江戸時代前期の出来事

江戸時代前期の出来事を年表にまとめた。

江戸時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 安土桃山時代

後は 明治時代

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参考

江戸時代の小区分

江戸時代は

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1868年に

明治天皇一世一元の詔 を発布し、 慶応 から 明治改元されるまで

約300年間。

大きく5つに区分される。

初期

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

前期

江戸幕府の創成期。 1603年から 1690年ごろまで

中期

江戸幕府の全盛期。 1690年ごろから 1780年ごろまで

後期

江戸幕府の衰退期。 1780年ごろから1850年ごろまで

幕末期

江戸幕府の終焉期。 1853年 から1868年まで

江戸時代初期の概要

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

1590年の 小田原征伐 の後、

豊臣秀吉 の意向で

徳川家康江戸城 に入った。

当時の 江戸江戸湾 の入江で湿地帯であった。( 日比谷入江 )

徳川家康は 町造りのため、 3つの大事業に着手した。

江戸時代前期の概要

江戸幕府の創成期。

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1690年ごろまで

約90年間。

家康 期

1603年に
徳川家康征夷大将軍に任じられる。

領地である江戸に幕府を開き、ここに 江戸幕府徳川幕府)が誕生する。

豊臣秀吉 死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れる。

秀忠 期

1605年に 徳川秀忠 が2代将軍になる。

江戸城に住む将軍・秀忠と 駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になる。

大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃し、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。

以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、元和偃武 とよばれる平和状態が日本にもたらされた。

かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名 として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。

徳川氏一門の 親藩大名 は大領を持ったが幕政には関与せず。

関ヶ原の戦い 以前から徳川家に仕えていた 譜代大名旗本 によって幕政は運営された。

武家諸法度 によって大名は厳しく統制され、大大名も 改易 処分となり大領を失うことがしばしば発生した。

京都・大坂・長崎といった全国の要所は直轄領( 天領 )として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。

朝廷に対しては 禁中並公家諸法度京都所司代 による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。

また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な 新田開発 が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。

外交面では、

1609年に 李氏朝鮮己酉約条 を結び、 朝鮮との貿易が再開された。

1609年に 長崎 平戸オランダ商館 を設置し、 オランダとの貿易を始める。

1613年に ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 を契機に 禁教令

キリスト教宣教師が日本から追放される。

家光 期

1623年に 徳川家光 が3代将軍になる。

家康 以降の 武断政治 を継承し、江戸幕府の基盤を固めた。

設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、 寛永10年ごろに 老中 若年寄 などの末期まで続く制度が確立した。

武家諸法度 を改訂し、大名に参勤交代 を義務づけた。

江戸の町造りとして、

関東郡代伊奈忠治 により、 荒川 の西遷が行われ、 隅田川 が荒川の本流となった。

隅田川の西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える舟運の重要地となった。

外交面では、

1634年に 長崎 に 出島 を築造し、 オランダ商館平戸 から移転し、 長崎奉行所 の厳しい管理下に置いた。

1638年の島原の乱を契機に 幕府は 鎖国 政策を採った。

長崎 出島 での中国(明・清)・オランダとの交流と 対馬藩 を介しての 李氏朝鮮 との交流以外は外国との交流を禁止された。

鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの 日本町 が形成された。 またタイに渡った 山田長政 のように、その国で重用される例も見られた。

鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。
そのため 三都 ( 京・大坂・江戸 ) を中軸とする全国経済と各地の 城下町 を中心とする藩経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し( 天下の台所 )そこから全国に拡散した。

家綱 期

1651年に 徳川家綱 が4代将軍になる。

関ヶ原の戦い大坂の陣 以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増していた。

浪人たちの不満は幕府に向かい、 慶安の変承応の変 が起きた。

幕府はそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。 改易を少しでも減らすために 末期養子の禁 を緩和するなど、外様大名に一定の配慮を行ない、 これまでの武力に頼った武断政治から 文治政治 への政策切り替えが行われた。

経済政策では、

河村瑞賢に命じて 東廻海運西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開された。

江戸の町造りとして、

1650年頃、 江戸の飲料水不足を解消するため
老中 松平信綱 の命により 玉川兄弟玉川上水 を開削した。

1657年の明暦の大火 の後、江戸の街は大改修された。

新たに 本所上水青山上水三田上水 が整備された。

外交面では、

蝦夷地での シャクシャイン蜂起 や、イングランドリターン号 による通商再開要求、台湾 鄭氏政権による援兵要請 ( 日本乞師 ) などが起こっているが、家光期以来の 鎖国 政策が堅持された。

綱吉 期

1680年に 徳川綱吉が5代将軍になる。

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる 文治政治 を推進した。

湯島聖堂 を建立するなど 学問を推奨した。

綱吉の治世の前半は、善政を行い「天和の治」と称えられている。

後半は、側用人柳沢吉保 らを重用して 老中を遠ざけるようになった。

生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった

元禄時代

元禄時代」は 元禄年間を中心とした5代将軍 徳川綱吉 の治世 (1680〜1709) の総称。

元禄 は 日本の元号の一つ。 1688年から1704年まで。

前代 徳川家綱 までに幕府機構はととのい,藩体制も整備され,幕府支配体制の安定期を迎えていた。
綱吉は将軍の権力を強化し,専制的政治を実施した。

農業をはじめ、さまざまな産業が発展し、経済力をつけた町人も現れました。
豊かになった町人が、学問や娯楽にいそしみ、絵画や文学、演芸などのジャンルで活躍し、元禄文化 が花開いた。

