奈良時代の出来事

奈良時代の出来事を年表にまとめた。

奈良時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 飛鳥時代

後は 平安時代

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参考

奈良時代の概要

710年に

元明天皇 によって 平城京 に遷都してから

794年に

桓武天皇 によって 平安京に都が遷されるまで

約84年間。

狭義では 終期を

784年に

桓武天皇によって 長岡京 に都が遷されるまでとする。

元明天皇 により平城京聖武天皇難波宮 に都が置かれた時代。

日本仏教 による 鎮護国家を目指して 天平文化が花開いた時期。

特徴

平城京遷都には 藤原不比等が重要な役割を果たした。
平城京は、中国の都 長安 を模した都を造営したとされる。
政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。

平城京への遷都に先立って撰定・施行された 大宝律令 が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、 律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。
また、天平文化 が華開いた時代でもあった。

律令国家の完成とその転換

奈良時代の前半は、刑部親王らが撰述し、701年(大宝元年)に完成・施行された大宝律令が、基本法であった。

718年(養老2年)藤原不比等らに命じて、 養老律令を新たに撰定した。
字句の修正などが主であり、根本は大宝律令を基本としていたが、その施行は遅れ、757年(天平宝字9年)、藤原仲麻呂 主導においてであった。

律令制下の天皇権力

律令制下の天皇には、以下のような権力があった。

貴族や官人の官職及び位階を改廃する権限、令外官(りょうげのかん)の設置権、官人の叙位および任用権限、五衛府(ごえふ)や軍団兵士に対するすべての指揮命令権、罪刑法定主義を原則とする律の刑罰に対して勅断権と大赦権、外国の使者や外国へ派遣する使者に対する詔勅の使用などの外交権、皇位継承の決定権などである。

中央官制、税制と地方行政組織

大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。
中央官制は、二官八省弾正台五衛府から構成されていた。
地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。
さらに 道制 として、畿内東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道の七道に区分された。

農地拡大政策と律令国

律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。
いっぽう、日本の律令に規定された班田収受法には、開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった。
そのため、長屋王 を中心とする朝廷は722年(養老6年)に 良田百万町歩開墾計画 を立て、計画遂行を期して723年(養老7年)には田地開墾を促進する 三世一身法 を施行した。

平城京の造営と和同開珎

元明天皇 即位の翌年にあたる708年(慶雲5年)正月、武蔵国が自然銅を献上したのを機に和銅改元され、翌2月には、貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。

平城遷都と橘賜姓

藤原京 は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮 のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点もあった。
30数年ぶりに帰国した遣唐使粟田真人 が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、 藤原京長安 との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる。

この年(和銅元年)、遷都を主導した 藤原不比等 は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代 は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。

和同開珎と蓄銭叙位令

都城の造営は短期間にすすめられたが、貨幣の鋳造のスピードもはやかった。
708年2月に催鋳銭司がおかれ、同年5月にははやくも 和同開珎 の銀銭、同じく8月には銅銭が発行されている。

大和朝廷はその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする 蓄銭叙位令 を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。

奈良時代の文化

政府は、学生や僧を唐へ留学させ、さまざまな文物を取り入れた。
また、朝鮮半島との交流も盛んであった。
これらの交易物などは、正倉院 宝物でも、その一端をうかがい知ることができる。

