安土桃山時代の出来事

安土桃山時代の出来事を年表にまとめた。

安土桃山時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 室町時代

後は 江戸時代

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安土桃山時代の概要

1573年に

織田信長 により

室町幕府 15代将軍 足利義昭 が京都から放逐されて

室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれてから

1603年に

徳川家康征夷大将軍に任じられ 江戸幕府 を開くまで

約30年間。

始期は、

織田信長足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、

義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、

安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。

終期は、

豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、

関ヶ原の戦い徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、

家康が伏見城征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。

織田信長

豊臣秀吉 が中央政権を握っていた時代である。

織田信長による政権の確立

織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が天皇室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。

兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。

楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市 の支配や 撰銭令 などの経済政策が実施された。

元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。
信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな 南蛮文化 が花開いた。

豊臣秀吉による天下統一

本能寺の変 を知った 羽柴秀吉 は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である 明智光秀を破った。

これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。

天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本国内の統一を達成した。

農民一揆を防止するため 刀狩令 を出した。

京都 方広寺 の大仏作りを口実とした 全国各地で 太閤検地 を行い 石高 制度を導入し、度量衝が統一された。

荘園制 は完全に解体し在地 土豪 の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。

秀吉は1592年(文禄元年)に 人掃令 を出して全国的な戸口調査を実施した。

1591年(天正19年)に 身分統制令 を出して 兵農分離 が推進された。

鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人 との交流が開始された。

カステラ など南蛮料理が食べられるようにになり、タバコ南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。

豊臣時代の終結

豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政前田玄以石田三成増田長盛長束正家の5人による 五奉行 制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派と加藤清正福島正則などの武断派に分裂して 五大老の筆頭である 徳川家康伏見城で実力者としての頭角を現した。

朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。

これに対し 石田三成 を中心とした反家康勢力が 慶長5年(1600年)に全国を二分する 関ヶ原の戦い が勃発した。

これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。

これにより安土桃山時代は終わり、江戸時代 が始まった。

安土桃山時代の文化

美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に 桃山文化「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。

それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。

当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。

安土桃山時代の出来事

1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位

正親町天皇

後奈良天皇 の第一皇子。

後奈良天皇崩御に伴って 践祚した。

1568年 (永禄11年) 9月 織田信長足利義昭 を奉じて 上洛

永禄の変 にて

13代将軍 足利義輝 が殺害された。

義輝の同母弟である足利義昭

織田信長 の庇護を受ける。

織田信長は 上洛に向けて

14代将軍 足利義栄を擁する 三好長逸 ら三好勢と戦い

畿内を制圧した。

1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に

足利義昭

12代将軍 足利義晴 の子。

13代将軍 足利義輝 は同母兄。

14代将軍 足利義栄 は従兄弟。

14代将軍 足利義栄が死去したため、

15代将軍に就任した。

1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日

1570年 (元亀元年) 石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち

近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の 比叡山 延暦寺 を、

織田信長 の軍が攻めた戦い。

織田軍が勝利し

延暦寺は全焼、

延暦寺の僧兵は全滅した。

1573年 (元亀4年) 7月槇島城の戦い

織田信長

室町幕府 15代将軍 足利義昭 との間で行われた戦い。

この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

1573年 (天正元年) 9月 一乗谷城の戦い

一乗谷城 ( 福井県福井市城戸ノ内町 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

越前国戦国大名 朝倉義景 の間で行なわれた合戦である。

織田軍が勝利し

朝倉義景は自刃。

1573年 (天正元年) 9月 小谷城の戦い

小谷城 ( 滋賀県長浜市 ) における

尾張国戦国大名 織田信長

北近江の戦国大名 浅井長政 との間で行なわれた戦いである。

浅井長政

正室お市の方を3人の娘( 浅井三姉妹 )と共に織田軍に引き渡した。

織田軍が勝利し

浅井長政は自害し 浅井氏は滅亡した。

1575年 (天正3年) 長篠の戦い

三河国 長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、

3万8千人の 織田信長

徳川家康 連合軍と、

1万5千人の 武田勝頼 の軍勢が戦った合戦である。

織田・徳川連合軍が勝利し

勝頼は信濃に後退した。

1576年 (天正4年) 織田信長 安土城 築城

1579年 (天正7年) 安土宗論

安土城下の浄厳院で行われた 浄土宗法華宗宗論

織田信長 の斡旋により、

浄土宗の僧 ( 玉念・貞安・洞庫 ) 等と、

法華僧 ( 日珖・日諦・日淵 ) 等の間で行われた。

1580年 (天正8年) 石山合戦 終了

石山合戦

元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、

浄土真宗 本願寺 勢力と

織田信長 との戦い。

本願寺法主顕如石山本願寺 に篭って戦った。

1580年 (天正8年) 4月 に

顕如は降伏し 石山本願寺を退去した。

石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。

顕如の退去後に 嫡子で新門跡の 教如 が石山を占拠した。

後に、東本願寺西本願寺に分裂する遠因ともなった。

1581年 (天正9年) 京都御馬揃え

織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。

1582年 (天正10年) 本能寺の変

明智光秀 が謀反を起こし、

京都 本能寺 に滞在する主君 織田信長 を襲撃した事件である。

1582年 (天正10年) 天正遣欧少年使節

キリシタン大名である 大友義鎮大村純忠有馬晴信らの名代として4名の少年を中心とした使節団がローマへ派遣された。

1583年 (天正11年) 賤ヶ岳の戦い

本能寺の変 にて

織田信長 が討たれると、

織田氏 の有力家臣の間で勢力争いとなった。

近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の 賤ヶ岳 付近で起きた

羽柴秀吉柴田勝家の戦いである。

羽柴軍が勝利 し

勝家は自害した。

勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。

1583年 (天正11年) 羽柴秀吉 大坂城 築城

1584年 (天正12年) 小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉 陣営と

織田信雄徳川家康 陣営の間で行われた戦い。

織田・徳川連合軍が勝利し

秀吉は大坂城に戻った。

合戦から半年以上経った11月に

秀吉は信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。

信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は三河に帰国した。

秀吉は美濃・伊賀・伊勢南部における織田信雄の影響力を排除した。

1585年 (天正13年) 羽柴秀吉 関白

1585年 (天正13年) 11月 天正地震

1586年 (天正14年) 羽柴秀吉 豊臣姓 を賜る

正親町天皇 から

羽柴秀吉

豊臣氏 が下賜され、

これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた 藤原の氏豊臣 に改めた。

1586年 (天正14年) 10月 徳川家康 豊臣秀吉 に臣従

1585年 (天正13年) 11月に

徳川家康の側近 石川数正 が 家康の元から出奔し 豊臣秀吉に 臣従した。

1586年 (天正14年) 4月に

秀吉は 臣従要求を拒み続ける家康に対して 実妹 朝日姫正室として差し出し

秀吉と家康は義兄弟となる。

10月 に

秀吉が 生母 大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、

家康は浜松を出立し上洛した。

同年 10月27日に

家康は 大坂城 において 秀吉に謁見し、

諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

1586年 (天正14年) 12月 後陽成天皇 即位

後陽成天皇

正親町天皇 の皇子の 誠仁親王(陽光院太上天皇)の第一皇子。

誠仁親王薨去

皇祖父 正親町天皇が譲位し、後陽成天皇践祚

1587年 (天正15年) バテレン追放令

豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令した

キリスト教 宣教と 南蛮貿易 に関する禁制。

1588年 (天正16年) 刀狩令

武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。

全国単位で 兵農分離 を進めた政策となった。

1588年 (天正16年) 海賊停止令

豊臣秀吉 が出した海賊衆 ( 水軍 ) に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。

1590年 (天正18年) 小田原征伐

主に 小田原城 において

関白 豊臣秀吉 が、

徳川家康 らに命じて

小田原北条氏 を降した戦役。

豊臣軍が勝利し

北条氏は降伏。

当主 北条氏直 は小田原を退去し

前当主である 北条氏政切腹

北条氏の旧領はほぼそのまま 徳川家康 に宛がわれることとなった。

後に

徳川家康江戸城に入り、

徳川譜代の 大久保忠世小田原城主となった。

1591年 (天正19年) 豊臣秀次 関白に

豊臣秀次

豊臣秀吉 の姉である 瑞竜院日秀 の長男。

秀吉の異父弟 豊臣秀長

秀吉の嫡男 鶴松 が相次いで死去したことにより

秀吉の養嗣子となった。

秀吉より 関白の職を譲られ 2代目 武家関白となった。

1591年 (天正19年) 身分統制令

豊臣秀吉が発した3ヶ条の法令。 侍(さむらい)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)ら 武家奉公人 が百姓・町人になること、百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事すること、逃亡した奉公人をほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。

1592年 (文禄元年) 文禄の役

関白 豊臣秀吉

征服をめざして

李氏朝鮮 に侵略した戦争。

日本軍は

小西行長 ら一番隊が 700艘の大小軍船で 釜山 に上陸した。

朝鮮半島を北上し

漢城 を占領したのち

小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間で休戦成立。

秀吉は明降伏という報告を受け、

明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。

1597年 (慶長2年) に

講和交渉決裂によって

慶長の役

1592年(文禄元年) 豊臣秀吉 伏見城 築城

*伏見城 は、

現在の京都市伏見区桃山丘陵 にあった日本の城。

豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。

廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年頃から 桃山 と呼ばれるようになり、 織田・豊臣政権期の時代区分 安土 桃山 時代 や、その時代に花開いた 桃山 文化 などの呼称の元となった。