江戸時代前期の文化

農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが 元禄時代である。

この時代には文学や絵画の面でも繁栄し 元禄文化 が花開いた。

江戸時代 初期・前期 の出来事

#### 1586年 (天正14年) 後陽成天皇 即位

後陽成天皇

正親町天皇 の皇子の 誠仁親王 の第一皇子。(和仁親王)

誠仁親王薨去すると、

皇祖父 正親町天皇が譲位し、和仁親王践祚し、即位。和仁親王践祚。(後陽成天皇)

1590年 (天正18年) 小田原征伐

主に 小田原城 において

関白 豊臣秀吉 が、

徳川家康 らに命じて

小田原北条氏 を降した戦役。

豊臣軍が勝利し

北条氏は降伏。

当主 北条氏直 は小田原を退去し

前当主である 北条氏政切腹

北条氏の旧領はほぼそのまま 徳川家康 に宛がわれることとなった。

1590年8月1日に

徳川家康江戸城に入る。

後に 八朔の儀式 となる。

徳川譜代の 大久保忠世小田原城主となった。

1590年(天正18年) 利根川東遷事業

利根川東遷事業 は 江戸時代初期に始められた 利根川下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。

江戸時代の利根川は江戸市中を流れていた。

現在の 古利根川中川隅田川 の流路である。

家康は 伊奈忠次関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。

以後、忠治忠克と伊奈氏3代により、利根川の治水工事が行われた。

この事業により、
利根川は、 現在の茨城県と千葉県の県境を流れ、 銚子 で海に至るようになる。

1590年(天正18年) 神田上水 開削

神田上水 は 江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。

徳川家康 の命を受けた 大久保藤五郎 によって開かれた。

江戸の六上水 のひとつであり、 古くは 玉川上水とともに「二大上水」とされた。

神田上水は、井之頭池( 東京都三鷹市 井の頭恩賜公園 内 )を水源とし、 「自然流下方式」で 武蔵野台地 を流れ、 淀橋 を経て、 関口大洗堰 ( 東京都文京区関口 大滝橋 に記念碑あり ) に至る。約60km。

「関口大洗堰」は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷 ( 現 小石川後楽園 ) に流し、 右側を余水として 平川( 現神田川) )に流した。

水戸屋敷を出た上水は 神田上水懸樋 ( 現 水道橋 あたり ) を通り、 東京都 千代田区 神田三崎町 あたりから、 地下に 木樋 を埋め、 市中に分配した。

1592年(天正20年) 日比谷入り江 埋立

日比谷入江 は 現在の東京都千代田区東部に江戸時代初頭まであった入り江である。

天下普請により 神田山( 駿河台 ) を切り崩し 埋め立てられ、大名屋敷となった。

1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着

豊後国(現大分県)に オランダ共和国の商船 リーフデ号が漂着した。

生存者の ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス江戸幕府の外交顧問になった。

徳川家康

関ヶ原の戦い にて、

リーフデ号 の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。

1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い

美濃国不破郡関ヶ原 ( 岐阜県不破郡 関ケ原町 )を主戦場として行われた

徳川家康 を総大将とし

福島正則黒田長政 らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元 を総大将とし

宇喜多秀家石田三成 らを中心に結成された反徳川の西軍との戦い。

東軍が勝利し

石田三成は斬首、

毛利輝元は減封。

勝者である徳川家康は 強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた 五大老五奉行 体制は崩壊した。

家康の権力掌握は徳川氏を中心とする 江戸幕府の成立に繋がる。

1602年 (慶長7年) フランシスコ・デ・モラレス 来日

フランシスコ・デ・モラレス は スペインの ドミニコ会 宣教師である。

1602年に ドミニコ会初の来日宣教師として、マニラ から薩摩に来航し、同地や長崎を中心に布教活動を行う。

1609年の 禁教令 により マニラに追放された。

1603年 (慶長8年) ルイス・ソテロ 来日

ルイス・ソテロ は スペイン生まれの フランシスコ会 宣教師である。

1603年に フィリピン総督の書簡を携えて来日し 徳川家康 に謁見、 日本での布教に従事した。

1603年 (慶長8年) 2月 徳川家康 征夷大将軍

徳川家康

三河国 岡崎城松平広忠 の嫡男。

征夷大将軍」の官職を獲得した 徳川家康

独自の政権( 江戸幕府 ) を構築していく。

同年7月に

豊臣秀吉 の遺言に従い

家康の三男・徳川秀忠 の娘である 千姫

豊臣秀頼 と結婚させた。

1604年 (慶長9年) 徳川家康 江戸城 大改修

1603年に

徳川家康は 最高権力者の地位を象徴する「征夷大将軍」の官職を獲得した。

徳川家康は 諸大名を動員して江戸城の大改修( 天下普請 )を行わせ、

江戸幕府 を構築していく。

1604年 (慶長9年) 12月 慶長地震

1605年 (慶長9年) 4月 徳川秀忠 2代将軍に

徳川秀忠

初代将軍 徳川家康の三男。

父 家康が 将軍職を譲り、2代将軍となる。

秀忠の治政

将軍・秀忠は江戸城 に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、 本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。

1606年(慶長11年) 院内銀山 開山

院内銀山秋田県雄勝郡 院内町 にあった鉱山である。
「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。

