平安時代の出来事

平安時代について断片的な知識しかなかったので、
平安時代の出来事を年表にまとめた。

関連記事

参考

平安時代は 日本の歴史の時代区分の一つである。
前は 奈良時代
後は 鎌倉時代

平安時代の概要

794年 に
平安京
都を移してから

1185年に
鎌倉幕府
成立するまでの 約390年間である。

概要

奈良時代の後半まで続いた 公地公民制 が崩壊し、 荘園制 により 富が一部の富裕層に偏りはじめた。

奈良時代天皇中心の親政 が弱まり、 貴族の力が強くなり、自分の子孫を天皇にすることで勢力をのばそうとする 摂関政治 が始まる。

平安時代の小区分

政治体制の違いにより
平安前期、中期、後期に分けられる。

平安前期

天皇家藤原氏の競合、共存の時代で中国ともお付き合いがあった時代

794 (延暦13年) に
桓武天皇
平安京
都を移してから

858年 (天安2年)に
藤原良房
摂政となり
摂関政治 が 始まるまで

平安中期

藤原氏が政治を独占し、また地方武士が力を持ち出した時代

平安貴族を中心に 仮名文字 が 使用されるようになり
紫式部
清 少納言 など
女性作家が活躍した。

858年 (天安2年)に
藤原良房 が 摂政となり
摂関政治
始まってから

1068年(治暦4年) に
後三条天皇 が 即位して
天皇親政に移行するまで

平安後期

院政が行われ、天皇家と結びついた武士が中央の政治にかかわりを持った時代。

1068年(治暦4年) に
後三条天皇 が 即位して
天皇親政に移行してから

1185年 (元暦2年) に
源頼朝により
鎌倉幕府 が 成立するまで

平安時代の文化

約200年間続いた

遣唐使 が廃止され

唐文化と日本文化が融合し、

日本独特の

国風文化 が形成されていった。

物語文学

平安時代中期~後期は、物語文学の最盛期となった。

日記文学

9世紀末に 王朝貴族たちは、外記日記など国家の記録とは別に私的な日記を作成し始める。

「仮名文字」が成熟し 女性たちの回想録的な 日記文学 が生まれてきた。

随筆

和歌

六歌仙

スポーツ

悪霊と祈祷の時代

天変地異や疫病は悪霊のせいとされ

御霊信仰 が広まった。

朝廷の機関として

陰陽寮 が設置され

官職として

祈祷や占術を行う 陰陽師 が設置された。

日本三大怨霊

はいずれも平安時代の人物。

著名な陰陽師

平安時代の出来事

平安前期の出来事

781年 (天応元年桓武天皇 即位

794年 (延暦13年) 平安京に遷都

桓武天皇長岡京 を廃し 平安京 に遷都した

800年(延暦19年) 富士山が噴火 (延暦の大噴火)