1592年(文禄元年) 人掃令

関白 豊臣秀次の名で出された朝鮮出兵のための法令。

全国の戸口調査を命じ、一村単位の家数、人数、男女、老若、職業などを明記した書類を作成して提出させたもの。

1595年 (文禄4年) 秀次事件

豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がり 切腹となった事件。

1596年 (文禄5年) サン=フェリペ号事件

日本の土佐国でスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」。

豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である 日本二十六聖人 殉教のきっかけとなった。

1596年 (文禄5年) 9月 慶長伏見地震

1597年 (慶長元年) 日本二十六聖人 殉教

サン=フェリペ号事件 をきっかけに

関白 豊臣秀吉 の命令によって

長崎で26人のカトリック信者が磔の刑に処された。

日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。

1598年 (慶長3年) 豊臣秀吉 死去

死の床にあった秀吉は

嫡子 豊臣秀頼 成人までの政治運営にあたっては、

徳川家康 ら有力大名5人と

石田三成 ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。

五大老五奉行 が制度化された。

1600年 (慶長5年) 4月 リーフデ号 漂着

豊後国(現大分県)に オランダ共和国の商船 リーフデ号が漂着した。

生存者の ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムス江戸幕府の外交顧問になった。

徳川家康

関ヶ原の戦い にて、

リーフデ号 の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。

1600年 (慶長5年) 10月関ヶ原の戦い

美濃国不破郡関ヶ原岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた

徳川家康 を総大将とし

福島正則黒田長政 らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元 を総大将とし

宇喜多秀家石田三成 らを中心に結成された反徳川の西軍との戦い。

東軍が勝利し

石田三成は斬首、

毛利輝元は減封。

勝者である徳川家康は 強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた 五大老五奉行 体制は崩壊した。

家康の権力掌握は徳川氏を中心とする 江戸幕府の成立に繋がる。

1600年 (慶長5年) 12月 九条兼孝 関白に

九条兼孝

関白 二条晴良 の長男。

秀次事件 により

空位となってた関白に

徳川家康 の奏上により任じられた。

豊臣氏による関白職世襲を止め 旧来の 五摂家 に関白職が戻る。

1603年 (慶長8年) 2月 徳川家康 征夷大将軍

征夷大将軍」の官職を獲得した 徳川家康

独自の政権( 江戸幕府 ) を構築していく。

同年7月に

豊臣秀吉 の遺言に従い

家康の三男・徳川秀忠 の娘である 千姫

豊臣秀頼 と結婚させた。

1604年 (慶長9年) 徳川家康 江戸城 大改修

1603年 (慶長8年)に

徳川家康は 最高権力者の地位を象徴する「征夷大将軍」の官職を獲得した。

徳川家康は 諸大名を動員して江戸城の大改修( 天下普請 )を行わせ、

江戸幕府 を構築していく。

1604年 (慶長9年) 12月 慶長地震

1605年 (慶長9年) 4月 徳川秀忠 2代将軍に

徳川秀忠

徳川家康の三男。

父 家康は 将軍職を譲り、2代将軍となる。

1607年 (慶長11年) 方広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による

方広寺大仏・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、

大坂の陣 の契機の一つとなった事件。

問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、

前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、

後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

1609年 (慶長14年) 琉球侵攻

薩摩藩琉球王国 に対する軍事行動

対する 中山王府 は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった。

琉球王国薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。

1611年(慶長16年)3月 二条城会見

山城国京都 二条城 において、

徳川家康

豊臣秀頼 が行った会見である。

この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする。

1611年 (慶長16年) 5月後水尾天皇 即位

後水尾天皇

後陽成天皇の第三皇子。

後陽成天皇から譲位され践祚

1611年 (慶長16年) 12月 慶長三陸地震

1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

豊臣方は 浪人衆を全国から集めて

籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。

徳川方は 織田有楽斎 を通じて豊臣方との和平交渉を行うが。

和議交渉が暗礁に乗り上げると、本丸への砲撃を行った。

淀殿の侍女8人に命中し、

豊臣方は 和議に応ずる。

和議の条件として、大坂城の堀を埋めた。

1615年 (慶長20年) 大坂夏の陣

主に 大坂城 における

徳川 家康 率いる

江戸幕府 軍と

豊臣秀頼 率いる

豊臣 軍との間で行われた合戦。

大坂冬の陣 ののち

豊臣方は 再び 浪人衆を集めた。

徳川方は 約15万の大軍で大坂城を包囲し、

城内に続々と乱入した。

徳川方が勝利 し

豊臣秀頼は自害し 豊臣氏は滅亡した。

家康の孫娘で 豊臣秀頼正室であった 千姫は 事前に脱出した。

1615年 (元和元年) 9月 元和偃武

1615年の 大坂夏の陣 により

江戸幕府大坂城主の豊臣家 を攻め滅ぼしたことにより

応仁の乱 以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。

同年 7月に

江戸幕府は朝廷に元号慶長 から 元和 と改めさせたことで、

天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる。