源 頼朝の生涯

源 頼朝 の生涯を関連する事項とともに年表にした

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参考

源頼朝の生涯の年表

1107年 (嘉承2年) 7月 鳥羽天皇 即位 (5歳)

生涯

1103年(康和5年) 7月に 堀河天皇 の皇子として誕生。

母は 藤原実季 の女の 苡子

生後間もなく母の苡子が没し、祖父の 白河法皇 の下に引き取られて養育された。

1107年 (嘉承2年) 7月 に 父の堀河天皇崩御後、5歳で即位する。

(1123年)(保安4年) 1月 に 第一皇子の 崇徳天皇 に譲位。

1142年 (永治元年) 1月 に 崇徳天皇(23歳) を譲位させ、第九皇子の躰仁親王(3歳) を即位させた。( 近衛天皇 )

同年、東大寺 戒壇院 で受戒し、法皇となる。

1155年 (久寿2年) 8月 に 近衛天皇崩御する。(宝算17)

同月、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である 雅仁親王(29歳) を即位させた。( 後白河天皇 )

56年 (保元元年) 7月、鳥羽法皇崩御する。(宝算 53)

後に 保元の乱 となる。

1118年(永久6年) 1月 平 清盛 誕生

伊勢平氏の嫡男

伊勢平氏の棟梁 平忠盛 の嫡男として誕生。

順調に出世する。

1153年 (仁平3年) に 父 忠盛の死によって、清盛平氏一門の棟梁となった。

保元の乱、平治の乱

保元の乱後白河天皇 の信頼を得る。

平治の乱 で最終的な勝利者となり、 1160年 ( 永暦元年) 8月に 武士としては初めて太政大臣に任じられる。

平氏の全盛期

継室の時子二条天皇の乳母であったことから 清盛天皇の後見役となった。

清盛検非違使別当・大納言に昇進した上に院庁の別当にもなり、 天皇上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。

久寿2年(1155年)に、 時子との間に 徳子 が生まれた。

後に 高倉天皇 に入内。

応保元年(1161年)9月に、 後白河上皇滋子 の間に第七皇子( 憲仁親王 後の高倉天皇 )が生まれると、 滋子の弟 平時忠平教盛立太子を画策した。

二条天皇はこの動きに激怒し、時忠、教盛、 藤原成親坊門信隆 を解官して平時忠を出雲へ左遷、後白河院政を停止した。

清盛天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。

翌年3月に 平治の乱 で配流されていた二条親政派の 藤原 経宗が帰京を許された。

6月に
平時忠源資賢二条天皇賀茂社で呪詛した罪で配流された。

清盛二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。

さらに関白 近衛基実 に娘 盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。

院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、 1164年 (長寛2年) に 蓮華王院( 三十三間堂 )を後白河上皇のために造営している。

二条天皇後白河上皇の動きに警戒心を抱き、 1165年 (長寛3年) に 重盛 を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日 崩御した。

後継者の 六条天皇 は幼少であり、 近衛基実 が摂政として政治を主導して、 清盛 は大納言に昇進して基実を補佐した。

9月に 平時忠 が帰京を許され、 12月25日に 憲仁親王親王宣下を受けると、 清盛 は勅別当になった。

1166年 (永万2年) 7月26日に
摂政・藤氏長者近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子 基通 が幼少であることから 弟 松殿基房 が摂政となる。

基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。

清盛近衛家家司藤原邦綱 の助言により、 殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を 後家の 盛子 に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。

10月10日に 憲仁親王立太子すると 清盛春宮大夫となり、 11月には 内大臣となった。

1167年 (仁安2年) 2月に 清盛太政大臣になるが、清盛福原 開拓に専念する為、わずか3ヶ月で太政大臣を辞任する。

清盛 は政界から表向きは引退し、 同年5月、嫡子 重盛 は 宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

仁安3年(1168年)2月7日に 清盛 は病に倒れ、3月に出家する。

清盛 の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて 六条天皇 から 高倉天皇 に譲位させることで体制の安定を図った。

病から回復した 清盛 は福原に別荘 雪見御所 を造営して、 かねてからの念願であった 厳島神社 の整備、 日宋貿易 の拡大に専念した。

1169年 (嘉応元年) に 後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛後白河法皇とともに 東大寺受戒 して協調につとめた。

この頃は、後白河法皇福原を訪れ、宋人に面会し、 清盛 の娘 徳子高倉天皇に入内、 福原で後白河法皇清盛千僧供養 を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。

この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にした。

義弟の 時忠が「平家にあらずんば人にあらずと言ったとされる。

平氏に対する不満

ところが、この 清盛 の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、 1176年 (安元2年) の 建春門院 の死を契機に、清盛 と対立を深めていく。

1177年 (治承元年) 6月 に 鹿ケ谷の陰謀 が起こった。

これは 多田行綱 の密告で露見したが、 これを契機に 清盛院政における院近臣の排除を図る。

西光 は処刑とし、 藤原成親重盛 の悲願によって死罪は免れ備前国流罪俊寛 らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、 後白河法皇に対しては罪を問わなかった。

治承3年(1179年)6月に 娘の 盛子 が死亡。

すると法皇は直ちに盛子の荘園を没収した。

さらに7月に 嫡男の 重盛 が42歳で病死した。

するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。

11月14日に 清盛 は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。

治承三年の政変 である。

清盛松殿基房 師家 父子を手始めに、藤原師長 など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には 鳥羽殿に幽閉するにいたった。

ここに後白河院政は完全に停止された。

1180年 (治承4年) 2月に 高倉天皇 が譲位、言仁親王践祚した( 安徳天皇 )。

名目上は高倉上皇院政であったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。

さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになった。

反乱の狼煙

平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子 以仁王の挙兵であった。( 以仁王の挙兵 )

以仁王は優秀であったが、平氏方である建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会をうかがっていたが、 安徳天皇 の即位 でその望みは絶望的なものとなった。

以仁王には、八条院直属の武力ともいえる 源頼政下河辺行義足利義清源仲家などが付き従い。

平氏に反発する 興福寺園城寺もこの動きに同調した。

この計画は未然に発覚し、清盛の手早い対策により、検非違使平氏家人の 藤原景高 伊藤忠綱 が300騎の兵で追撃して、以仁王源頼政らを討ち取った。

しかし、寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏延暦寺 でも反平氏勢力の動きがあった。

そこで、清盛 は有力寺社に囲まれて平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月に 一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の 大輪田泊 を臨む地への遷都を目指して、福原行幸 を強行した。

しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、 8月には伊豆に流されていた 源頼朝武田信義を棟梁とする甲斐源氏、 9月には信濃国において 木曾義仲が挙兵する。( 治承・寿永の乱 )

これに対して、清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした平家の大軍を関東に派遣したが、富士川の戦い では交戦をせずに平家軍は撤退してしまった。

この平家軍の敗戦を契機に、寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺興福寺が不穏な動きを見せ始めた。

さらに、近江源氏が蜂起し園城寺延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。

高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも福原への遷都を望まない声が高まり、 11月23日、清盛平安京に還都した。

12月になると、 清盛平知盛平資盛藤原清綱 らが率いる平家の軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏山本義経柏木義兼 を打ち破って、近江の平定に成功した。( 近江攻防 )

次に 清盛 が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力興福寺であった。

清盛 は背後の脅威を一掃することを決め、重衡 を総大将とした平家の大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺東大寺など南都の諸寺を焼き払った。( 南都焼討 )

確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、この南都焼討では数千もの民衆が犠牲となり、東大寺大仏殿と大仏を焼失、大破させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。

最期

1180年 (治承4年) 末までには、 平氏の勢力基盤である西国においても伊予国河野通清 通信 父子が挙兵した。( 伊予河野氏の蜂起 )

翌治承5年 には 豊後国緒方惟栄臼杵惟隆・佐賀惟憲 ら豪族が挙兵し、伊勢国志摩国においても反乱の動きがあった。

東国においても平氏方であった 佐竹秀義 などが 頼朝 によって討伐された。( 金砂城の戦い )

このような中で、清盛 は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて 宗盛 を任じた。

また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊 を任じた。

さらに、越後国城資永陸奥国藤原秀衡源頼朝武田信義 追討の宣旨を与えている。

治承5年(1181年)2月26日には 平重衡 の鎮西下向を中止し、宗盛 以下一族の武士が東国追討に向かうことが決められていたが、 清盛 は27日に病に倒れ、閏2月4日、鴨川東岸にある 平盛国 の屋敷で死亡した。享年64。

死の直前、自分の死期を悟った 清盛 は、自分の死後はすべて 宗盛 に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残したとされる。

清盛 の死後、嫡男の 重盛はすでに病死し、 次男の 基盛も早世していたため、 平氏の棟梁の座は三男の 宗盛 が継いだ。

しかし、宗盛は全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政方も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。

しかも、折からの 養和の大飢饉 という悪条件なども重なった。

1183年 (寿永2年) に、 倶利伽羅峠の戦い篠原の戦い平氏軍が壊滅した後、 義仲軍の攻勢の前に為す術無く都落ちする。

そして、1185年 (元暦2年) の 壇ノ浦の戦い に敗れて平氏は滅亡した。

1123年(保安4年) 2月 崇徳天皇 即位 (5歳)

略歴

1119年(元永2年) に 鳥羽天皇 の第一皇子として誕生。(顕仁親王)

母は 藤原璋子

雅仁親王後白河天皇 は同母弟。

躰仁親王近衛天皇 ) は異母弟。

幼き帝

1123年 (保安4年) 1月28日に皇太子となり、 同日、父の鳥羽天皇の譲位により践祚、 2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で即位した。(崇徳天皇)

実権無き上皇

1142年 (永治元年) に 父の鳥羽天皇 の意向により 崇徳天皇 (23歳) は 弟の 躰仁親王 (3歳) に譲位する。(近衛天皇)

1155年 (久寿2年) に 病弱だった近衛天皇崩御する。(宝算17)

弟の 雅仁親王立太子しないまま 29歳で即位する。(後白河天皇)

保元の乱

1156年 (保元元年) 7月、鳥羽法皇が病に倒れ、崩御する。(宝算 53)

崇徳上皇 (37歳) と後白河天皇 (29歳) の対立が顕著になる。

同年 7月 の 保元の乱 において 白河天皇が勝利し、 崇徳上皇讃岐国に配流された。

最後

1164年 (長寛2年) 8月、 崇徳上皇 は 配流先の讃岐国崩御する。(宝算 46)

怨霊伝説

保元の乱終結してしばらくの間は、崇徳上皇は罪人として扱われた。

崇徳上皇讃岐国崩御した際も、後白河院はその死を無視し、国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。

ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。

この年は 安元の大火鹿ケ谷の陰謀 が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。

1176年 (安元2年) は 建春門院高松院六条院九条院 が相次いで死去している。

これらは崇徳上皇の怨霊のせいとされた。

精神的に追い詰められた後白河院は 怨霊鎮魂のため「保元の宣命」を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められた。

1184年 (寿永3年) 4月には 保元の乱 の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。

また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺( 現在の白峯寺 )に対しても官の保護が与えられたとされている。

崇徳上皇の怨霊としてのイメージは定着し、 日本三大怨霊 の一人とされる。

1123年 (保安4年) 源義朝 誕生

上総御曹司

河内源氏 の棟梁 源為義 の長男として誕生。

母は 藤原忠清の娘。

源頼朝 の父。

義朝 は少年期に都から 東国 へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡 丸御厨 へ移住した。