wikipedia: 富士山の噴火史

(805年 (延暦24年) 最澄比叡山延暦寺 を創建

806年 (大同元年) 平城天皇 即位

806年 (大同元年) 空海高野山金剛峯寺 を創建

807年 (大同2年) 伊予親王の変

藤原宗成伊予親王 に謀反を勧めたとして

藤原吉子伊予親王の母子が処罰され 2人は自殺した。

809年 (大同4年)(809年) 嵯峨天皇 即位

810年 (大同5年) 薬子の変

平城上皇嵯峨天皇 が対立する

平城上皇の愛妾の尚侍 藤原薬子 や その兄である参議 藤原仲成 らが処罰された。

 823年 (弘仁14年) 淳和天皇 即位

833年 (天長10年) 仁明天皇 即位

842年 (承和9年)承和の変

藤原氏 による 最初の他氏排斥事件

謀反を企てたとして、 伴健岑 とものこわみね 橘逸勢 たちばなのはやなり の二人が 流罪となり 恒貞親王 が 皇太子を廃された事件。

事件後、 藤原良房 は 大納言に昇進し、

仁明天皇 と 良房の妹 藤原順子の皇子 道康親王(のちの文徳天皇) が 皇太子に立てられた。

850年 (嘉祥3年) 文徳天皇 即位

858年 (天安2年) 清和天皇 即位

平安中期の出来事

858年 (天安2年)摂関政治 始まる。

藤原良房
人臣初の摂政となり 摂関政治 が始まる。

 864年 (貞観6年) 貞観大噴火

866年 (貞観8年) 応天門の変

藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

応天門が放火され

大納言 伴善男
その子 伴中庸
流刑に処された

 869年 (貞観11年)貞観地震

陸奥国 (現在の東方地方) で甚大な津波被害

873年 (貞観15年) 清和源氏 創生

清和天皇

の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して「源」氏を称した。

中でも第六皇子

貞純親王 の子

経基王源経基

の子孫が著しく繁栄した

経基の嫡男

源 満仲

多田源氏 の祖

満仲の三男・

源頼信

河内源氏 の祖

その子孫に

源頼朝

876年 (貞観18年) 陽成天皇 即位

 878年 (元慶2年) 元慶の乱

出羽国 (現在の山形県と秋田県) にて
夷俘
朝廷の苛政に対して蜂起して
秋田城 を襲ったもの

 884年 (元慶4年) 光孝天皇 即位

即位後は

藤原基経 を関白として
前代に引き続いて政務を委任した。

884年 (元慶4年) 6月に

26人の皇子皇女に「源」姓を賜い臣籍降下させた。

第七皇子 定省王もその一人であり、源定省 と称した。

887年 (仁和3年) に

源定省 は皇族に復帰し

宇多天皇

として即位する。

887年 (仁和3年) 8月仁和地震

五畿七道) 諸国 にわたる 大地震が発生した。

887年 (仁和3年)11月 宇多天皇 即位

臣籍から皇位へ

光孝天皇

第七皇子 源定省 は 皇族に復帰し 即位する(宇多天皇

即位後

阿衡事件

宇多天皇

関白 藤原基経 の間で
起こった政治紛争である。

宇多天皇
参議左大弁 橘広相に命じて
藤原基経に父 光孝天皇 の時代と同じように引き続き政務を執る」ことを命じた詔書を作成した。

その詔勅に「宜しく『阿衡』の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。 『阿衡』は中国の殷代の賢臣 伊尹が 任じられた官

これを文章博士で基経の家司であった 藤原佐世
「『阿衡』は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる。

889年 (寛平元年) 桓武平氏 創生

桓武天皇 の皇子

葛原親王

の第三王子高見王の子 高望王

民部卿宗章朝臣」の反乱を討伐したため、

宇多天皇

の勅命により「平」朝臣を賜与され臣籍降下

平高望

を名乗った。

子孫に

伊勢平氏

平 維衡

その子孫に

平清盛

894年 (寛平6年) 遣唐使 廃止

宇多天皇
56年ぶりに遣唐使計画が立てられ
遣唐大使に
菅原道真 が任命された。

しかし道真の建議によって派遣が中止された。

その後も遣唐使の派遣が検討されたが
907年 (延喜7年) には 唐が滅亡したことによって
遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

897年 (元慶9年) 醍醐天皇 即位

901年 (昌泰4年) に

関白 藤原基経 の娘

藤原穏子 が入内する。

923年 (延長元年) に

寛明親王 ( のちの 朱雀天皇 ) 誕生

926年 (延長4年) に

成明親王 (のちの 村上天皇 ) 誕生

901年 (昌泰4年) 昌泰の変

左大臣 藤原時平 の讒言により

醍醐天皇

右大臣 菅原道真 を 大宰員外帥として

大宰府 へ左遷にした

飛梅伝説

菅原道真は 屋敷内の庭木のうち 日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ。 道真を慕う庭木たちのうち、梅は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んだ。 見事その日一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという。

903年 (延喜3年) に
菅原道真大宰府で死亡した。

930年 (延長8年) に
清涼殿落雷事件などの
異変が起こり

菅原道真の怨霊によるとされた。

その後 菅原道真天神信仰 の対象となり

現在は 学問の神様、文化芸術の神様、厄除けの神様として仰がれる。

902年 (延喜2年) 延喜の荘園整理令

この荘園整理令では
醍醐天皇 が即位した 897年(寛平9年) 以降に開かれた勅旨田の廃止
地方民が権門や寺社に田畑や舎宅を寄進することの禁止
権門や寺社が未開の山野を不法に占拠することの禁止などが挙げられている。

これらの法令は違法な荘園を整理するとともに、国衙による国内の土地への管理権限を強化することとなった。

905年 (延喜5年) 古今和歌集 編纂

927年 (延長5年)5年 延喜式 成立

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つであり、律令の施行細則をまとめた法典である。

醍醐天皇 の命により

藤原時平 らが編纂を始め
時平の死後は 藤原忠平 が編纂に当たった

弘仁式
貞観式
その後の式を取捨編集し、927年(延長5年) に完成した。

その後改訂を重ね
967年(康保4年)より施行された。

930年 (延長8年) 1月 紀貫之 土佐守 となる

930年 (延長8年) に

土佐に赴任する。

935年 (承平5年) に

土佐守の任を終え、帰洛する。

後に

この紀行を参考に

土佐日記 を書く。

930年 (延長8年) 9月 朱雀天皇 即位

8歳で即位。

伯父 藤原 忠平 が摂関となる。

939年 (天慶2年) 平将門の乱

東の豪族 平将門
常陸国府を襲撃し 関東独立国の新皇を号する。

940年 (天慶3年)に
参議 藤原忠文
征東大将軍に任じられ、
平将門の本拠地 石井 (現在の坂東市石井) において
追討軍と平将門の合戦がはじまった。
流れ矢が平将門の額に当たり討死した。

首の伝説

討ち取られた将門の首は京都の七条河原にさらされた ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいった 途中で力尽きて地上に落下したともいう。

