立干 が従来の人質外交政策を転換する。

神功皇后5年 (205年?) に 神功皇后 は 本国に一時帰国したいという「微叱己知」の願いを聞き入れて 葛城襲津彦 を監視に付ける。

救出のために派遣された 朴堤上 の機転によって葛城襲津彦の監視の目を誤魔化し、「微叱己知」の救出に成功した。

406年 18代 反正天皇 即位

誕生

生年不詳 仁徳天皇 の第三皇子 として誕生。

399年に 父帝が崩御

住吉仲皇子誅殺

叛乱を起こした 同母弟の住吉仲皇子 を その近習である 曽婆訶理 を利用して誅殺した。

即位

405年 に 同母兄の 履中天皇崩御する。

翌406年に 即位。

兄弟継承した初の天皇

皇居は 丹比柴籬宮 ( 柴籬神社 ) ( 大阪府 松原市 上田 )

410年 (在位5年) に 皇太子を立てないまま崩御

陵所は 百舌鳥耳原北陵 ( 田出井山古墳 ) ( 、大阪府堺市 堺区三国ヶ丘町 )

5世紀前半に実在したと見られる天皇

系譜

父 : 仁徳天皇

母 : 皇后 磐之媛命

皇夫人 : 津野媛

皇女 : 香火姫皇女

同母弟 : 住吉仲皇子

412年 19代 允恭天皇 (36歳) 即位

376年 (仁徳天皇64年) に 仁徳天皇 の第四皇子として誕生。

即位

410年 に 同母兄の 反正天皇 が 皇太子を定めずして崩御する。

群臣の相談により天皇に推挙されたが、 病気を理由に再三辞退して空位が続いた。

412年に 妻の 忍坂大中姫 の強い要請を受け 36歳で 即位。

皇居は 遠飛鳥宮

盟神探湯

即位4年に 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、 飛鳥甘樫丘 にて 盟神探湯 を実施する。

即位5年に 玉田宿禰 の叛意が露顕、 これを誅殺する。

453年 (即位42年) に 崩御。(宝算 78)

陵所は 惠我長野北陵( 市ノ山古墳 ( 大阪府 藤井寺市 )

5世紀前半に実在したと見られる天皇

系譜

父 : 仁徳天皇

母 : 磐之媛命

皇后:忍坂大中姫

第一皇子 : 木梨軽皇子

第三皇子 : 安康天皇

第五皇子 : 雄略天皇

孫 : 清寧天皇

416年 (允恭天皇5年) 允恭地震

允恭地震日本書紀 に記された記録の残る日本最古の 歴史地震

地震そのものの状況や被害の様子は記されていない。

433年 第2次羅済同盟

百済毗有王新羅訥祇麻立干 が、 高句麗の南進政策に脅威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。

475年に 高句麗長寿王 の攻撃を受けて、 百済の首都 漢城 が陥落し 蓋鹵王 も戦死し、 いったん百済は滅んだとされる。

しかし、文周王新羅の助けにより 熊津 に遷都しており、同盟は以後も続く

493年に 百済東城王新羅と婚姻関係を結んだ。

551年に 百済聖王 は、 百済新羅伽耶 の連合軍により、高句麗から 漢江 流域を取り戻した。

しかし、553年に 新羅真興王百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。

554年に 「聖王」が新羅との戦いで戦死し、 以後、百済の滅亡まで両国は敵対関係を続けた。

454年 20代 安康天皇 (53歳) 即位

401年 (履中天皇2年) に 允恭天皇 の第二皇子として誕生。

即位

453年に 父帝が崩御する。

454年に 群臣の支持を失っていた太子で同母兄の 木梨軽皇子 に替わって 53歳で即位。

石上穴穂宮に都を遷す。

根使主の讒言

即位元年に 根使主 の讒言を信じて おじの 大草香皇子 を誅殺。

即位2年に 大草香皇子の妃であった 中蒂姫 を皇后に立てた。

眉輪王の復讐

456年 (即位3年) に 大草香皇子の子で 皇后の連れ子の 眉輪王 に暗殺されて 崩御した。(宝算 56)

陵所は 菅原伏見西陵

暗殺されたと明確に記された最初の天皇である。

倭の五王

中国の 宋書 に記される 倭の五王 中の に比定されている。

系譜

父 : 允恭天皇

母 : 忍坂大中姫

皇后 : 中蒂姫命

皇子女なし

455年 (安康天皇2年) 牟佐坐神社 創建

牟佐坐神社(むさにますじんじゃ) は 奈良県 橿原市 にある神社である。

主祭神高皇産霊神

孝元天皇 の 皇居 「軽境原宮」の跡地に当たるとして 境内に「軽境原宮阯」碑 が建てられている。

創建

安康天皇 の時代に、 渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりとされている。

456年 21代 雄略天皇 (38歳) 即位

即位前

418年 (允恭天皇7年) に 允恭天皇 の第五皇子として誕生。

即位

456年 に 同母兄の 安康天皇 が暗殺され崩御する。

同年 に 帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後 38歳で即位した。

皇居は 泊瀬朝倉宮

専制

平群真鳥 を大臣に、 大伴室屋物部目 を大連に任じた。

大伴氏物部氏 の二氏を自身の軍事的背景として、 それまでの有力豪族との連合政権的な性格をもった大和政権の体制を専制的な体制へと転換した。

神事

即位9年に 凡河内直香賜采女宗像大社 へ神を祀るため遣わした。

外交

即位8年に 新羅の求めに応じて 日本府 軍が 高句麗 を破る。

即位9年に 新羅に軍隊を送り込んだが、 将軍の紀小弓が戦死してしまった上に内部分裂で敗走した。

即位20年に 高句麗倭国と友好関係にあった 百済 を攻め滅ぼした。

即位21年に 天皇任那から久麻那利の地を 汶洲王 に与えて百済を救い興したという。

崩御

即位22年1月に 白髪皇子 ( 後の 清寧天皇 ) を皇太子とした。

即位23年8月に 病のため崩御。(宝算 62)

陵所は 丹比高鷲原陵 ( 島泉丸山古墳 ) ( 大阪府 羽曳野市島泉 )