その後は 上総国 に移って当地の有力豪族であった 上総氏 の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。

東国で成長した 義朝 は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。

三浦義明大庭景義 ら在地の大豪族を傘下に収めた。

それまでの居館があった鎌倉郡 沼浜 から高祖父の 頼義 以来ゆかりのある鎌倉の 亀ヶ谷 に館を移した。

京での躍進

1147年 (久安3年) に 長男の 義平に東国を任せて都へ戻った 義朝 (24 歳) は、正室由良御前 との間に 三男 の 頼朝 を設けた。

院近臣である妻の実家 藤原季範 の後ろ楯を得て、 鳥羽院藤原忠通 にも接近し、 1153年 (仁平3年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。

1155年 (久寿2年)の 大蔵合戦 において 父の為義の意向を受けて東国に下向し、勢力を伸ばしていた次弟の 義賢 を子の 義平に討たせ、 対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた。

保元の乱

1156年 (保元元年) の 保元の乱 において 崇徳院 方についた 父 為義、 弟の 頼賢為朝 らと袂を分かち、 後白河天皇 方として東国武士団を率いて参陣した。

乱は後白河天皇方が勝利し、 義朝 (33 歳) は 恩賞として 左馬頭に任じられる。

平治の乱

1160年 (平治元年) の 平治の乱 において 義朝 (37 歳) は、 源光保季実重成 らと共に 藤原信頼 と組んで 後白河院 の信任厚い 信西らがいると目された三条殿を襲撃した。

三条殿を襲撃し逃れた「信西」を倒して以降、「信頼」が政局の中心に立った。

信西追討の恩賞として 義朝 は播磨守に任官し、 嫡男の 頼朝 は右兵衛佐に任じられた。

二条天皇親政派らの策謀によって 二条天皇平清盛六波羅 邸に脱出し形勢不利を察した 後白河院仁和寺に脱出した。

「清盛」は官軍の地位を獲得した。

同年 12月 に 賊軍となった 「信頼」、 義朝 らは討伐の対象となり、 京中で戦闘が開始される。

平家らに兵数で大幅に劣っていた 義朝 軍は壊滅した。

敗走

義朝 は子の 義平朝長頼朝、 大叔父の 義隆平賀義信源重成、 家臣で乳兄弟の 鎌田政清斎藤実盛渋谷金王丸 らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、 その途上で度重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。

一行からはぐれた「頼朝」は捕らえられた。

平賀義信斎藤実盛は無事に落ち延びることに成功した。

最期

馬も失った 義朝 は裸足で尾張国知多郡 野間 にたどり着き、政清 の舅で年来の家人であった 長田忠致 とその子 景致の もとに身を寄せた。

恩賞目当ての長田父子に裏切られ、義朝 は入浴中に襲撃を受けて殺害された。(享年 38)

1127年 (大治2年) 10月 後白河天皇 誕生

鳥羽天皇 の第四皇子として誕生

1127年 (大治2年) 三浦 義澄 誕生

経歴

三浦氏 の一族 三浦義明 の次男として誕生。

1159年 (平治元年) の 平治の乱 において 源義朝 に従うが、 平家方に敗れて 郷里 三浦 に落ち延びる。

1164年 (長寛2年) 、兄 杉本義宗 が亡くなり、 義澄 (37 歳)は 三浦氏家督を継ぐ。

1180年(治承4年) 9月14日 の 石橋山の戦い において 義澄 (57 歳)は 三浦を出て 源 頼朝 の元に向かうが、 大雨により増水した 丸子川 で足止めされ参戦できず。

直後の 由比ヶ浜の戦い において 平家方の 畠山重忠 に襲われるがこれを退け三浦に帰る。

同年9月17日 の 衣笠城合戦 において 畠山重忠に衣笠城を襲われる。

父・義明は 討死。(享年 89) 義澄安房国へ渡る。

安房国で頼朝が再挙すると 進軍に同行し 鎌倉に入る。

義澄 は 頼朝の有力御家人となり、一ノ谷の戦い壇ノ浦の戦い奥州合戦 に参戦して武功を挙げる。

1199年 (正治元年)、頼朝が死去した後には 2代将軍 源頼家を補佐する 十三人の合議制 の一人となる。

1200年 (正治2年) 1月 に 死去。(享年74)

1128年 (大治3年) 9月 武田 信義 誕生

甲斐源氏3代当主 源清光 の次男として誕生

1180年 (治承4年) 4月頃、以仁王 の令旨を戴いた。 8月下旬に 挙兵した。

1138年 (保延4年) 北条 時政 誕生

生涯

伊豆国の在地豪族の 北条時方 の子として誕生。

頼朝の舅

平治の乱にて 伊豆国へ配流された 源頼朝 の監視役となる。

1177年(安元3年) 頃に 娘の 北条政子 (20歳) が 「頼朝」 (31歳) と結婚する。

挙兵

1180年 (治承4年)に 以仁王平氏追討の令旨を発すると 8月に 時政 (42 歳) は「頼朝」とともに挙兵する。

同年 9月の 石橋山の戦い において 時政 父子は 頼朝に従軍するが、 平氏方の 大庭景親 らに 頼朝軍は大敗して四散した。

「頼朝」は 箱根山から真鶴半島へ逃れ、真鶴岬 から出航して安房国に脱出した。

時政 は 次男の 義時 と共に 甲斐国に赴き、 同地で挙兵した 武田信義甲斐源氏と合流する。

時政 の嫡男 宗時 は 大庭方の 伊東祐親 の軍勢に囲まれて討ち死にした。

同年 10月 に 「頼朝」は 安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して 鎌倉に入る。

同年 10月の 鉢田の戦い において 武田信義 率いる 甲斐源氏平氏方の 橘遠茂 を破り 時政 と共に駿河に進攻する。

同年 11月の 富士川の において 源氏軍( 武田信義源頼朝 ) が 富士川 に布陣すると、 平氏軍( 平維盛 ) は 目立った交戦もないまま敗走する。

その後、 時政 父子は 「頼朝」の元に戻る。

亀の前事件

1182年 (寿永元年)、「頼朝」は 愛妾 亀の前伏見広綱 の宅に置いて寵愛していた。

「頼朝」の嫡男 頼家 出産後に この事を継母の 牧の方 から知らされた 「頼朝」の正室 政子 は激怒し、 11月10日、「牧の方の兄」である 牧宗親 に命じて広綱宅を破壊する 後妻打ち という事件を起こす。

11月12日、怒った「頼朝」は「宗親」を呼び出して叱責し、「宗親」の髻を切って辱めた。

これを知った 時政 * (44 歳) は義兄 「宗親」 への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。

京都守護

1185年 (文治元年) 10月になると 源義経行家 の「頼朝」に対する謀叛が露顕する。

10月18日、後白河院 は「義経」の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。

11月24日、「頼朝」の命を受けた 時政 * (47 歳) は 千騎の兵を率いて入京し、「頼朝」の憤怒を院に告げて交渉に入った。  

28日に 時政吉田経房 を通じ「義経」らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する。( 文治の勅許 )

時政 の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は 京都守護 と呼ばれるようになる。

在京中の 時政 は 郡盗を 検非違使庁 に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は概ね好評だった。

3月1日になると、時政 は「七ヶ国地頭」を辞任して 惣追捕使 の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに一族の 時定 以下35名を洛中警衛に残して離京した。

後任の「京都守護」には「頼朝」の義弟 一条能保 が就任した。

富士の巻狩り

1192年 (建久3年) 3月、後白河院崩御した。(宝算 66)

1193年 (建久4年) 3月、後白河院崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、「頼朝」は下野国那須野、次いで上野国・吾妻郡三原野で御家人を召集して大規模な 巻狩りを催した。

5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である 時政 * (55 歳) が狩場や宿所を設営した。

1199年 (正治元年) 1月、「頼朝」が死去する。 (享年53)

「頼朝」の死後、 時政 (61歳)は、十三人の合議制 に名を連ね、幕府の有力者となる。

比企能員の変

1203年 (建仁3年) の 比企能員の変 において 時政 (65 歳) は 比企能員 を自邸に呼び出して謀殺し、 「頼家」の嫡子 一幡 の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼす。

実朝擁立

1203年 (建仁3年)、時政 (65 歳) は 頼家 (21 歳) の弟 実朝 (12 歳) を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。

9月16日には 幼い「実朝」に代わって 時政 が単独で署名する 関東下知状 が発給され、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。

10月9日に 大江広元 と並んで政所別当に就任した。

同年に 時政 が初代 執権 に就いたとされる。

11月には 比企能員の変 において逃げ延びた 一幡 が捕らえられ、 時政 の子 義時 の手勢に殺された。

畠山重忠の乱

1205年 (元久2年) の 畠山重忠の乱 において 時政 (67 歳) は 畠山重忠 を謀反の罪で滅ぼした。

牧氏事件と失脚

1205年 (元久2年) の 牧氏事件 において 政子義時らは 結城朝光三浦義村 らを遣わして、 時政邸にいた 将軍 実朝 を義時邸に迎え入れた。

時政側についていた御家人の大半も「実朝」を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。  

幕府内で完全に孤立無援になった 時政 (67 歳) は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった。

最後

1215年 (建保3年) 1月、時政 は 腫物のため伊豆で死去した。(享年78)

1138年 (保延4年) 平 重盛 誕生

平氏棟梁 平清盛 の嫡男として誕生。

母は 高階基章 の娘。

保元の乱、平治の乱

保元の乱平治の乱 に父 清盛に従って参戦。

順調な昇進

1162年 (応保2年) 正月に 26歳の若さで、従三位 に叙せられ公卿となった。

永万2年1166年 (永万2年) 7月に 重盛権中納言 右衛門督 となった。

清盛の後継者

1167年 (仁安2年) 2月に 重盛権大納言 となる。

同年5月17日に 清盛は太政大臣を辞任するが、それに先立つ5月10日、重盛 に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された。

これにより、重盛 は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。

右大将、内大臣就任

1174年 (承安4年) 7月、重盛 は空席となっていた 右近衛大将 に任じられる。

1176年 (安元2年) 正月、後白河法皇の50歳の賀には 重盛 も一門の筆頭として出席し、平氏法皇の蜜月ぶりを示した。

翌年 1177年 (安元3年) 正月に 重盛 が左近衛大将宗盛が右近衛大将となり、両大将を平氏が独占する。

同年3月に 重盛内大臣に任じられる。

鹿ケ谷の陰謀

白山事件 にて

閑院内裏を警護にあたった 重盛 の家人が射た矢が神輿に当たって死者も出した。

鹿ケ谷の陰謀 にて

藤原成親平氏打倒の首謀者とされた。

成親は 重盛 の妻 藤原 経子 の兄であり、 重盛 は長男 維盛 と三男の清経 の妻に成親の娘をそれぞれ迎えるなど、親密な関係を持っていた。

その成親が首謀者であったことで、 重盛 の面目は丸潰れとなり、公私にわたる政治的地位を失墜させることになった。

晩年・最期

鹿ケ谷の陰謀 を期に 重盛は気力を失い、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。

宗盛 が結果として平家一門の棟梁として台頭することになる。

1179年 (治承3年) 2月、重盛 は病により家に籠もるようになる。

同年 7月29日、重盛 は死去した。(享年42)