現在 東京都千代田区大手町に 平将門の首塚 がある。

939年 (天慶2年)藤原純友の乱

従七位下伊予掾の 藤原純友 は 瀬戸内で海賊の討伐に当たっていたが、 海賊の頭目となり 朝廷に対し反乱を起こした

946年 (天慶9年) 村上天皇 即位

940年 (天慶3年) に

成明親王 ( 村上天皇) は

中納言 藤原 師輔 の長女

藤原 安子 と結婚する。

946年 (天慶9年) に

成明親王村上天皇 として即位した。

947年 (天暦元年) に

師輔は 右大臣に任ぜられた。

兄で 藤原北家嫡流藤原 実頼左大臣に就任した。

950年 (天暦4年) に

憲平親王( のちの冷泉天皇 ) 誕生

959年 (天徳3年) に

守平親王 ( のちの円融天皇 ) 誕生

958年 (天徳2年) 乾元大宝 鋳造。

967年 (康保4年)冷泉天皇 即位

18歳で即位。

藤原北家嫡流である

藤原実頼 が関白につく。

967年 (康保4年) 延喜式 施行

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つであり、律令の施行細則をまとめた法典である。

969年 (安和2年(969年)3月 安和の変

藤原氏による他氏排斥事件。

源満仲
藤原 善時 らの謀反の密告により

左大臣源高明 が 失脚させられた。

969年 (安和2年) 8月 円融天皇 即位

978年 (天元 元年) 8月 に

太政大臣 藤原兼家 の娘

藤原 詮子 が入内する。

10月 に

兼家 は右大臣に昇格する。

980年 (天元3年)に

懐仁親王 (のちの 一条天皇 ) 誕生

982年 (天元5年) 頃に

天皇 と 兼家は不仲になる。

984年 (永観2年) に

天皇は兼家に譲歩し、

皇太子 師貞親王( 花山天皇 ) に譲位する。

984年 (永観2年) 花山天皇 即位

986年 (寛和2年) 寛和の変

右大臣 藤原兼家
孫である皇太子 懐仁親王 の即位と自らの摂政就任を早めるために

花山天皇 が退位させられ

一条天皇 が即位した。

兼家 が摂政に 就任した。

986年 (寛和2年) 一条天皇 即位

数え年7歳で即位した。

外祖父の 藤原兼家 が摂政 に 就任した。

988年 (永延2年) 尾張国解文 事件

尾張国 (現在の愛知県西部) にて
郡司・百姓が
国守 藤原元命の 苛政を朝廷に訴えて解任を求めた

989年 (永祚元年) 永祚の風

近畿地方を猛烈な台風が襲い大被害が出た。

この台風は 永祚の風と呼ばれ
後々まで暴風雨の例えとされた

990年 (正暦元年) 藤原定子 が入内

内大臣 藤原道隆

長女 藤原定子

一条天皇 に入内し

宮廷女流文学が盛んになる契機を作った。

同年に

道隆 が 関白になる

993年 (正暦4年) 冬頃から
清少納言
中宮定子に仕え

枕草子 を執筆した。

996年 (長徳2年) 長徳の変

摂政・関白 藤原道隆 の死後に

弟の藤原道長

道隆の嫡男 藤原伊周

道隆の四男 藤原隆家

との間で起きた政変。

道隆の一族 中関白家 が排斥される結果となった。

花山院闘乱事件

(996年 (長徳2年) 頃

道隆の遺児である藤原伊周

太政大臣 藤原為光 の娘

三の君 に通っていた。

花山法皇

三の君と同じ屋敷に住む四の君( 藤原儼子 ) に

通いだしたところ、

それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。

996年 (長徳2年)1月 に

隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。

花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが

この事件の噂が広がり

これを政敵の道長に利用される。

4月に

伊周は大宰権帥へ左遷され

隆家は出雲権守に左遷された。

7月に

道長左大臣に昇進した。

999年 (長保元年)藤原彰子 が入内

左大臣 藤原道長

藤原彰子

一条天皇後宮に入内した。

1008年 (寛弘5年) に

敦成親王 (のちの 後一條天皇 )誕生

1009年 (寛弘6年) に

敦良親王 (のちの 後朱雀天皇)誕生

1001年 (長保3年) 頃に

紫式部

源氏物語 を書き始めた、

その評判を聞いた藤原道長に召し出され、

中宮彰子に仕える

1011年 (寛弘8年) 頃に

「好文の賢皇」 一条天皇の宮廷を中心に
紫式部
和泉式部
赤染衛門 ら才女のほか

男性官人にも優れた文筆家が輩出し

王朝宮廷文学の最盛期となる。

1011年 (長和5年) 三条天皇 即位

1016年 (長和5年) 後一条天皇 即位

数え8歳で即位

祖父 藤原道長 が摂政に就任

1019年 (寛仁3年) 刀伊の入寇

女真 の一派

とみられる集団を主体とした海賊が

壱岐対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件

「刀伊(とい)」とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指す「toi」に日本の文字を当てたとされている。  