1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、開山した

1607年 (慶長11年) 広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による

方広寺大仏・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた事件。

大坂の陣 の契機の一つとなった。

問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、

前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、

後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

1609年(慶長14年) 平戸オランダ商館 設置

平戸オランダ商館 は オランダとの正式国交が開けた時に 平戸 に設置され、ヤックス・スペックス が初代商館長となった。

1609年(慶長14年) 己酉約条

己酉約条対馬宗氏李氏朝鮮 の間で結ばれた条約のこと。

徳川家康 が朝鮮との講和を実現したことをうけて結ばれた。

これにより、文禄・慶長の役 以来断絶していた朝鮮との貿易が再開された。

講和の実現に際し、 対馬藩主・宗義成 は 国書を偽造するという強引な手段を用いた。

後に 柳川一件 となる。

1610年 (慶長14年) ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

長崎における 有馬晴信 による ポルトガル貿易船「ダ・グラサ号」の爆沈事件。

事件の発端

1608年に

肥前日野江藩主の有馬晴信占城 (南ベトナム) に派遣した朱印船マカオ に越冬寄港中に、日本人船員が取引をめぐって騒擾事件を起こし、それをマカオカピタン・モール(総司令官)であったアンドレペソアが鎮圧し、このために日本人側に多数の死者が出たことであった。

翌 1609年に、ペソアが日本航海の司令官として長崎に来着した。

ペソアマカオでの騒擾事件に関する調書を長崎奉行長谷川左兵衛藤広 に対して提出し、自身が駿府に赴いて大御所の徳川家康に陳弁する申し出をした。

藤広は、マカオでの事件に対する報復を考えていた晴信を教唆し、ペソアの捕縛と商船捕獲とを 徳川家康 に請願させた。

焼き討ち

1610年1月に 長崎に到着した晴信は、藤広の支援を得て兵船30艘と1,200人の兵を動員し、「ダ・グラサ号」を攻撃。

事件後

1610年に 徳川家康 の信任が厚かった通詞の ジョアン・ロドリゲス 神父が、藤広と長崎代官であった 村山等安の中傷によって、マカオに追放された。

家康は 追放されたロドリゲスに代わって、イギリス人の ウィリアム・アダムスを重用した。 ロドリゲスを失ったことにより、イエズス会キリシタン界は、幕府に対する有力な窓口を失った。

1610年 (慶長15年) 徳川御三家 創設

徳川御三家 は 徳川氏のうち宗家たる将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川の名字を称することを認められていた3つの分家。
江戸幕府初代将軍 徳川家康 の男子をそれぞれ始祖とする 尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家 を指す。

家康は3人の息子 九男 徳川義直、 十男 徳川頼宣、 十一男 徳川 頼房 に それぞれ所領を与えて 親藩 大名とし、 徳川姓を名乗ることや 三つ葉葵 の家紋使用が許された。

1611年(慶長16年)3月 二条城会見

山城国京都 二条城 において、

徳川家康

豊臣秀頼 が行った会見である。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする。

1611年 (慶長16年) 5月後水尾天皇 即位

後水尾天皇

後陽成天皇の第三皇子。

後陽成天皇から譲位され践祚

1611年 (慶長16年) 12月 慶長三陸地震

1612年 (慶長17年) 岡本大八事件

岡本大八事件 は 江戸時代初期の疑獄事件。

岡本大八

徳川家康の側近

本多正純重臣

はじめは 長崎奉行 長谷川左兵衛藤広 に仕えた。

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

1610年の ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 にて

肥前日野江藩主の 有馬晴信 は 長谷川左兵衛藤広に教唆され 「ダ・グラサ号」を攻撃した。

ダ・グラサ号事件の経緯は 大八、藤広 を通じて家康に報告されてた。

大八の虚偽の発覚

晴信には、龍造寺氏 との代々の争いで生じた失地を回復するという 肥前有馬氏 の悲願があった。

晴信は、藤広と不仲になり、 「次は藤広を沈めてやる」と口走るほどであった。

大八は 晴信に 「藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」 と虚偽を語り、仲介のための資金を無心した。

大八は 家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を運動資金と称してだまし取った。

晴信は 自ら正純のもとに赴いて恩賞を談判、大八の虚偽が発覚することとなった。

断罪

大八は 朱印状偽造の罪により駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられた。

晴信は 旧領回復の弄策と長崎奉行殺害企図の罪で甲斐国郡内に流罪を命じられ、晴信の所領である島原藩4万石は改易のうえ没収に処された。

一方、藤広には咎めは一切なかった。

事件の影響

大八と晴信は キリシタンであった。

幕府は公的に幕府直轄地に対してキリスト教禁教令 を発布して 大名に棄教を迫った。

キリシタン大名は改易など厳しい処分を受けた。

1613年 (慶長18年) 禁教令

日本で慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令。

江戸幕府は当初はキリスト教に対してはこれまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。

1602年に 宣教師 フランシスコ・デ・モラレス が、

1603年に 宣教師 ルイス・ソテロ が、 布教を行っている。

しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し 幕府は キリスト教に対して 次第に態度を硬化させていった。

そんな中で 1609年に ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 が発生する。

それ自体はキリスト教と何の関係もなかったが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった 有馬晴信 と目付役で同じくキリシタンであった 岡本大八収賄事件が発覚する( 岡本大八事件 )。

