戦国時代の出来事

戦国時代の出来事を年表にまとめた。

戦国時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 安土桃山時代

広義の室町時代に含まれる。

戦国時代の概要

1467年の 応仁の乱 から、

1568年の 織田信長 の上洛まで。

約100年。

始期を 1493年 の 明応の政変

終期を

1573年に 室町幕府が滅亡したとき

1590年の 小田原征伐

とすることもある。

世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名 に代わって全国各地に 戦国大名が台頭した。

領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。

経済と社会

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。

戦国時代初期には 勘合貿易 および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や 南蛮貿易 によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。

また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された 石見銀山 に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し 楽市・楽座 により自由な市場取引を推奨した。

戦国時代の文化

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。

下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする 桃山文化 の発露への布石となる。

戦国時代に活動した画家

戦国時代の出来事

1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に

足利 義政

6代将軍 足利義教 の五男。

7代将軍 足利義勝 の同母弟にあたる。

1443年 (嘉吉3年) 7月 に

7代将軍 義勝が早逝した。

1449年 (文安6年) 4月に

将軍宣下を受けて、第8代将軍として就任した。

1455年 (享徳3年) 享徳の乱

8代将軍 足利義政 の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

5代 鎌倉公方 足利成氏

関東管領 上杉憲忠 を暗殺した事に端を発し、

関東地方一円に拡大した。

1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位

後花園天皇 の第一皇子。

後花園天皇の譲位を受けて践祚

1467年 (応仁元年) 応仁の乱

室町幕府管領家畠山氏

斯波氏 それぞれの家督争いに端を発し

1467年 (応仁元年)に発生し、

1477年 (文明9年) までの 約11年に及んで継続した内乱。

1470年 (文明2年) 京極騒乱

京極氏家督相続を巡る御家騒動の一つ。

1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件

伯耆国守護職山名豊之 が同国由良郷の嶋の地で殺害された事件。

1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に

8代将軍・足利義政の次男

1473年 (文明5年) 12月に

9歳のとき、父 義政から 征夷大将軍を譲られ、9代将軍に就任

1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱

因幡の国人 毛利貞元(次郎)が

守護 山名氏 に対して起こした反乱。

1487年 (長享元年) 長享の乱

山内上杉家上杉顕定関東管領)と

扇谷上杉家上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。

この戦いによって上杉氏は衰退し、

伊勢宗瑞( 北条早雲 )を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。

1487年 (長享元年) 長享・延徳の乱

1487年 (長享元年) と 1491年 (延徳3年) の2度に亘って

室町幕府が行った 近江守護 六角行高 に対する親征である。

1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆

加賀の本願寺門徒(一向衆徒)が中心となった 国人や農民による惣国一揆

1490年 (延徳2年) 足利 義稙 10代将軍に

足利義稙

足利義視 の子。

第8代将軍 足利義政 は父の異母兄。

9代将軍 足利義尚 は従兄。

1489年 (長享3年) に

従兄で9代将軍の 足利義尚 が早世した。

1490年 (延徳2年) に

義尚の父で8代将軍の 足利義政 の死後、

10代将軍に就任した。

1490年 (延徳2年) 足利義政 銀閣寺 創建