1028年 (万寿5年) 平忠常の乱

房総三カ国( 上総国 (現在の千葉県中央部)

下総国 (現在の千葉県北部と茨城県南西部)

安房国 (現在の千葉県南部)

) にて

平将門

の叔父 平良文

の子孫に当たる

平忠常

乱を起こし

朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。

有力武士の 源頼信

起用されるに及び

忠常は降伏した。

この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。

1031年(長元4)斎王託宣事件

村上天皇

嫥子女王 が  

月次祭に奉仕中に神がかりの状態となり、

神宮祭主大 中臣輔親

託宣を下した。

斎宮権頭 藤原相通 と

その妻藤原小忌古曾 の不正を糾弾した。

藤原相通が伊豆国に、藤原小忌古曾が壱岐国にそれぞれ配流される。

1036年 (長元9年) 後朱雀天皇 即位

皇太子 *敦良親王** として

1021年 (寛仁5年)に

藤原道長の娘

藤原嬉子 が  

兄で 左大臣藤原頼通

の養子として入内する。

1025年 (万寿2年) に

親仁親王( のちの後冷泉天皇 )誕生

1027年 (万寿4年) に

道長の外孫で従姉妹の 禎子内親王 が入内

1034年 (長元7年) に

尊仁親王(のちの 後三条天皇 ) 誕生

1036年 (長元9年)に

皇太子 敦良親王 が即位(後朱雀天皇

1040年(長久元年)長久の 荘園整理令

902年 (延喜2年)に
延喜の荘園整理令 が発布されたが
国司が有力貴族による荘園実施を認める傾向にあったために多くの例外が生まれ 実効性が乏しかった。

そこで 但馬守 藤原章信 の進言により

内裏造営を名分として、現任の国司の任期中に立てた国免荘の停止を命じる 長久の荘園整理令 が発布された。

1045年 (寛徳2年) 後冷泉天皇 即位

1051年 (永承6年) 前九年の役 始まる

陸奥国(現在東北地方)にて

陸奥源頼義

豪族 安倍氏 の間の

九年にわたる戦争

1051年 (永承6年) の 源頼義 奥州 赴任 から

1062年 (康平5年) の 安倍氏 滅亡 まで

1052年 (永承7年) 平等院 創建

関白 藤原 頼通

道長

別荘であった「宇治殿」を寺院に改め 平等院 として創建

1053年 (天喜元年) に

阿弥陀堂( 鳳凰堂 ) を建立。

平安後期の出来事

1068年 (治暦4年) 後三条天皇 即位

異母兄の 後冷泉天皇崩御により、即位した。

摂関時代が終わり 天皇親政に移行する

皇太子 尊仁親王後三条天皇

1046年 (永承元年 ) に

中納言藤原 公成 の娘

藤原 茂子 が入内

1053年 (天喜元年) に

貞仁親王( のちの 白河天皇 ) 誕生

1068年 (治暦4年) に

尊仁親王が即位 (後三条天皇)

1072年(延久4年)に

病により 子の貞仁親王 に譲位する( 白河天皇 )

1073年 (延久5年) 6月に

病に倒れ、40歳で崩御した。

1069年(延久元年)延久の荘園整理令

従来の荘園整理令よりも強固に実行するためにそれまで地方諸国の国司達に依存していた職務を全て中央で行うようにした。

その審査を行う機関として
記録荘園券契所 が設置された。

1072年 (延久4年) に 延久宣旨枡 制定

延久宣旨枡 は 再指定した国家公定の (体積の基準となる単位) のことである。

1072年 (延久4年) 白河天皇 即位

後三条天皇 から譲位され、20歳で即位する。

藤原教通

藤原師実

を関白に任じつつも

摂関家の権勢を弱めることに努める。

1071年 (延久3年) に

源顕房 の娘

藤原 賢子 が入内

1079年 (承暦3年) に

善仁親王(のちの 堀河天皇 )誕生

1086年 (応徳3年) に

子 の善仁親王 を皇太子に立て、即日譲位した。(堀河天皇)