実在した最古の天皇とされる。

獲加多支鹵大王

稲荷山古墳)より出土した 稲荷山古墳出土鉄剣 により 5世紀末に 雄略天皇 が実在したとされる。

倭王 武

宋書 に記された 倭の五王 とする説がある。

系譜

皇后:草香幡梭姫皇女

子女 なし

妃:葛城韓媛

第三皇子 : 清寧天皇

妃:吉備稚媛

第一皇子 : 磐城皇子

第二皇子 : 星川皇子

461年 百済の昆支王 倭国の人質に

百済の 第21代の王 蓋鹵王 は 中国 南朝 と通じるとともに 新羅倭国と同盟して 高句麗 に対抗するという、 百済の伝統的外交政策を維持するのに努めた。

461年 (雄略天皇5年) に 蓋鹵王は 弟の 昆支王 に 自身の夫人を一人賜り、 人質として倭国に送った。

その夫人が 筑紫加唐島男児を産んだ。

この男児は「嶋君」と名付けられて、母子ともに百済に送り返され、 後の 25代 武寧王 となった。

昆支王は宮廷に入ったが、この時既に5人の子があった。

479年 (雄略天皇23年) に 百済の23代 三斤王 が急死した。

雄略天皇 は 昆支王の5人の子供のなかで、第2子の「末多王」が幼少ながら聡明だったので、 筑紫の軍士500人を付けて「末多王」を百済に帰国させ、王位につけた。

これが 24代 東城王 である。

463年 吉備氏の乱

吉備上道田狭新羅 と結託して大和朝廷に対して起こした反乱である

479年星川皇子の乱

星川稚宮皇子 が 吉備上道臣一族の支援の元に、 雄略天皇 亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変である。

480年 22代 清寧天皇 (36歳) 即位

444年 (允恭天皇33年) に 雄略天皇 の第三皇子として誕生。

仁徳天皇 の 曾孫 にあたる。

星川皇子の乱

479年 に 父帝が崩御

吉備氏 の母を持つ 異母兄の 星川皇子 が権勢を縦にしようと 大蔵 を占拠したため、 大伴室屋東漢直掬 らにこれを焼き殺させる。

翌480年に 36歳で 即位。

皇居は 磐余甕栗宮

億計と弘計の発見

即位2年に 皇子がいないことを気に病んでいたところ 仁徳天皇 の孫の 市辺押磐皇子 の子である 億計王(後の仁賢天皇 ) 、 弘計王(後の顕宗天皇 )の兄弟が 播磨 で発見されたと報告を受ける。

翌年に 天皇の はとこ (仁徳天皇の曾孫) にあたる 二人を宮中に迎え入れ 兄の 億計王を 東宮、 弟の 弘計王を 皇子とした。

484年 (即位5年) に 崩御。(宝算 40)

陵所は 河内坂門原陵 ( 白髪山古墳 ) ( 大阪府 羽曳野市 西浦 )

系譜

曽祖父 : 仁徳天皇

祖父 : 允恭天皇

父 (仁徳天皇の孫) : 雄略天皇

母 : 葛城韓媛

后妃なし。

皇子女もなし。

従叔父 (仁徳天皇の孫) : 市辺押磐皇子

再従兄弟 : 億計王 ( 仁賢天皇 )

再従兄弟 : 弘計王 ( 顕宗天皇 )

485年 23代 顕宗天皇 即位

生年不詳 履中天皇 の長子である 市辺押磐皇子 の第三子として誕生。

仁徳天皇 の曾孫にあたる。

亡命と帰還

456年 に 安康天皇 が暗殺される。

その後の後継者争いで父が即位前の 雄略天皇 に殺されたため、 同母兄の 億計王 ( 後の仁賢天皇 ) と共に身を隠す。

479年に 雄略天皇崩御する。

雄略の子の 清寧天皇 が即位した際、 兄の億計王と共に命がけで皇族であることを現して無事に皇子と認められる。

484年に 清寧天皇崩御する。 太子は兄の億計皇子だったが皇位を譲られて即位。

皇居 近飛鳥八釣宮

復讐と断念

父の仇である雄略天皇への復讐を試みたが兄に諫められ思いとどまった。

487年 (即位3年) に 崩御。(宝算 38)

陵所 傍丘磐坏丘南陵

考証

億計・弘計2王の発見譚は典型的な貴種流離譚 であるため、 実在しない架空の人物とする説がある。

系譜

曽祖父 : 仁徳天皇

祖父 : 履中天皇

父 (仁徳天皇の孫) : 市辺押磐皇子

母 : 荑媛

皇后 : 難波小野王

皇子女なし

同母兄 : 億計王 ( 後の仁賢天皇 )

従叔父 (仁徳天皇の孫) : 雄略天皇

再従兄弟 : 清寧天皇

488年 24代 仁賢天皇 即位

生年不詳 履中天皇 の長子である 市辺押磐皇子 の第二子として誕生。

仁徳天皇 の曾孫にあたる。

456年 に 安康天皇 が暗殺される。

その後の後継者争いで父が即位前の 雄略天皇 に殺されたため、 同母弟の 弘計王 ( 後の 顕宗天皇 ) と共に身を隠す。

479年に 雄略天皇崩御する。

雄略の子の 清寧天皇 が即位した際、 弟の 弘計王と共に命がけで皇族であることを現して無事に皇子と認められ太子になった。

484年に 清寧天皇崩御する。 弟の弘計皇子 (顕宗天皇) に皇位を譲って 太子のままでいた。

487年 に 弟の顕宗天皇崩御する。

翌488年 即位。

皇居 石上広高宮

即位6年に 高麗 へ日鷹吉士を遣わし、 皮の工匠などの手工業者を招いたという。

即位7年に 皇子の 小泊瀬稚鷦鷯尊 ( 後の 武烈天皇 ) を皇太子に定める。

498年 (即位11年) に 崩御。(宝算 51)

陵所 埴生坂本陵 ( ボケ山古墳 ) ( 大阪府 藤井寺市 青山 )

考証

億計(仁賢天皇)・弘計(顕宗天皇)2王の発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、 実在しない架空の人物とする説がある。

系譜

曽祖父 : 仁徳天皇

祖父 : 履中天皇

父 (仁徳天皇の孫) : 市辺押磐皇子

母 : 荑媛

皇后 : 春日大娘皇女

皇子 : 武烈天皇

同母弟 : 顕宗天皇 )

従叔父 (仁徳天皇の孫) : 雄略天皇

再従兄弟 : 清寧天皇

499年 25代 武烈天皇 即位

生年不詳 仁賢天皇 の皇子として誕生。( 小泊瀬稚鷦鷯尊)

495年に 仁賢天皇は 皇子の 小泊瀬稚鷦鷯尊 を皇太子に定める。

498年 に 仁賢天皇崩御する。

その後、大臣の 平群真鳥 が国政をほしいままにした。

大伴金村 などは、それを苦々しく思っていた。

皇太子は、 物部麁鹿火 の娘の影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、 影媛は既に真鳥大臣の子の 平群鮪 と通じていた。

海柘榴市歌垣 において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、 大伴金村をして鮪を乃楽山に誅殺させ、 11月には 真鳥大臣をも討伐させた。

499年に 即位する。

泊瀬列城に都を定め、 大伴金村大連 とした。

506年 (武烈天皇8年) に 崩御。(宝算 不詳)