この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始める。

宣教師 のフランシスコ・デ・モラレスとルイス・ソテロは 日本から追放された。

キリシタン大名は 棄教を迫られ、 改易など厳しい処分を受けた。

キリシタン大名 高山 右近

内藤 如安 とともに

マニラ に追放された。

1614年 (慶長19年) 東廻海運 開拓

東廻海運日本海沿岸の 酒田 から 津軽海峡 を経て太平洋を回航し、東北地方と 江戸 とを結ぶ航路による海上輸送。

大坂の陣 に備え 盛岡藩蔵米三陸沿岸から江戸に廻漕されたのが最初とされる。

1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣

大坂冬の陣

1614年 11月 (冬) に

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

豊臣方は 浪人衆を全国から集めて

籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

徳川方は 織田有楽斎 を通じて豊臣方との和平交渉を行うが。

和議交渉が暗礁に乗り上げると、本丸への砲撃を行った。

淀殿の侍女8人に命中し、

豊臣方は 和議に応ずる。

和議の条件として、大坂城の堀を埋めた。

1615年 (慶長20年) 大坂夏の陣

大坂夏の陣

1615年4月(夏)に

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

大坂冬の陣 ののち

豊臣方は 再び 浪人衆を集めた。

徳川方は 約15万の大軍で大坂城を包囲し、

城内に続々と乱入した。

徳川方が勝利 し

豊臣秀頼は自害し 豊臣氏は滅亡した。

家康の孫娘で 豊臣秀頼正室であった 千姫は 事前に脱出した。

1615年 (元和元年) 9月 元和偃武

1615年の 大坂夏の陣 により

江戸幕府大坂城主の豊臣家 を攻め滅ぼしたことにより

応仁の乱 以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。

同年 7月に

江戸幕府は朝廷に元号慶長 から 元和 と改めさせたことで、

天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。

1615年 (元和元年) 武家諸法度 制定

武家諸法度江戸幕府が諸 大名 の統制のために制定した 武家法 である。

ここでいう武家とは 旗本御家人藩士など広い意味での武家は含まず、大名 のことを指す

1615年 (元和元年) 禁中並公家諸法度 制定

禁中並公家諸法度江戸幕府禁中天皇 )及び 公家 に対する関係を確立するために定めた制定法

1615年 (元和元年) 一国一城令 制定

一国一城令江戸幕府が制定した法令である。
諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じたもの。

1617年 (元和3年) 徳川 秀忠 日光東照宮 創建

日光東照宮 は 栃木県日光市に所在する神社。
江戸幕府初代将軍・徳川家康 を神格化した 「 東照大権現 」 を主祭神として祀る。

1620年(元和6年)仙台堀 開削

仙台堀仙台藩伊達政宗 が 神田山 (本郷台地) に開削した 神田川 のこと。

第二代将軍 徳川秀忠 の時代に、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。 秀忠の命を受け、仙台藩祖の伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの 牛込橋 付近から秋葉原駅近くの 和泉橋 までの開削を担当した。
小石川見附門(現在の三崎橋付近)から東に神田山を切り通して湯島台と 駿河台 とに分け、現在の 御茶の水 に人工の谷(茗渓)を開削した。
このため、この区間は特に「仙台堀」と呼ばれる。

JR 御茶の水駅 そばの川である。 聖橋 が 仙台堀を渡り湯島台と駿河台を繋ぐ。( 本郷通り )

1620年 (元和6年) 平山常陳事件

平山常陳事件 は 堺の平山常陳が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件。

江戸幕府キリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教 といわれる激しい弾圧の引き金となった。

1622年 (元和8年) 元和の大殉教

元和の大殉教 は 長崎の西坂でカトリックキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。 日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。

1623年(元和9年) 徳川家光 3代将軍に

徳川家光

徳川家康の三男 徳川秀忠 の次男。(幼名 竹千代)

母は

(国松( のちの 徳川忠長 )は 同母弟。

乳母は 斎藤福( のちの 春日局 )

父 秀忠から移譲され3代将軍に。

家光の治世

秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた

逸話

幼少時の 家光 は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。
1606年 に 弟・国松が誕生する。 秀忠・江夫妻は 国松を寵愛しており、竹千代 廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。

1629年 (寛永6年) 明正天皇 即位

明正天皇

後水尾天皇の第二皇女。

父・後水尾天皇のにわか譲位を受けて践祚した

1629年 (寛永6年) 紫衣事件

紫衣事件江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。

紫衣と事件に至る事情

紫衣 とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。

1615年 に 江戸幕府禁中並公家諸法度 を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

事件の概要

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇 は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

これを知った幕府( 将軍 徳川家光 )は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代板倉重宗 に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。

幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、 大徳寺 住職・沢庵宗彭 や、妙心寺東源慧等 ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。

1629年に 幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国陸奥国への流罪に処した。

この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。

1629年 (寛永6年) 荒川西遷事業

荒川西遷事業 は 洪水防御、新田開発、舟運開発等を目的に、 荒川 から 利根川 を分離する 河川付け 替え工事。

利根川東遷事業 の一環である。

「荒川」は古くから 「利根川」の支流である。

江戸時代の「荒川」は、現在の 元荒川 の川筋を通り、現在の埼玉県 越谷市 付近で「利根川」と合流した。

1629年に

関東郡代伊奈忠治ら が 現在の熊谷市久下 で河道を締切り、現在の 元荒川 を流下していた河道を、和田吉野川 の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なった。