1107年 (嘉承2年) に

堀河天皇崩御する。

その後は、

孫の 鳥羽天皇

曾孫の崇徳天皇

と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。

1083年 (永保3年) 後三年の役 始まる

陸奥 出羽 (東北地方) を舞台に

奥羽 を実質支配していた
出羽 清原氏 の内紛に

陸奥守 である

源義家 が介入して起きた戦いです。

この戦いにより

出羽 清原氏 が消滅し

奥州 藤原氏 が登場するきっかけとなった。

前九年の役 (1051年 - 1062年) の後

出羽 清原氏が 奥羽を実質支配していた。

1083年 (永保3年)に

源義家

陸奥守 を拝命して

陸奥国に入った。

1086年 (応徳3年) に

清原 家衡

清原 清衡 が対立し

家衡は清衡の館を攻撃した。

義家は 奥六郡の秩序を破壊した家衡に激怒し 清衡を支援する。

清衡と義家は家衡を攻撃したが、充分な用意が無かった 清衡・義家 連合軍は敗れた。

清原 武衡

家衡 勝利の報を聞いて家衡のもとに駆けつけた。

1087年 (寛治元年) に

義家・清衡 軍は

金沢柵 (横手市 金沢中野) に拠った
家衡・武衡軍を攻めた。

なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、兵糧攻めを行った。

糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した。

家衡と武衡が討ち取られ
戦いが終わった。

戦役後

朝廷は、戦役を義家の私戦とし 義家は 陸奥守を解任された。

清衡は
一族最後の残存者として 清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。

清衡は

実父である 藤原経清の姓「藤原」に復し

藤原 清衡 を名乗り

奥州藤原氏の初代当主となった。

1086年 (応徳3年) 堀河天皇 即位

父の 白河天皇 から譲位され8歳で即位した。

即位に伴い、

義理の外祖父にあたる関白 藤原師実 が摂政となり

摂関政治への回帰が見られた。

1098年(承徳2年)に

藤原 実季 の娘

藤原 苡子 入内

1103年 (康和5年)に

宗仁親王(のちの鳥羽天皇 ) 誕生

1097年 (永長元年) 永長地震

11100年 頃 北面武士 創設

北面武士 は、院御所の北面(北側の部屋)の下に近衛として詰め

、院の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。

院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。

関白 藤原師通が急逝し

摂関家が弱体化した時期に

白河法皇 が 創設した。

当初は 近習や寵童(男色の相手)など、院と個人的に関係の深い者で構成されていたが

院の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。

1118年 (元永元年)に

延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという。

創設期 の北面武士の在籍者

1107年 (嘉承2年) 鳥羽天皇即位

父の 堀河天皇崩御後 5歳で即位する。

実際の政務は 祖父の 白河法皇 が執った。

白河法皇崩御すると、

子の3代28年にわたり院政を敷いた。

1118年 (永久5年) に

藤原公実の娘

藤原 璋子 が入内

1119年 (元永2年) に

顕仁親王 (のちの( 崇徳天皇 ) 誕生

1123年 (保安4年) に

鳥羽天皇は 顕仁親王に譲位する。 (崇徳天皇)

1127年 (大治2年) に

雅仁親王 (のちの 後白河天皇 ) 誕生

1134年 (長承3年) に

藤原 長実の娘

藤原 得子 が入宮する。

1139年 (保延5年) に

躰仁親王 (のちの 近衛天皇 ) 誕生

鳥羽上皇 は 藤原得子 (美福門院) を寵愛した。

1141年 (永治元年) に

崇徳天皇に譲位を迫り、得子 所生の 躰仁親王 を即位させた。(近衛天皇)

保元の乱 の原因となる。

1143年 (康治2年) に

守仁親王 (のちの 二条天皇 ) 誕生

1108年 (嘉承3年) 源義親の乱

源義義親

九州で略奪を行い、官吏を殺したため、隠岐国へ流された。

1111年 (天永2年) 記録荘園券契所 設置

記録荘園券契所* は 荘園調査機関。令外官の1つ。 主な業務は不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行った