奈良時代の小区分

政治的に、3つに分けられる。

前期

710年の 平城京 遷都から

729年の 長屋王の変 まで

中期

藤原四兄弟 の専権から

764年の 藤原仲麻呂の乱 まで

後期

称徳天皇 および 道鏡 の執政以降

奈良時代の出来事

前史

701年 (大宝元年) 大宝律令 制定

大宝律令 は日本の律令

律令を参考にした。

刑部親王らが撰述した。

707年 (慶雲4年) 元明天皇 即位

元明天皇

天智天皇の第四皇女子。

文武天皇 の母。

子の文武天皇 が25歳で崩御

孫の首皇子 ( 後の聖武天皇 )はまだ幼かったため、 初めて皇后を経ないで即位した。

708年 (和銅元年) 和同開珎 鋳造

和同開珎
日本で鋳造・発行されたと推定される銭貨である。
日本で最初の流通貨幣と言われる。
皇朝十二銭の1番目にあたる。

708年 (和銅元年) 私鋳銭禁止令

私鋳銭 とは 政府が作った公の銭ではなく、私的に偽造された銭のこと。

役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。

奈良時代 前期

710年 (和銅3年) 平城京 遷都

平城京 は、 奈良時代の日本の首都。

唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城

現在の奈良県奈良市大和郡山市に存在する。

710年に

元明天皇藤原京から 平城京 へ遷都。

711年 (和銅4年) 蓄銭叙位令

銭の流通を促進するためと、政府への還流を計って施行された法令。 一定量の銭を蓄えた者に 位階を与えるよう定められた令。

712年 (和銅5年) 古事記 完成

古事記 は 日本の日本神話を含む歴史書

内容は天地のはじまりから 推古天皇 の記事である。

712年 (和銅5年) 出羽国 設置

出羽国は かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。

現在の山形県秋田県。上国。

大和朝廷蝦夷 の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。

712年に 出羽郡出羽国 に昇格。

713年 (和銅6年) 大隅国 設置

大隅国 は かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。

薩摩と並んで 隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地。

713年 (和銅6年) 風土記 編纂

風土記 は 地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。

律令制度の各国別で記された。

715年 (霊亀元年) 元正天皇 即位

元正天皇

天武天皇 の皇太子であった 草壁皇子 の長女。

母は 元明天皇

母の元明天皇から譲位を受け即位。

716年 (霊亀2年) 第8次 遣唐使 派遣

遣唐執節使 粟田真人

718年 (養老2年) 養老律令 制定

養老律令 は 古代日本で 施行された基本法令。

大宝律令 に続く律令として施行され、 古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。

藤原不比等らに命じて撰定した。

720年 (養老4年) 日本書紀 完成

日本書紀奈良時代に成立した日本の歴史書

天地開闢から始まる神代から 持統天皇 代までを扱う編年体の歴史書である。

720年 (養老4年) 隼人の反乱

隼人大隅陽侯史麻呂 を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。

大和朝廷大伴旅人 を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。

722年 (養老6年) 良田百万町歩開墾計画

大和朝廷が掲げた計画である。
百万町歩という数字はほぼ不可能であり、ただの理想、スローガンであるともされている。

723年 (養老7年) 三世一身法 発布

墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。

724年 (神亀元年) 聖武天皇 即位

聖武天皇

文武天皇 の第一皇子。

元正天皇 は父の姉。

元正天皇より皇位を譲られて即位。

724年 (神亀元年) 2月 辛巳事件

聖武天皇 が生母の藤原宮子 に対して勅によって与えられた称号が 左大臣 長屋王議政官の上奏によって撤回された事件。

724年 (神亀元年) 多賀城 築城

多賀城 は 現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代 城柵

奈良平城京律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。

平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。

727年 (神亀4年) 渤海使 来日

渤海使渤海より日本を訪問した使節である。

渤海靺鞨族大祚栄により建国された 現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。

渤海大武芸 の時代になると 新羅 と外交的に対立するようになる。

国際的孤立に陥りそうになった渤海が、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。

729年 (神亀6年) 長屋王の変

藤原氏 による 皇親の大官である 長屋王 の 排斥事件。

辛巳事件 により 長屋王聖武天皇 および藤原氏から好ましくない人物とみられる。

729年 (神亀6年)に

左京の人で従七位下の漆部造君足と 中臣宮処連東人 が 「左大臣で正二位の長屋王がひそかに左道を学んで国家を傾けようとしています」と密告した。

朝廷はその夜のうちに、式部卿従三位 藤原朝臣宇合 らを遣わして、六衛府の兵を率いて、平城京左京三条二坊の長屋王の宅を取り囲んだ。

翌日、右中弁 小野朝臣牛養 らを長屋王宅に派遣し、王の罪を糾問した。

その次の日、王は自殺した。

この変は 藤原四兄弟 が協力して主導したされる。

奈良時代 中期

735年 (天平7年) 天平の疫病大流行

740年 (天平12年) 藤原広嗣の乱

藤原広嗣が政権への不満から九州の 大宰府 で挙兵したが、官軍によって鎮圧された事件。

740年 (天平12年) 恭仁京 遷都。

恭仁京奈良時代都城の1つ。

山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。

大極殿平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。

条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。

聖武天皇 の勅命により

平城京 から遷都された。

740年 (天平12年) 五月一日経

五月一日経

光明皇后 が父 藤原不比等、母 県犬養橘三千代 の菩提供養のために発願した一切経のことである。

741年 (天平13年) 国分寺建立の詔

国分寺

聖武天皇 が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。

総本山は 大和国東大寺

日本各地に 国分寺 という地名が残る。

東京都 国分寺市 もその一つ。

743年 (天平15年) 墾田永年私財法 発布

墾田(自分で新しく開墾した田地)の耕作権の永年私財化を認める法令である。

743年 (天平15年) 大仏造立の詔

奈良の大仏

聖武天皇 の発願で制作された。

744年 (天平16年) 難波宮 遷都