1139年 (保延5年) 平 基盛 誕生

生涯

平清盛 の次男として誕生。

母は高階基章の娘。

1156年 (保元元年) の 保元の乱 においては、父 清盛とともに 後白河天皇 方に参加。

崇徳上皇 方に参陣途上の 源親治 を捕らえるという大功を立てた。

これを賞され戦後の9月には蔵人に任じられ、従五位下に叙勲された。

1159年 (平治元年) の 平治の乱 においては、父 清盛 とともに反乱軍を撃破。

1162年 (応保2年) 5月に死去。( 享年 24 )

1141年 (永治元年) 源 行家 誕生

略歴

河内源氏第五代 源為義 の十男として誕生。

源頼朝 は兄 義朝 の子 (甥)。

源義仲は兄 義賢 の子 (甥)。

1180年 (治承4年)に 以仁王 が平家追討の令旨を発すると、各地の源氏に伝達した。

甥の頼朝に決起を促したが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向した。

1181年 (治承5年) に、尾張で挙兵し 同年 3月の 墨俣川の戦い において 甥の 義円 とともに参戦するが、 平維盛 に敗れ、 義円は敗死する。

以降は 甥の源義仲の幕下に走っている。

1183年 (寿永2年) 7月 に、行家 は 義仲とともに入京する。

勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家とされ、 行家従五位下・備後守に叙任される。

1184年 (寿永3年) 1月 の 粟津の戦いにおいて 義仲は源範頼義経 軍に討ち取られる。(享年31)

1185年 (元暦2年) 8月に、頼朝が行家討伐を計ると、 行家 は 頼朝と不和となっていた 義経 に接近し、 共に都を落ち九州へ向かう。

同年 11月の 河尻の戦い において 多田行綱 らの襲撃を受けこれを撃退する。

大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗する。

義経はわずかな郎党とともに逃走する。

行家 は逃亡の末に日向権守清実の屋敷に潜伏する。

翌 1186年 (文治2年) 5月、地元民の密告により露顕し、北条時定 の手兵によって 行家 は捕らえられ、斬首された。( 享年 45 )

1141年 (永治元年)源 義平 誕生

略歴

河内源氏の棟梁 源義朝 の庶長子として誕生。

母は 三浦義明の娘。

源頼朝 の異母兄。

1155年 (久寿2年) 8月の 大蔵合戦 において 義平 (14歳) は 父の弟 義賢 を攻め殺した。

1160年 (平治元年) 1月の 平治の乱 において 敗死。(享年 20)

1142年 (永治元年) 1月 近衛天皇 即位 (3歳)

1139年(保延5年) に
鳥羽天皇 の第九皇子として誕生
父の 鳥羽上皇 の意向で
崇徳天皇 の譲位を受けて
わずか3歳(満2歳5か月)で即位した 崇徳天皇上皇

1143年 (康治2年) 源 朝長 誕生

河内源氏の棟梁 源義朝 の次男として誕生。

母は 波多野義通 の妹。

源頼朝 の異母兄。

平治の乱 にて敗死。(享年 17)

1147年( 久安3年) 4月 源 頼朝 誕生

出生

河内源氏 の棟梁 源義朝 の三男として誕生。

母は由良御前

平治の乱

1160年 (平治元年) 1月の 平治の乱 において 父 義朝は敗死し 頼朝 (14歳) は伊豆国に配流となる。

伊豆の流人

1177年(安元3年) に 頼朝 (31歳) は 北条政子 (20歳) と結婚した。

挙兵

1180年 (治承4年) に 以仁王 が平家追討の令旨を発した。

同年8月に 頼朝 (34歳) は伊豆国で挙兵した。

1180年(治承4年) 8月 の 石橋山の戦いにおいて 頼朝軍は 平氏軍( 大庭景親 )に敗れ 頼朝安房国へ脱出する。

坂東平定

1180年(治承4年) 8月29日に 頼朝安房国へ上陸した。

頼朝安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集する。

同年 10月6日に 頼朝 は かつて父・義朝の住んだ鎌倉へ入る。

義仲との戦い

1180年(治承4年) 9月に 源義仲 (26歳) が信濃国で挙兵する。

1183年 (寿永2年) 3月 頃に 頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。

両者の話し合いで 義仲の嫡子 義高 (11歳) を頼朝の長女 大姫 (6歳) の婿とする形で 実質的な人質として鎌倉に送ることで和議が成立した。

同年 7月 に 平宗盛 以下 平氏一門は 安徳天皇三種の神器 を奉じて 西海に逃れる。

7月28日に 源義仲源行家とともに 入京する。

後白河法皇 は 勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家とした。

同年10月 に 「頼朝による東国支配権を認める」 寿永二年十月宣旨 が発せられる。

同年 11月 の 法住寺合戦 において 義仲 が 法住寺殿 を襲撃して 後白河法皇後鳥羽天皇 を幽閉した。

翌 1184年 (寿永3年) 1月 の 宇治川の戦いにおいて 頼朝 から派遣された 範頼義経 の軍が 義仲軍を破り 義仲は敗走した。

直後の 粟津の戦い において 範頼・義経軍は 義仲 を討ち取る。(享年31)

頼朝は鎌倉に在った 義高 の処刑を考えた。

これを知った 大姫 が義高に伝えたため、4月21日に義高は女房に扮して鎌倉を逃れた。

頼朝堀親家 に命じて追手を差し向け、 24日に武蔵国 入間川原 で義高を討った。(享年12)

平家追討

1184年 (寿永3年) 2月に 範頼義経 は、平家を追討すべく京を発つ。

同年 3月 の 一ノ谷の戦い において 範頼・ 義経軍が 平氏軍( 平知盛平忠度 ) に大勝する。

1185年 (元暦2年) 2月 の 屋島の戦い において 義経軍は 平家( 平宗盛 )を海上へと追いやった。

同年 2月 の 葦屋浦の戦い において 範頼軍は原田種直 らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした。

同年 4月の 壇ノ浦の戦い において 範頼・ 義経軍が 平氏軍( 平宗盛 )を破り 平氏は滅亡する。

義経追放

1185年 (文治元年) 4月 に 義経の補佐を務めた 梶原景時 から、義経を弾劾した書状が届く。

4月15日 に 頼朝 は自由任官の禁止令に違反し内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らの任官を罵り東国への帰還を禁じる。

景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入る。

同年5月に、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。

同年6月に、義経は 壇ノ浦で捕らえた 平宗盛 父子を伴い相模国に凱旋する。

頼朝義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。

腰越 に留まる義経は、許しを請う 腰越状 を送るが、 頼朝 は帰洛を命じる。

義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。

これを聞いた 頼朝 は、義経の所領を全て没収した。

同年8月に、頼朝 は叔父・行家の追討を 佐々木定綱 に命じた。

同年9月に 京の義経の様子を探るべく 梶原景季 を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請に、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。

同年10月に、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた 頼朝 は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の 土佐坊昌俊 を京に送る。

10月17日に、頼朝の命を受けた土佐坊らが京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢して襲撃は失敗に終わる。

義経は 土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を朝廷に求め、後白河法皇義経に宣旨を下した。

10月24日に、頼朝 は 源氏一門や多くの御家人を集め、父・義朝の菩提寺 勝長寿院 落成供養を行った。

頼朝 は 自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく 29日に鎌倉を発つと、11月1日に駿河国 黄瀬川 に着陣した。

対する義経は頼朝追討の兵が集まらず、後白河法皇に九州・四国の支配権を認めさせた後、 11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。

11月27日 の 河尻の戦い において 多田行綱 らの襲撃を受けこれを撃退する。

大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗する。

一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の 静御前吉野山で捕らえられている。

天下の草創

1185年 (文治元年) 11月8日に、 頼朝 は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。

11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。

11日に、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。

12日に、大江広元 は処置を考える頼朝に対して「 守護地頭 の設置」を進言した。

24日に 北条時政 は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。

「頼朝 に対し 諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可する」 文治の勅許 が発せられる。

近年は これをより 鎌倉幕府 の成立とする。

12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏 公卿 による朝政の運営、九条兼実 への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける。

1186年 (文治2年) 3月には 法皇の寵愛深い摂政の 近衛基通 を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。

4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、 頼朝 は貴族・院が陰で操っていることを察して憤る。

5月12日には 和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った。

11月、頼朝 は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意したりしている者がいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。

朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行うことになった。

京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ 藤原秀衡 の庇護を受けることとなった。

頼朝 は、諸国から争いの訴えなどを多く受けるようになり、また 平重衡 によって焼かれた東大寺の再建工事なども手がけた。

奥州合戦

頼朝 が次に目指したのは、河内源氏2代目棟梁 源頼義 による 前九年の役 の故事を奥州で再現することによって 河内源氏 の貴種性を確立し、頼朝を頂点とした武家秩序を全国の武士に確認させることだった。

頼朝 による奥州遠征によって日本の全66ヶ国から動員された武士たちは、 頼朝 による支配体制への服属かあるいは没落かの踏み絵を強いられることになった。

1186年 (文治2年) 4月には 藤原秀衡寿永二年十月宣旨 で獲得した東海道東山道支配権を理由に奥州から都に献上する年貢は 頼朝 が取り次ぐと申し入れ、秀衡もこれに応じた。

1187年 (文治3年) 10月に 藤原秀衡が没し、 1188年 (文治4年) 2月に義経の奥州潜伏が発覚すると、 頼朝藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。

1189年 (文政5年) 2月22日に 頼朝藤原泰衡 追討の勅命を朝廷への申請した。

同年 6月 の 衣川の戦い において 泰衡は 衣川館 に住む義経を襲撃して自害へと追いやった。(享年31)

同年 7月の 奥州合戦 において 頼朝軍が勝利し、 奥州藤原氏 が滅亡した。

泰衡 は敗走するが、 郎党の 河田次郎 に裏切られ、殺害された。(享年35)

9月22日に、頼朝 は 奥州支配体制を固めるため 葛西清重奥州総奉行 に任命すると、28日に平泉を発ち、翌10月24日に鎌倉へ帰着した。

この奥州合戦の終了で 1180年 (治承4年) に起きた 治承・寿永の乱 から続いていた内乱も終結を迎えることになる。

征夷大将軍

1189年 (文治5年) 11月に 朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、 頼朝按察使 への任官を打診され、さらに勲功のあった御家人の推挙を促されるが、 頼朝 は辞退した。

同年 12月の 大河兼任の乱において 頼朝足利義千葉胤正 らに出陣を命じ、 大河兼任 は討取られた。

頼朝伊沢家景陸奥国留守職に任命し、在庁官人を指揮させ、奥州への支配を強化した。

1190年 (建久元年) 10月に 頼朝 上洛すべく鎌倉を発つ。

平治の乱で 父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国 青墓 などを経て、 11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。

11月9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。

11月9日の夜、頼朝九条兼実 と面会して政治的提携を確認した。

12月14日、頼朝 は京都を去り29日に鎌倉に戻った。

1191年 (建久2年) 3月、鎌倉は大規模な火災に見舞われ、大蔵御所 やその周辺の御家人の屋敷などが多数焼失した。(建久2年の鎌倉大火)

同年 5月の 建久二年の強訴 において 頼朝延暦寺 に屈し 佐々木定綱薩摩国へ配流した。

1192年 (建久3年) 7月、頼朝征夷大将軍に任ぜられた。

富士の巻狩り

1193年 (建久4年) 5月に 頼朝御家人を集め駿河国で巻狩を行う。( 富士の巻狩り

5月16日、嫡男の 頼家 (12歳) が初めて鹿を射止めた。

その晩、山神・矢口の祭り が執り行われた。

5月28日に 御家人工藤祐経曾我祐成曾我時致の兄弟に討たれる。( 曾我兄弟の仇討ち )