1113年 (永久元年) 永久の変

鳥羽天皇 暗殺未遂事件。

源俊房 の子で

立川流創始者である

仁寛

白河法皇の異母弟

輔仁親王皇位に就けるべく

鳥羽天皇の暗殺を謀った。

同年11月、仁寛は伊豆の大仁へ流された。

1120年 (保安元年) 保安元年の政変

白河法皇

関白藤原忠実

勅勘 処分にして

内覧 職権を停止した政変

1123年 (保安4年) 崇徳天皇 即位

鳥羽天皇 の譲位により 数え5歳 で即位した

実際の政務は 祖父 白河法皇 が執った。

1129年 (大治4年) に

白河法皇崩御する。

鳥羽上皇院政を開始する。

1141年 (永治元年) に

鳥羽上皇は 第一皇子の 崇徳天皇 に譲位を迫り、第九皇子の 躰仁親王 を即位させた( 近衛天皇

保元の乱 の原因となる。

1128年 (大治3年) 平間寺(川崎大師) 建立

1129年 (大治4年) 白河 法皇 崩御鳥羽上皇 による院政開始

1141年 (永治元年) 近衛天皇 即位

鳥羽法皇 の意向で

異母兄 崇徳天皇 からの譲位により

数え3歳で 即位した。

在位中は 鳥羽法皇院政を敷いた。

1147年 (久安3年) 祇園闘乱事件

祇園社 の神人と

平清盛 の郎党が

小競り合いとなり、宝殿に矢が当たり多数の負傷者が発生した事件。

1155年 (久寿2年) 後白河天皇 即位

雅仁親王(のちの 後白河天皇

1139年 (保延5年)に

藤原 経実 の娘

源 懿子 と結婚

1143年 (康治2年)に

第一皇子 守仁親王( のちの 二条天皇 ) 誕生

1155年 (久寿2年) に

異母弟の 近衛天皇 の急死により

立太子を経ないまま

29歳で 即位 した。

1158年 (保元3年 に

子の 二条天皇譲位上皇となる。

平治の乱 の一因となる。

1161年 (応保元年)に

平 時信 の娘

平滋子 が入内

1161年 (応保元年)に

第七皇子 憲仁親王(のちの 高倉天皇 ) 誕生

1169年 (仁安4年) に

法住寺殿において出家、法皇となる。

1156年 (保元元年) 7月 保元の乱

皇位継承問題や摂関家の内戦により、

朝廷が

後白河天皇 方と

崇徳上皇 方に分かれ

双方の衝突に至った政変である。

崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。

この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。

近衛天皇即位

1141年 (永治元年)12月に

鳥羽法皇

藤原璋子 (待賢門院) との子である

崇徳天皇 を退位させ、

寵愛する

藤原得子 (美福門院) との子である 体仁親王 が即位した( 近衛天皇 )。

翌年には 政界は待賢門院 (崇徳天皇)派と美福門院(近衛天皇)派に二分される。

摂関家の内紛

白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると

藤原忠実 の女

泰子 (高陽院) が

鳥羽上皇 の妃となり 息を吹き返した。

忠実の次男 関白 藤原忠通

後継者に恵まれなかったため、

忠実の三男 頼長を養子に迎えた。

しかし 1143年 (康治2年) に

四男 基実 が生まれると

忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。

鳥羽法皇はどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧の宣旨を下した。

ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。

近衛天皇崩御

仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。

1153年 (久寿2年) 7月に
23日、近衛天皇崩御する。

後継天皇候補としては重仁親王守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。

世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた

鳥羽法皇崩御

1156年 (保元元年) 5月に

鳥羽法皇が病に倒れた。

政情不安を危惧した

鳥羽法皇

源為義

平清盛

北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させた。

それから1ヶ月後、7月2日 に

鳥羽法皇崩御した。

挑発の開始

7月5日に  

後白河天皇の勅命により

検非違使

平基盛 (清盛の次男)

平維繁

源義康 が召集され、

京中の武士の動きを停止する措置が取られた。

7月8日に

藤氏長者 頼長 に謀反の罪がかけられた。

蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が

頼長の邸 東三条殿 に乱入して

邸宅を 没官 するに至った。

忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

崇徳上皇の脱出

7月9日の夜中に

崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある

妹の 統子内親王 の御所に押し入った。

自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。

両軍の対峙

の対峙 10日の晩頭に

、頼長が宇治から上洛して

河北殿 に入った。

謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。

白河北殿には

貴族では 崇徳の側近である

藤原教長

頼長の母方の縁者である

藤原盛憲

藤原経憲 の兄弟

武士では

平家弘

源為国

源為義

平忠正

源頼憲

などが集結する。

崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。

頼長は

信実 率いる

興福寺 の悪僧集団など

大和からの援軍を待つことに決した。

これに対して後白河・守仁陣営も、武士を動員する。

夜襲

7月11日未明に

清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。

辰の刻(午前8時頃)に

天皇方は 白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。

火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。

戦後

合戦の勝利を受けて朝廷は

忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、

清盛は播磨守、義朝は右馬に補任された。

上皇方の投降

13日に

逃亡していた崇徳上皇

仁和寺 に出頭し

同母弟の 覚性法親王 に取り成しを依頼する。

崇徳の出頭に伴い、藤原教長源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。

罪名宣下

23日に

崇徳上皇は讃岐に配流された。

1164年 (長寛2年) に

上皇は 讃岐にて46歳で崩御した。

怨霊伝説

1176年 (安元2年)に

が相次いで死去している。

1177年 (安元3年)に

が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。

これらは 崇徳上皇の怨霊のせいにされた。

1184年 (寿永3年) に

後白河法皇 により

保元の乱の古戦場である春日河原に

崇徳院廟」( 粟田宮 )

