飛鳥時代の出来事

飛鳥時代の出来事を年表にまとめた。

飛鳥時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 古墳時代

後は 奈良時代

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飛鳥時代の概要

広義には、

593年に 聖徳太子が摂政になったときから

710年に 平城京 に遷都するまで。

約118年間。

狭義には 終期を

694年に 藤原京 に遷都するまで。

約117年間。

名称

現在の奈良県高市郡 明日香村 付近に相当する 飛鳥 の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。

推古朝

552年(欽明天皇13年) に、百済聖王 が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教 が公伝される。
587年(用明天皇2年)、大王の仏教 帰依 について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。 聖徳太子蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした( 丁未の乱 )。
物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。

588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺飛鳥寺 )の建立を始める。

587年(用明天皇2年)、馬子は丁未の乱蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが( 崇峻天皇 )、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、 592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。
こののち馬子は日本初の女帝となる 推古天皇 を立てた。
593年(推古天皇元年)、聖徳太子厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったといわれている。

603年(推古天皇11年)には、冠位十二階 を制定。聖徳太子が604年に 十七条憲法 を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。

607年(推古天皇15年)、小野妹子ら を隋に 遣隋使 として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」の国書 を送る。
留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。

舒明・皇極朝

621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。 聖徳太子推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立った。 推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と 山背大兄王 であった。
蝦夷推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族 境部摩理勢山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。
舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。
さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、 643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。

孝徳朝

645年(皇極天皇4年)の 乙巳の変 で、中大兄皇子中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに 孝徳天皇 が即位した。
孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなど次々と改革を進めていった( 大化の改新 )。

649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める。

650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。

天智朝

孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。 中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊を称していた母親・ 皇極天皇 を、再度即位( 重祚 )させた( 斉明天皇)。

663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、 白村江の戦い新羅・唐連合軍に大敗した。
そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る 水城 を造り、対馬隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海防人 や烽を置いた。 。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい 近江大津宮 に移された。
そのほか、大和に 高安城 が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬金田城 が築かれている。

668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍( 庚午年籍 )を作り、人民を把握する国内政策も推進した。

671年 (天智天皇10 年) 、天智天皇が急死する。

天武・持統朝

天智天皇が没すると、天智天皇の弟である 大海人皇子 と、息子である 大友皇子 との間で争いが起こった。 672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に 天武天皇 となった。
天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

672年(天武天皇元年)の末に、宮を 飛鳥浄御原宮 に移した。
官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。
5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没する。
8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される 飛鳥浄御原令 が制定され、頒布される。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。
690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。
692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。
公地公民制 を基礎とした班田収授法を実施した。 702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。
さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる 藤原京 に都を遷した。

持統天皇は、子の 草壁皇子 に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である 文武天皇 を即位させる。
この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、 700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、 翌年の701年(文武天皇5年)に 大宝律令 が制定された。
これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。

中央行政組織は太政官神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。
租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。
また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

文武天皇の死後、母の 元明天皇 が即位。
710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した。

飛鳥時代の外交

律令制 による 中央集権 の国家を形成する 一方で、 諸外国との交流もあった。

飛鳥時代の文化

大化の改新 を境に 前半を「飛鳥文化」、後半を「白鳳文化」という。

飛鳥文化

推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。
時期としては、一般に 仏教渡来 から 大化の改新 までをいう。

朝鮮半島百済高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。
多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。

代表的な美術品
- 玉虫厨子
- 天寿国繍帳
- 法華経義疏

白鳳文化

645年の大化の改新 から710年の 平城京 遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化である。 法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。

古代の都で最大の規模を誇り、条坊制を布いた本格的な中国風都城藤原京 を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化であった。 律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調とする。

代表的な美術品
- 薬師寺「金堂薬師三尊像」
- 興福寺「銅造仏頭」
- 法隆寺阿弥陀三尊像」
- 法隆寺 金堂壁画
- 高松塚古墳「壁画」

飛鳥時代の仏教寺院

552年に 仏教が伝来し 仏教寺院が建てられる。

飛鳥時代の出来事

528年 (継体天皇22年) (528年) 糟屋屯倉 設置

糟屋屯倉筑紫国にあった 屯倉。( 現在の福岡県糟屋郡付近 )