さらに、 現在の熊谷市久下から 川越市 古谷本郷 まで開削した。

この工事により、 隅田川 の河道は荒川の本流となった。

この頃に 隅田川は、 吾妻橋 周辺から 現在の河口( レインボーブリッジ周辺 )への河道へほぼ一本化され、 「大川」と呼ばれた。

隅田川の西岸(浅草、蔵前など)に大規模な河岸が整備され、江戸を支える舟運の重要地となった。

なお、現在の荒川下流は、明治時代に、人工的な排水路「荒川放水路」として開削されたもの。

1633年 (寛永10年) 第1次 鎖国

鎖国江戸幕府が、オランダ を除くキリスト教国の人の来航、 及び日本人の 東南アジア 方面への出入国を禁止し、 貿易を管理・統制・制限した対外政策である。

1633年に

老中奉書 のない船の海外渡航が禁止される。

1633年 (寛永10年) カピタン江戸参府 定例化

カピタン江戸参府オランダ商館 責任者である商館長( カピタン ) の、日蘭貿易「御礼」のための江戸への旅。

オランダ商館長は 対日貿易の維持・発展を願って、貿易業務後の閑期に江戸へ参り、将軍に謁見(拝礼)と献上物の呈上を行った。

カピタンの「御礼」に対し江戸幕府側は、貿易の許可・継続条件の「御条目」5か条の読み聞かせと 「被下物」の授与をもって返礼とした。

1633年より 毎年春1回に定例化する。

1790年に 貿易半減に伴って4年に1回と改定された。

1633年 (寛永10年) 黒田騒動

黒田騒動福岡藩 で発生したお家騒動。 「栗山大膳事件」ともいう。

三大お家騒動の一つ。

経緯

藩主 黒田長政 は世継ぎ継承にあたり長男・忠之 の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。

書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。

これに後見役の 栗山大膳 は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。
そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると 血判状 をとった。

この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した

そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。

1624年 に 忠之は藩主に就任すると、 早々に、忠之およびその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。 忠之は豪華な大船「鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽を新規に雇い入れるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。
これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

1632年 6月に 大膳も忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴し、 藩側は「大膳は狂人である」との主張を行行った。

1633年 2月に 将軍 徳川家光 が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年におよぶ抗争に幕を閉じた。

大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなった。

題材にした作品

森鷗外 が小説 栗山大膳 において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている

1956年には 東映で映画 黒田騒動 が公開されている。

1634年 (寛永11年) 長崎 出島 築造

出島江戸幕府が対外政策の一環として長崎に築造した日本初の本格的な扇型の人工島。

1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、  1641年から1859年までは対オランダ貿易が行われた。

1637年12月に島原の乱が発生すると、 幕府は長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁する。

1634年 (寛永11年) 伊賀越の仇討ち

伊賀越の仇討ち は 、渡辺数馬と 荒木又右衛門が数馬の弟の仇である 河合又五郎伊賀国上野の 鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。 日本三大仇討ちの一つ。

1634年 (寛永11年) 徳川家光 日光東照宮 大造替

日光東照宮 は 栃木県日光市に所在する神社。 江戸幕府初代将軍・徳川家康 を神格化した 「 東照大権現 」を主祭神として祀る。

1617年に 2代将軍 徳川秀忠により、創建された。

1634年に 3代将軍 徳川家光により、 21年神忌に向けて「寛永の大造替」が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。

1635年(寛永12年) 参勤交代 義務化

参勤交代 は 江戸時代において各藩の主である 大名交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。

1635年 に 徳川家光 によって 徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。

1635年 (寛永12年) 諸士法度

諸士法度江戸幕府旗本御家人 を対象として出した法令。

1万石以上の大名を対象とした 武家諸法度 と対応する法令である。

1635年(寛永12年) 柳川一件

柳川一件対馬藩主・宗義成 と家老・柳川調興 が日本と 李氏朝鮮 の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事

事件の経緯

豊臣政権 による朝鮮出兵文禄・慶長の役 )が行われ、日朝、日明関係が断絶した。

戦後、日本で 徳川家康による 江戸幕府 が成立すると、幕府は 李氏朝鮮 との国交正常化交渉を開始する。

日本と朝鮮の中間に位置する 対馬藩 は地理的条件から経済を 朝鮮 との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

朝鮮側は 満州女真族 の勢力拡大で北方防備の必要もあったため 交渉に宥和的となった。

1605年に 朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。

朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。

使節江戸城 で2代将軍・秀忠駿府大御所 の家康と謁見した。

対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、

1609年に 貿易協定である 己酉約条 を締結させた。

対馬藩の家老であった 柳川調興 は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。

そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。

大名・幕閣の動向

当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。 一方、仙台藩主・伊達政宗 など 大名たちは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。

家光の判断

1635年4月に 3代将軍・家光 の目の前で、宗義成柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。

江戸にいる1,000石以上の旗本と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開された。

結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興津軽流罪とされた。

また、以酊庵 の庵主であった 規伯玄方 も国書改竄に関わったとして南部に流された。

宗義成は対朝鮮外交における権限を回復することができたが、当時の外交に不可欠であった漢文知識が不足しており、また朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方のノウハウを失った事で、対朝鮮外交を完全に停滞させてしまった。

1635年(寛永12年) 生駒騒動

生駒騒動 は 讃岐 高松藩 生駒家 で起こったお家騒動。
重臣が争い、生駒家は改易となった

1638年(寛永15年) 島原の乱

島原の乱 は 島原・天草地域で引き起こされた、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件である。

島原藩主の 松倉勝家 が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。

一揆

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化し反乱した。

島原藩では制圧できず、 幕府は九州諸藩から12万以上の軍勢を集め制圧した。

処分

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。

影響

幕府はローマカトリック系のキリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、ポルトガル人の貿易商を国外追放した。

1639年には 鎖国政策を引き締めて、キリスト教の禁教令を強化した。

1639年(寛永16年)ポルトガル船の来航を禁止

島原の乱 ののち、

幕府は キリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、ポルトガル人の貿易商を国外追放した。

鎖国 の完成と言われる。

1640年(寛永17年) 寛永の大飢饉

1641年(寛永18年) 出島 オランダ商館

平戸オランダ商館長崎 出島 に移転。

出島に滞在するオランダ人は商館長、次席、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など 9人から12-13人で、自由だった平戸とは違い「国立の牢獄」と呼ぶほど長らく不自由な生活を送っていた。