陵所は 傍丘磐坏丘北陵

考証

悪虐非道の暴君として伝えられているが、その行跡が事実であるか議論がある。

また実在性そのものについても議論がある。

世系

父 : 仁賢天皇

母 : 春日大娘皇女

皇后 : 春日娘子

皇子女なし

6世紀

507年 第26代 継体天皇 即位

450年頃に 彦主人王 の子として誕生。

応神天皇 の5世来孫にあたる。

越前国 を治めていた。

506年 に 四従兄弟にあたる 武烈天皇 が後嗣を残さずして崩御した。

翌507年 に 大伴金村物部麁鹿火 などの推戴を受けて 58歳にして 河内国 樟葉宮( 現大阪府 枚方市 において即位した。

仁賢天皇 の皇女で 武烈天皇 の姉にあたる 手白香皇女 を皇后とした。

継体にはすでに多くの子がいたが、 手白香皇女との間に生まれた 天国排開広庭尊 ( 後の欽明天皇 ) を嫡男とした。

その後19年間は大倭入りせず 511年に 筒城宮(現京都府京田辺市)、 518年に 弟国宮(現京都府長岡京市)を経て 526年に 磐余玉穂宮(現奈良県桜井市)に遷った。

翌 527年に 百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、 新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、 その平定に苦心している。( 磐井の乱 )

531年 3月10日に 皇子の勾大兄( 後の 安閑天皇 )に譲位し、 その即位と同日に崩御した。(宝算 82)

陵所は 三島藍野陵 ( 太田茶臼山古墳 ) ( 大阪府 茨木市 太田 )

継体天皇の実在性については現在も議論が続いている。

系譜

父 : 彦主人王

母 : 振媛

皇后 : 手白香皇女

嫡男 : 欽明天皇

夫人 : 尾張目子媛

長子 : 安閑天皇

第二子 : 宣化天皇

510年頃 足羽神社 創建

足羽神社(あすわじんじゃ)は 福井県 福井市 足羽に鎮座する神社である。

主祭神継体天皇

由緒

継体天皇が男大迹王皇子として越前にいた時、大宮地の霊を祀ったという。
大宮地の霊とは宮中の座摩5座の神であり、足羽神はその1座である。 奉斎した後、 越後平野の治水工事を起こし、 即位して大和に上る時に自分の活霊も祀り、 祭事を馬来田皇女に託した。

石碑・石造物

継体天皇御世系碑

1847年に 国学者 田中大秀 の起案を受けて 門弟らにより建立された。

512年 任那4県割譲

高句麗によって国土の北半分を奪われた 百済 からの 任那 4県割譲要請を受けて、 大伴金村 はこれを承認する代わりに 五経博士 段楊爾 を渡来させた。

524年 新羅任那 侵攻

新羅任那 への 侵攻を開始した

百済倭国へ救援要請を行った。

528年 磐井の乱

磐井の乱 は 527年に 百済 の救援要請を受けて 朝鮮半島南部へ出兵しようとした 近江毛野 率いる大和朝廷軍の進軍を 筑紫君磐井 が妨害し、 翌528年に 物部麁鹿火 によって鎮圧された反乱。

529年 近江毛野 任那 派遣

磐井の乱 の後、 529年に 大和朝廷は再び 近江毛野任那安羅 へ派遣し、 新羅 との領土交渉を行わせた。

安羅に到着した「毛野」は 新羅との間で領土交渉を行った。

しかし、「毛野」は驕慢な振る舞いが多く新羅百済 両国王を召し出そうとしたが、 両者が応じず失敗。

「毛野」は常に人民を悩まし、和解することがなかったという。

朝廷から帰還の命令が出されたが「毛野」は無視した。

同年に 新羅の 将軍 異斯夫 は 卓淳国の熊川で「毛野」を攻撃して追い払った。

翌530年に 朝廷から再び帰還の命令が出されされて「毛野」は応じるも、その帰途 対馬国 で病死した。

531年 27代 安閑天皇 (66歳) 即位

466年に 継体天皇 の第一子として誕生。

531年に 父帝より譲位され、66歳にして即位した

皇居は 勾金橋宮 ( 奈良県 橿原市 曲川町 )

治世

関東から九州までの 屯倉の大量設置。

41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部 の設置。

536年 (即位5年)に 崩御した。(宝算 70)

陵所は 古市高屋丘陵 ( 高屋築山古墳 ) (大阪府 羽曳野市 古市 )

系譜

父 : 継体天皇

母 : 尾張目子媛

皇后 : 春日山田皇女

皇子女なし

532年 金官国 滅亡。

金官国 は 現在の韓国慶尚南道 金海市 に有ったとされ、 その前身は 三国志) の 狗邪韓国 であると考えられている。
前期 伽耶 連盟の盟主的な立場にあった。

金官国安羅国卓淳国伽耶 南部の連合を結び、 百済 との同盟関係を継続した。

520年代後半になると 新羅 の 将軍 異斯夫 らの侵攻を受けた。

532年に 金官国仇衡王 が降伏した。 妻子とともに新羅の王都に遷され、貴族である真骨身分と 金姓 を与えられた。

535年 クラカタウの大噴火

クラカタウ
インドネシアジャワ島スマトラ島 の中間、 スンダ海峡 にある火山島の総称である。

535年の大噴火

世界各地に異常気象をもたらした。

その痕跡は樹木の年輪や極地の火山灰の堆積のような物的なものから歴史文書に至るまで広範囲に亘っている。

536年 28代 宣化天皇 (69歳) 即位

467年に 継体天皇 の第二子として誕生。

536年 に 同母兄の 安閑天皇崩御する。

同年に 安閑に子どもがなかったために、69歳にして即位した。

治世

筑紫官家 の整備を行う。

大伴金村 に命じて 新羅 に攻められている 任那 に援軍を送った。

即位元年(536年)に 蘇我稲目 が大臣となり、 子の 蘇我馬子 以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。

即位3年(539年)に 崩御した。 (宝算 73)

陵所は 身狹桃花鳥坂上陵 ( 鳥屋見三才古墳 ) ( 奈良県 橿原市 鳥屋町字見三才 )

系譜

父 : 継体天皇

母 : 目子媛

皇后:橘仲皇女

皇女: 石姫皇女

同母兄 : 安閑天皇

538年 仏教公伝

仏教公伝 は 国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す

仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あり、 現在では538年 説 が有力とされている。

これ以前より 渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきている。

539年 29代 欽明天皇 (30歳) 即位

509年に 継体天皇 の第三子として誕生。(天国排開広庭尊)

母は 手白香皇女仁賢天皇 皇女)

継体にはすでに多くの子がいたが、手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊を嫡男とした。

即位

539年 に 異母兄の 宣化天皇崩御する。

同年12月に 安閑天皇 の皇后であった春日山田皇女 の推薦により 30歳で 即位した。

皇居は 難波祝津宮

大臣・大連

大伴金村物部尾輿を大連とし、 蘇我稲目宿禰 を大臣としたが、 直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。