難波宮

難波 (現在の大阪市) 法円坂 周辺に造られた古代の宮殿。

天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。

745年 (天平17年) 紫香楽宮 遷都

紫香楽宮

聖武天皇近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮

749年 (天平勝宝元年) 孝謙天皇 即位

聖武天皇の皇女。

母は 光明皇后

父・聖武天皇の譲位により即位した。

治世の前期は皇太后光明皇后)が後見し 皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。

太上天皇時代

天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王淳仁天皇 )に譲位し、太上天皇となる。

天平宝字4年(760年)7月16日に 光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。
同年8月に 孝謙上皇淳仁天皇らは 小治田宮に移り、 天平宝字5年(761年)には 保良宮 に移った。

ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧 道鏡 を寵愛するようになった。

750年 (天平勝宝2年) 第12次 遣唐使 派遣

大使に 藤原清河

751年 (天平勝宝3年) 懐風藻

懐風藻 は、現存する最古の日本漢詩集。

753年 (天平勝宝5年) 鑑真 来日

鑑真 は 唐代の僧人。

日本における 律宗 の開祖。

757年 (天平勝宝9年) 橘奈良麻呂の変

橘奈良麻呂藤原仲麻呂 を滅ぼそうとし 天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった事件。

事件前史

橘奈良麻呂の父の左大臣 橘諸兄 は、聖武天皇 の治世に政権を担当していた。

743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂佐伯全成 に対し 小野東人らと謀り、次期天皇長屋王の子 黄文王 を擁立する旨の計画を漏らす。

749年(天平21年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王孝謙天皇 ) が即位すると、天皇の母の 光明皇太后 に信任されていた藤原仲麻呂が 皇太后のために新設された 紫微中台 の長官(紫微令)に任命される。

仲麻呂孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。

同年3月、皇太子 道祖王孝謙天皇の不興を受けて廃された。

4月に入ると、天皇は群臣を集めて次の皇太子について意見を述べさせた。

天皇は、大炊王淳仁天皇 )を立太子することを宣言した。

大炊王仲麻呂が後ろ盾となっており庇護していた人物であった。

陰謀の計画と発覚

仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。

翌29日(7月23日)に太政官院(太政官の庁舎)の庭に橘奈良麻呂大伴古麻呂小野東人黄文王安宿王 ら20名ほどが集まり、 7月2日(7月26日)の宵に挙兵することを誓約した。

その日の夕方、中衛府の舎人 上道斐太都 から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。

翌7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成中納言藤原永手 らが小野東人を訊問。

東人は無実を主張した。

同日、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節 らを拷問にかけた 。

東人らは一転して謀反を自白した。

その内容は、橘奈良麻呂大伴古麻呂安宿王黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王道祖王安宿王黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分

東人の供述により、7月4日(7月28日)に 奈良麻呂を始め、道祖王黄文王大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。

訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した 。

この後すぐに獄に移され、杖で全身を打つ拷問が行われた。

道祖王黄文王、古麻呂、東人、犢養、角足は 過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。

首謀者である 奈良麻呂は 同じく拷問死した。

安宿王佐渡島に配流され、 塩焼王は 直接関与した証拠がなかったために不問とされた。

他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。

758年 (天平宝字2年) 淳仁天皇

天武天皇 の皇子 舎人親王 の七男。(大炊王)

756年に
聖武天皇の遺言によって 新田部親王の子の 道祖王立太子したが、

757年4月4月22日 に
孝謙天皇によって道祖王は廃され、

4日後の同年4月26日に
光明皇后 を後ろ盾にもつ 藤原仲麻呂の強い推挙により 大炊王立太子した。

(758年に
孝謙天皇 から譲位を受け践祚した。

践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、専横が目立つようになる。

760年に

光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。

759年 (天平宝字3年) 鑑真 唐招提寺 創建

唐招提寺奈良県奈良市五条町にある 律宗の総本山の寺院。

本尊は盧舎那仏

開基(創立者)は唐出身の僧 鑑真。

759年 (天平宝字3年) 万葉集

万葉集 は 日本に現存する最古の和歌集。

万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている (万葉仮名を含む)。

764年 (天平宝字8年) 藤原仲麻呂の乱

孝謙太上天皇道鏡と対立した太師(太政大臣藤原仲麻呂 が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件。

背景

藤原仲麻呂は、叔母の 光明皇后の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。

孝謙上皇道鏡 を側に置いて寵愛するようになり、仲麻呂淳仁天皇 を通じて、孝謙道鏡との関係を諌めさせたが、孝謙の怒りを買った。

反乱計画

焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙道鏡に対抗しようとし、 天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。
諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂 に命令の発令を指示した。
押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。
9月5日には、仲麻呂船親王 と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。
また 池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。
親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。