1641年(寛永18年) 江戸川 開削

利根川東遷事業 により 江戸川利根川 の本流が流れるようになる。

1641年に 江戸川上流部が人工水路として開削された。

その後、江戸幕府による舟運路の整備により、江戸への廻米などの輸送経路として繁栄した。

明治時代に、 「江戸川放水路」が開削され、 そちらが本流とされ、元の川のほうは 旧江戸川 という名称となった。

現在の江戸川は、 全区間にわたり東京都と千葉県の県境を流れ、 東京都江戸川区 江戸川大橋 あたりで 「旧江戸川」と分岐し、 千葉県 市川市 田尻 あたりで海にる。

「旧江戸川」は、 千葉県浦安市 舞浜 あたりで海に至る。

1643年 (寛永20年) 後光明天皇

光明天皇

後水尾天皇の第四皇子。

明正天皇 は異母姉。

先帝 明正天皇の譲位を受けて践祚

1645年 (寛永22年) 日本乞師

日本乞師 の滅亡後南下してきた に対抗する 南明 及びその支持勢力( 鄭氏政権など )が日本( 江戸幕府 )に対して軍事支援を求めた行動。

既に鎖国体制に入っていた江戸幕府は軍事的な支援には否定的であり、貿易などの形式で 倭刀 などの武器や物資の調達を許すことはあっても、支援そのものには黙殺の姿勢を貫いた。

1651年 (慶安4年) 徳川家綱 4代将軍に

徳川家綱

3代将軍・徳川家光 の長男。

父 家光が薨去すると、将軍宣下を受けて 4代将軍に。

治世前半

家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。
特に 保科正之 を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から 文治政治 への政策切り替えが行われた。

治世後半

寛永の遺老 と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。

彼らに代わって 酒井忠清大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。

河村瑞賢に命じて 東廻海運西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開された。

1651年 (慶安4年) 慶安の変

慶安の変兵学者・由井正雪 による幕府顛覆計画が発覚した事件。 「由井正雪の乱」とも呼ばれる。

井正雪と社会状況

由井正雪 は優秀な軍学者で、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。

この頃、江戸幕府では3代将軍・徳川家光 の下で厳しい 武断政治 が行なわれていた。

関ヶ原の戦い大坂の陣 以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、巷には多くの浪人があふれていた。

正雪はそうした浪人の支持を集めた。

計画と露見

そのような情勢下の 1651年4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱 が継ぐこととなった。
新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。

一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。

正雪は 町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。

事件後の影響

江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した 承応の変 を教訓に、老中・阿部忠秋 らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。

1652年 (慶安5年) 承応の変

承応の変軍学者戸次庄左衛門 らが幕府老中たちを討ち取ろうと計画した事件。 「戸次庄左衛門」とも呼ばれる。

概要

別木庄左衛門

越前国 大野藩藩士で200石を領していた。

大野藩関ヶ原の戦い で西軍に与したため、戦後に改易された。

別木は 浪人となって江戸に出て、軍学を講じた。

別木らは、崇源院徳川秀忠の正妻)の27回忌が 増上寺 で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、幕府老中たちを討ち取ろうと計画した。

一味の一人 長嶋刑部が 老中・松平信綱 に密告した。

別木らは 町奉行に捕えられ、浅草で磔にされた。

慶安の変同様、それまでの 武断政治 の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。

以後、幕府は 文治政治 へ政治方針を転換した。

1653年 (承応2年) 玉川上水 開削

玉川上水 は 江戸市中への飲料水が流れていた上水道
江戸の六上水 の一つで、 古くは 神田上水 とともに「二大上水」とされた。

幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。
工事の総奉行に老中で川越藩主の 松平信綱、水道奉行に 伊奈忠治 が就き、 庄右衛門・清右衛門兄弟( 玉川兄弟 )が工事を請負った。

多摩川羽村 から 四谷までの高低差92.3メートルの間に全長42.74キロメートルが築かれた。

1655年 (承応3年) 後西天皇 即位

後西天皇

後水尾天皇の第八皇子。

後光明天皇 は異母兄。

識仁親王霊元天皇 ) は異母弟。

光明天皇崩御した時、

同帝の養子になっていた識仁親王は まだ生後間もなく、

識仁親王が 成長し即位するまでの繋ぎとして、践祚した。

1657年 (明暦3年) 明暦の大火

1659年 (万治2年) 本所上水 開削

本所上水江戸の六上水のひとつである。

明暦の大火 後、江戸の街は大改修され、新しく発展した隅田川東岸(本所・深川方面、いわゆる江東地区)を給水する目的で開かれた上水道であった。

この上水は、埼玉郡 瓦曽根溜井(現在の埼玉県越谷市瓦曽根周辺)より分水し、開渠で亀有・寺島・小梅を経て法恩寺橋東 ( 現在の 東京都墨田区 法恩寺 周辺 ) に達し、本所 方面一帯を給水した。

1660年 (万治3年) 青山上水 開削

青山上水江戸の六上水のひとつである。

玉川上水四谷大木戸 の水番所付近から分水し、青山・赤坂・麻布・六本木から飯倉を経て芝方面まで給水した。

1662年 (寛文2年) 寛文近江・若狭地震

1663年 (寛文3年) 霊元天皇 即位

霊元天皇

後水尾天皇 の第十九皇子。 (識仁親王)

後西天皇 は異母兄。

1662年 12月に 識仁親王元服し、

翌年 1663年 1月に 兄の後西天皇から譲位されて践祚した。

1664年(寛文4年)三田上水 開削

三田上水江戸の六上水 のひとつである

玉川上水下北沢村 から分水して、代々木・渋谷・目黒・大崎・白金付近まで開渠で導き、伏樋伊皿子三田 まで給水した。

1664年 (寛文4年) 4月 寛文印知

寛文印知江戸幕府が日本全国の大名に対して一斉に領知判物・領知朱印状・領知目録を交付した法律。
また、翌1665年には 公家・門跡・寺社などに対しても同様の措置が取られ、江戸幕府の大名領知権と日本全国の土地支配権を名実ともに確立した。