が設置された。

1868年 (慶応4年) に

明治天皇

自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし

崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて

飛鳥井家

の邸宅の地 (京都市上京区東飛鳥井町) に

白峯神宮

を創建した。

1156年 (保元元年) 11月 保元新制

1156年 (保元元年) 7月の 保元の乱 の後

新体制の確立を図るために

後白河天皇 の出した

宣旨 7ヶ条のこと。

荘園整理令 として重視する観点からは 「保元の荘園整理令」 と呼ばれる場合もある。

1158年 (保元3年) 二条天皇 即位

養母の 美福門院 の要望で

後白河天皇 からの譲位をうけ即位。

1164年 (長寛2年) に

伊岐致遠女を母とし

順仁親王( のちの 六條天皇 ) 誕生

1165年 (長寛3年) 2月に

病に倒れた。

6月に

前年に生まれた 順仁親王立太子を行うとその日のうちに譲位する。

7月に

押小路東洞院崩御する。

1159年 (平治元年) 平治の乱

朝廷の皇位継承 および

後白河法皇の側近である

信西

藤原信頼

の対立により

平氏( 平清盛 ) と

源氏( 源義朝 ) が

争った内乱です。

平氏が勝利し、政治の実権を握り、平氏全盛期を迎えることとなりました。

信西の執政

1156年 (保元元年) の 保元の乱の後 に

白河天皇は、

同年閏9月に

保元新制 と呼ばれる代替わり新制を発令した。

その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である

信西 であった。

平氏一門の台頭

国政改革推進のため、信西

平清盛 を厚遇する。

平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、

保元の乱後には

清盛が播磨守、

平頼盛 が安芸守、

平教盛 が淡路守、

平経盛常陸介と

兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。

信西は、自らの子・

藤原成範

清盛の女( のちに 藤原 兼雅 の妻 ) の婚約によって

平氏との提携を世間に示した。

二条親政派の攻勢

美福門院 ( 鳥羽天皇の皇后 ) は

かねてからの念願であった、自らの養子・守仁親王 の即位を信西に要求した。

美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。

1158年 (保元3年) 8月4日に

信西と美福門院の協議により 後白河天皇守仁親王に譲位した( 二条天皇 )。

ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。

二条親政派は

藤原経宗 (二条の伯父)

藤原惟方 (二条の乳兄弟)

、が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。

信頼の登場

後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった

。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。

後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。

そこで後白河は、

武蔵守 藤原信頼 を抜擢する。

信頼の一門は武蔵国陸奥国知行国としており、両国と深いつながりを持つ

源義朝と連携していた。

1158年 (保元3年) に

後白河院庁が開設されると、

信頼は 院の軍馬を管理する厩別当に就任する。

義朝は 宮中の軍馬を管理する左馬頭に就任する。

後白河の近臣としては

信頼、義朝の他にも、

藤原成親

源師仲が加わり

院政派の陣容も整えられた。

信西派の形成

ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門がそれぞれ形成されることになった。

二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。

三条殿襲撃

平治元年12月(1160年1月)に

清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派は反乱を起こした。

12月9日 深夜 に

藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。

信頼らは後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。

13日に

信西は 喉を突いて自害した。

二条天皇六波羅行幸

清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知った。

17日に

熊野別当

湛快 の協力により、

紀伊の武士 湯浅宗重 と共に

帰京する。

帰京までに、

伊藤景綱

館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。

一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず

京都の軍事バランスは大きく変化した。

信西と親しかった

内大臣 三条公教

信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派の 経宗・惟方に接触を図った。

二条親政派にすれば信西打倒を果たしたことにより、信頼ら後白河院政派は用済みとなっていた。

公教と惟方により二条天皇六波羅行幸の計画が練られ、

藤原尹明 (惟方の義兄弟)が密命を帯びて 内裏に参入する。

25日 夜 に

惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、

後白河はすぐに仁和寺に脱出した。

26日 丑刻(午前2時)に

二条天皇は 内裏を出て 清盛の邸である六波羅へと移動する。

清盛は 一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。

26日早朝に

信頼・成親は義朝とともに武装して出陣するが、

源師仲は保身のため

三種の神器 の一つである

神鏡 を持ち出して逃亡した。

六波羅合戦

信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝源重成源光基源季実信西を追捕した源光保らの混成軍であった。

義朝配下の軍勢は、子息の

義平

朝長

頼朝

叔父・義隆

信濃源氏平賀義信 などの一族

鎌田政清

後藤実基

佐々木秀義

などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、

三浦義澄

上総広常

山内首藤氏

などが参戦したに過ぎなかった。

清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。

平氏軍は予定通り退却し、戦場は六波羅近辺へと移った。

義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。

後白河院政派の壊滅

藤原信頼・成親は 仁和寺

覚性法親王

のもとへ出頭した。

信頼は 信西自害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。

成親は 重盛室の兄という理由で助命され、解官されるに留まった。

逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出頭するが処罰は厳しく、下野国への配流が決定した。

義朝は 東国への脱出を図るが途中で頼朝とはぐれ、朝長・義隆を失う。

12月29日に

義朝は

尾張国内海荘司・長田忠致の邸にたどり着いたところを

鎌田政清とともに殺害された。

正月8日に

義平は 難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられ、六条河原で処刑される。

2月9日に

頼朝は 頼盛の郎等・平宗清に捕まりやはり処刑されるところを、清盛の継母・

池禅尼 の嘆願で助命された。

3月11日に

頼朝は 伊豆に配流された。

経宗・惟方の失脚

実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。

正月6日に

後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。

後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、

2月20日

清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。

3月11日に

経宗が阿波、惟方が長門に配流された。

経宗・惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。

信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。

平氏政権の成立

後白河上皇二条天皇の対立は双方の有力な廷臣が共倒れになったため小康状態となり、二頭政治が行われた。

乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも与することなく慎重に行動した。

平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め、政治への影響力を増大させた。

平清盛はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立した。

1160年 (永暦元年) 6月に

正三位に叙され、

8月に

参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。

1165年 (永万元年) 六条天皇 即位

二条天皇 からの譲位により 数え2歳で即位し た。

政務は

外伯父の摂政 近衛基実

藤原 邦綱

表向きを取り仕切った。

1168年 (仁安3年) に

在位2年8か月で祖父 後白河上皇 の意向により、

叔父の憲仁親王に譲位する ( 高倉天皇 )