「頼朝が討たれた」との誤報が鎌倉に伝わると、範頼は嘆く 政子 に対し「範頼がおります。何事も御心配は要りませぬ」と慰めた。

この発言が 頼朝 に謀反の疑いを招いたとされる。

6月17日に 範頼は伊豆へ流された。

入内政策と晩年

1195年 (建久6年) 2月 に 頼朝東大寺 再建供養に出席するため、 政子頼家大姫 ら子女達を伴って再び上洛した。

長女・大姫を 後鳥羽天皇 の妃にすべく、源通親丹後局接触し、大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行って朝廷工作を図った。

1196年 (建久7年) 11月 の 建久七年の政変 において 九条 兼実は一族と共に失脚する。

頼朝 はこれを黙認したとされる。

1197年 (建久8年) には 薩摩国大隅国などで 大田文 を作成させ、地方支配の強化を目指している。

同年 7月、大姫が病死。(享年20)

1198年 (建久9年) 正月に 頼朝 の反対を押し切って 後鳥羽天皇源通親 の養女 在子 が生んだ 土御門天皇 に譲位して上皇となり院政を開始。

通親は天皇外戚として権勢を強めた。

頼朝 は 引き続き次女 三幡 の入内を目指した。

三幡は 鎌倉にいたまま 女御の宣旨を受けたとされる。

1198年 (建久9年) 12月に 頼朝相模川 で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。

翌 1199年 (建久10年) 正月11日に出家、

正月13日に死去した。(享年53)

頼朝死後も三幡の入内工作は続けられた。

同年3月、三幡が病死。(享年14)

1147年 (久安3年) 平 宗盛 誕生

生い立ち

伊勢平氏 の棟梁 平 清盛 の三男として誕生。

母は 平時子

この時、清盛は30歳、時子は22歳、長兄の重盛は10歳。

1157年 (保元2年) 10月22日に 宗盛 は11歳で従五位下に叙せられている。

二条親政期

1161年 (平治2年) 12月に、宗盛遠江守となる。

前任者の 重盛 が伊予守に任じられたことによる後任人事だった。

翌 1161年 (永暦元年) 正月には、異母兄 基盛 と任国を交代して淡路守となる。

同年 2月には同母弟 知盛が武蔵守となる。

これらの国はいずれも清盛の知行国だった。

1162年 (応保2年) 10月 宗盛 は左馬頭となる。

前任者の 重盛は右兵衛督となる。

建春門院の猶子

1164年 (長寛2年) 4月、関白 近衛基実 と宗盛の妹 盛子の婚姻が成立すると、 宗盛重衡 とともに摂関家政所の別当になった。

1167年 (仁安2年) 5月に 清盛は太政大臣を辞任、重盛が平氏の棟梁となる。

同年8月、宗盛 は位階が上の叔父 頼盛 を超えて参議に補され、一門において重盛に次ぐ地位を確保した。

翌月、後白河上皇と寵妃平滋子(建春門院、宗盛の生母時子の異母妹)は熊野参詣を行い、重盛 宗盛 も付き従った。

この時、重盛が後白河上皇の供をしたのに対して、宗盛平時忠平親宗 (ともに時子と滋子の兄弟で、宗盛の伯父 ) らと並んで滋子の供をしている。

その頃、宗盛 は 生母時子の異母妹 平滋子 ( 建春門院) の猶子となる。

宗盛 は 滋子が女御・皇太后女院になった際には、家司・皇太后宮権大夫・女院別当となるなど一貫して滋子の側に仕え、妻に滋子の同母妹 清子 を迎えている。

1169年 (嘉応元年) 12月の 嘉応の強訴 で、後白河法皇は防御のために武士を招集する。

重盛が200騎、 宗盛 が130騎、 頼盛 が150騎を率いて集まる。

1170年 (嘉応2年) 12月、宗盛は中納言に昇進。

政権の動揺

1176年 (安元2年) 7月に滋子が死去したことで、今まで隠されていた平氏後白河法皇の対立はしだいに顕在化することになる。

最大の庇護者を失った 宗盛 は年末に権中納言を辞任する。

翌 1177年 (安元3年) 正月に重盛が左大将になったことに伴い、宗盛 は 空席となった右大将に任じられた。

同年6月の 鹿ケ谷の陰謀 にて 重盛は義兄の成親が関与していたことで面目を失い、政治的地位を失墜させた。

重盛が事実上の失脚状態となったことで 宗盛 が表舞台に立たざるを得ず。

翌 1178年 (治承2年) 4月、権大納言になる。

同年5月、中宮 徳子 の懐妊が明らかとなり、 翌月には 宗盛 の妻 清子 が乳母に選ばれた。

ところが、清子は腫物が悪化して 7月に死去してしまう。

この時、宗盛 は悲嘆のあまり右大将を辞任している。

11月に徳子が言仁親王 ( 後の安徳天皇 )を出産すると、ただちに親王宣下立太子が行われた。

宗盛 は右大将に復帰して 春宮大夫 となったが、すぐに大夫の地位を 花山院兼雅 に明け渡した。

妻の死後、宗盛 は政治への意欲を失ったらしく、 翌 1179年 (治承3年) 2月に 権大納言・右大将も辞任してしまう。

反乱と以仁王の挙兵

1179年 (治承3年) 6月に 盛子、7月に 重盛 が相次いで死去したことを契機に、後白河法皇はその荘園・知行国を没収した。

これに激怒した清盛は、11月14日に上洛して反乱を起こす。( 治承三年の政変 )

結果は、反平氏公卿・殿上人・受領の大量解官、後白河法皇の幽閉・院政停止であり、それらの措置を済ませると清盛は福原に引き上げた。

京都に残された 宗盛 は、相談もなく始まった反乱に困惑していたが後始末をつけねばならず、院近臣の追捕・所領の没収を行った。

この時に 以仁王 の所領を没収したことが、以仁王の挙兵の直接的な原因となる。

翌 1180年 (治承4年) 2月に 安徳天皇践祚して、高倉院政が開始される。

同年 4月には安徳天皇即位式が行われるが、その直後の5月に以仁王の謀反が明らかになった。( 以仁王の挙兵 )

5月16日、以仁王を匿う 園城寺との間で身柄の引渡し交渉が行われたが決裂となり、宗盛 以下10人の大将による園城寺攻撃が決定する。

26日、平氏軍が以仁王を討ち取ったことで乱は終息する。

30日、追討の賞として 宗盛 の子 清宗従三位に叙せられた。

清盛の孫では最初の公卿であり、 年長である 維盛資盛(ともに 重盛の子)を超えたことで、平氏嫡流が 小松家 ( 重盛 ) から 宗盛 に移ったことを示すものとなった。

反乱の激化と畿内惣官

6月に入ると、清盛は突如として 福原行幸 を強行する。

8月から全国各地で反乱の火の手が上がり、富士川の戦い で追討軍が大敗したという報告が届くと、宗盛 は還都を進言して清盛と激しい口論となり、周囲の人々を驚かせた。

従順だった宗盛までが反対意見を述べたことで、今まで押さえ込まれていた還都論は一挙に再燃する。

清盛も還都に同意せざるを得なくなり、23日に一行は福原を出発、26日に帰京した。

翌 1181年 (治承5年) 正月14日、容態が悪化していた 高倉上皇崩御する。

幼い 安徳天皇 は政務を執ることができないため、後白河法皇院政再開は避けられないものとなった。

同月 19日、高倉上皇の遺言と称して 宗盛畿内惣官の宣旨が下る。

これは五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波の9ヵ国にまたがる強力な軍事指揮権であり、軍事作戦遂行のために必要な諸権限を平氏が全面的に掌握することを公的に認めるものだった。

同年 2月、清盛は死去した。

清盛の死によって、宗盛平氏の棟梁の座を継いだ。

院政再開と追討続行

清盛の死後、宗盛後白河法皇に恭順する姿勢を示した。

院政の再開は認めても、清盛が生前に残した惣官体制により軍事的な権限は依然として平氏が掌握していた。

3月10日、重衡 率いる追討軍は 墨俣川の戦い源行家 を破り、美濃・尾張平氏の勢力下に入った。

東国の戦況が好転したことで、宗盛鎮西反乱 の鎮圧に乗り出す。

4月10日、宗盛 の強い推挙で 原田種直 が大宰権少弐に補され、 4月14日には 菊池隆直 追討宣旨が下される。

しかし、墨俣川の戦いの直後には早くも官兵の兵粮は尽き始め、6月には 横田河原の戦い城助職 が惨敗した。
、 7月には 北陸道でも反乱が起こり能登国目代が逃亡した。( 養和の北陸出兵 )

この頃の平氏は 貴族の所領を奪って武士に給与するという非常手段に出るものの、違背者が続出して効果はなかった。

このような中で、源頼朝後白河法皇に「全く謀叛の心なし。古昔の如く、源氏平氏相並び、召し使ふべきなり」と和平の密奏を行う。

戦乱の長期化は荘園領主にとって年貢納入の激減を意味したため、後白河法皇宗盛 に和平を打診した。

宗盛 は 和平案に一定の理解を示しながら、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」という清盛の遺言を盾に拒否している。

戦線の停滞

1181年 (治承5年) 8月になると 宗盛 は追討使として 平貞能を鎮西に派遣する。( 鎮西反乱 )

追討使として 平通盛経正を北陸に派遣する。( 養和の北陸出兵 )

8月14日に 北陸道追討宣旨が下り、京都にいる兵力だけでは反乱鎮圧が困難であることから、 藤原秀衡陸奥守、 城助職 が越後守となった。

北陸道平氏知行国が多く京都への重要な食料補給路であり、兵站地として確保しなければならない地域だった。

一方、後白河法皇平氏の傀儡となることを潔しとせず、勢力基盤の回復に努めていた。

、1181年 (養和元年) 4月に 安徳天皇 を八条頼盛邸から閑院に遷し、 11月に 徳子院号宣下を受けると殿上人を自ら清撰している。

翌 1182年 (養和2年) 3月には、 藤原定能藤原光能高階泰経 が還任して 壊滅状態だった院政派も息を吹き返した。

この年は 養和の飢饉の影響で大規模な軍事活動は行われず、内外の情勢は一種の膠着状態となる。

9月、宗盛権大納言に還任し、10月には内大臣となる。

北陸追討軍の壊滅

1183年 (寿永2年) 2月21日、安徳天皇 は初めて後白河法皇への 朝覲行幸 を行う。

この時、宗盛 は翌3月に追討使を発向させることを計画し、嫡子 清宗 の妻に 頼盛 の娘を迎えることで一門の結束を図っていた。

追討使の発向は遅れ、4月9日にようやく北陸征討が伊勢以下16社に祈願され、 4月17日、維盛 を総大将とする10万騎ともいわれる大軍が北陸道に下向する。

養和の北陸出兵 をはるかに上回る規模の動員である。

しかし、平氏が総力を結集して送り込んだ追討軍は 5月11日の 倶利伽羅峠の戦い と6月1日の 篠原の戦い で壊滅し、 これまで維持されてきた軍事均衡は完全に崩壊した。