全国の大名・公家・寺社などが持っていた朱印状が一斉に回収・再交付されたため、これを特に「寛文朱印改と呼び、これに基づいて交付された朱印状を特に「寛文朱印状」と呼ぶ。

1666年 (寛文6年) 諸国山川掟

諸国山川掟江戸幕府が示した、下流域の治水を目的に上流域の森林の開発を制限する掟。

1669年(寛文9年) シャクシャインの戦い

シャクシャインの戦い は 、アイヌシャクシャイン を中心として起きた蜂起。

アイヌ2部族の抗争、報復の最中に 松前藩 に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。

和人とアイヌの統合

15世紀頃から 交易や 和人 あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、

17世紀には、 河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、 和人から「惣大将」と呼ばれる有力首長が現れていた。

シブチャリ( 静内町 ) の首長 シャクシャイン や、 ハエ( 波恵川 流域 ) の首長 オニビシ などがこれに相当する。

アイヌ民族部族間対立・報復合戦

シブチャリ( 静内町 ) 以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団 メナシクル とシブチャリからシラオイ(白老町) にかけてのアイヌ民族集団である シュムクル は、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた

1653年に メナシクルの首長であったカモクタインがシュムクルによって殺害されたために、 副首長であったシャクシャインが首長となった。

1655年に
惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗出し 両集団は一旦講和する。

1667年に オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲り、シャクシャインによって殺されたのを機に再燃。

1668年に オニビシをシャクシャインらが数十人で襲い殺害した。

武器供与要請・誤報・蜂起

シャクシャインにオニビシを殺されたハエ(波恵川流域) のアイヌ松前藩庁に使者を遣わし、報復のため武器の提供を希望したが、対立の深化を望まない藩側に拒否された。 その帰路に、使者の一人でサル(沙流郡)の首長でオニビシの姉婿であったウタフが疱瘡にかかり死亡してしまった。 このウタフ死亡の知らせが、「松前藩による毒殺」と流布された。

これによって、シャクシャインは敵対していたシュムクルを筆頭に蝦夷地各地の各アイヌ部族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。

1669年に シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ( 石狩 )を除く東は 釧路 のシラヌカ( 白糠町 )から西は 天塩 のマシケ( 増毛町 )周辺において一斉蜂起が行われた。

松前藩の反撃とその後

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(長万部国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。

シャクシャインは弓矢主体で鉄砲27丁を所有していたのに対し、松前藩は鉄砲16丁であったので、津軽南部藩などから鉄砲を借り受け、計70丁で応じた。

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、償いの宝物などの提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった

1669年11月に シャクシャインは和睦に応じ ピポク(新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。

指導者を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。

翌1670年に 松前軍はヨイチ(余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。

この「シャクシャインの戦い」を経て、松前藩蝦夷地 における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。

1670年 (寛文10年) 本朝通鑑

本朝通鑑江戸幕府により編集された漢文編年体の歴史書

林家の 林羅山林鵞峯 父子を中心に編纂された。

神代から 後陽成天皇 の代までを記している。
倫理的な判断を避け、史実を書くことが方針とされているという。

1671年 (寛文11年) 宗門人別改帳 制度化

宗門人別改帳宗門人別改 で宗門改帳と人別改帳が統合された民衆調査のための台帳。
現在で言う戸籍原簿や租税台帳である。

1671年 (寛文11年)伊達騒動

伊達騒動伊達家仙台藩 で起こったお家騒動である。

「三大お家騒動」の一つ。

騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っているが、 一般に伊達騒動と呼ばれるのは「寛文事件」である。

寛文事件

藩主 伊達綱宗 は不行跡のかどで幕府から隠居を命ぜられ、 幼少の 綱村家督を相続。

その後見役 伊達兵部宗勝 が家老 原田甲斐宗輔 らと宗家横領を企てたとして、伊達安芸宗重 が幕府に訴えた。

大老 酒井忠清 邸での評定の席で宗重は宗輔に斬られ、宗輔も殺害された。

事件の事後処理では 藩主綱村は幼少のためお構い無しとされた。

年長の後見人としての責務を問われた宗勝の 一関藩 は改易となった。

山本周五郎の小説 樅ノ木は残った などの題材となった。

1671年 (寛文11年) 東廻海運 新航路 開拓

東廻海運日本海沿岸の 酒田 から 津軽海峡 を経て太平洋を回航し、東北地方と 江戸 とを結ぶ航路による海上輸送。

当初、東北地方から江戸への廻船の入り方は、銚子 までは海路をとり、利根川 の水運を利用する内川江戸廻りであった。

1671年に 江戸幕府の命を受けた 河村瑞賢 が、房総半島 を迂回し 外海江戸廻りで直接江戸に運ぶことに成功した。

1672年 (寛文12年) 西廻海運 開拓

西廻海運 は  日本海沿岸を西廻りに、酒田 から佐渡小木・能登福浦・下関などを経て 大阪 に至り、さらに 紀伊半島 を迂回して 江戸 に至る航路による海上輸送。

江戸の商人 河村瑞賢 の幕命を受けて行った海運の刷新によって確立した。

1673年 (延宝元年) リターン号 来航

リターン号 は 長崎に来航したイングランド船。

日本で売るための羊毛を積み、日本の江戸幕府に貿易再開を求めたが、幕府は上陸を拒絶した。

1680年 (延宝8年) 徳川綱吉 5代将軍に

徳川綱吉

3代将軍 徳川家光 の四男。

4代将軍 徳川家綱 は異母兄。

家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱の養嗣子となる。

家綱が死去したため、将軍宣下を受け, 5代将軍に。

綱吉の治政

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる 文治政治 を推進した。

学問の中心地として 湯島聖堂 を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

綱吉の治世の前半は、善政を行い「天和の治」と称えられている。

後半は、側用人柳沢吉保 らを重用して 老中を遠ざけるようになった。

生類憐みの令 をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行なった。

特に犬を保護したことが多く、綱吉は「犬公方」と呼ばれた。

1679年 (延宝7年) 越後騒動

越後騒動越後国 高田藩 で起こったお家騒動。
一門重臣たちが争い、将軍 徳川綱吉 の親裁で厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。