慈照寺 (別名 銀閣寺) は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。

開基(創立者)は8代将軍足利義政

1493年 (明応2年) 明応の政変

管領 細川政元

日野富子 と共に起こした、

10代将軍 足利義材 を廃して

11代将軍に 足利義澄 を擁立した事件。

1495年 (明応3年) 足利 義澄 11代将軍に

足利義澄

堀越公方 足利政知 の子。

8代大将軍 足利義政 は父の異母弟。

10代将軍足利義材は従兄。

1493年 (明応2年) に

明応の政変 により

従兄の10代将軍・足利義材管領 細川政元 によって追放される。

1495年 (明応3年) に

11代将軍として擁立された。

1498年 (明応7年) 明応の大地震

1500年 (明応9年) 後柏原天皇 即位

後土御門天皇 の第一皇子。

後土御門天皇崩御を受けて 践祚した。

1504年 (永正元年) 立河原の戦い

武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、

上杉顕定足利政氏 らの連合軍と

上杉朝良今川氏親北条早雲 らの連合軍との間で行われた合戦である。

長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いである。

この戦いに勝利した上杉朝良は 結果的に上杉顕定に降伏した。

1506年 (永正3年) 9月 永正の乱

永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。

1506年 (永正3年) 10月 般若野の戦い

越中般若野(現在の富山県砺波市)で行われた

越中一向一揆

越後守護代 長尾能景 との間の戦い。

一向一揆勢が勝利し

能景は討ち取られた。

1507年 (永正4年) 永正の錯乱

室町幕府管領 細川政元 が暗殺されたことを発端とする、

管領細川氏細川京兆家 )の家督継承をめぐる内訌である。

1509年 (永正6年) 片角軍萱の戦い

下野国にて

長沼政義 ( 鴫山城 ) は 主家である 宇都宮氏を裏切り、下野国 片角軍萱に侵攻したことに対し、

下野の戦国大名 宇都宮成綱 が迎え撃ち、長沼軍を撃退した戦いである。

再起不能に近い形で大敗した政義は 下野国の自領を捨て、田島城に逃亡した。

1509年 (永正6年) 7月 如意ヶ嶽の戦い

現在の京都市左京区如意ヶ嶽 周辺で行われた

細川高国大内義興 連合軍と

細川澄元三好之長 連合軍との戦い。

高国・義興 連合軍が勝利し

澄元・之長らは阿波へ逃走した。

1511年 (永正8年) 7月 深井城の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

深井城 (大阪府堺市) で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍が勝利し

高国軍の残兵は堺へ逃亡。

1511年 (永正8年) 8月 芦屋河原の合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

摂津国武庫郡鷹尾城 と芦屋河原周辺で行われた

細川澄元

細川高国 との合戦。

澄元軍は軍勢を二分して進軍、

一方が阿波より堺に上陸 深井城の合戦 となり、

もう一方が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦 となった。

澄元軍は鷹尾城を占領。

1511年 (永正8年) 8月 船岡山合戦

両細川の乱 の合戦の一つ。

室町幕府 10代将軍 足利義稙 を擁立する 細川高国大内義興

11代将軍 足利義澄 を擁立する 細川澄元との間で起きた、

幕府の政権と細川氏家督をめぐる戦いである。

細川高国大内義興 連合軍が勝利。

1512年 (永正9年) 宇都宮錯乱

下野宇都宮氏 で発生した内紛。

当主 宇都宮成綱

家臣 芳賀高勝 を殺害、

それをきっかけに 芳賀氏 が反乱を起こした。

1520年 (永正17年)等持院の戦い

両細川の乱 の合戦の一つ。

山城国 等持院(現在の京都府京都市北区)で

細川高国 軍と

三好之長 軍との間で行われた戦い。

この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。

1521年 (大永元年) 大永の内訌

下野宇都宮氏18代当主・宇都宮忠綱 と、

芳賀高経 ら芳賀氏を中心とした家臣団との 対立で起こった内訌(内輪揉め)である。

1522年 (大永元年) 足利 義晴 12代将軍に

足利義晴

11代将軍 足利義澄 の長男。

1511年 (永正8年) に

義澄は 病死した。

1521年)(大永元年) に

10代将軍 足利義稙

後柏原天皇 の信任を失う。

管領 細川高国

義稙の放逐を決意し 新将軍の擁立を決めた。

1522年 (大永元年) に

義晴 が12代将軍に。

1523年 (大永3年) 寧波の乱

明の 寧波 で起きた

日明貿易勘合貿易) の利権をめぐる

大内氏

細川氏 との争い.