敗軍は京都に逃げ帰り、6月6日に開かれた公卿議定は 伊勢・近江で敵軍を食い止めるしかないと結論を下している。

木曾義仲軍は6月13日には近江に進軍する。

宗盛 は鎮西から帰還する 貞能 の軍勢に期待していたが、貞能が京都に引き連れた軍勢はわずか1,000余騎に過ぎず、戦力にならなかった。

一門都落ち*

6月末、京都を守る最後の砦ともいえる延暦寺では、源氏に味方しようとする大衆と源平両氏の和平を模索する僧綱の間で対立が起こっていた。

平氏は、宗盛 以下公卿10人が「延暦寺平氏の氏寺に、日吉社を氏社とする」という起請文を連名で出し、延暦寺の懐柔に躍起となっていた。

義仲 軍が近江勢多に、行家 軍が伊賀国に到達したため、 平忠度 率いる100騎が丹波国に、 資盛貞能 率いる3,000騎が宇治を経て近江に向かう。

22日になると延暦寺の僧綱が下山して、義仲軍が東塔惣持院に城郭を構えたことを明らかにした。

丹波の忠度は撤退し、資盛・貞能は宇治で行家軍に行く手を阻まれ、摂津国河尻では 多田行綱 が船を差し押さえ、平氏の補給路を遮断していた。

宗盛 は一門の中核である 知盛重衡率いる3,000騎を勢多に、頼盛 を山科に投入するが、もはや京都の防衛は絶望的な情勢だった。

24日には、平氏後白河法皇安徳天皇を擁して西国に退去する方針は決定していたと思われる。

後白河法皇は25日未明、法住寺殿を脱出して延暦寺に向かう。

動転した 宗盛六波羅に火を放ち、 安徳天皇建礼門院近衛基通、 一族を引き連れて周章駆け出した。

しかし、3年前の 福原行幸 と異なり安徳天皇平氏に付き従う者は少なく、頼盛 や小松家( 重盛 ) は離脱の動きを見せ、同行していた基通も途中で引き返した。

後白河法皇は27日に京都に戻り、28日に「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下す。

ここに平氏は賊軍に転落することになり、味方を集めることが困難となった。

逃避行

宗盛 は一門を引き連れて、福原から海路を西へ落ち延びる。

目指す先は九州の 大宰府 だった。

大宰府日宋貿易の拠点として平氏が勢力を扶植していた地域であり、平氏の家人 原田種直 が現地の最高責任者・大宰少弐となっていた。

平氏は8月中旬には九州に上陸するが、豊後の臼杵、肥後の菊池は形勢を観望して動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。

特に豊後は院近臣 難波頼輔知行国であり、後白河法皇の命を受けた 緒方惟栄平氏追討の準備をして待ち構えていた。

惟栄が 重盛 の家人だったことから 資盛 が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。

平氏は10月には九州の地を追われ、再び海上を漂うことになった。

勢力回復

九州を追われた平氏は、阿波国 田口成良 の支援により何とか四国に上陸する。

この時、義仲 軍は 妹尾兼康 を討って備中国まで進出していた。( 福隆寺縄手の戦い )

10月、平氏軍は四国渡海を試みる 矢田義清) を 水島の戦い で破り、義仲軍の進撃を食い止める。

さらに後白河法皇頼朝 の提携を聞いた義仲が京都に急遽引き返すという幸運にも恵まれ、宗盛は屋島に内裏を建設して新たな本拠地とした。

これにより平氏は、東の屋島、西の彦島を押さえて瀬戸内海の制海権を掌握し、勢力回復に成功する。

宗盛は義仲軍が撤退すると反攻に転じ、閏10月中旬には早くも海を渡って備前国に進出する。

11月29日には 室山の戦い源行家 を破り、播磨国・室の津を支配下に置いた。

一方、法住寺合戦後白河法皇を幽閉した義仲は、頼朝と対決するため平氏との和平を模索するようになっていた。

12月頃から本格化した交渉は、結局は実現しなかった。

孤立無援となった義仲は、正月20日範頼義経 軍の攻撃により敗死する。( 粟津の戦い )

一ノ谷の戦い

平氏は 1184年 (寿永3年)の正月には福原に前線基地を設けて都をうかがうまでになったが、義仲の滅亡により頼朝軍と対峙することになった。

26日、頼朝平氏追討宣旨が下され、 範頼義経 の率いる平氏追討軍は正月末に西国へ下向した。

福原に陣営を置いた 宗盛 は、東の生田口に 知盛、 西の一ノ谷口に 忠度、 山の手の鵯越口に 平盛俊 を配備して、強固な防御陣を構築する。

福原は北に山が迫り、南に海が広がるという天然の要害であり、東西の守備を固めれば難攻不落と思われた。

2月5日、三草山の戦い資盛 が敗退すると、 宗盛 は山の手に増援として 平通盛教経 を向かわせて、北の守備も固めた。

しかし、2月7日の 一ノ谷の戦い平氏軍の一方的敗戦に終わり、宗盛 らは命からがら屋島に落ち延びる。

この戦いで平氏平忠度清房清貞知章通盛業盛経正経俊敦盛師盛 などの一門や、 有力家人の平盛俊 を失い、 再起不能ともいえる損害をこうむった。

また、小松家の 維盛資盛平氏本隊から離脱した。

屋島・壇ノ浦の戦い

一ノ谷の戦い で陸上兵力の大部分を失ったことで、平氏屋島彦島海上基地を生命線としてひたすら防御を固めた。

9月に 源範頼 軍が西国に侵攻すると平氏は陸上戦闘を回避し、水軍により断続的な攻撃を行うことで戦局を打開しようとする。

範頼軍は長門国に達したものの水軍力の不足から彦島を攻略できず、兵粮の欠乏や軍の士気低下に陥った。

2月に平氏の本拠地・屋島は背後から 義経 軍の奇襲を受ける。( 屋島の戦い )

屋島の防備は海上に向けられ陸上からの攻撃は想定しておらず、折りしも 田口教能 率いる平氏軍の主力は伊予国河野通信 討伐のため不在であり、防備は手薄だった。

屋島の内裏は炎上し、狼狽した 宗盛海上に逃れる。

時を同じくして九州に渡海した範頼軍に 原田種直 が撃破される。( 葦屋浦の戦い )

平氏は完全に包囲される形となった。

平氏彦島に残存兵力を結集して最後の戦いを挑んだが、3月24日、壇ノ浦の戦い で滅亡した。

知盛経盛教盛 ら一門が入水する中、 宗盛 は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の 清宗 とともに引き上げられ捕虜となった。

最期

4月26日、宗盛 は他の捕虜とともに帰京する。

浄衣を着た 宗盛 は、簾を上げた車に 清宗 と同車して、大路を渡された。

車は武士( 土肥実平伊勢義盛 )が厳しく警護し、見物人が群れを成して見送った。

5月7日、宗盛 、 清宗 は 義経 に連行されて鎌倉に向かう。

宗盛 は輿に、清宗は騎馬に乗り、5月16日、鎌倉に入った。

6月7日、宗盛 は敗軍の将として 頼朝 の前に引き出される。

頼朝は勝者として簾の中から宗盛を眺め、比企能員 に自らの言葉を伝えさせた。

6月9日、宗盛 は京都に送還され、21日に義経の命を受けた 橘公長 の手により、近江国篠原宿で斬首された。(享年39)

嫡男 清宗 、次男 能宗、その他男児二人も順次処刑され、宗盛 の男系血統は途絶えた。

1150年 (久安6年) 源 範頼 誕生

蒲冠者

河内源氏の棟梁 源義朝 の六男として誕生。

源頼朝の異母弟。

生母は遠江国 池田宿の有力者の娘と思われる。

生地は遠江国 蒲御厨 とされる。

生地より 「蒲冠者」とも呼ばれる。

養父は 藤原範季

父・義朝が敗死した 平治の乱 では存在を確認されず。

兄・頼朝のもとにいつ参戦したかは不明。

1183年 (寿永2年) 3月 の 野木宮合戦 において 範頼 (33歳) は援軍として参戦する。

大将軍代理

1184年 (寿永3年) 1月の 宇治川の戦い において 範頼 (34歳) は 頼朝の代官として 源義仲 追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、 先に西上していた 義経 (25歳)率いる軍勢と合流して参戦する。

範頼・義経軍は 義仲軍に勝利し 義仲は敗走する。

直後の 粟津の戦い において 範頼・義経軍は 義仲を討ち取る。

1184年 (寿永3年) 2月の 一ノ谷の戦いにおいて 範頼 は大手軍を率いて進軍し、 義経は搦手軍を率いて進軍した。

範頼・義経軍は 平家軍 ( 平知盛平忠度 ) に大勝する。

頼朝の名代である 範頼 は自身が前線で武功を上げるよりも義経以下の配下の諸将を指揮して武功を上げさせる役割を担っていた。

九州征伐

1185年 (元暦2年) 2月の 葦屋浦の戦い において 範頼 を総指揮官として鎌倉から東国武士の総領格( 北条義時三浦義澄 ら)をそろえた主力部隊を西上させ、 原田種直 らとの合戦に勝利して 九州上陸を果たす。

同年 3月の 壇ノ浦の戦い において 範頼・義経軍は 平氏を滅亡させる。

戦後

1185年 (元暦2年) 3月の 壇ノ浦の戦い の後、 範頼 は頼朝の命により、九州に残って神剣の捜索と平氏の残存勢力や領地の処分など、戦後処理にあたる。

同年 10月に、 鎌倉へ帰還した 範頼 は、父・義朝の供養のための 勝長寿院 落慶供養で源氏一門の列に並び出席している。

壇ノ浦の戦いの後、 義経は 兄の 頼朝と対立する。

1187年 (文治3年) 頃に 義経は 奥州 平泉 へ落ち延びて 藤原秀衡 の庇護下に入る。

秀衡の死後、 1189年 (文治5年) 6月 の 衣川の戦い において 藤原泰衡衣川館 を襲われ、義経は自害した。(享年31)

同年 7月 の 奥州合戦において 範頼 は 頼朝の中軍に従い出征した。

最期

1193年 (建久4年) 5月 の 曾我兄弟の仇討ち の折り、 *範頼 * は頼朝から謀反の疑いをかけられる。

同年 9月に *範頼 * は 伊豆国に配流され 死去した。(享年 44)

1153年 (仁平3年) 阿野 全成 誕生

河内源氏の棟梁 源義朝 の七男として誕生 。

母は 常盤御前

源頼朝 の異母弟。

平治の乱 で 父 義朝 が敗死したため、

7歳の時に 醍醐寺 にて出家させられる。

1180年 (治承4年)に 、以仁王 の令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下った 。

10月1日 に 下総国鷺沼の宿所で 兄の頼朝と対面を果たした。

頼朝の信任を得た全成は 武蔵国長尾寺を与えられる。

治承4年 11月に 北条時政 の娘で 北条政子 の妹である 阿波局 と結婚する。

1154年 久寿元年) 源義仲 誕生

略歴

河内源氏 の一族 源義賢 の次男として誕生。(幼名 駒王丸)

源頼朝 は 父の兄 義朝 の子 ( 従兄弟) 。

1155年 (久寿2年) 8月の 大蔵合戦 において 父 義賢は 父の兄 義朝 の長男 義平 に討たれる。

2歳の駒王丸 (義仲) は 畠山重能斎藤実盛 らの計らいで信濃国へ逃れる。

信濃国 木曽谷 にて、乳父 中原兼遠 の 庇護下に育つ。

1180年(治承4年) に 以仁王 の令旨によって 義仲 (26歳) は挙兵する。

1181年 (治承5年) 6月 の 横田河原の戦い にて 城 長茂 を破る。

1182年 (寿永元年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児を 北陸宮 として擁護する。

1183年 (寿永2年) 3月 に 義仲 は 嫡子 義高 (11歳) を人質として鎌倉の 源頼朝 へ差し出した。

1183年 (寿永2年) 5月 の 倶利伽羅峠の戦い、 同年 6月の 篠原の戦い にて 平氏の大軍を破り、 同年 7月 に入京する。

治安の回復の遅れと皇位継承への介入などにより 後白河法皇 と不和となる。

1183年 (寿永2年) 11月の 法住寺合戦 において 義仲法皇後鳥羽天皇を幽閉する。

1184年 (寿永3年) 1月の 粟津の戦い において 源範頼義経 の軍勢により 義仲 は討たれる。(享年 31)

