猫好きの天皇
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第59代 宇多天皇
在位: 887年 (仁和3年) - 897年 (寛平9年)
17歳のとき 父 光孝天皇 に献上された黒猫を下賜され、 これを飼育していた。
阿衡事件
887年 (仁和3年) に 藤原基経 と 宇多天皇の間で起こった政治紛争。
寛平の治
宇多天皇の治世を理想視した呼称。
891年(寛平3年)に 関白 藤原基経 が死去する。
以降 摂関を置かず、 源能有 を首班として 藤原時平 、 菅原道真、 平季長 等の近臣を重用し 各種政治改革を行った。
894年 (寛平6年) に 遣唐使 派遣が計画されるが 菅原道真 の建議により中止となる。
以降 再開されないまま、 907年 (延喜7年) に 唐が滅亡する。
896年(寛平8年) に 造籍 。
寛平御記
宇多天皇の日記。
内容は、 阿衡事件 の顛末といった政治的なことや、 父 光孝天皇 より譲られた黒猫のことなど。
宇多天皇の日記の中身
うちの猫は類まれな毛色。
よその猫はみんな浅黒い色なのに、うちの猫は墨のような漆黒の毛色で美しい。
天邪鬼な皇子と唐の黒猫
ポプラ社の絵本
唐からやってきた人語を解する黒猫 と、 「猫など好きではない」と言い張る 光孝天皇 の 第七皇子 定省 (宇多天皇) との 痛快平安ストーリー。
第66代 一条天皇
在位: 986年 (寛和2年) - 1011年 (寛弘8年)
寛和の変
986年 (寛和2年 ) に 右大臣 藤原兼家 が謀略により 花山天皇 を退位・出家させ、 外孫の懐仁親王 (一条天皇) を即位させた。
長徳の変
996年 (長徳2年) に
内大臣 藤原伊周 と
権中納言 藤原隆家 兄弟が
女性問題に起因して
花山法皇 に対して
弓を射かけるなどの不敬事件を起こし、
兄弟は失脚した。
一条朝の宮廷文化
一条天皇の時代は 皇后 定子 に仕える 清少納言、 中宮 彰子 に仕える 紫式部 和泉式部 らによって 平安女流文学が花開いた。
命婦の御許
一条天皇の飼い猫の名前。
命婦 (みょうぶ) は 従五位下 以上の位階を有する女性であり、 御許 (おもと) は高貴な女性の敬称である。
日本においてネコを愛玩動物として飼育していた例のうち、名前を持つ特定の個体として記録が残る最古の例である。
猫の産養
産養 (うぶ やしない) は 生後 3・5・7・9日を経過したときに 子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式。
現在の お七夜 (おしちや) に相当。
999年(長保元年) 9月19日に 内裏でネコのため産養が執り行われ、 一条天皇の母 東三条院藤原詮子 や 左大臣 藤原道長、 右大臣藤原顕光 といった貴人も参列した。
さらに「馬の命婦」と呼ばれる官女がこのネコの乳母に任命された。
実資はネコのためにこのような儀式が行われるのは奇怪なことであり、先例もなく、世の人が笑っているとしている。
翁丸 事件
翁丸(おきなまる) は内裏で飼われていた犬の名前。
定子 に仕えていた
清少納言 の
枕草子
第七段「上にさぶらふ御猫は」には、
「馬の命婦」を乳母とする「命婦の御許」というネコが登場する。
1000年 (長保2年) のある日、
「命婦の御許」は縁側の簀の子の上で寝ていた。
「馬の命婦」は屋内に入るように言うが、「命婦の御許」は日当たりのいい場所にうつって入ろうとはしなかった。 「馬の命婦」は業を煮やし、翁丸という犬に噛みつけと命令した。
「命婦の御許」は慌てて逃げ出し、 朝餉の間 にいた一条天皇の懐に飛び込んでしまった。
天皇は激怒し、
蔵人の 源忠隆 に、
翁丸を打ちすえた上で
「 犬島 へつかはせ」と言い、
乳母も交代させようと言い出した。
このため「馬の命婦」は恐れて御前に出ることもできず、
翁丸も 滝口武者 によって追放されてしまった。
翁丸はその後内裏に戻り、蔵人たちにひどく打擲されて追い払われた。
翌日、翁丸は清少納言によって発見され、定子のもとで保護された。
その後天皇は翁丸を許したという。