531年 (継体天皇25年) 安閑天皇 即位

安閑天皇

継体天皇 の長子。

継体天皇 が 譲位。

535年 (安閑天皇2年) 屯倉 全国に多数設置

屯倉ヤマト王権 の支配制度の一つ。 全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。

536年 (安閑天皇2年) 宣化天皇

宣化天皇

継体天皇の第二子。(檜隈高田王)

安閑天皇 の同母弟。

先代の安閑天皇崩御したとき

子どもがなかったために 同母弟の 檜隈高田王 が69歳にして即位した。(宣化天皇)

538年 (宣化天皇3年) 仏教公伝

百済 から古代日本( 大和朝廷 )に仏教 が伝えられた。

539年 (宣化天皇4年) 欽明天皇 即位

欽明天皇

継体天皇 の嫡男。

先帝 宣化天皇崩御し即位。

572年 (敏達天皇元年) 敏達天皇 即位

敏達天皇

欽明天皇 の第二皇子。

欽明天皇崩御し 即位。

578年 (敏達天皇7年) 金剛組 創業

金剛組 は、大阪府大阪市天王寺区に本社を置く、日本の建設会社である。

聖徳太子 が招聘した 宮大工が、 飛鳥時代の578年に 創業した世界最古の企業である。

585年(敏達天皇14年) 用明天皇 即位

用明天皇

欽明天皇 の第四皇子。

先帝 敏達天皇崩御し即位。

587年(用明天皇2年) 丁未の乱

仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子 と対立した 大連物部守屋 が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。

588年 (崇峻天皇元年) 崇峻天皇 即位

崇峻天皇

欽明天皇 の第十二皇子。

用明天皇 の異母弟。

587年5月に 先帝 用明天皇崩御する。

大臣の 蘇我馬子 によって推薦され 即位した。(崇峻天皇)

592年10月に 蘇我馬子により暗殺された。

588年(崇峻天皇元年) 蘇我馬子 飛鳥寺 建立

飛鳥寺奈良県高市郡明日香村飛鳥にある 真言宗豊山派の寺院。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。 開基(創立者)は蘇我馬子

592年 (崇峻天皇5年) 推古天皇 即位

推古天皇

欽明天皇の皇女。

崇峻天皇の異母姉。

先帝 崇峻天皇

蘇我馬子 により殺害され

群臣の推戴を受け 即位した

593年 (推古天皇元年) 厳島神社 創建

厳島神社広島県廿日市市厳島(宮島)にある神社。

当地方の有力豪族・佐伯鞍職 が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に 市杵島姫命 を祀る社殿を創建したことが始まりとされる。

593年 (推古天皇元年) 聖徳太子 摂政に

聖徳太子

用明天皇 の第二皇子。

推古天皇 は父の妹

概要

叔母の推古天皇の下、 蘇我馬子 と協調して政治を行い、 国際的緊張のなかで 遣隋使 を派遣するなど中国大陸を当時統治していた から進んだ文化や制度をとりいれて、 冠位十二階十七条憲法 を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。
このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった ( 太子信仰 ) 。

600年 (推古天皇8年) 遣隋使 派遣

遣隋使

倭国 が技術や制度を学ぶために に派遣した 朝貢 使。

600年(推古8年)から 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。

600年の派遣の後、 冠位十二階 や、 十七条憲法 など隋風の政治改革が行われた。

朝貢使は 倭の五王による南朝 への奉献以来約1世紀を経て再開された。

ただし、 倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(したがって臣下ではない)外交原則とした。

603年(推古11年) 小墾田宮 遷宮

小墾田宮飛鳥時代の推古朝の宮殿。

推古天皇

豊浦宮 から遷宮した。

603年 (推古天皇11年) 冠位十二階 制定

冠位十二階 は 日本で初めての冠位・位階である。
この制定により人材登用の道が開かれた。
朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるものである。