歴代最年少の上皇となった。

1168年 (仁安3年) 高倉天皇 即位

甥の 六条天皇 より譲位され 8歳で即位。

後白河上皇

平清盛と手を結んで

甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させた。

政務は 父 後白河上皇院政を敷いた。

1171年 (安元年) に

平清盛 の娘

平 徳子 が 入内

1178年 (治承2年) に

言仁親王( のちの 安徳天皇 ) 誕生

藤原 信隆の娘

藤原 殖子 が 入内

1180 (治承4年) に

尊成親王 ( のちの 後鳥羽天皇 ) 誕生

1180年 (治承4年) に

平清盛の孫にあたる言仁親王に譲位する (安徳天皇

1181年 (治承5年)に

病に倒れ21歳で 崩御した。

1169年 (嘉応元年) 嘉応の強訴

延暦寺の僧侶が

尾張国知行国藤原成親 の配流を求めて起こした強訴

後白河法皇 は成親を擁護したが 上流貴族や平氏の非協力的態度により事態は紛糾した。

後白河と平氏の政治路線の対立が、院政開始後に初めて表面化した事件である。

1177年 (安元3年) 5月 安元の大火

177年 (安元3年) 6月 鹿ケ谷の陰謀

1179年 (承3年) 治承三年の政変

平清盛

後白河法皇

鳥羽殿

に幽閉した

1180年 (治承4年) 2月 安德天皇 即位

高倉天皇 から譲位され 数え3歳で即位。

外祖父の 平清盛 が後見となる。

6月に

平清盛

現在の兵庫県神戸市 平野

福原京

を造営する。

1180年 (治承4年) 治承・寿永の乱 の開始

1181年 (治承5年) 2月 平清盛 死去

後白河法皇

院政を再開した

1183年 (寿永2年) 後鳥羽天皇 即位

神器なき即位

183年 (寿永2年) 7月に

木曾義仲 の軍が京都に迫ると

平家( 平 宗盛 ) は

安德天皇

神鏡剣璽( 三種の神器 ) を

奉じて 西国に逃れた。

同年 8月に

高倉天皇の皇子である

尊成親王

後白河法皇院宣を受ける形で践祚天皇となった。

その儀式は

剣璽渡御 を除く

譲国の儀に倣って行われた。

1184年 (元暦元年) 7月に

剣璽 なきまま 即位式が行われた。

安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、

1185年 )文治元年) に

安徳天皇崩御するまでの2年間は 在位期間が重複する。

1192年 (建久3年) に

後白河法皇崩御までは、後白河法皇による院政が続いた。

1195年(建久6年) に

能円の娘

源 在子 を母とし

為仁親王 (のちの 土御門天皇 ) 誕生

1198年 (建久9年)に

為仁親王 に 譲位 (土御門天皇)

1184年 1月 (寿永2年 11月) 法住寺合戦

木曾義仲

が院御所・法住寺殿を襲撃して

北面武士

および僧兵勢力と戦い、

後白河法皇

後鳥羽天皇

を幽閉、政権を掌握した軍事政変である。

1184年 3月 (寿永3年 1月) に

粟津の戦い

義仲は

鎌倉の 源頼朝 から派遣された

源 範頼

源義経

の軍と戦い

義仲は討ち死。

1185年 (文治元年) 壇ノ浦の戦い

治承・寿永の乱 の最後の戦いである。

壇ノ浦 (現在の山口県下関市) にて

源氏( 源義経 )と   平家( 平 宗盛 ) の間の戦い

源氏が勝ち

平家が滅亡に至った。

安德天皇鏡剣璽 と供に
入水し 数え年8歳 で崩御した。

戦いの1年後に

源頼朝 の命により

安徳天皇の怨霊(おんれい)を鎮めるため 阿弥陀寺御影堂が建てられた。

明治時代に

廃仏毀釈運動により 阿弥陀寺は廃されて

現在の安徳天皇を祀る

赤間神宮 (山口県下関市) となった。

1185年 (文治元年) 鎌倉幕府 成立

文治の勅許 により

源頼朝による

守護・地頭職の設置・任免を許可した。

近年は これにより
鎌倉幕府 の成立とする。

1192年 (建久3年) に

源頼朝征夷大将軍 となる

以前は これにより
鎌倉幕府 の成立とした。