1155年 (久寿2年) 8月 後白河天皇 即位 (29歳)

生涯

1127年 (大治2年) に 鳥羽天皇 の第四皇子として誕生。( 雅仁親王 )

母 は 藤原璋子

顕仁親王崇徳天皇 ) は同母兄。

躰仁親王 ( 近衛天皇 ) は異母弟。

親王時代

1141年 (永治元年)、鳥羽上皇崇徳天皇 (22 歳) に譲位を迫り、弟の体仁親王 (2 歳) を即位させた。( 近衛天皇 )

保元の乱・平治の乱

155年 (久寿2年)、 近衛天皇崩御する。(宝算 16)

雅仁親王 は 自身の第一皇子である 守仁親王が 即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位した。(後白河天皇)

1156年 (保元元年)、 鳥羽法皇崩御する。(宝算 53)

同年の 保元の乱 において 後白河天皇 (30歳) は 崇徳上皇(37歳) を讃岐国に配流する。

1158年 (保元3年) に 後白河天皇 (31歳) は 子の守仁親王 (15歳) に譲位する。( 二条天皇 )

1159年 (平治元年) の 平治の乱 において 院御所・三条殿が 藤原信頼源義朝 の軍勢によって襲撃され、 後白河院 は 内裏の一本御書所に幽閉される。

信西 は殺害され「信頼」が政権を掌握するが、 二条親政派と手を結んだ 平清盛 が武力で「信頼」らを撃破、後白河院政派は壊滅する。

後白河院 は 乱の最中、幽閉先を自力で脱出して 仁和寺 に避難した。

乱後、後白河院 は二条親政派の中心だった 大炊御門経宗葉室惟方 の逮捕を「清盛」に命じる。

二頭政治と法住寺殿造営

1160年 (永暦元年)、 後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、二頭政治が行われた。

同年 10月になると、後白河院 (33 歳) は 焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿 の造営に取り掛かる。

1161年 (永暦2年) 4月、完成した御所に移り住んだ。

二条親政の確立

1161年 (応保元年) 9月3日、平滋子後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の 高倉天皇 )を出産する。

15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の 平時忠藤原成親 らが二条帝により解官される。

これ以降、後白河院 (34 歳) は政治決定の場から排除され、国政は二条帝と 藤原忠通 の合議により運営されることになる。

3月には配流されていた 大炊御門経宗 が帰京を許され、 入れ替わるように6月23日、藤原実長の密告により二条帝呪詛の容疑で 源資賢平時忠流罪となった。

1165年 (永万元年)、二条帝 (23 歳) は 病状の悪化で 子の 順仁親王 (2 歳) に譲位した。( 六条天皇 )

7月28日に、二条帝は 崩御した。(宝算 23)

二条親政派の瓦解と憲仁親王擁立

1165年 (永万元年) 12月25日、後白河院 (38 歳) は 「憲仁」に親王宣下を行い、「清盛」を親王別当とする。

1166年 (永万2年) 7月に 「近衛基実」が急死すると、松殿基房 が新たに摂政・氏長者に任じられた。

主柱であった摂関家平氏後白河院政派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。

同年 10月、後白河院 は 「清盛」の協力を得て、「憲仁親王」の立太子を実現する。

院政開始と出家

1167年 (仁安2年) 正月、新しく建て替えられた 法住寺殿 は、儀式用の法住寺南殿、憲仁 の住む七条上御所、後白河院滋子の住む七条下御所などに区分され、政治の中枢として機能する。

同年 2月、六条天皇A9%E7%9A%87) (4 歳) から 叔父の憲仁親王 (7 歳) への譲位が執り行われた。 ( 高倉天皇 )

1168年 (仁安3年) 2月、「清盛」は政界から身を引き、福原に別荘を造営して退隠する。

1169年 (嘉応元年) 6月、後白河院 (39 歳) は 法住寺殿において出家、法皇 となる。

政権分裂と徳子の入内

1169年 (嘉応元年) の 嘉応の強訴 において 後白河院藤原成親 を擁護したのに対して、延平氏は非協力的な態度を取る。

1170年 (嘉応2年) 2月には 終息したものの、双方の政治路線の違いが浮き彫りとなった。

政権の強化・安定策として浮上したのが、 高倉帝 (10 歳) と清盛の娘の 徳子 (16 歳) の婚姻である。

同年 12月、入内定が法住寺殿で行われ、「徳子」は後白河院の猶子として入内することになった。

日宋貿易と寺社の統制

1170年 (嘉応2年)、後白河院 (43 歳) は清盛の進める 日宋貿易 に理解を示し、貴族の反対を抑えてその拡大に取り組んだ。

1172年 (承安2年) 9月に、宋から後白河院 と清盛に供物が届けられた。

1173年 (承安3年) 3月、左大臣 大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになった。

これ以降、日宋貿易は公的な性格を帯びて本格化していく。

後白河院日宋貿易と並んで、積極的に取り組んだのが寺社の統制である。

有力寺社はこの時期に 荘園領主 として発展し、各地で国司と紛争を引き起こしていたが、その中で特に強大だったのが「南都北嶺」と並び称された 南都 興福寺比叡山 延暦寺 だった。

1173年 (承安3年) 6月に抗争が激化し、後白河院 は紛争の調停に乗り出す。

同年 6月25日に 興福寺多武峯 を襲撃して、 藤原鎌足 の御影堂を焼き払った。

後白河院法勝寺 八講への「興福寺」僧の公請を停止し、「興福寺別当 尋範 らを解任した。

同年 11月3日に 「興福寺」は 処分撤回の強訴と延暦寺攻撃の方針を固める。

後白河院 は 大衆の説得を試みるが交渉は平行線をたどり、1月7日の 春日祭 は延引となる。

ここに至って 後白河院 は官宣旨を発し、 東大寺興福寺 以下南都15大寺ならびに諸国末寺荘園の 没官 という前例にない厳しい処罰を下す。

厳島御幸と安元の御賀

1174年 (承安4年) 3月16日、後白河院 (46 歳) は 安芸国 厳島神社 に参詣するため京都を出発、福原を経由して26日に到着した。

1176年 (安元2年) に 後白河院 は50歳を迎え、3月4日から6日にかけて 法住寺殿 で賀宴が催された。

6月に 女御の 滋子 が突然の病に倒れ、看護の甲斐もなく7月8日に薨去した。(享年 34)

相前後して 実妹高松院 (35 歳)、 孫の 六条上皇) (13 歳)、 義妹の 九条院 (45 歳) も死去しており、 賀宴の華やいだ空気は一変して政局は混迷に向かうことになる。

安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀

1177年 (安元3年) の 白山事件 において 後白河院延暦寺 武力攻撃の決意を固める。

直後の 鹿ケ谷の陰謀 において 平氏打倒の謀議が発覚し、 延暦寺攻撃は中止、首謀者の 西光 は斬首、藤原成親 は配流となる。

この事件により 後白河院 (50 歳) は有力な近臣を失い、政治的地位の低下を余儀なくされる。

鹿ケ谷の陰謀後の情勢

1177年 (安元3年)、17歳となった 高倉帝 が政治的自立の傾向を見せ始める。

弱体化したとはいえ院政も継続していたため、かつての二条天皇の時と同じく二頭政治となった。

11月12日、高倉帝の第1皇子が誕生する。( 言仁親王、のちの 安徳天皇 )

12月15日に 立太子の儀式が六波羅で挙行され、春宮坊平氏一門で固められた。

院政停止

1179年 (治承3年) 6月、「清盛」の娘の 盛子 が死去した。(享年 23)

同年 7月、「清盛」の嫡男の 平重盛 が死去した。(享年42)

同年 10月の除目にて 平重盛知行国・越前が没収されて院分国となり、 「清盛」の推挙する20歳の 近衛基通 を無視して、 「基房」の子でわずか8歳の松殿師家 が権中納言に任じられた。

1179年 (治承3年) の 治承三年の政変 において 「清盛」は 松殿基房師家 父子を罷免し、 後白河院 を鳥羽殿に幽閉し、 院政を停止した。

寺社勢力の反発

1180年 (治承4年) 2月に 高倉帝 (19 歳) は 子の 言仁親王 (3 歳) に譲位する。( 安徳天皇 )

3月になると高倉上皇は「清盛」の強い要請により、厳島神社 への参詣を計画する。

しかし上皇の最初の参詣は、 石清水八幡宮賀茂社春日社日吉社 のいずれかで行うことが慣例だったため、 宗教的地位の低下を恐れる 延暦寺園城寺興福寺 は猛然と反発した。

動乱の始まり

1180年 (治承4年) 5月 の 以仁王の挙兵 において 「清盛」が上洛して 短期間で鎮圧した。

同年 6月、「清盛」は敵対勢力に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、平氏の本拠地の 福原 への行幸を強行する。

後白河院 (53 歳) は 強制的に同行させられ、福原の 平教盛 邸に入った。

福原 での新都建設は準備不足のため難航し、貴族だけでなく 平氏一門、 高倉上皇延暦寺 からも反対の声が上がった。

同年10月の 富士川の戦い において 平氏軍は大敗する。

軍事情勢が極度に悪化したことから、「清盛」も還都に同意する。

11月23日に福原を出発した一行は、26日に京都に到着、後白河院六波羅泉殿 に入った。

11月30日、公卿議定が開かれ、後白河院政再開が決まる。

「清盛」は 後白河院院政を無条件で認めるつもりはなく、可能な限り 後白河院 の勢力基盤削減を図った。

同年12月の 近江攻防南都焼討 において 平氏
園城寺興福寺 を焼き払う。

1181年 (治承5年) に 「清盛」は 東大寺興福寺僧綱 以下の任を解いて寺領荘園を没収する。

高倉上皇と清盛の死

1181年 (治承5年) 正月12日に 高倉上皇 が危篤状態となり、 正月14日に 崩御した。(宝算 21)

正月16日、高倉院の遺詔により畿内惣官職が設置される。

これにより平氏は、後白河院政下で軍事的権限を行使することができるようになった。

同年2月に 「清盛」 は病に倒れ、後継者に三男の 宗盛 を指名した。

同年3月に 「清盛」 は死亡した。(享年 64)

