江戸時代後期の出来事

江戸時代後期の出来事を年表にまとめた。

江戸時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 安土桃山時代

後は 明治時代

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参考

江戸時代の小区分

江戸時代は

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1868年に

明治天皇一世一元の詔 を発布し、 慶応 から 明治改元されるまで

約300年間。

大きく5つに区分される。

初期

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

前期

江戸幕府の創成期。 1603年から 1690年ごろまで

中期

江戸幕府の成長期。 1690年ごろから 1780年ごろまで

後期

江戸幕府の成熟期。 1780年ごろから1850年ごろまで

幕末期

江戸幕府の衰退期。 1853年 から1868年まで

江戸時代後期の概要

江戸幕府の成熟期。 1780年ごろから1850年ごろまで 70年間。

 概要

国内では 天明の大飢饉天保の大飢饉 が起きた。

対外的には ロシアやイギリスの船が来航するようになった。 清で アヘン戦争 が起きた。

家斉 期

1787年徳川家斉 が 11代将軍になる。

家治 時代に権勢を振るった 田沼意次 を罷免し、代わって 徳川御三家 から推挙された松平定信 を老中首座に任命し、寛政の改革 を行わせた。

天明の大飢饉 直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。
寛政の改革」ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。
定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。
そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。
最終的に6年たった定信失脚のころには備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。
しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった。

家慶 期

1837年に 徳川家慶 が12代将軍になる。

徳川家斉 は 将軍職を譲ってからも大御所として強大な発言権を保持していた。

1832年天保3年)から始まった 天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。
1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力 大塩平八郎 が大坂で武装蜂起した。
大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。

1841年に 家斉が死去すると、「家慶」は 老中首座・水野忠邦 を重用し、天保の改革 を行わせた。

忠邦は幕府財政再建に乗り出し、諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。

忠邦はまた、アヘン戦争 における清の敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する 異国船打払令 を改めて 薪水給与令 を発令して柔軟路線に転換する。

江川英龍高島秋帆 に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。

こうしたなか、薩摩藩長州藩 など雄藩 と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった

江戸時代後期の文化

江戸時代の後半になると、文化は、江戸の町人が中心になった。( 化政文化 )

小説

俳句

絵画

江戸時代 後期の出来事

1760年 (宝暦10年) 徳川家治 10代将軍に

1780年 (安永8年) 光格天皇 即位

光格天皇

閑院宮典仁親王 の第六王子。(祐宮親王)

桃園天皇( 先代 後桃園天皇 の父 )は再従姉弟

1779年 (安永8年) 12月に 後桃園天皇崩御した。

桃園天皇 に 皇子がいなかったため、後桃園天皇の再従叔父にあたる 祐宮 が 急遽 後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される。

1780年 (安永8年) 1月に 践祚

1782年(天明2年) 天明の大飢饉

天明の大飢饉江戸四大飢饉 の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

1783年 (天明3年) 浅間山 天明大噴火

天明大噴火 は 1783年 (天明3年) 7月に 発生した 浅間山 の大噴火である。
浅間山史上最も著名な噴火であり、「天明の浅間焼け」とも呼ばれる。

1784年 (天明4年) 2月 漢委奴国王印 発見

漢委奴国王印志賀島 ( 現・福岡県福岡市東区)で出土した純金製の王印( 金印 )である。

後漢書」に記載のある古代日本の国王に与えたものとされ、 「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読む。

1781年 (天明初年) 赤蝦夷風説考

蝦夷風説考 は 江戸時代中期の医師・経世家(経済学者)である 工藤平助 が著したロシア研究書。

1782年 (天明2年) 大黒屋 光太夫 遭難

大黒屋 光太夫伊勢国 奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした 回船(運輸船)の 船頭

天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島アムチトカ島 に漂着。

9年後の寛政4年(1792年)に 遣日使節 アダム・ラクスマン に同行して 日本に帰国した。

1784年 (天明4年) 蝦夷地 開拓

蝦夷松前藩 の城下町 松前を中心とする 和人地を除く 北海道本島、および サハリン島樺太島)や 千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称である。