任那

百済聖明王 とは 541年より 任那の復興について協議していたが、 戦況は百済側に不利であった。

562年に 新羅軍は任那を滅ぼしてしまう。

仏教公伝

552年 (欽明天皇13年) に 百済から仏像と経文が伝来したのが日本への本格的な仏教伝来とされる。

571年に 崩御。 (宝算 62)

陵所は 檜隈坂合陵 ( 梅山古墳 ) ( 奈良県高市郡 明日香村 平田 )

系譜

父 : 継体天皇

母 : 手白香皇女

皇后:石姫皇女

第一皇子 : 箭田珠勝大兄皇子

第二皇子 : 敏達天皇

妃:堅塩媛

第四皇子 : 用明天皇

皇女 : 額田部皇女 ( 推古天皇 )

妃:小姉君

第十二皇子 : 崇峻天皇

541年 任那復興会議

532年に 新羅任那金官国 を滅ぼした。

541年より 欽明天皇百済聖明王任那 の復興について協議していたが、 戦況は百済側に不利である。

552年に 平壌漢城 を放棄。

562年に 新羅任那を滅ぼす。

552年 蘇我稲目 向原寺 創建

向原寺(こうげんじ)は 奈良県高市郡 明日香村 にある 浄土真宗本願寺派 の寺院。

本尊は 阿弥陀如来

開基は 蘇我稲目

歴史

日本書紀 によれば 欽明天皇13年 (552年) に 百済聖王 から献上された仏像を、 蘇我稲目が小墾田の家に安置し、 その後向原の家を浄め捨ひて寺とした。

562年 任那 滅亡

562年に 新羅 によって 任那任那日本府が滅ばされた。

これに激怒した 欽明天皇新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。

572年 30代 敏達天皇 (34歳) 即位

538年に 欽明天皇 の第二皇子として誕生。

即位

欽明天皇13年 (552年?) に 同母兄 箭田珠勝大兄皇子薨去する。

欽明天皇15年 (554年) に 皇太子となる。

571年に 父の欽明天皇崩御する。

翌572年に 34歳で即位。

敏達天皇4年 (575年) 1月 に 息長真手王 の女 広姫 を皇后とした。

同年11月に 広姫は崩御

敏達天皇4年5年 (576年) に 16歳年下と言われる異母妹の 額田部皇女 ( 後の推古天皇 ) を改めて皇后に立てた。

皇居

初め 百済大井宮 ( 奈良県 広陵町 )

575年 (即位4年) に 卜占 の結果に従い、 訳語田幸玉宮 ( 他田坐天照御魂神社 ) ( 奈良県 桜井市 ) へ遷った。

大臣・大連

物部守屋 がそのまま大連を引き継ぎ、 蘇我馬子 が大臣になった。

外交

欽明天皇の遺言である 任那 復興を目して 百済 と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった。

仏教政策

敏達天皇は廃仏派寄りであり、 廃仏派の 物部守屋中臣氏 が勢いづき、 それに崇仏派の 蘇我馬子 が対立するという構図になっていた。

585年 (即位14年) に 崩御。 (宝算 48)

陵所は 河内磯長中尾陵 ( 太子西山古墳 ) ( 大阪府南河内郡 太子町 大字太子 )

系譜

父 : 欽明天皇

母: 石姫皇女

皇后 (前) : 広姫

第一皇子 : 押坂彦人大兄皇子

孫 : 舒明天皇

皇后 (後) : 額田部皇女 ( 推古天皇 ) (異母妹にあたる)

皇子 : 竹田皇子

皇子 : 尾張皇子

同母兄 : 箭田珠勝大兄皇子

574年 (敏達天皇3年) 宇美八幡宮 創建

宇美八幡宮 ( うみはちまんぐう ) は 福岡県糟屋郡 宇美町宇美にある神社。

主祭神応神天皇

安産の神として信仰される。

歴史

社伝によれば 神功皇后三韓征伐 からの帰途に 「応神天皇」を産んだ地に、 敏達天皇3年(574年)に 「応神天皇」を祀ったのに始まる。

578年 金剛組 創業

金剛組大阪府大阪市天王寺区に本社を置く、日本の建設会社である。

聖徳太子 四天王寺建立のため招聘した 宮大工 金剛重光が 創業した世界最古の企業である。

585年 仏教弾圧

病になった大臣 蘇我馬子敏達天皇 に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

物部守屋中臣勝海 は 蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

天皇は仏法を止めるよう詔した。

守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませた。

参考: 崇仏論争

585年 31代 用明天皇 即位

生年不詳 欽明天皇 の第四皇子として誕生。

即位および政策

585年 に 異母兄の 敏達天皇崩御する。

同年10月に 即位。’

皇居は 磐余池辺雙槻宮

用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじ、 実質、王朝において仏教を公認、 それが後の 推古天皇 以降の仏教隆盛につながった。

587年 (即位2年) に 天然痘のため崩御した。(宝算 36)

陵所は 河内磯長原陵 ( 春日向山古墳 ) ( 大阪府南河内郡太子町)大字春日 )

系譜

父 : 欽明天皇

母 : 堅塩媛

皇后:穴穂部間人皇女 (異母妹にあたる)

第二皇子:厩戸皇子 ( 聖徳太子 )

嬪:石寸名

第一皇子 : 田目皇子

異母兄 : 敏達天皇

585年 萬弘寺 創建

萬弘寺(まんこうじ)は 大分県 大分市 坂ノ市にある 臨済宗妙心寺派 の寺院である。

本尊は 如意輪観世音菩薩

開基は 用明天皇

沿革

寺伝によれば 用明天皇元年 (585年) 10月に 皇子であった 用明天皇 が密かに九州を巡幸した際、 当地にて難病を患った。
そこで、 豊国法師薬師如来 像を彫って加持祈祷を行うと、 皇子の病状は回復し、 無事に都に戻って皇位を継承し天皇となった。
萬弘寺はこの際に病気平癒の祈願所として創建されたといわれる。

586年 他田坐天照御魂神社 創建

他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)は 奈良県 桜井市 にある神社である。

主祭神天照御魂命

概史

かつてこの地には 敏達天皇 の宮である「訳語田幸玉宮」があったとされる。

587年 32代 崇峻天皇 (34歳) 即位

553年 欽明天皇 の第十二皇子として誕生。

即位

587年 に 異母兄の 用明天皇崩御する。

同年9月に 大臣の 蘇我馬子によって推薦され 34歳で 即位した。

暗殺

592年 に 蘇我馬子によって 暗殺される。

日本史の中で、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。

陵所は 倉梯岡陵 ( 奈良県 桜井市 大字倉橋 )

系譜

父 : 欽明天皇

母 : 小姉君

妃:小手子

第三皇子 : 蜂子皇子

異母兄 : 用明天皇

587年 丁未の乱

丁未の乱 は、飛鳥時代に起きた内乱である。

仏教の礼拝を巡って 大臣 蘇我馬子 と対立した 大連 物部守屋 が戦い、 物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。