604年 (推古天皇12年) 十七条憲法 制定

十七条憲法聖徳太子 が制定した全17条からなる日本最初の成文法。

憲法の名を冠しているが、政府と国民の関係を規律する後年の近代憲法とは異なり、その内容は官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強い。
思想的には 儒教を中心とし、仏教法家 の要素も織り交ぜられている。

607年 (推古天皇15年) 遣隋使 派遣

小野妹子 が大唐国に国書を持って派遣された。

国書が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と書き出されていた。 中華思想では天子は1人で、それなのに辺境の地の首長が「 天子 」を名乗ったことに、 煬帝は 立腹した。

小野妹子は、その後返書を持たされて返されている。 煬帝の勅使として 裴世清 が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は 「返書を百済に盗まれて無くしてしまった」と言明している。

607年 (推古天皇15年) 聖徳太子 法隆寺 創建

法隆寺奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある 聖徳宗の総本山の寺院。
本尊は釈迦如来
開基は 推古天皇聖徳太子

607年 (推古天皇15年) 聖徳太子 中宮寺 創建

中宮寺奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北にある 聖徳宗の寺院。
本尊は如意輪観音
開基(創立者)は聖徳太子または 間人皇后 とされる。

法隆寺 に隣接し、聖徳太子が母后のために創建した尼寺である。

608年 (推古天皇16年) 裴世清 来日

裴世清 は 中国隋・唐代の官吏。

607年に 倭国遣隋使 を派遣した。

煬帝裴世清を 答礼使としてに倭国が派遣した。

629年 (舒明天皇元年) 舒明天皇 即位

舒明天皇

敏達天皇 の皇子 押坂彦人大兄皇子 の皇子。(田村皇子)

先帝推古天皇崩御した時 継嗣を定めていなかった。

蘇我蝦夷 は群臣に諮って その意見が 田村皇子山背大兄王 に分かれていることを知り 田村皇子 を立てて天皇にした。(舒明天皇)

630年 (舒明天皇2年) 遣唐使 派遣

遣唐使 は 日本が に派遣した使節である。

中国大陸では 618年に が滅び が建ったので、 日本は 遣隋使 に代わり 「遣唐使」を派遣した。

630年 に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、「遣唐使」を派遣した。

最初の「遣唐使」は 630年に 犬上御田鍬 を派遣した。

639年 舒明天皇 大安寺 創建

大安寺奈良県奈良市大安寺二丁目にある 高野山真言宗 の寺院。

本尊は十一面観音。
開基は舒明天皇と伝える。
南都七大寺 の1つ。

日本書紀 によれば 病床の 聖徳太子 を田村皇子(後の舒明天皇)が見舞った際に、皇子に「熊凝精舎」を大寺として造営してほしいと告げた、という。

642年 (皇極天皇元年) 皇極天皇

皇極天皇

押坂彦人大兄皇子 の王子 茅渟王 の第一王女。

舒明天皇 の皇后。

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、 皇極天皇 として即位した。

在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、 その子・蘇我入鹿 が自ら国政を執った。

643年(皇極天皇2年) 板蓋宮 遷都

板蓋宮皇極天皇 が営んだ皇居。

642年 9月に、 皇極天皇は 大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。
これにより完成したのが 板蓋宮 である。 643年 4月に、 遷る。

645年 (皇極天皇4年) 乙巳の変

乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足 らが 蘇我入鹿を宮中にて暗殺して 蘇我氏 を滅ぼした政変。

蘇我氏全盛の時代

622年4月、摂政・聖徳太子薨去した。
聖徳太子の死により大豪族である蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は皇室を凌ぐほどになった

626年6月、蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷 がかわって大臣となった。

641年11月1、舒明天皇崩御し、皇后であった宝皇女が即位した( 皇極天皇 )。
蘇我氏の勢力は更に甚だしくなった。

644年には、 蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べ立て、これを「上の宮門、」「谷の宮門」と称し、入鹿の子供を「王子」と呼ばせた。