蝦夷地の歴史

江戸時代まで日本では北の境の認識が希薄だった。

15世紀から16世紀にかけて渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏豊臣秀吉(関白、太閤)・徳川家康征夷大将軍)から蝦夷地の支配権、交易権を公認された。
江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、松前藩となる。

江戸時代の農業技術では寒冷な地域で稲を栽培することが困難であり、 「松前藩」では、米の収穫が望めなかった。
そのため「松前藩」において藩主が家臣に与える俸禄は 石高 に基づく 地方知行 ではなく、 アイヌ との交易の場所を与える 商場知行制 となった。

明和 期に 田沼意次 が 老中になると、 ロシアの北方進出(南下)に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に蝦夷地開発を企画し、北方探索が行われた。

1785年 (天明5年)に 蝦夷地調査団が派遣され、最上徳内随行する。 調査団は 千島列島を探検し 得撫島に至る。

1787年 (天明7年) 天明の打ちこわし

天明の打ちこわし天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に 江戸大阪 など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には 石巻小田原宇和島 などへと波及した 打ちこわし の総称である。

1787年 (天明7年) 徳川家斉 11代将軍に

徳川家斉

一橋家当主・一橋治済の長男。

1779年 (安永8年) に
第10代将軍・徳川家治 の世嗣・家基 が急死する。

1781年 (天明元年) 閏5月に 家治の養子になる。

1786年 (天明6年) に 家治が50歳で病死する。

1787年 (天明7年) に 15歳で第11代将軍に就任する。

家斉の治政

将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった 田沼意次 を罷免し、代わって 徳川御三家 から推挙された陸奥 白河藩 主で名君の誉れ高かった 松平定信 を老中首座に任命した。
これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。 定信が主導した政策を 寛政の改革 と呼ぶ。

1787年 (天明7年) 寛政の改革

寛政の改革松平定信 が老中在任期間中の1787年 - 1793年に主導して行われた 幕政改革 である。
江戸三大改革 の一つ。

内容

1789年 (寛政元年) クナシリ・メナシの戦い

クナシリ・メナシの戦い蝦夷地 の クナシリ( 国後郡
メナシ( 目梨郡 ) で起きた アイヌ の蜂起。

1791年 (寛政3年) 尊号一件

尊号一件朝廷江戸幕府 との間に発生した、閑院宮典仁親王 への 尊号 贈与に関する紛議事件である。

閑院宮典仁親王」は 閑院宮 第2代当主で 光格天皇 の実父。

1792年 (寛政4年) 島原大変肥後迷惑

島原大変肥後迷惑 は 1792年5月21日(寛政4年4月1日)に 肥前国 島原 ( 現在の長崎県 島原市 )で発生した 雲仙岳火山性地震およびその後の 眉山 の山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が島原や対岸の 肥後国(現在の熊本県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害である。

犠牲者は約1万5000人に達し、日本史上最大規模の火山災害となった。
新月の夜かつ大潮であったことで大きな被害になったとされる。

1792年 (寛政4年) ロシアの遣日使節 アダム・ラクスマン 来日

アダム・キリロヴィチ・ラクスマンロシア帝国ロマノフ朝 )の軍人。

ロシア最初の遣日使節
漂流民の 大黒屋光太夫 の保護と帰国に尽力した。

1793年 (寛政5年) 寛政地震

寛政地震 は 寛政5年1月7日(1793年2月17日)に 仙台 沖で発生した大地震である。

1794年(寛政6年)若宮丸 遭難

若宮丸仙台藩陸奥国牡鹿郡石巻裏町の 米問屋 米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの 千石船 である。