戦乱

9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙少納言 山村王淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印を回収させた。
これを知った押勝は子息 訓儒麻 に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。
孝謙はただちに授刀少尉 坂上苅田麻呂 と授刀将曹 牡鹿嶋足 を派遣して、訓儒麻呂を射殺した。

押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人 紀船守 に射殺された。

孝謙は勅して、押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。

9月18日、討賊将軍に任ぜられた備前守 藤原蔵下麻呂 が増援に加わった討伐軍によって、海陸から激しく攻められた仲麻呂軍は、ついに敗れた。

乱後

仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁天皇は廃位され淡路国に流された。
代わって孝謙重祚する( 称徳天皇 )。
以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。

奈良時代 後期

764年 (天平宝字8年) 孝謙天皇 重祚

藤原仲麻呂の乱 により

孝謙天皇

淳仁天皇 を廃位し

自らが復位し 「称徳天皇」となる。

弓削道鏡孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。

復位した称徳天皇のもとで 道鏡はその片腕となり

765年 (天平神護元年) に 僧籍のまま「太政大臣」となり

766年 (天平神護2年) に「法王」となる。

765年 (天平神護元年) 孝謙上皇 西大寺 創建

西大寺奈良県奈良市西大寺芝町にある 真言律宗の総本山の寺院。

本尊は釈迦如来
開基は 孝謙上皇南都七大寺の1つ。

769年 (神護景雲3年) 宇佐八幡信託事件

宇佐八幡宮 より

称徳天皇 ( 孝謙天皇重祚 )に対して「道鏡皇位に就くべし」との神託を受けて

弓削道鏡天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。

同年11月 に

称徳天皇 が詔を発し

道鏡には皇位は継がせない」と宣言したため、事件の決着がついた。

770年 (宝亀元年) に

称徳天皇崩御すると 道鏡下野国薬師寺へ左遷(配流)された。

770年 (神護景雲4年) 光仁天皇

光仁天皇

天智天皇の第7皇子 志貴皇子 の第6皇子。( 白壁王 )

称徳天皇崩御

62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。

774年 (宝亀5年) 桃生城襲撃事件

古代日本の律令国家(朝廷)が陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵である 桃生城 を、反乱を起こした 海道 蝦夷 が襲撃した事件。

いわゆる 三十八年騒乱 の発端となった。

780年 (宝亀11年) 宝亀の乱

現在の宮城県にあたる陸奥国にて

古代日本の律令国家(朝廷、中央政権)に対し

上治郡の蝦夷の族長であった 伊治呰麻呂 が起こした反乱。

概要

政府側に帰服して上治郡の大領に任じられていた「蝦夷」である伊治公呰麻呂が、覚鱉城 造営に着手するために 伊治城(現在の宮城県栗原市にあった城柵)に駐留することとなった陸奥按察使 紀広純 およびそれに付き従っていた陸奥大伴真綱牡鹿郡大領であった 道嶋大楯らを襲撃。
紀広純、道嶋大楯の殺害に至ったのち、呰麻呂に呼応して反乱した軍勢が陸奥国府であった 多賀城 を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くしたものである。

陸奥国出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害され、多賀城が失陥したことにより、政府による東北地方の経営は大打撃を被った。

ただちに 征東大使、出羽 鎮狄将軍を派遣して軍事的な鎮圧に当たらしめたが、陸奥国の動乱はより深まっていき、 首謀者であった呰麻呂は捕らえられることはなかった。

781年 (天応元年) 桓武天皇 即位

光仁天皇の第一皇子。

光仁天皇から譲位されて即位。

782年 (延暦元年) 氷上川継の乱

天武天皇 の曾孫の 氷上川継 が謀反を計画し、事前に発覚して失敗した事件。

川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇 の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされた。

784年 (延暦3年) 長岡京 遷都

長岡京
山城国乙訓郡にあった 都城(現在の京都府長岡京市)。

桓武天皇 により 平城京 から遷都された。

平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。

長岡京 の近くには 桂川宇治川 など、3本の大きな川が 淀川となる合流点があった。

全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。

そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。

794年 (延暦13年) 平安京 遷都

平安京

日本における 古代 最後の 宮都

桓武天皇 により、長岡京に代わる都として山背国(山城国愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の 長安城を模して建設された。

794年(延暦13年) に 長岡京より遷都。

以降、1869年 (明治2年) まで 日本の首都。