上宮王家の滅亡

643年12月、蘇我氏の血をひく 古人大兄皇子皇極天皇 の次期天皇に擁立しようと望んだ入鹿は、巨勢徳多土師娑婆連 の軍勢をさしむけ、山背大兄王 の住む 斑鳩宮を攻めさせた。 山背大兄王は 王子と共に自殺。
このことによって 聖徳太子 の血を引く上宮王家は滅亡した。

蘇我入鹿暗殺

神祇を職とする一族の中臣鎌足 は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた 法興寺 の打毬で、中大兄皇子 の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。
これが縁となって2人は親しむようになった。
中大兄皇子鎌足南淵請安 の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。

645年、三韓新羅百済高句麗)から 進貢(三国の調)の使者が来日した。 6月、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。
中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。
海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ 佐伯子麻呂葛城稚犬養網田 に与えた。
入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖のあまりに、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだったた。

中大兄皇子は 子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。
子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。

蘇我本宗家の滅亡と大化の改新

古人大兄皇子 は私宮へ逃げ帰り、 飛鳥寺で出家した。

翌6月13日、蘇我蝦夷 は舘に火を放ち自殺した こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。

翌6月14日、皇極天皇軽皇子へ譲位した。
孝徳天皇 である。
中大兄皇子は皇太子に立てられた。
中大兄皇子阿倍内麻呂左大臣蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、 後に 大化の改新 と呼ばれる改革を断行する。

645年 (皇極天皇4年) 7月 孝徳天皇 即位

孝徳天皇

敏達天皇 の孫で、押坂彦人大兄皇子 の王子、茅渟王 の長男。(軽皇子)

皇極天皇 の同母弟。

乙巳の変の後、

皇極天皇 から譲位を受け、軽皇子 が即位した。(孝徳天皇)

645年 (皇極天皇4年) 12月 難波長柄豊碕宮 遷都

難波長柄豊碕宮摂津国難波にあった飛鳥時代の宮。

乙巳の変 の後、 中大兄皇子らによって企画され、652年に完成し、 孝徳天皇 が遷都した。

646年 (大化2年) 大化の改新

大化の改新乙巳の変 に始まる一連の国政改革。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。 中大兄皇子中臣鎌足 は、退位した皇極天皇に代わり、弟の軽皇子を即位させた( 孝徳天皇 )。 新たな時代の始まりとして日本で初めての 元号大化 」を定めたとされる。

概要

大化の改新 は、乙巳の変により始まった。
同年 (大化元年) に、 初となる 元号 大化 の使用、 男女の法 の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師 の任命、国博士 および内臣左大臣右大臣 の新設、私地私民の売買の禁止。'
仁徳天皇が皇居を置いていた難波高津宮の跡地周辺に 難波長柄豊碕宮が造られた。 飛鳥から難波に遷都の決定など様々な改革が進められた。 翌 646年 正月には、 新政権の方針を大きく4か条にまとめた 改新の詔も発布された。

645年 (大化元年) 男女の法 制定

男女の法 は 大化元年(645年)に定められた法令。 良人と奴婢の間の子は奴婢とし、主人が異なる奴婢の間の子は母(婢)の主人に属するとされた。

後に「良賤法」となる。

645年 (大化元年) 改新の詔 発布

改新の詔大化の改新 において、新たな施政方針を示すために発せられた詔。

概要

大化元年(645年)の 乙巳の変 により 新たに即位した 孝徳天皇は、翌大化2年(646年)正月1日に政治の方針を示した。
豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の 中央集権国家 を目指すものであった。

日本書紀 』編纂に際し書き替えられたことが明白となり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明している。

646年 (大化2年)(646年)遣新羅使

遣新羅使 は 日本が 新羅に派遣した使節である。

特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。
779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。

646年に

高向玄理遣新羅使 として 新羅に赴き、新羅から 任那 への 調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめた。