1793年(寛政5年)に石巻から出帆したが、舵の損傷で操船不能におちいり、 1794年(寛政6年)に アリューシャン列島 へ漂着した。

乗組員の 津太夫儀兵衛、左平、太十郎 ら3名と共に ニコライ・レザノフクルゼンシュテルン 率いるロシア初の世界一周航海に同行する形で、日本人初の世界一周を果たした。

石巻港を出てから12年後の 1804年(文化元年)に日本への帰国を果たした。

1794年 (寛政6年) 北槎聞略 成立

北槎聞略桂川甫周大黒屋光太夫 らから聴取した内容などをもとに著した漂流記。

1798年 (寛政10年) 大日本恵登呂府 標柱 設置

大日本恵登呂府 は 寛政10年(1798年)と同12年(1800年)の2度にわたり、幕臣で探検家の 近藤重蔵 らによって択捉島内の2か所(南端に近いタンネモイ、北端の カモイワッカ岬 に建てられた標柱

1799年 (寛政11年) 堀田 仁助 蝦夷地の地図制作

堀田 仁助 は 日本の江戸時代の 天文学者江戸幕府 天文方 で編暦・測量を行った。

1799年 (寛政11年) に 幕府天文方として江戸からアツケシ(厚岸)への外洋航路を開拓するよう命じられ、西洋測量術を駆使して宮古ーアツケシ間の航路を開拓し、さらに東蝦夷地の陸上測量をおこなって海図を作成する。

1799年 (寛政11年) 蝦夷地 上知

1797年 (寛政9年) 9月に 近藤重蔵 は「蝦夷地」が無防備で、いつ外国の支配が及んでも仕方のない状況であるとして幕府直轄化(上知)を提案した。

1799年 (寛政11年)に 幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、 「蝦夷地」を幕府の天領とした。

幕府は財政負担軽減のために 仙台盛岡弘前久保田松前 の東北の大藩に対して 沿岸の警備義務を割り当てた。

1800年 (寛政12年) 伊能忠敬 第一次測量 (蝦夷地)

伊能 忠敬 は 江戸時代の 商人天文学者地理学者測量家

1800年 (寛政12年) に 「忠敬」は幕府の許可を得て 蝦夷地 の測量を行う。

1801年 (享和元年) 伊能忠敬 第二次測量 (伊豆)

伊能 忠敬 は 江戸時代の 商人天文学者地理学者測量家

「忠敬」が 蝦夷地 測量で作成した地図は高い評価を得た。

若年寄 堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。

伊豆半島 以東の本州東海岸を測量することに決められた。
道中奉行勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった。

1801年 (享和元年) 天長地久大日本属島 標柱 設置

天長地久大日本属島幕臣 富山元十郎 らによって、得撫島 に建てられた標柱。

1802年 (享和2年) 蝦夷奉行 設置

蝦夷奉行江戸幕府の役職の一つで、その役務は、蝦夷地の行政や警固であった。 。

戸川 安論羽太正養 の2名が任命され、うち1名が1年交代で 箱館 に駐在した。

1802年 (享和2年) 東海道中膝栗毛 初刷り

東海道中膝栗十返舎一九滑稽本である。
「栗毛」は栗色の馬。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。

1804年 (文化元年) 6月 文化の大地震

文化の大地震出羽国 を中心として発生した津波を伴った大地震である。

1804年(文化元年)9月 ロシアの遣日使節 ニコ ライ・レザノフ 来日

ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフロシア帝国 の外交官。

1792年に、通商を求めた アダム・ラクスマン と、日本の江戸幕府老中職の 松平定信 との間に国交樹立の約束が交わされていたが、「レザノフ」はこの履行を求めた。

「レザノフ」は日本人漂流民の 津太夫 一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝 アレクサンドル1世 の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、正式な国交樹立のために通行許可証である 信牌 を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン の世界一周航海艦隊の隊長として ペテルブルク から出航し、南米回りで太平洋を航海して ハワイ王国 と、カムチャツカ半島ペトロパブロフスク を経て、 1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。