588年 蘇我馬子 飛鳥寺 建立

飛鳥寺 (あすかでら) は 奈良県高市郡 明日香村 飛鳥にある 真言宗豊山派の寺院。

本尊は 釈迦如来 ( 飛鳥大仏 ) 。

開基は 蘇我馬子

本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。

創建

日本書紀 によると、 飛鳥寺用明天皇2年(587年)に 「蘇我馬子」が建立を発願したものであるという。

馬子は排仏派の 物部守屋 と対立していた。
馬子は守屋との戦い ( 丁未の乱 ) に際して勝利を祈念し、 「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。

大和時代の出来事

大和時代の出来事を年表にまとめた。

大和時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 弥生時代

後は 飛鳥時代

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参考

大和時代の概要

古墳時代 と呼称することもある。

3世紀から5世紀にかけて 前方後円墳 に代表される 古墳 が盛んに造られた時代である。

大和 は 日本の古称であり、 ヤマト王権 が 大和の地(現在の奈良県) に在ったことに由来する

広義の大和時代は 初代神武天皇 即位 (紀元前660年) から 平城京 遷都(710年) までの期間に ヤマト王権により 古代国家を形成していった時代である。

この時代の記録は 古事記日本書紀 によるものであり、 神話的な内容も多い。

この記事では 実在した最古の天皇とされる 雄略天皇 が即位したとされる 456年から 推古天皇 が即位し 聖徳太子 が摂政になった 593年までの 137年間の出来事について記述する。

古代日本の大まかな歴史

3世紀から6世紀にかけて の大まかな歴史

3世紀: 邪馬台国

三国志魏志倭人伝 に伝わる 3世紀ごろの倭国内の国の一つ。

3世紀: 三韓征伐

3世紀に 神功皇后新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。

空白の4世紀

日本は当時まだ文字が普及しておらず、唯一の歴史情報源である中国の文献においても、 中国自体の政治的混乱などから266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、 日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている。

5世紀: 倭の五王

中国南朝 の正史宋書 に登場する 5世紀の 倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武をいう。

倭の五王記紀 における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある。

武を 雄略天皇 とする説がある。

6世紀: 古代国家の成立

安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、 地域国家から脱して初期国家を形成していった。

大和時代の国際関係

中国は 南北朝時代であり 華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。

5世紀に 倭の五王 が 宋に 遣使入貢 した。

朝鮮半島三国時代 であり 高句麗百済新羅の三国が鼎立した。

日本は百済とは友好的で、 高句麗新羅とは敵対的あった。

4世紀以降、日本は 朝鮮半島で鉄資源の供給地として 任那 地域などに進出した。

391年に 倭・高句麗戦争

463年に 日本は 任那国司を派遣し 吉備氏の乱 となる。

527年に 日本は 朝鮮半島への派兵を行い 国内にて 磐井の乱 となる

大和時代の文化

朝鮮半島で得た鉄資源から、甲冑、武器、農具、工具などが造られた。

大陸からは文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。

578年に 四天王寺 建立のため 日本最古の企業である 金剛組 創業

588年に 日本最初の仏教寺院である 飛鳥寺 創建

593年に 四天王寺 建立

大和時代の出来事

前史

朝鮮半島高句麗百済新羅の三国が鼎立していた。

336年 第1次羅済同盟

百済近肖古王新羅奈勿尼師今が、 高句麗に対抗するため同盟を結んだ。

391年 倭・高句麗戦争

391年以降、倭軍が海を渡って百済新羅など三韓諸国を幾度に渡って攻撃し、自らの勢力圏を徐々に広げた。

参考: 広開土王碑

朝鮮半島の状況

391年に 広開土王高句麗の王に即位すると 積極的に領土を拡大するようになり 百済に攻勢を取った。

396年に 漢江 を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、 百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。

397年に 百済倭国との同盟を望み 阿莘王 の 太子 腆支王 を人質として倭に送り通好する。

405年に 阿莘王が薨去すると、いったんは阿莘王の次弟の訓解(くんかい)が政治をみて腆支王の帰国を待ったが、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して王位を簒奪した。

倭国で阿莘王の死を聞いた腆支王は、哭泣するとともに帰国することを 応神天皇 に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。

百済国人は碟礼を殺して腆支王を迎え入れ、百済王として即位した。

433年 第2次羅済同盟

百済毗有王新羅訥祇麻立干 が、 高句麗の南進政策に脅威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。

475年に 高句麗長寿王の攻撃を受けて、 百済の首都 漢城 が陥落し 蓋鹵王 も戦死し、 いったん百済は滅んだとされる。

しかし、文周王新羅の助けにより熊津 に遷都しており、同盟は以後も続く

493年に 百済東城王新羅と婚姻関係を結んだ。

551年に 百済聖王 は、 百済新羅伽耶 の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した。

雄略天皇以降の大和時代

457年 雄略天皇 即位

479年(允恭天皇7年)に 允恭天皇 の第五皇子として誕生。

457年(安康天皇3年)に 兄である 安康天皇崩御すると、 帝位継承の邪魔となる 兄の白彦・黒彦や 従兄の 市辺押磐皇子 御馬皇子 を粛清した後 即位した。

実在した最古の天皇とされる。

参考: 初期天皇の実在性

それまでの有力豪族との連合政権的な性格をもったヤマト王権の体制を 専制的な体制へと転換したとされる。

養蚕の推奨、新羅 への出兵、 への遣使などの政策を積極的に実施した。

463年 吉備氏の乱

吉備上道田狭新羅 と結託して大和朝廷に対して起こした反乱である。

主な原因は 雄略天皇 が、 田狭を国司として 任那 に派遣している間に 妻の稚媛 を奪ったためである。  

479年星川皇子の乱

星川稚宮皇子 が 吉備上道臣一族の支援の元に、 雄略天皇 亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変である。

480年 清寧天皇 即位

444年(允恭天皇33年)に 雄略天皇 の第三皇子として誕生。

479年(雄略天皇23年) に 父の 雄略天皇崩御すると、 星川皇子の乱 となる。

翌480年(雄略天皇24年)に 即位する。

億計と弘計の発見

即位したが、子を望めず後継者がいないことに悩まされていた。

即位2年に 父の 雄略天皇 が即位前に暗殺した 市辺押磐皇子 の子で 行方不明になっていた 億計王弘計王 の兄弟が 播磨で発見される。

天皇はこれを非常に喜び、 二人を宮中に迎え入れて皇子と認め、億計皇子を太子に立てた。

485年 顕宗天皇 即位

450年(允恭天皇39年) に 履中天皇 の長子である 市辺押磐皇子 の第三子として誕生する。(弘計王)