その夜、 後白河院 (54 歳) は 今様 を舞い踊ったとされる。

院政の再開

181年 (治承5年)、 「清盛」の死後、「平宗盛」は 後白河院 に恭順する姿勢を示した。

後白河院 (54 歳) は公卿議定を開いて 東国追討の中断を決定する。

「宗盛」は 追討使として 平重衡 を下向させることを理由に、追討のための 院庁下文 を発給することを要求した。

後白河院 は反発したが、「宗盛」の圧力に屈して追討の「院庁下文」を発給する。

後白河院源頼朝 からの密奏を受けて「宗盛」に和平を打診する。

「宗盛」の拒絶により調停は失敗に終わる。

1182年 (養和2年) 3月に、後白河院 (55 歳) は 治承三年の政変 にて解官された 藤原定能藤原光能 らを還任する。

壊滅状態だった院政派が息を吹き返した。

しかし、九条兼実 に代表される貴族層は日和見的態度を取ったため、 後白河院 も一挙に主導権を握ることはできなかった。

叡山潜幸

1183年 (寿永2年) 4月17日、平維盛 を総大将とする10万騎といわれる大軍が北陸道に下向する。

しかし、追討軍は 5月11日の 倶利伽羅峠の戦い と、6月1日の 篠原の戦い で壊滅し、これまで維持されてきた軍事均衡は完全に崩壊した。

7月22日に 延暦寺の僧綱が下山して、木曾義仲 軍が東塔惣持院に城郭を構えたことを明らかにした。

7月25日未明に、後白河院 (56 歳) は 源資時平知康 だけを連れて輿に乗り法住寺殿を脱出、 比叡山 に登り、東塔「円融坊」に着御した。

後白河院の脱出を知った「宗盛」は六波羅に火を放ち、 安徳帝建礼門院近衛基通平氏一族を引き連れて周章駆け出した。

7月28日に、公卿議定が開かれ、平氏追討宣旨を下す。

ここに平氏は賊軍に転落し、 木曾義仲源行家 軍が官軍として京都を守護することになった。

新帝擁立と十月宣旨

1183年 (寿永2年) 7月、後白河院 (56 歳) は 木曾義仲源行家平氏追討宣旨を下すと同時に、 院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。

同年 8月6日に 後白河院平氏一門・党類200余人を解官すると、 8月16日に 院殿上除目を強行して、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んだ。

同年 8月20日高倉院 の第四皇子 尊成親王践祚する。( 後鳥羽天皇

関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。

「康定」が伝えた「頼朝」の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」というもので 朝廷を大いに喜ばせるものであった。

10月9日、後白河院 は 「頼朝」を本位に復して赦免、 14日に 寿永二年十月宣旨 を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。

法住寺合戦

1183年 (寿永2年) 閏10月に 木曾義仲平氏追討から 帰京する。

11月4日、源義経 の軍が 不破の関 にまで達した。

後白河院 は「義仲」に対して最後通牒を行う。

その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」というものだった。

同年11月の 法住寺合戦 において 「法住寺殿」は 木曾義仲軍の襲撃を受け、 後白河院 (56 歳) は 摂政 近衛基通 の五条東洞院邸に幽閉された。

平氏追討

1184年 (寿永3年) 1月 の 粟津の戦い において 源範頼義経 軍の攻撃で 木曾義仲 は敗死した。

後白河院 (57 歳) は 公卿議定を開き、 平宗盛追討の宣旨 と 義仲残党追捕の宣旨が下される。

同年2月の 一ノ谷の戦い において 源範頼義経軍は 平氏軍を壊滅させる。

平氏残党の蜂起

1184年 (寿永3年)、 平氏追討は一時中断となり、遠征軍の大半は鎌倉に帰還する。

同年 8月、後白河院 (57 歳) は 源義経 を、京都の治安維持を任務とする検非違使・左衛門少尉に任じた。

同年 8月の 三日平氏の乱 において 平信兼 が伊勢で謀反を起こした。 「義経」は 信兼の子 兼衡らを邸に呼び出して誅殺すると、反乱鎮圧のため伊勢に下向した。

京都を離れられなくなった「義経」に代わり、鎌倉に戻っていた 源範頼 が再び西国へ下向した。

平氏滅亡

1184年 (寿永3年)、 西国に下向した 源範頼 軍だったが、兵粮の欠乏・水軍力の不足・平氏軍の抵抗により追討は長期化の様相を呈した。

1185年 (元暦2年) 正月、危機感を抱いた 源義経後白河院 に四国に出撃することを奏上する。

同年 2月の 屋島の戦いにおいて 「義経」は 平氏の本拠地 屋島 を攻略する。

同年 3月の 壇ノ浦の戦い において 源範頼義経軍は 平氏を滅ぼした。

ここに5年近くに及んだ 治承・寿永の乱終結した。

4月4日、京都に平氏討滅の報告が届くと、 後白河院 (58 歳) は 高階泰経 を介して使者を関東に送り、「頼朝」の功績を称賛した。

4月27日、後白河院 は 「頼朝」を正四位下から従二位に叙し、 追討の指揮官である「義経」を院御厩司に任じた。

東大寺大仏開眼供養

1185年 (元暦2年) 7月 の 文治地震 において 余震が続いたことから、8月14日に 文治改元された。

同年 8月、後白河院 (58 歳) は 大仏開眼供養 のため、東大寺 に御幸する。

後白河院正倉院 から天平開眼の筆を取り出すと、柱をよじ登って自らの手で開眼を行った。

頼朝の政治介入

1185年 (元暦2年) 10月になると 源義経源行家 の「頼朝」に対する謀叛が露顕する。

義経」は頼朝追討宣旨の発給を迫り、後白河院 (58 歳) はやむを得ず頼朝追討の宣旨を下した。

しかし宣旨は下されたものの兵は思うように集まらず、 11月3日、「義経」は京都を退去した。

その後、関東から武士が上洛して、院周辺は「頼朝」の報復に怯えて戦々恐々となった。

11月24日、北条時政 が千騎の兵を率いて入京する。

11月28日には「 守護地頭 」の設置が奏請され、 12月6日には 「天下の草創」として 九条兼実 への内覧宣下、 議奏公卿10名による朝政運営、 「行家義経に同意して天下を乱さんとする凶臣」である14名の配流・解官 を内容とする廟堂改革要求が突きつけられる。

朝幕交渉

186年 (文治2年) になると 後白河院 (59 歳) は 巻き返しに転じた。

2月には 熊野詣の費用を捻出するよう 北条時政院宣を下し、 3月には 平家没官領 である丹波国五箇荘を院領にするよう命じた。

7月に 大江広元 が上洛し、 院側の 丹後局 と折衝が重ねられた。

後白河院 の粘り強い対幕府交渉により、前年の「頼朝」の改革要求の大部分は事実上無効化されることになった。

戦後復興と奥州合戦

1187年 (文治3年) になると 朝幕関係は改善に向けて動き出した。

皇居である閑院内裏は 1185年 (元暦2年) の 文治地震 で破損が著しく、 大江広元 が上洛して幕府の全面的支援により修理作業が行われた。

修理は10月25日に完了し、11月13日に 後鳥羽天皇 の遷幸が実現する。

同じ頃、京都では群盗の出没が大きな問題となっていた。

検非違使庁 の機能低下もあり、後白河院 (60 歳) は治安回復のため 京都守護 一条能保 に「勇士等を差し、殊に警衛する」ことを命じた。

「能保」の報告を受けた「頼朝」は、ただちに 千葉常胤下河辺行平 を上洛させて、群盗鎮圧の任務に当たらせている。

1188年 (文治4年) 4月、院御所・六条殿が焼失する。

六条殿は院政の拠点であり、院分国・公卿知行国・幕府が分担して再建工事が進められた。

元の六条殿は 平業忠 の邸宅で四分の一町と手狭だったが、新造御所は一町に拡張された壮大なものとなり、院政の威信を示した。

「頼朝」の所課の屋々は特に丁寧であり、後白河院 を大いに喜ばせた。

1188年 (文治4年) 2月、「頼朝」は 藤原秀衡 の子に 義経追討宣旨を下すことを要請した。

「頼朝」の申請を受けて、 藤原基成藤原泰衡義経追討宣旨が下された。

1189年 (文治5年) 4月 の 衣川の戦い において 「頼朝」の圧迫を受けた 藤原泰衡源義経 を襲撃して自害に追い込む。

同年 7月 の 奥州合戦 において 「頼朝」は自ら軍を率いて 奥州 に発向し、奥州藤原氏 を滅ぼした。

頼朝との対面

1190年 (建久元年) 11月、「頼朝」は千余騎の軍勢を率いて上洛し、かつての平氏の本拠地の六波羅に新造された邸宅に入った。

11月9日、後白河院 (63 歳) と「頼朝」(43 歳) は 院御所・六条殿で初めての対面を果たす。

この日、後白河院 は 参議・中納言を飛ばして「頼朝」を権大納言に任じた。

11月14日、「頼朝」は京都を去り鎌倉に戻る。

1191年 (建久2年) 3月に 17か条の新制が発布されるが、その16条には「海陸盗賊放火」について「自今已後、たしかに前右近衛大将朝臣並びに京畿諸国所部官司等に仰せ、件の輩を搦めまいらしめよ」と記され、「頼朝」の諸国守護権が公式に認められた。

ここに武家が朝廷を守護する鎌倉時代の政治体制が確立することになる。

崩御

1191年 (建久2年)、幕府の支援により戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿の再建工事が始まった。

同年 12月、後白河院 (64 歳) は完成した御所に移り、 丹後局吉田経房 は「頼朝」に感謝する書状を送った。

ところが法住寺殿に戻ってすぐに、後白河院 は体調を崩す。

1192年 (建久3年) 3月13日、後白河院 は六条殿において崩御した。(宝算66)

1155年 (久寿2年) 源 義円 誕生

河内源氏の棟梁 源 義朝 の八男として誕生 。

母は 常盤御前

源頼朝 の異母弟。

墨俣川の戦い にて 敗死。(享年 27)

1155年 (久寿2年) 平 徳子 誕生

生涯

平清盛 の女として誕生。

母は 平時子

1172年 ( 承安元年) 12月に 徳子 (17歳) が 高倉天皇 (11歳) に入内する。

1178年 (治承2年)12月に 高倉天皇の第一皇子 言仁親王 ( 安徳天皇 ) 誕生。

1180年 (治承4年) 2月に 高倉天皇は3歳の言仁親王に譲位する。( 安徳天皇 )

1181年 (治承5年) 正月に 高倉上皇の病状は悪化の一途を辿り、崩御した。(宝算 21)

同年 11月に 徳子 (26歳) が院号宣下 (建礼門院)

1181年 (治承5年) 2月 に 平清盛 死去 (享年64)

1183年 (寿永2年) 7月 に 平宗盛 以下 平氏一門は 安徳天皇 (7歳) を奉じて 徳子 (28歳) とともに 西海に逃れる。

1185年 (元暦2年) 4月 の 壇ノ浦の戦い にて 平家が滅亡した。

安徳天皇 は入水し崩御した。(宝算8)

徳子 (30歳) は生き残り京へ送還されて出家した。

1186年 (文治2年) 4月 に 後白河法皇がお忍びで大原の徳子を訪ねたとされる。( 大原御幸 )

1214年 (建保元年) 1月に死去。( 享年59 )

1155年 (久寿2年) 8月 大蔵合戦

武蔵国 源義平 (14歳) が 大蔵館を襲撃し、源義賢秩父重隆 を攻め殺した戦い。

秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたものである。

1156年(保元元年) 7月 保元の乱

皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が 後白河天皇 方( 藤原 忠通源義朝平清盛 ) と
崇徳上皇 方 ( 藤原頼長源為義平忠正 )に分かれ、 双方の衝突に至った政変である。