老中 土井利厚 は 「レザノフ」たちを 長崎周辺の海上で待たせた。 来航から約2か月後に 滞在所への上陸が認められた。

翌年 1805年に 長崎奉行 遠山景晋 から 通商の拒絶を通告され、装備も食料も補給されなかった。

同年 4月に 「レザノフ」は 長崎を去り、カムチャツカへ向かった。

「レザノフ」は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏した。

部下のニコライ・フヴォストフが、 1806年に 樺太松前藩番所
1807年に 択捉 港ほか各所を襲撃する。 ( 文化露寇

1805年(文化2年) 関東取締出役 設置

関東取締出役江戸幕府の役職。 俗に「八州廻り」とも呼ばれる。

概要

江戸時代後期には 関八州上野下野常陸上総下総安房武蔵相模 )において無宿人や浪人が増加して治安が悪化していたものの、天領私領(飛び地、諸大名領、旗本領、寺社領など)が各地に散在していたため広域的な警察活動が難しい状況になっていた。

文化2年(1805年)6月、勘定奉行 石川左近将監 は、早川八郎右衛門(久喜陣屋)、榊原小兵衛( 御影陣屋 )、山口鉄五郎( 吹上陣屋 )、吉川栄左衛門( 岩鼻陣屋 )の4人の代官に無宿や悪党の取締方について検討するよう命じた。
彼らの上申を経て、「関東取締出役」を代官の 手代手付 から2人ずつ選び、計8名で関八州天領・大名領・旗本領・寺社領などを支配者の区別なく巡回することとなった。
文化4年(1807年)には半数の4名が巡回、残り半数の4名が臨時御用のため江戸に待機し、巡回から帰着次第交替することとされた。

職務内容に対し8人では充分でなかったため、文政9年(1826年)には臨時出役3名が増員され、翌文政10年(1827年)から天保10年(1839年)にかけては定数が10名に増やされている。
黒船来航 を受け、嘉永7年(1854年)には本役9名に加え臨時取締出役14名の23名となり、さらなる増員により文久2年(1862年)には総勢34名に達した。

1806年 (文化3年) 文化の 薪水給与令

薪水給与令江戸幕府が打ち出した外国船に対して飲料水・燃料の給与を認める法令である。

19世紀初頭、ロシア帝国ニコライ・レザノフ をはじめ、外国船が日本に通商を求めて来航するようになった。
文化3年(1806年)に 徳川家斉 統治下の幕府は 「文化の薪水給与令」を出し、穏便に出国させる方向性を打ち出すこととなった。
だが、翌年の 文化露寇 を受けて「ロシア船打払令」が出され、わずか1年で撤回された。

1806年 (文化3年) 年4月 文化の大火

文化の大火 は 文化3年 に江戸で発生した大火。 江戸三大大火の一つ

延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。

1807年 (文化4年) 文化露寇

文化露寇ロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だった ニコライ・レザノフ が部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。

この事件は、爛熟した 化政文化 の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。
江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。
また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。
このことは1811年の ゴローニン事件 の原因となった。

1808年 (文化5年) フェートン号事件

フェートン号事件鎖国 体制下の日本の 長崎港 で起きた イギリス 軍艦侵入事件。
ヨーロッパにおける ナポレオン戦争 の余波が 極東 の日本にまでおよんだものである。

事件の経過

文化5年8月15日(1808年10月4日)、ベンガル総督 ミントー の政策によりオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍フリゲートフェートンフリートウッド・ペリュー 艦長 )は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。
これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員 ホウゼンルマン と シキンムル の2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。
それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。
長崎奉行 所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。

オランダ商館長 ヘンドリック・ドゥーフ長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。
長崎奉行松平康英 は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する 佐賀藩福岡藩 の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。
ところが、その年の長崎警衛当番であった佐賀藩が太平に慣れ経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。
松平康英は急遽、薩摩藩熊本藩久留米藩大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。