翌647年に

新羅王子・金春秋 を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった。

647年 (大化3年) 七色十三階冠 制定

七色十三階冠 は 従来の 12階 を6または7階に統合し、新たに上に6階を設けた。

冠位の名称は冠の材質と色をもとにしたものとなり、これを各大小2つに分け、最下位に建武を加えた。

649年 (大化5年) 冠位十九階 制定

冠位十九階 は 以前の 七色十三階冠 を改正した 位階

十九階 の制定は、冠位十二階が七色十三階冠に改まってからわずか2年後のことである。 2年おきの改正があったとみられる。

653年 (白雉4年) 第二次 遣唐使 派遣

吉士長丹 らを唐へ派遣。

654年 (白雉5年) 第三次 遣唐使 派遣

高向 玄理 らを唐へ派遣。

655年 (斉明天皇元年) 皇極天皇 重祚

皇極天皇

茅渟王 の第一王女。

舒明天皇 の皇后。

舒明天皇の後 皇極天皇として即位した。

乙巳の変 にて 同母弟の軽皇子に大王位を譲った。( 孝徳天皇 )

孝徳天皇崩御後 再び皇位に即いて 「斉明天皇」 となる。

655年 (斉明天皇元年) 飛鳥川原宮 遷都

川原宮斉明天皇 が営んだ宮。

板蓋宮 が火災に遭ったため、斉明天皇は川原宮へ遷った。

663年 (天智天皇2年) 白村江の戦い

白村江の戦い

朝鮮半島 の白村江(現在の錦江 河口付近)で行われた 百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と 新羅 連合軍との間の戦争のことである。

唐・新羅 連合軍が勝利し

日本・百済遺民 連合軍は大敗し

百済復興勢力は崩壊した。

白村江に集結した倭船のうち400隻余りが炎上した。

九州の豪族である筑紫君 薩夜麻土師富杼氷老大伴部博麻 が唐軍に捕らえられて、 8年間も捕虜として唐に抑留された。

664年 (天智天皇3年) 3月 冠位二十六階 制定

冠位二十六階

以前の 冠位十 九階 を改正した冠位制度である。

664年 (天智天皇3年) 6月 郭務悰 来日

郭 務悰 は 中国唐代の官吏。

白村江の戦い の後に 日唐関係修復交渉のため 倭国(日本)を訪問した。

664年 (天智天皇3年) 10月 防人 設置

防人律令制度下で行われた軍事制度である。

白村江の戦い の後に

唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から 九州沿岸の防衛が強化された。

対馬壱岐筑紫防人 を設置し、
筑紫の 大宰府水城 を築いた。

667年 (天智天皇6年) 近江大津宮 遷都

近江大津宮
天智天皇近江国滋賀郡に営んだ都。

飛鳥 から遷都した。

背景

斉明天皇6年(660年)、百済新羅と唐に攻められて亡んだ。
倭国 にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。
しかし、天智天皇2年(663年)の 白村江の戦い において倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。

百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。
そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の 大宰府 には 水城 という防衛施設を設置して、防備を固めた。

遷都

このような状況下で、天智天皇6年(667年)3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。
その翌年(668年)1月、称制 実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
日本で最初の律令法典となる 近江令 が制定されたともいわれる。

遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。

廃絶とその後

天智天皇10年(671年)、天皇崩御すると、子の 大友皇子 が近江朝廷の首班となった。

生前の天智天皇から皇太子に指名されていた 大海人皇子 は近江朝廷に反旗を翻し、 天武天皇元年(672年)6月に吉野から東国へ脱出。
美濃国を拠点に軍兵を徴発して近江へ進軍し、 同年7月、近江朝廷軍を破って大友皇子を自殺に追い込んだ( 壬申の乱 )。
勝利した大海人は即位して飛鳥に 浄御原宮 を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となった。

667年 (天智天皇6年) 高安城 築城

安城奈良県生駒郡平群町大阪府八尾市にまたがる、高安山 の山頂部にあったとされる日本の古代山城。

概要

白村江の戦い で唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、倭の防衛のため、対馬畿内に至る要所に様々な防御施設を築いている。
安城 は、667年、金田城・屋嶋城とともに築かれた。
安城 は、国土の領域を守る最前線の金田城、瀬戸内海の制海権を守る屋嶋城とともに、政権基盤の宮都を守る重要なポイントであった。