1524年 (大永4年) 5月 大永の五月崩れ

出雲守護代 尼子経久伯耆 進攻をいう。

1524年 (大永4年) 7月 佐東銀山城の戦い

安芸 武田氏 の 本拠であった安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)の 佐東銀山城

大内氏 が攻めた合戦である。

安芸武田氏は佐東銀山城を守りきり

大内軍は撤退した。

1526年 (大永6年) 後奈良天皇 即位

後柏原天皇の第二皇子。

後柏原天皇崩御にともない践祚した。

1527年 (大永7年) 桂川原の戦い

京都 桂川 原一帯で行われた

12代将軍 足利義晴 を擁する

細川 高国

細川晴元 との戦い。

晴元が勝利し

義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とした。

和泉国 を本拠とした晴元は、

都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、

義晴の弟 足利義維 を将軍に戴く 堺公方府 という擬似幕府を創設した。

1531年 (享禄4年) 大物崩れ

摂津 天王寺辺りで

細川晴元

三好元長 の連合軍が、

細川高国

浦上村宗 の連合軍を壊滅させた。

高国が 大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で捕らえられ処刑された。

1532年 (天文元年) 山科本願寺の戦い

細川晴元

六角定頼

・京都の 法華一揆 の連合軍と

山科本願寺 に籠る

浄土真宗本願寺勢力( 一向一揆 )との戦い。

晴元方が勝利し

山科本願寺は 社坊ひとつ残さず灰になって落城した。

1534年 (天文3年) 勢場ヶ原の戦い

豊後 大村山 付近(現大分県杵築市山香町山浦近辺)で行われた

中国地方の大名 大内義隆

豊後の大名 大友義鑑 との合戦。

引き分けとなる。

1535年 (天文4年) 森山崩れ

三河国岡崎城松平清康 が、

尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、

家臣の 阿部正豊 に暗殺された事件。

1536年 (天文5年) 天文法華の乱

延暦寺の衆徒が 京都の日蓮宗徒( 法華宗) を襲撃した事件。

日蓮宗寺院は京都から追放されることになる。

1540年 (天文9年) 吉田郡山城の戦い

安芸国吉田の 吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、

毛利氏当主 毛利元就

中国地方の守護 尼子晴久 との戦い。

毛利氏が勝利し

尼子軍が撤退し、晴久は帰国した。

1541年 (天文10年) 海野平の戦い

信濃国 小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。

甲斐守護 武田信虎 と、村上義清諏訪頼重 など武田と結んだ信濃国人の連合軍が 小県郡へ侵攻し、

小県を領する 海野棟綱根津元直滋野三家 ( 海野氏禰津氏望月氏 ) や 真田氏 との間で行われた。

武田の連合軍が勝利し

滋野一族は 上野国へ亡命する。

1542年 (天文11年) 天文の乱

天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)、

伊達氏当主 伊達稙宗

嫡男 晴宗 父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。

1542年 (天文11年) 川中島の戦い

領土拡大を目指し 北信濃に侵攻した 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

信濃信濃中部の豪族から助けを求められた 越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との間で、

主に川中島で行われた数次の戦い。

1542年 (天文11年) 月山富田城の戦い

1542年から1543年・1565年から1566年に

尼子氏 の本拠である出雲国月山富田城(現:島根県安来市)を

大内義隆 を総大将とする大内軍が攻撃した。

尼子方が勝利し

大内方は撤退し 義隆は山口に帰還した。

1543年 (天文12年) 鉄砲伝来

ヨーロッパから東アジアへ 火縄銃(鉄砲)が伝わったこと、

狭義には日本の 種子島(当時大 隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。

1544年 (天文13年) 加納口の戦い

織田信秀( および 朝倉孝景 土岐頼芸 )と

斎藤道三 との間で起こった合戦である。

斎藤軍が勝利し

織田軍は大敗、

信秀は逃げ帰った。

その後

信秀の嫡男 信長

道三の娘 濃姫 を縁組させることで、和睦を結ぶことになる。

1545年 (天文14年) 河越城の戦い

武蔵国の枢要な城であった 河越城の争奪を巡る 一連の戦いをいう。

後北条氏の2代目当主 北条氏綱武蔵国征服のため、

武蔵国を支配していた 上杉氏 の居城・河越城に侵攻し、

1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。

北条軍が勝利し、

上杉氏が滅亡した。

1547年 (天文15年) 足利 義輝 13代将軍に

12代将軍 足利義晴 の長男。

足利義晴 から将軍職を譲られ、11歳で13代将軍となった。

1549年 (天文18年) 江口の戦い

摂津 江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において

三好長慶 軍と

同族の 三好政長 が衝突した戦いである。

三好長慶軍が勝利し

政長は戦死。

1549年 (天文18年) フランシスコ・ザビエル 来日

1550年 (天文19年) 二階崩れの変

豊後の戦国大名 大友氏 の内紛、お家騒動。

大友家重臣 津久見美作、田口鑑親らが

大友館 の2階で就寝していた

当主 大友義鑑塩市丸 、そしてその生母を襲撃した。

塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。

津久見・田口の両名もその場で壮絶な最期を遂げた。

義鑑も 数日後に死去。

1551年 (天文20年) 大寧寺の変

周防山口の戦国大名 大内義隆

家臣の 陶晴賢 の謀反により自害させられた政変である。

この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた 大内氏 が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。

1554年 (天文23年) 3月 三本松城の戦い

大内義長

陶晴賢 が、

石見国三本松城( 現在の 津和野城 )城主である

吉見正頼 を攻めた戦いである。

大内軍の優勢で和睦。

1554年 (天文23年) 6月 折敷畑の戦い

陶晴賢( 派遣部将は宮川房長 )と

毛利元就との間に行われた戦いである

毛利軍が勝利し

宮川房長は討死。

1555年 (天文24年) 厳島の戦い

安芸国 厳島

毛利元就

陶晴賢 との間で行れた合戦である

毛利方が勝利し

晴賢は自刃して果てた。

1556年 (弘治2年) 長良川の戦い

美濃国(現・岐阜県)の 長良川 にて行われた

斎藤道三

その長男 斎藤義龍 との間で合戦。

義龍が勝利し、

道三は討死。

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い

尾張国知多郡 桶狭間 での

織田信長 軍と

今川義元 軍の合戦。

織田信長軍が勝利し、

今川義元は討死。

織田信長尾張を完全統一したうえ 畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。

1561年 (永禄4年) 4月 善明堤の戦い

今川氏から独立した家康の三河統一事業の過程で起きた合戦の一つである。

三河国(現・愛知県)において

松平元康( 後の徳川家康 )と

吉良義昭 との間で起った戦い。

吉良軍が勝利し

松平元康軍は 松平 好景板倉好重 など、多くの一族、家臣を失った。

1561年 (永禄4年) 8月 第4次川中島の戦い

第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、

川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦い。

川中島の戦い

主に川中島 で行われた

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である 武田信玄 と、

越後国(現在の新潟県)の戦国大名である 上杉謙信 との戦い。

1561年 (永禄4年) 8月に

上杉謙信は 兵13000を率いて犀川千曲川を渡り長野盆地南部の 妻女山 に陣取った。

武田信玄は、兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。

武田軍の別働隊1万2千が妻女山に向い、

信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。

上杉謙信軍は 夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。

川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。

武田軍は完全に裏をかかれた形になり、武田軍は防戦一方となる。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した

双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

1561年 (永禄4年) 9月 藤波畷の戦い

東条吉良氏 の居城 東条城 をめぐる吉良氏と松平元康( 徳川家康 )の一連の攻防戦の一つ。

松平軍が勝利し

吉良義昭 は降伏した。

1563年 (永禄6年) 4月 湯所口の戦い

鳥取城 城下の 湯所口 における

因幡国 重臣武田高信

因幡国山名豊数 率いる布施(勢)屋形勢の間で起こった戦い。

武田勢が勝利し

豊数は逃走した。

1563年 (永禄6年) 4月 新加納の戦い

織田信長

斎藤龍興 の戦い。

斎藤方が勝利し

織田方は敗退した。

1565年 (永禄8年) 永禄の変

室町幕府13代将軍 足利義輝 が、

三好義継

松永久通 らの軍勢によって

京都 二条御所 に襲撃され、殺害された事件である。

三好勢は義輝の異母弟の鹿苑院院主 周暠 も殺害した。

松永久秀

義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶( 後の 足利義昭 )に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。

三好三人衆

義輝の従兄弟 足利義栄 を次期将軍に擁立した。

1566年 (永禄9年) 河野島の戦い

織田信長

斎藤龍興 との間で行われた戦い。

木曽川 で対峙したが

木曽川が氾濫し 双方が撤退。

1567年 (永禄10年) 稲葉山城の戦い

美濃国井之口(現:岐阜県岐阜市)の 斎藤龍興 の居城 稲葉山城 を、

織田信長 が攻め取った攻城戦である。

斎藤龍興は伊勢の長島へと脱出した。

この戦によって織田信長稲葉山城岐阜城に改名して居城とした上で、

天下布武 の朱印を用いるようになり、

本格的に天下統一を目指すようになる。

1567年 (永禄10年) 東大寺大仏殿の戦い

大和 東大寺 周辺で

松永久秀

三好義継

三好三人衆

筒井順慶

池田勝正 らが繰り広げた市街戦。

大仏殿が全焼した。

松永久秀軍が勝利し

三人衆軍、池田軍は敗退した。

1568年 (永禄11年) 3月 足利義栄 14代将軍に

足利義栄

平島公方 足利義維 の長男。

第12代将軍 足利義晴 は父の兄。

13代将軍 足利義輝 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

1568年 (永禄11年) 3月に

足利 義栄 は 朝廷から征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

1565年 (永禄8年) 5月に

永禄の変にて

足利義輝 が殺害された。

細川藤孝幕臣の援助を受けて 南都 から脱出した。

その後、朝倉義景 の庇護を受ける。

1568年 (永禄11年) 7月に

足利義昭 は美濃に入り、

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 9月に

足利義昭織田信長に擁されて上洛した。

10月に

14代将軍 足利義栄は 腫物を患って 阿波で養生することになった。

同月にその地で死去した。

11月に

足利義昭 は朝廷から将軍宣下を受けて、15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。