翌16日、「ペリュー」艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。
人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。

長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。
これを受けて「ペリュー」艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。

17日未明、近隣の大村藩大村純昌 が藩兵を率いて長崎に到着した。
松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。

結果

結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。

しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた 鍋島藩 家老等数人も責任を取って切腹した。
さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主 鍋島斉直 に100日の閉門を命じた。

その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に 異国船打払令 を発令することになる。

この屈辱を味わった鍋島藩は次代 鍋島直正 の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。

また、この事件以降、知識人の間で英国は侵略性を持つ危険な国「英夷」であると見なされ始め、組織的な研究対象となり、幕府は1809年に本木正栄ら6名の長崎通詞に英学修業を命じ、それに続いてオランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じた。
本木らはオランダ人商人 ヤン・コック・ブロンホフ から英語を学び、1811年には日本初の英和辞書『諳厄利亜興学小筌』10巻が完成し、1814年には幕府の命による本格的な辞書 諳厄利亜語林大成 15巻が完成した。

1808年 (文化5年) 間宮林蔵 間宮海峡 発見

間宮 林蔵 は 江戸時代後期の徳川将軍家 御庭番探検家

樺太 は ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含まれる。

間宮海峡 は 「樺太」と ユーラシア大陸 との間にある海峡。

1808年頃には、「樺太」が「島」であるのか半島であるのかはっきりしなかった。

1808年に「間宮林蔵」と 松田伝十郎 が 幕府の命で「樺太」を探検し、「島」であることが確認された。

1811年 (文化8年) ゴローニン事件

ゴローニン事件千島列島 を測量中であった ロシア の軍艦 ディアナ号 艦長の ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン (日本では一般には ゴローニン と表記する) らが、国後島松前奉行 配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。

経緯

1806年の 文化露寇 により 1807年12月に 幕府は ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視すると いう「ロシア船打払令」を出した。

1811年に「ディアナ号」の艦長「ゴローニン」は千島列島南部の測量のため千島列島を南下。
5月27日に 国後島の泊湾に入港した。
「ゴローニン」は 陣屋を訪問し 食事の接待を受けた後、船に戻ろうとしたところを捕縛された。 ディアナ号副艦長のリコルドは、「ゴローニン」を奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、一旦 オホーツクへ撤退した。

8月14日に、「リコルド」は 国後島沖で 高田屋嘉兵衛 の手船・観世丸を拿捕。

幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアが「文化露寇」は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すれば「ゴローニン」を釈放することとした。
これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、「ゴローニン」に翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。

ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎で「リコルド」と同居した。 12月8日に 嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。
嘉兵衛は「ゴローニン」が捕縛されたのは、「文化露寇」で暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。

1813年 5月26日に ディアナ号は再び 泊湾に入港した。
嘉兵衛は 陣屋に赴き、交渉の切っ掛けを作った。
嘉兵衛はディアナ号に戻り、「魯西亜船江相渡候諭書」を「リコルド」に手渡した。 「リコルド」はオホーツクに戻り、イルクーツク県知事トレスキンの釈明書を入手。

9月16日に ディアナ号は箱館に到着した。 「リコルド」が上陸、吟味役・高橋重賢 らと会見し、イルクーツク県知事の釈明書を手渡した。
松前奉行・荒尾成章は ロシア側の釈明を受け入れ、「ゴローニン」らを解放したが、通商開始については拒絶した。

9月29日に 任務を終えたディアナ号は箱館を出港し、ペトロパブロフスクに帰還した。

その後

「ゴローニン」は帰国後、日本での捕囚生活に関する手記「日本幽囚記」を執筆し、1816年に官費で出版された。'