667年 (天智天皇6年) 金田城 築城

金田城長崎県対馬市美津島町黒瀬(対馬国下県郡)にあった日本の古代山城。

概要

667年に築城された朝鮮式山城 で、西日本各地に築城された一連の古代山城のうちでは朝鮮半島への最前線に位置する。

668年 (天智天皇7年) 天智天皇 即位

天智天皇

舒明天皇の第二皇子。 母は 斉明天皇

乙巳の変にて 皇太子となる。(中大兄皇子)

661年8月に 母で先帝の 斉明天皇崩御し、 皇太子のまま 称制 した。

668年2月に 即位した。(天智天皇)

668年 (天智天皇7年) 近江令 制定

近江令 は 日本の飛鳥時代天智天皇 の治世 )に制定されたとされる法令体系。 全22巻。 古代日本政府による最初の律令法典に位置づけられる。

669年 (天智天皇8年) 遣唐使 派遣

河内鯨 ら任ずる。

669年 (天智天皇8年) 唐使 郭務悰 来日

郭 務悰 は 中国唐代の官吏。

白村江の戦い 後に日唐関係修復交渉のため、倭国(日本)を訪問する。

669年 (天智天皇8年) 藤原不比等 興福寺 創建

興福寺奈良県奈良市登大路町にある 法相宗大本山の寺院。

本尊は中金堂の釈迦如来
開祖は藤原不比等南都七大寺の一つ。

670年 (天智天皇9年) 庚午年籍

庚午年籍

670年(庚午の年)につくられた 戸籍 である。

畿内はもちろん、西は九州から東は常陸、上野まで造籍の実施された。

671年 (天智天皇10年) 漏刻台 完成

漏刻台水時計の一種。

天智天皇 が「水時計」を作らせ、時報 を始めたと伝えられている。
サイフォンの原理を利用して 階段状の水槽に水を滴り落とさせる構造から「 漏刻 」と名付けられている。

672年(弘文天皇元年) 弘文天皇 即位

弘文天皇
天智天皇の第一皇子。

天智天皇崩御により即位。

672年(弘文天皇元年) 壬申の乱

672年 ( 壬申 の年 ) に起こった 古代日本最大の内乱である。

天智天皇崩御後、

天智天皇の太子・大友皇子 に対し、天智天皇の弟・大海人皇子 が兵を挙げて勃発した。

反乱者である大海人皇子が勝利し、

天武天皇 となる。

673年 (天武天皇2年) 天武天皇 即位

天武天皇

舒明天皇皇極天皇舒明天皇の皇后)の皇子。

天智天皇 は兄。

天智天皇崩御後、 672年の 壬申の乱にて 大友皇子 を倒し その翌年に即位した。

673年 (天武天皇2年) 飛鳥浄御原宮 遷都

飛鳥浄御原宮

天武天皇

持統天皇 の2代が営んだ宮。

近江大津宮 から遷る。

675年 (天武天皇4年) 遣新羅使 派遣

大伴国麻呂 らを派遣。

680年 (天武天皇9年) 天武天皇 薬師寺 創建

薬師寺奈良県奈良市西ノ京町にある 法相宗大本山の仏教寺院。

本尊は薬師三尊。(国宝) 開基は天武天皇南都七大寺 の一つ。

681年 (天武天皇10年) 飛鳥浄御原令 編纂開始

飛鳥浄御原令 は 日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。
令22巻。
律令のうち令のみが制定・施行されたものである。
日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。

690年 (持統天皇4年) 持統天皇

持統天皇

天智天皇 の皇女。 (鸕野讃良皇女)

天武天皇 の皇后。

草壁皇子 の母。

686年に 天武天皇崩御

689年に 皇太子 草壁皇子 が病気により薨去

草壁皇子の子 軽皇子は 幼く、

鸕野讃良 は 自ら天皇に即位することにした。(持統天皇)