1681年 (延宝9年) 小倉事件

小倉事件

霊元天皇皇位継承を巡って第1皇子である「一宮」( 後の 済深法親王 )を強引に出家させてその外戚に当たる 小倉家 一族を粛清した事件。

経過

霊元天皇の正妃である 鷹司房子 には男子がなかった。

そこで当時院政を敷いていた 後水尾法皇江戸幕府との間には、万が一 鷹司房子に男子が生まれないまま天皇崩御した場合には 小倉実起 の娘が生んだ第1皇子である「一宮」が継承するという合意が密かにできており、 天皇摂関家などの有力公家の合意を取り付けていた。

1674年 9月 に 松木宗子は第4皇子である「五宮」( 後の 東山天皇 )が誕生すると、天皇は当時4歳の「一宮」よりも「五宮」に皇位を継がせたいと考えるようになる。

1677年 に 天皇は幕府の意向を確かめるべく江戸に使者を派遣するが、 当時の将軍 徳川家綱法皇とその正妃東福門院(家綱の叔母)の同意のないこの提案には反対した。

この年に東福門院が死去し、 3年後に後水尾法皇と家綱が相次いで病死すると、 天皇大覚寺 にいた異母兄・性真法親王に「一宮」の弟子入りを、 新将軍 徳川綱吉 には「一宮」の出家と「五宮」への皇位継承の承諾を求める勅使を出した。

681年 4月に 「一宮」の大覚寺入りが正式に決定される。
だが、外祖父にあたる小倉実起はこれに反対して、「一宮」を自邸に匿ってしまう。
その後も天皇は小倉家に決定の履行を迫るが小倉家側はこれを拒んだ。

これに激怒した天皇は、宮中警護の武士を小倉邸に派遣して同邸を制圧、「一宮」を飛鳥井雅豊邸に幽閉した上、幕府に対し小倉実起への処分を要請した。

綱吉は、小倉の勅命違反の事実を重視して、小倉実起と嫡男の公連、その弟の竹淵季件を佐渡へと流刑を命じた。

この事態に後水尾法皇の側近であった左大臣 近衛基熙権大納言 中院通茂天皇に激しく抗議した。

年が明けて 1682年 に入ると、霊元天皇は積極的に行動に出る。

2月14日に 空席になっていた関白の後任に左大臣近衛基熙ではなく、それより下位の右大臣 一条冬経 を任命する。

3月25日に 「五宮」の次期皇位継承者(儲君)と鷹司房子の中宮擁立が発表され、

8月16日に 「一宮」を大覚寺の代わりに 勧修寺 に入れて出家させた。

霊元天皇の「五宮」擁立の真意は、 院政を開始して摂家や幕府の干渉を排して思いのままの政治を行うための長期計画の一環であり、 すぐに成人を迎えてしまう年長の「一宮」に皇位を譲ることが不都合であったからである。

以後、院政を展開しようとする霊元上皇とこれを阻もうとする近衛基熙江戸幕府との長い確執が始まることになる。

1687年 (貞享4年) 東山天皇 即位

東山天皇

霊元天皇 の第四皇子。

1681年の 小倉事件 により

霊元天皇は 次期天皇として朝幕間で内定していた 一宮( 済深法親王 )を 大覚寺 に入寺させた。

1682年 3月に 儲君 となり、

12月に 親王宣下 があった。

1687年 3月に 父 霊元天皇の譲位にともない践祚した。

霊元上皇は東山践祚の後は院政を敷くつもりでいた。

しかし 幕府は譲位をなかなか認めようとせず、幕府との確執が始まる。

1687年 (貞享4年) 生類憐みの令

生類憐れみの令 は 5代将軍・徳川綱吉 によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。
1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である。

犬公方

特に犬を保護したことが多く、綱吉が「犬公方」と呼ばれる一因となった。

幕府の施設として 野犬を収容する 犬小屋 が設置された。

犬小屋の広さは、中野は16万坪、大久保がおよそ2万5000坪、四谷の犬小屋は1万8928坪7合だった。

評価

庶民の生活に大きな影響を与えたため、「天下の悪法」との評価が定着した。

近年では、 儒教に基づく文治政治の一環であるとして、再評価がなされている。

生類憐れみの令の一環として出された「捨て子禁止令」が綱吉の死後も続き、 福祉や動物愛護の先駆的な施策とされる。

1690年 (元禄3年) 徳川綱吉 湯島聖堂 創建

湯島聖堂 は 5代将軍 徳川綱吉 によって建てられた 孔子廟 であり、 後に幕府直轄の学問所となった。(東京都文京区湯島一丁目)

1696年(元禄9年)千川上水 開削

千川上水玉川上水を水源とし、仙川村の境橋( 現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近 )から江戸城城北 地域へ流れた総延長約22kmの用水路( 上水 )である。

江戸の六上水のひとつ。

5代将軍 徳川綱吉により上水開削が命じられる。