1814年 (文化11年)諳厄利亜語林大成 編纂

諳厄利亜語林大成本木庄左衛門 が中心になって編纂した日本初の 英和辞典

文化5年(1808年)の フェートン号事件 に衝撃を受けた幕府はイギリス研究の必要性を痛感し、オランダ語通詞らに英語習得を命じ、編纂させた。

1814年 (文化11年) 南総里見八犬伝 刊行

南総里見八犬伝曲亭馬琴によって著わされた長編小説。

文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。

1817年 (文化14年) 仁孝天皇 即位

仁孝天皇

光格天皇 の第4皇子。

光格天皇の譲位を受け 跋扈。

1819年 (文政2年) 文政小判 発行

文政小判 は 文政2年より通用開始された 一両としての額面を持つ小判である。

「文政小判」および 文政一分判 を総称して「新文字金」と呼ぶ。

元文 の吹替えにより通貨の供給が増大し、やがて金銀相場も安定し経済が発展したが、次第に奢侈的消費増大の風潮となるなか11代将軍、徳川家斉 の子女の縁組費用、蝦夷地 直轄政策などにより幕府の支出が増大し再び財政が悪化の一途をたどっていった。
また 古文字金 は80年以上の長期間に亘って流通したため損傷や磨耗が著しくなり、吹替えはこれを是正するという名目であり古文字金の損貨を無料で新金と引き換えるということであった。
しかし新金(新文字金)の量目は古文字金(元文金)と同一であったが、品位は低下しており出目(改鋳利益)による財政補填を目的とするものであった。

1821年(文政4年 ) 大日本沿海輿地全図 完成

大日本沿海輿地全図伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。

伊能大図」とも称される。

1822年 (文政5年) 伊香保神社掲額事件

香保神社掲額事件 は 文政年間に発生した馬庭念流北辰一刀流 の抗争事件。

北辰一刀流」は惨敗し続け、千葉周作 の悪名を広めることになった。

1822年 (文政5年) 洗馬騒動

洗馬騒動信濃国 高遠藩 洗馬郷 で発生した百姓一揆である。

1823年 (文政6年) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 来日

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト は ドイツの医師・博物学者。
出島の三学者 の一人。

オランダ商館医として来日。 鳴滝塾 を開き、日本人らに医学・博物学の指導を行う。
精力的に日本についての資料の収集に努めた。
文政11年(1828年)に シーボルト事件 を起こし、翌年国外追放。

1824年(文政7年)6月 大津浜事件

大津浜事件水戸藩 領の大津(現在の茨城県北茨城市 大津町) )の浜にイギリス人12人が上陸し、水戸藩が尋問した後、彼らを船に帰した事件。

文政8年(1825年)の 異国船打払令 の一因となった。

1824年 (文政7年) 8月 宝島事件

宝島 は 鹿児島 吐噶喇列島の島である。

宝島事件 は イギリス船(捕鯨船)が来島し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および 郡司 が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した事件。
この事件で 横目 の吉村九助が在番所でイギリス人1名を射殺した。 この事件が1つの要因となり、翌年の文政8年(1825年)には 異国船打払令 が出された。

1825年 (文政8年) 異国船打払令

異国船打払令江戸幕府が 1825年(文政8年)に発した外国船追放令である。

1842年 (天保13年) に 天保の薪水給与令 が発令されると廃止された。

1825年 (文政8年) 12月 赤蓑騒動

赤蓑騒動 は 文政8年(1825年)12月 に 信濃国 松本藩 で発生した世直し一揆である。
一揆勢がシナノキの皮の赤蓑を着ていたことに由来する。

1828年 (文政11年) シーボルト事件

シーボルト事件1828年フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト が国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。

シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。 地図を贈った幕府 天文方書物奉行高橋景保 ほか十数名が処分され、景保は獄死した。

1828年 (文政11年) 8月 シーボルト台風

シーボルト台風1828年(文政11年)8月 に日本に襲来し、九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風である