690年 (持統天皇4年) 庚寅年籍

庚寅年籍 は 690年( 庚寅の年 ) に 戸令 に基づいて作成された全国的な 戸籍

人民を地域により編成するという作業はほぼ完了し、 692年には、 庚寅年籍 に基づく 口分田 の班給が 畿内で開始された。

694年 (持統天皇8年) 藤原京 遷都

藤原京
飛鳥京の西北部、奈良県 橿原市明日香村 にかかる地域にあった飛鳥時代都城

壬申の乱 により即位した 天武天皇 の計画により日本史上で初めて唐風の 条坊制 が用いられた。

697年 (文武天皇元年) 文武天皇 即位

文武天皇

天武天皇 の皇子 草壁皇子 の第一皇子。

持統天皇 は祖母。

祖母・持統天皇が譲位し 即位する。

670年 (天智天皇9年) 法隆寺 全焼

701年 (大宝元年) 大宝律令 制定

大宝律令律令を参考に作成された日本の律令

刑部親王らが撰述した。

706年 (慶雲3年) 慶雲の改革

慶雲の改革* は 飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)以降、文武天皇 統治下の朝廷において行われた律令体制改革をいう。

大宝律令の不備

壬申の乱の 勝利後に史上初の「天皇」として即位し、思い切った国制改革を進めた 天武天皇 が没した後、大后の持統天皇 が即位。
天武の遺志を継ぎ、日本初の本格的都城である 藤原京の建設を進めたほか、飛鳥浄御原令 の制定など、唐を参考にした律令の整備・国史編纂事業などを継続した。

その持統天皇の譲位を受けて即位した孫の文武天皇の時期には、天武・持統以来の改革の集大成となる律令の制定が急がれ、 大宝元年(701年)に 大宝律令 の完成という形で結実した。
しかし律令編纂には入唐経験のある 伊吉博徳 や、唐から帰化した薩弘恪 などが加わってはいたものの、作成を主導した 刑部親王藤原不比等 らは唐律令の実態に精通していた訳ではなく、やや理想的な傾向を残すものでもあった。
その結果、施行してみて初めて分かった矛盾・不備なども認識されるようになる。 大宝3年(703年)持統太上天皇崩御すると、実際に施行されはじめた律令と、現実的運用とのギャップから、細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになる。

遣唐使の帰還

大宝元年、大宝令の編纂にも携わった 粟田真人 が遣唐大使に任命され、文武天皇から節刀を授けられた。 翌年に筑紫を発し、唐に漂着した。
彼らが都・長安で見た実際の都城律令制の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものであった。
たとえば藤原京では大極殿を含む宮(藤原宮)を都城の中央に配置していたが、長安城をはじめとする中国の都城では太極宮を含む皇城は、都城の北端中央にあるのが通例であった。
律令の運用形態も日本とは異なり、律令の不備を行う格式なども制定されていた。
大きな衝撃を受けて慶雲元年に帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城律令制の差異を報告し、文武朝の改革に生かされていく。

改革の詳細

慶雲2年(705年)4月、大納言の定員を2人削減するとともに、大宝令制定に伴い廃止されていた中納言が朝廷の議政官として復活し(令外の官 の始まり )、高向麻呂粟田真人阿倍宿奈麻呂 を任命した。
また大宝令で停廃されていた采女肩巾田(うねめのひれだ。采女の経費を充当するために出身地に置かれた田)を復活した。

707年 (慶雲4年) 元明天皇 即位

元明天皇

天智天皇の第四皇女子。

文武天皇 の母。

子の文武天皇 が25歳で崩御

孫の首皇子 ( 後の聖武天皇 )はまだ幼かったため、 初めて皇后を経ないで即位した。

708年 (和銅元年) 和同開珎 鋳造

和同開珎
日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。

日本で最初の流通貨幣と言われる。
皇朝十二銭の1番目にあたる。

710年 (和銅3年) 平城京 遷都

平城京奈良盆地 (現在の奈良県奈良市大和郡山市) にあった 奈良時代の日本の首都。

唐の都 長安 を模倣して大和国に建造された都城

710年に

元明天皇藤原京から遷都。