457年(安康天皇3年)に 父の市辺押磐皇子が 即位前の 雄略天皇 により殺害され、 兄の 億計王 と供に逃亡する。

483年(清寧天皇3年)に 兄の億計王が 清寧天皇 の太子になる。

485年(清寧天皇5年)に 清寧天皇崩御すると 兄で太子の億計皇子から皇位を譲られて 即位する。

488年 仁賢天皇 即位

449年(允恭天皇38年) に 履中天皇 の長子である 市辺押磐皇子 の第二子として誕生する。 (億計王)

457年(安康天皇3年)に 父の市辺押磐皇子が 即位前の 雄略天皇 により殺害され、 弟の 弘計王と供に逃亡する。

483年(清寧天皇3年)に 清寧天皇 の太子になる。

485年(清寧天皇5年)に 清寧天皇崩御すると 弟の弘計王に皇位を譲り 弘計王が即位する。( 顕宗天皇 )

488年(顕宗天皇3年)に 弟の顕宗天皇崩御すると 即位する。

仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。

499年 武烈天皇 即位

450年(仁賢天皇2年)に 仁賢天皇 の皇子として誕生する。

499年(仁賢天皇11年)に 父 仁賢天皇崩御し 即位する。

武烈天皇の実在性

悪虐非道の暴君として伝えられているが、 日本書紀古事記 の違いが大きく、 事実であるか議論がある。

また、実在性そのものについても議論がある。

507年 継体天皇 即位

450年(允恭天皇39年) に 応神天皇 玄孫の 彦主人王 の皇子として 近江国 高嶋郷三尾野 (滋賀県 高島市) で誕生する。(男大迹王)

506年(武烈天皇8年) に 武烈天皇 が後嗣を定めず崩御し たため、 大臣 巨勢男人 ら有力豪族が協議し、 男大迹王 を推戴しようとした。

近江に迎えに行くと 最初は辞退した。

翌507年に 58歳にして 河内国 樟葉宮 (現大阪府 枚方市) において 即位した。

527年に 磐井の乱

512年 任那4県割譲

高句麗によって国土の北半分を奪われた 百済 からの 任那 4県割譲要請を受けて、 大伴金村 はこれを承認する代わりに 五経博士 段楊爾 を渡来させた。

524年 新羅任那 侵攻

新羅任那 への 侵攻を開始した

百済倭国へ救援要請を行った。

527年 磐井の乱

527年に 継体天皇百済 からの救援要請に応えて 近江毛野任那 奪還の派兵を命じる。

毛野 率いる 大和朝廷 軍が九州に進軍すると、 新羅 に味方する 筑紫君磐井 に妨害される。

翌528年に 物部麁鹿火 によって鎮圧される。

529年 近江毛野 任那 到着

任那安羅 に到着した 近江毛野 は調停を目指して 新羅 との間で領土交渉を行った。

しかし、毛野は驕慢な振る舞いが多く新羅百済 両国王を召し出そうとしたが、 両者が応じず失敗。

その打開策として、洛東江 の河口岸の金官(そなら)・背伐(へほつ)・安多(あた)・委陀(わだ)、もしくは多多羅(たたら)・須那羅(すなら)・和多(わた)・費智(ほち)の4村を掠め取ったという。

さらに、日本人と任那人との子供の認知訴訟で、 誓湯 (うけいゆ)を行い、 多くの人の手をただれさせて死に追いやったり、 吉備韓子那多利 (きび の からこ なたり)・斯布利(しふり)を殺したりと、 常に人民を悩まし、和解することがなかったという。

事態を重く見た朝廷から帰還の命令が出されたが毛野は無視した。

530年に、再び召還されて応じるも、その帰途 対馬国 で病死した。

531年 安閑天皇 即位

466年(雄略天皇10年)に 継体天皇 の長子として誕生する。(勾大兄皇子)

531年(継体天皇25年)に 父 継体天皇崩御し 66歳にして即位する。

『安閑記』に 関東から九州までの 屯倉 の大量設置と、 41箇所の屯倉の名が列挙され、 これに伴う 犬養部の設置が 記されている。

532年 金官国 滅亡

新羅 圧力に抗しきれず、 任那金官国仇衡王 が国を挙げて降伏した。

535年 クラカタウの大噴火

クラカタウ
インドネシアジャワ島スマトラ島 の中間、 スンダ海峡 にある火山島の総称である。

535年の大噴火

世界各地に異常気象をもたらした。

その痕跡は樹木の年輪や極地の火山灰の堆積のような物的なものから歴史文書に至るまで広範囲に亘っている。

536年 宣化天皇 即位

467年(雄略天皇11年)に 継体天皇 の第二子として誕生する。(檜隈高田皇子)

536年(安閑天皇2年)に 兄の 安閑天皇崩御し、 子どもがなかったために 69歳にして即位した。

治世

即位後に 蘇我稲目 が大臣となり、 子の 蘇我馬子 以降続く 蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。

筑紫屯倉の整備を行う。

大伴金村 に命じて 新羅 に攻められている 任那 に援軍を送った。

皇居

檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)

538年 仏教公伝

仏教公伝 は 国家間の公的な交渉として 仏教 が伝えられることを指す。

仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あり、現在では538年が有力とされている。

これ以前より 渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきている。

538年説

538年( 戊午 年 )に 百済聖明王 が使者を使わし、 宣化天皇 に 仏像や仏典を献上した。

539年 欽明天皇 即位

509年(継体天皇2年)に 継体天皇 の第三子(嫡男) として誕生する。 (天国排開広庭尊)

母は 手白香皇女仁賢天皇 皇女 雄略天皇 外孫 )

継体天皇は即位までの妃との間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた。

539年(宣化天皇4年)に 異母弟の宣化天皇崩御し 即位する。

系譜

敏達天皇 は第二皇子

用明天皇 は第四皇子

崇峻天皇 は第十二皇子

推古天皇 は皇女

任那

541年より 欽明天皇百済聖明王任那 の復興について協議していたが。

562年に 任那 滅亡。

皇居

磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)

541年 任那復興会議

532年に 任那金官国 が滅亡した。

541年より 欽明天皇百済聖明王任那 の復興について協議していたが、 戦況は百済側に不利である。

552年に 平壌漢城 を放棄。

553年 羅済同盟 破綻

553年に 新羅真興王百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。

554年に 聖明王新羅との戦いで戦死する。

562年に 新羅任那を滅ぼしてしまう。

以後、百済の滅亡まで両国は敵対関係を続けた。

562年 任那 滅亡

新羅 によって 任那 任那日本府が滅ばされた。

これに激怒した 欽明天皇 は 562年に 新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。

572年 敏達天皇 即位

538年に 天国排開広庭尊 ( 後の欽明天皇) の第二皇子として誕生。

571年(欽明天皇32年)に 父の欽明天皇崩御し、 572年に 即位。

外交

欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった。

仏教政策

敏達天皇は廃仏派寄りであり、 廃仏派の 物部守屋中臣氏が勢いづき、 それに崇仏派の 蘇我馬子 が対立するという構図になっていた

崇仏論争

大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、 物部氏中臣氏 などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。