有明海博多湾 などで高潮が発生し、佐賀藩 だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約1万9千人に達する被害が出た。

名称の由来

気象学者の 根本順吉 は、この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルト の乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、シーボルト事件 に至った事実に着目。
1961年に、この台風に「シーボルト台風」の名を与えた。

1829年 (文政12年) 文政の大火

文政の大火 は 文政12年に江戸で発生した大火。

火災の原因は、タバコの不始末であったという。 神田佐久間町から出火し、北西風により延焼した。

1830年 (天保元年) 竹島事件

竹島事件天保元年(1830年)頃から天保7年(1836年)までに起きた、石見 浜田藩 松井松平家 を舞台とした密貿易事件である。

1830年 (文政13年) 京都地震

京都地震1830年 (文政13年) に京都で発生した地震

京都 亀岡 付近を震源とするマグニチュード6.5の地震と推定される。

1833年 (天保4年) 天保の大飢饉

天保の飢饉1833年天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。
1839年天保10年)まで続いた。

江戸四大飢饉 の一つ。

1833年 (天保4年) 仙石騒動

仙石騒動出石藩 で発生したお家騒動。

「江戸時代の三大お家騒動」の一つ。

概要

出石藩では、仙石氏一門で筆頭家老 仙石左京 と 同じく一門で勝手方頭取家老 仙石造酒が対立した。

1831年 (天保2年) に「左京」は息子 小太郎 の嫁に、老中 松平康任 の姪を迎えた。 「左京」は松平康任に対し6千両を送るなど、多額の贈賄を行っていたとされる。

1833年 (天保4年) に 造酒派の河野瀬兵衛は 江戸に上り 一門の旗本仙石弥三郎に 「左京が小太郎を藩主に据えようとしている」と上書を提出して訴えた。

瀬兵衛は天領 生野銀山 にまで逃げたが捕縛された。
本来天領での捕縛には幕府の勘定奉行の許諾が必要で、無断捕縛は違法であった。

「左京」は 瀬兵衛に加担し仙石弥三郎に引き合わせた 弥三郎の家臣 神谷転 の捕縛を、老中松平康任の伝で南町奉行に実行させた。
身の危険を感じた神谷は虚無僧になって江戸に潜伏していたが、南町奉行所に捕縛されてしまった この事態に、神谷が帰依所属していた 普化宗 一月寺 が、虚無僧 は寺社奉行の管轄に属し町奉行の管轄ではなく、すなわち神谷の捕縛は違法であり即時釈放をすべきであるとする旨を、神谷が所持していた瀬兵衛の上書の控と共に寺社奉行所に訴えた。

出石藩の騒動は 将軍 家斉 の耳にも入る。

寺社奉行吟味物調役の 川路弥吉 が調査取調べを行った。

仙石左京」は獄門となり、 左京の子である小太郎は八丈島流罪になるなど、 左京派は壊滅的打撃を受けた。
出石藩は知行を5万8千石から3万石と、およそ半分に減封となった。

幕府内でも、老中松平康任は 失脚、隠居を命じられた。 南町奉行 筒井政憲勘定奉行の曾我助弼も失脚した。

1836年 (天保7年) 天保騒動

天保騒動天保7年(1836年)8月に 甲斐国 で起こった百姓一揆
甲斐東部の 郡内地方都留郡 )から発生し、国中地方 へ波及し一国規模の騒動となった。

1837年(天保8年) 徳川家慶 12代将軍に

徳川家慶

11代将軍・徳川家斉 の次男。

父 家斉より将軍職を譲られる。

家慶の治政

「家慶」は将軍職を譲られたが。 家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。

家斉の死後、 老中首座・水野忠邦 を重用し、家斉派を粛清して 天保の改革 を行わせた。

忠邦は幕府財政再建に乗り出し、諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。
また 言論統制も行なわれ、高野長英渡辺崋山 などの開明的な蘭学者を弾圧した。( 蛮社の獄 )