いっぽう大豪族の 蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。

585年に 仏教弾圧

皇居

初め 百済大井宮(くだらのおおいのみや、大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市など諸説あり )

575年(敏達天皇4年)に 訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県桜井市戒重の 他田坐天照御魂神社 )へ遷った。'

578年 金剛組 創業

金剛組大阪府大阪市天王寺区に本社を置く、日本の建設会社である。

聖徳太子 四天王寺建立のため招聘した 宮大工 金剛重光が 創業した世界最古の企業である。

585年 仏教弾圧

病になった大臣 蘇我馬子敏達天皇 に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

物部守屋中臣勝海 は 蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

天皇は仏法を止めるよう詔した。

守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませた。

参考: 崇仏論争

585年 用明天皇 即位

生年 不詳 欽明天皇 の第四皇子。

585年(敏達天皇13年)に 兄 敏達天皇崩御を受け即位。

用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじ、実質、王朝において仏教を公認、 それが後の推古天皇以降の仏教隆盛につながった。

系譜

推古天皇 は同母妹

聖徳太子 は第二皇子

皇居

磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)。

2011年に 天香久山 から 北東に数百メートルの位置にある発掘現場(橿原市東池尻町221)で古代の堤跡とその堤上の大型建物跡が発見された。

東西4メートル、南北17.5メートル以上の大型建築物とその他の建物6つ、塀跡が見つかっており 磐余池辺雙槻宮である可能性が高いとされている。

587年 崇峻天皇 即位

553年(欽明天皇14年)に 欽明天皇 の第十二皇子として。

587年(用明天皇2年)に 兄の 用明天皇崩御し 大臣の 蘇我馬子 によって推薦され 即位した。

暗殺

権力基盤の弱い大王が支配者層の同意の下で殺害されるというのは、十分に起こりうる事態であった。

その要因は、后妃問題、宗教政策、地方支配、対外戦争も含めた外交問題のいずれか、もしくは全てであり、王権の存立の根幹に関わる問題であった可能性が高い。

1つ目の齟齬は、崇峻が 大伴糠手子 の 娘の 小手子 との間に 蜂子皇子 をもうけたことである。

2つ目の齟齬は、588年に 飛鳥寺 が建立されたことである。

3つ目の齟齬は、589年に崇峻が東山道東海道北陸道に使者を派遣して、蝦夷国境・海浜国境・越国境を観させたという政策である。

4つ目の齟齬は、591年の任那復興軍の派遣である。

592年に、 猪を献上する者があった。

天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。

そのことを聞きつけた 蘇我馬子 が 「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。

そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、 その席で 東漢駒 に暗殺をさせた。

日本史の中で、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。

587年 丁未の乱

物部守屋の変ともいう。

仏教の礼拝を巡って 大臣 蘇我馬子 と対立した 大連 物部守屋 が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。

588年 蘇我馬子 飛鳥寺 建立

飛鳥寺奈良県高市郡 明日香村 飛鳥にある 真言宗豊山派 の寺院。

蘇我氏 の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、 本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。

日本書紀 によると、 法興寺飛鳥寺) は用明天皇2年(587年) に 蘇我馬子 が建立を発願したものであるという。

591年 任那復興軍 派遣

日本書紀 によれば、 崇峻天皇 自らが発議し、 マヘツキミ(朝廷の議会に参加する資格を持つ高官) がそれに同意して、 「二万余」の兵が 筑紫 に出陣し、 新羅 を問責する使者が発遣された。

593年 推古天皇 即位

554年(欽明天皇15年)に 欽明天皇 の娘として誕生。

576年(敏達天皇5年)に 異母兄である敏達天皇 の妻となる。

593年(崇峻天皇5年)に 崇峻崇峻天皇蘇我馬子 によって殺害されため、 群臣の推戴を受け、39歳で即位した。

日本史上最初の女帝とされる。

治世

即位後、 甥の聖徳太子 を皇太子として国政を委ねた。

推古朝では日本史上重要な様々な政策が行われた。

594年(推古2年)に 「三宝興隆」の詔

三宝とは仏・法・僧を意味し、 これは 崇仏論争 以来の仏教を巡る争いを終結させ、 国家の方針として仏教を受容することを宣言するもの。

600年(推古8年)に 第1回 遣隋使

倭国と中華王朝の通交としてはほぼ120年ぶりのものである。

593年 聖徳太子 四天王寺 建立

四天王寺

大阪市天王寺区 四天王寺にある 和宗 の総本山の寺院。

聖徳太子建立七大寺 の一つとされている。

594年 「三宝興隆」の詔

三宝とは仏・法・僧を意味し、 これは 崇仏論争 以来の仏教を巡る争いを終結させ、 国家の方針として仏教を受容することを宣言するもの。

三宝興隆」は 推古 朝初期の基本方針であったと見られ、 各氏族に大王のための造寺が要求された。

仏教寺院の建立は単なる先進文化の受容というのみならず、王権に対する忠誠の証明でもあった。

600年 第1回 遣隋使

遣隋使

推古 朝の時代に 倭国が技術や制度を学ぶため に派遣した朝貢使の事を言う。

589年に 隋が中国を統一し 南北朝時代が終了すると、 百済)、 新羅 が相次いで隋に遣使した。

こうした国際情勢を受け、 600年に 倭国からも隋への遣使が行われた。

これは倭国と中華王朝の通交としてはほぼ120年ぶりのものである。

推古朝の18年間に3回から5回派遣された。

猫好きの天皇

関連記事

第59代 宇多天皇

在位: 887年 (仁和3年) - 897年 (寛平9年)

17歳のとき 父 光孝天皇 に献上された黒猫を下賜され、 これを飼育していた。

阿衡事件

887年 (仁和3年) に 藤原基経宇多天皇の間で起こった政治紛争。

寛平の治

宇多天皇の治世を理想視した呼称。

891年(寛平3年)に 関白 藤原基経 が死去する。

以降 摂関を置かず、 源能有 を首班として 藤原時平菅原道真平季長 等の近臣を重用し 各種政治改革を行った。

894年 (寛平6年) に 遣唐使 派遣が計画されるが 菅原道真 の建議により中止となる。

以降 再開されないまま、 907年 (延喜7年) に 唐が滅亡する。

896年(寛平8年) に 造籍

寛平御記

宇多天皇の日記。

内容は、 阿衡事件 の顛末といった政治的なことや、 父 光孝天皇 より譲られた黒猫のことなど。

宇多天皇の日記の中身

うちの猫は類まれな毛色。

よその猫はみんな浅黒い色なのに、うちの猫は墨のような漆黒の毛色で美しい。

天邪鬼な皇子と唐の黒猫

ポプラ社の絵本

唐からやってきた人語を解する黒猫 と、 「猫など好きではない」と言い張る 光孝天皇 の 第七皇子 定省 (宇多天皇) との 痛快平安ストーリー。

第66代 一条天皇

在位: 986年 (寛和2年) - 1011年 (寛弘8年)