1837年(天保8年)大塩平八郎の乱

大塩平八郎の乱天保8年(1837年)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力 大塩平八郎 とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱である。

1837年(天保8年) 6月 生田万の乱

生田万の乱天保8年(1837年)6月に 国学者生田万越後国 柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。 同年の 大塩平八郎の乱 の余波。

1837年(天保8年) 7月 モリソン号事件

モリソン号事件は 1837年(天保8年)7月、アメリカ合衆国の商船「モリソン号」を日本の砲台が砲撃した事件。

鹿児島湾浦賀 沖に現れたアメリカのオリファント商会の商船「モリソン号」をイギリス軍艦と勘違いし、薩摩藩および浦賀奉行太田資統は 異国船打払令 に基づき砲撃を行った。

しかし、「モリソン号」にはマカオで保護されていた日本人漂流民の 音吉庄蔵寿三郎 ら7人が乗っており、「モリソン号」はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令 に対する批判が強まった。

1837年(天保8年)7月 天保小判 発行  

天保小判天保8年7月 から鋳造が始まり同年11月より通用開始された一両としての額面を持つ小判である。 「保字小判」(ほうじこばん/ほじこばん)とも呼ばれる。

新文字金 は品位が 元禄金 よりさらに劣るものであったため品位を上げるという名目であったが、品位の上昇は僅かで、量目が6/7倍に削減されるという、天保の大飢饉 などによる財政赤字補填を目的とする「保字金」への吹き替えであった。

1839年 (天保10年) 蛮社の獄

蛮社の獄天保10年(1839年)5月に 起きた言論弾圧事件である。

高野長英渡辺崋山 などが、モリソン号事件江戸幕府鎖国 政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど処罰された。

1840年天保11年)アヘン戦争

アヘン戦争イギリス の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。

イギリスの勝利に終わり、1842年に 南京条約 が締結され、イギリスへの 香港 の割譲他、清にとって不平等条約となった。

日本への影響

清朝の敗戦は、長崎に入港していたオランダや清の商船員を通じて幕末の日本にも伝えられた。
西洋諸国の軍事力が東洋に比して、圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた。

それまで、異国の船は見つけ次第砲撃するという 異国船打払令 を出すなど、強硬な態度を取っていた江戸幕府も、この戦争結果に驚愕した。
同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すという モリソン号事件 が発生したこともあり、天保13年(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る 薪水給与令 を新たに打ち出すなど、欧米列強への態度を軟化させる。

1841年(天保12年) 天保の改革

天保の改革天保年間(1841年 - 1843年)に行われた幕政や諸藩の改革の総称である。
江戸時代の三大改革の一つ。

内容

1841年 (天保12年) 6月 高島 秋帆 洋式砲術の公開演習

高島 秋帆 は 江戸時代後期から末期にかけての 砲術家。
「」高島流砲術創始者(流祖)。

アヘン戦争 で清がイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える意見書『天保上書』を提出した。 1841年 (天保12年) 6月に、武蔵国 徳丸ヶ原( 現在の東京都板橋区高島平 )で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。

「高島平」という地名はこの史実に由来する。

1842年 (天保13年) 天保薪水給与令

薪水給与令江戸幕府が打ち出した外国船に対して飲料水・燃料の給与を認める法令である。

天保の薪水給与令

1825年 (文政8年) に 幕府は 異国船打払令 を発令した。

しかし、モリソン号事件 を契機に批判が高まった上に、アヘン戦争 における清の劣勢に驚愕した 江戸幕府は、政策を転換し、 1842年 (天保13年)に 遭難した船に限り給与を認める「天保の薪水給与令」を発令した。

1846年 (弘化3年) 孝明天皇 即位

孝明天皇

仁孝天皇 の第4皇子。

仁孝天皇崩御践祚

1853年 (嘉永6年) 黒船来航