寛和の変

986年 (寛和2年 ) に 右大臣 藤原兼家 が謀略により 花山天皇 を退位・出家させ、 外孫の懐仁親王 (一条天皇) を即位させた。

長徳の変

996年 (長徳2年) に 内大臣 藤原伊周 と 権中納言 藤原隆家 兄弟が 女性問題に起因して
花山法皇 に対して 弓を射かけるなどの不敬事件を起こし、 兄弟は失脚した。

一条朝の宮廷文化

一条天皇の時代は 皇后 定子 に仕える 清少納言中宮 彰子 に仕える 紫式部 和泉式部 らによって 平安女流文学が花開いた。

命婦の御許

一条天皇の飼い猫の名前。

命婦 (みょうぶ) は 従五位下 以上の位階を有する女性であり、 御許 (おもと) は高貴な女性の敬称である。

日本においてネコを愛玩動物として飼育していた例のうち、名前を持つ特定の個体として記録が残る最古の例である。

猫の産養

産養 (うぶ やしない) は 生後 3・5・7・9日を経過したときに 子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式。

現在の お七夜 (おしちや) に相当。

藤原実資 の 日記 小右記 によると、

999年(長保元年) 9月19日に 内裏でネコのため産養が執り行われ、 一条天皇の母 東三条院藤原詮子左大臣 藤原道長、 右大臣藤原顕光 といった貴人も参列した。

さらに「馬の命婦」と呼ばれる官女がこのネコの乳母に任命された。

実資はネコのためにこのような儀式が行われるのは奇怪なことであり、先例もなく、世の人が笑っているとしている。

翁丸 事件

翁丸(おきなまる) は内裏で飼われていた犬の名前。

定子 に仕えていた 清少納言枕草子 第七段「上にさぶらふ御猫は」には、
「馬の命婦」を乳母とする「命婦の御許」というネコが登場する。

1000年 (長保2年) のある日、
命婦の御許」は縁側の簀の子の上で寝ていた。

「馬の命婦」は屋内に入るように言うが、「命婦の御許」は日当たりのいい場所にうつって入ろうとはしなかった。 「馬の命婦」は業を煮やし、翁丸という犬に噛みつけと命令した。

命婦の御許」は慌てて逃げ出し、 朝餉の間 にいた一条天皇の懐に飛び込んでしまった。

天皇は激怒し、
蔵人の 源忠隆 に、 翁丸を打ちすえた上で 「 犬島 へつかはせ」と言い、 乳母も交代させようと言い出した。

このため「馬の命婦」は恐れて御前に出ることもできず、
翁丸も 滝口武者 によって追放されてしまった。

翁丸はその後内裏に戻り、蔵人たちにひどく打擲されて追い払われた。

翌日、翁丸は清少納言によって発見され、定子のもとで保護された。

その後天皇は翁丸を許したという。

参考: 枕草子「上にさぶらふ御猫は」現代語訳

PyQt の QGraphicsScene を使って画像を表示する

PyQt を使って画像を表示する の続きです。

下記を参考にした。

PyQt5 画像をウィンドウ上に表示する方法

PyQt の QGraphicsScene を使って図形を描画する にて解説したように

QGraphicsScene は、さまざまな図形を表示できる。

QGraphicsScene に画像を表示するには QPixmap と addPixmap を使用する。

QPixmap

addPixmap

pixmap = QPixmap(fpath)
scene = QGraphicsScene()
scene.addPixmap(pixmap)

QGraphicsPixmapItemを使用する方法もある。

pyqt QGraphicsPixmapItem

pixmap = QPixmap(fpath)
pixmap_item = QGraphicsPixmapItem(pixmap)
scene = QGraphicsScene()
scene.addItem(pixmap_item)

PyQt の QGraphicsScene の大きさ にて解説したように

QGraphicsScene の大きさは不定で、

図形を追加すると すべての図形を包括する大きさとなる。

QGraphicsScene の大きさは sceneRect を使って取得できる。

pyqt sceneRect

ウインドウ (480x360) より小さい画像(162x172) のとき

本来の大きさで表示される

ウインドウ (480x360) より大きい画像( 665x1000) のとき

ウインドウの大きさで画像の一部が表示され、右端と下端にスクロールバーが表示される。

ウインドウに納るように画像をリサイズしたとき

リサイズした大きさ(215 324) で表示される。

作成した pythonスクリプトGithub に公開した。

Github: PyQt

実行すると画像を表示する。

PyQt の QGraphicsScene の大きさ

PyQt の QGraphicsScene を使って図形を描画する の続きです。

QGraphicsScene は、多数の 図形(2D グラフィック アイテム)を管理するためのサーフェスを提供する。

pyqt QGraphicsScene

QGraphicsScene の大きさは不定で、

図形を追加すると すべての図形を包括する大きさとなる。

QGraphicsScene の大きさは sceneRect を使って取得できる。

sceneRect

QGraphicsScene に矩形を描画して大きさがどう変化するのか調べてみる。

ウインドウ (480x360) の半分の大きさ(240x180) の矩形を描画したとき

sceneRect は (242x182) となる。

ウインドウ (480x360) の倍の大きさ( 960x720) の矩形を描画したとき

sceneRect は (962x722) となり

右端と下端にスクロールバーが表示される。

緑色は ウインドウ (480x360) と同じ大きさ( 960x720) の矩形。

青緑色は ウインドウ (480x360) の倍の大きさ( 960x720) の矩形。

setSceneRectを使って大きさを固定できる。

pyqt setSceneRect

ウインドウ (480x360) の大きさを設定したき

設定した大きさより小さい青緑色の部分のみが表示される。

PyQtGraph の PlotItemを 画像ファイルとして保存する

PyQtGraph を使って図形を描画する の続きです。

前回は プロット領域(PlotItem) に図形(Graphics Item) を描画した。

今回は 描画した図形をファイルに保存する。

ImageExporterと writeImage の 2つの方法がある。

pyqtgraph Exporting

pyqtgraph writeImage

両者の機能に違いはないようで、どう使い分けるのかわからない。

ソースコードを読んでみると writeImageは ImageExporter を呼び出している。

どちらを使うかは好みのようです。

github ImageExporter.py

github PlotItem.py

exporter = pg.exporters.ImageExporter(plt) 
exporter = pg.exporter.export(outfile) 

保存される画像の大きさは 616x456 である。

これは sceneBoundingRect の大きさで、

ウインドウ(480x360) よりも少し大きい。

pyqt sceneBoundingRect

画像の大きさを変更するときは

parameters()の width height を設定する。

pyqtgraph parameters

exporter.parameters()['width'] =  width 
exporter.parameters()['height'] =  height 

作成した pythonスクリプトGithub に公開した。

Github: pyqtgraph

実行すると図形を描画して 画像ファイルとして保存する。