後白河天皇方が勝利し、 崇徳上皇が配流された。

藤原頼長 (36歳)、 源為義 (60歳)、 忠正は 敗死。

戦後

後白河天皇方の 藤原 忠通は 藤氏長者 となり、 源義朝は 右馬権頭に, 平清盛は 播磨守に 補任された。

1157年 (保元2年) 北条政子 誕生

伊豆国の豪族
北条時政 の長女として誕生。

生涯

1177年(安元3年) 頃に 源頼朝 と結婚する。

1182年 (寿永元年) に 嫡男 頼家 が誕生する。

1199年(建久10年) に 源頼朝 が死去すると
政子は出家して尼になり「尼御台」と呼ばれる。

1219年 (建保7年) に 3代鎌倉殿で 子の 実朝 が死去する。

4代鎌倉殿として 摂関家から三寅 ( 藤原頼経 ) (2歳) を迎える。

三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、 「尼将軍」と呼ばれる。

1157年 (保元2年) 平 重衡 誕生

平清盛 の五男として誕生。

母は 平時子

平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討 を行って 東大寺 大仏や 興福寺を焼亡させた。

墨俣川の戦い水島の戦い で勝利して活躍する。

一ノ谷の戦い で捕虜になり、鎌倉へ護送された。

平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川 畔で斬首された。(享年 29)

1158年 (保元3年) 8月 二条天皇 即位 (15歳)

1143年(康治2年) に
後白河天皇 の第一皇子として誕生

祖母の 美福門院 の意向により
父の 後白河天皇 より譲位され
15歳で即位。

二条天皇を支える勢力として、 藤原伊通 (美福門院の従兄弟)、 藤原経宗 (二条の叔父)、 藤原 惟方 (二条の乳兄弟) らが集結して、二条親政派を形成した。

二条親政派と後白河院政派が対立する。

1159年 (平治元年) 12月に 平治の乱が起きた。

3月に 経宗・惟方が 後白河上皇の命により配流されて失脚する。

1160年 (永暦元年) 11月に 後見の美福門 院が死去するなど 二条親政派の要人が次々に消えて、二条天皇の立場は不安定となる。

二条天皇が頼みとしたのは、藤原伊通平清盛 だった。

伊通は 太政大臣として二条を補佐し、政道の意見書『大槐秘抄』を著した。

また 乳母 平時子従三位 典侍にするとともに、 時子の夫・清盛を検非違使別当中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。

1161年 (応保元年) 9月に
後白河上皇平滋子 の間に生まれた第七皇子( 後の高倉天皇 )を皇太子にしようとする陰謀が発覚すると、 二条天皇後白河院近臣の 平時忠平教盛藤原成親坊門信隆 を解官した。

1162年 (応保2年) に は叔父 藤原 経宗 を召還する一方、 自らを呪詛した 平時忠源資賢 を配流するなど着々と政治基盤を固めていった。

1165年 (長寛3年)(2月に 病に倒れた。

6月に 前年に生まれた実子の順仁親王六条天皇 ) の立太子を行うとその日のうちに譲位し太上天皇となる。

7月に 押小路東洞院崩御した。(宝算23)

1159年 (平治元年) 源 義経 誕生

誕生

河内源氏の棟梁 源義朝 の九男として誕生。(幼名 牛若)

母は 常盤御前

源頼朝 の異母弟。

平治の乱 で 父の義朝が敗死した。

その係累の難を避けるため、 牛若(2歳) は母の腕に抱かれて 2人の同母兄 今若( 全成 6歳)と乙若( 義円 4歳) と共に 大和国へ逃れる。

11歳の時に
鞍馬寺 へ預けられた。

1174年 (承安4年) 11歳の時に
奥州藤原氏宗主の 藤原秀衡 を頼って 平泉 に下った。

治承・寿永の乱

1180年(治承4年)8月に 兄 源頼朝伊豆国で挙兵する。

同年 10月に 黄瀬川 にて 義経 は 兄の頼朝と対面する。

1183年 (寿永2年) 7月 に 木曾義仲平氏( 平宗盛 ) を都落ちに追い込み 入京する。

後白河院平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とした。

後白河院は頼朝の入京を望む。

1183年 (寿永2年) 10月に 後白河院が「頼朝による東国支配権を認める」 寿永二年十月宣旨 を発した。

頼朝と義仲の対立は決定的となった。

同年 11月に 頼朝は 義経中原親能 を代官として都へ送った。

同月、 法住寺合戦 が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。

翌 1184年 (寿永3年) に 範頼 が東国から援軍を率いて 義経 と合流する。

同年 1月の 宇治川の戦いにおいて 範頼・義経軍は義仲軍を破り 義仲は敗走する。

直後の 粟津の戦い において 範頼・義経軍は義仲をは討ち取った。

平氏は西国で勢力を回復し、福原 まで迫っていた。

同年 2月に 義経 は、範頼とともに平氏追討を命ぜられる。
、 範頼・義経軍は 軍勢を二手に分け、 範頼は大手軍を率いて西国街道義経 は搦手軍を率いて丹波路を進む。

同年 3月の 三草山の戦い において 義経 軍は 平資盛 らを撃破する。

直後の 一ノ谷の戦い において 義経鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲し、 平氏軍 ( 平知盛平忠度 ) は大混乱に陥り、範頼・義経軍の大勝となった。

一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経 は 京に留まって都の治安維持にあたる。

1185年 (寿永4年) 2月の 屋島の戦い において 義経 は 暴風雨の中を少数の船で出撃し、 讃岐国 屋島 を奇襲し、平氏 ( 平宗盛 ) を敗走させた。

同月の 葦屋浦の戦い において 範頼は 九州へ渡ることに成功し、長門国 彦島 に拠る平氏の背後を遮断した。

同年3月の 壇ノ浦の戦い において 義経 は水軍を編成して 彦島 に向かい、壇ノ浦 にて平氏を滅ぼした。

同年 4月24日に 義経 は京都に凱旋する。

頼朝との対立

平氏を滅ぼした後、義経 は兄・頼朝と対立する。

1185年 (元暦2年) 4月15日に 頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。

4月21日に 義経の補佐を務めた 梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。

義経 は、帰還を禁じる頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた 平宗盛清宗父子を護送して、鎌倉に凱旋しようとした。

しかし頼朝は 義経 に鎌倉入りを許さず、腰越満福寺に留め置き、 宗盛父子のみを鎌倉に入れた。

このとき、頼朝に対し自分が叛意のないことを示した書状が 腰越状 である。

頼朝は 京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく 梶原景季 を遣わし、かつて義仲に従った叔父 源行家 追討を要請した。

義経 は 憔悴した体であらわれ、自身が病にあることと行家が同じ源氏であることを理由に断った。

謀叛

1185年 (元暦2年) 10月 に 頼朝は 義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断して義経討伐を決め、家人 土佐坊昌俊 を京へ送った。

同月17日に 土佐坊らが京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。

義経 は、捕らえた土佐坊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。

頼朝が 父 義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。

同月29日に 頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、 義経 は西国で体制を立て直すため 行家 と共に九州行きを図った。

同年 11月の 河尻の戦い において 多田行綱 らの襲撃を受けこれを撃退する。

大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗する。

11月25日に 義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。

義経は わずかな郎党とともに逃走する。

行家は 和泉国 日向権守清実の屋敷に潜伏する。

翌 1186年 (文治2年) 5月に 行家は 北条時定 の手兵によって討ち取られる。(享年45)

1187年 (文治3年) 頃に 義経 は 奥州 平泉 へ落ち延びて 藤原秀衡 の庇護下に入る。

最期

1187年 (文治3年) 10月に 藤原秀衡 は病没した。(享年65)

頼朝 は 後を継いだ 藤原泰衡 に、義経を捕縛するよう圧力をかけた。

1189年 (文治5年) 6月 の 衣川の戦い において 藤原泰衡衣川館 を襲われ 武蔵坊弁慶 ら郎党は討死し、 義経 は、一切戦わず 正妻の 郷御前 と4歳の娘を殺害後、 自害した。(享年31)

1159年 (平治元年) 平 維盛 誕生

伊勢平氏の棟梁 平清盛 の嫡子 平重盛 の嫡男として誕生。

治承・寿永の乱 において大将軍として出陣するが、 富士川の戦いで敗北し、 倶利伽羅峠の戦いでは壊滅的な敗北を喫する。

父 重盛 の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水したとされている。

1160年 (平治元年) 平治の乱

院近臣らの対立により発生した政変である

後白河院 の近臣
信西
藤原信頼 が対立し、

平清盛 軍と
源義朝 軍の合戦となる。

清盛軍が勝利し、
義朝軍は敗走する。

信西の執政

保元の乱 に勝利した 後白河天皇
1156年(保元元年) に
保元新制を発令した。
その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である 信西 であった。

平氏一門の台頭

信西 は 国政改革推進のため、北面武士平清盛 を厚遇する。

二条親政派の攻勢

東宮・守仁( 二条天皇 ) の擁立を図る勢力(二条親政派)が形成される。
美福門院
藤原経宗 (二条の叔父) 藤原惟方 (二条の乳兄弟)

1158年 (保元3年) 8月4日、信西と美福門院の協議により後白河天皇守仁親王に譲位した(二条天皇)。

ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。 二条親政派は 藤原経宗 藤原惟方 が中心となり、 後白河の政治活動を抑圧する。

信頼の登場

後白河は 近衛天皇 急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであり、
自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。

後白河は、藤原信頼 を抜擢する。

後白河の近臣としては他にも、藤原成親源師仲 が加わり院政派の陣容も整えられた。

反信西派の形成

二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致した。

三条殿襲撃

1160年 (平治元年) 12月に 清盛 が熊野参詣にき京都に軍事的空白が生まれた。

12月9日深夜に、
信頼と 信頼に同心した 源義朝 らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。

源頼朝 は 父 源義朝 に従い13歳で初陣を果たす。

翌10日に、
信西 の子息 俊憲貞憲成憲脩憲 が捕縛された。

信西山城国田原に逃れるが、13日に 自害した。

14日に、
信頼 は 内裏に二条天皇後白河上皇を確保して政権を掌握した。

信頼は、臨時除目を行った。

この除目で源義朝は播磨守、嫡子・頼朝は右兵衛権佐となった。

二条天皇の六波羅行幸

17日、平清盛 は帰京する。

三条公教 は信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。

公教と惟方により二条天皇六波羅行幸の計画が練られる。

25日夜、後白河は 仁和寺 に脱出した。

26日丑刻、二条天皇は清盛の邸である 六波羅 へ移動する。

信頼・義朝の追討宣旨が下され、 清盛は官軍となる。

六波羅合戦

26日、
清盛軍 と信頼・義朝軍 は 六波羅 で合戦となる。

清盛軍が勝利し
信頼・義朝軍 は敗走した。

後白河院政派の壊滅

信頼は 首謀者として処刑された。

成親は 助命され 解官されるに留まった。

師仲は 下野国への配流された。

源義朝 は敗走中に 家人の 長田忠致 に裏切られ 殺害された。(享年38)

源頼朝(13歳) は助命され伊豆国に配流された。

後白河院政派は事実上壊滅する。

経宗・惟方の失脚

二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。

正月6日に 後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。

後白河は激怒する。

3月11日に 経宗が阿波、惟方が長門に配流された。

平氏政権の成立

平氏一門 の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。

平氏一門 は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め、政治への影響力を増大させた。

清盛 はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、
6月に 正三位に叙され、8月に 参議に任命され、
武士で初めて公卿の地位に就いた。

1163年 ( 長寛元年) 北条 義時 誕生

青年期

伊豆国の在地豪族 北条時政 の次男として誕生。

母は 伊東祐親 の娘。

義時 が15、6歳の頃に 姉 政子 は、伊豆の流人であった 源頼朝 の妻となった。

義時 が数え18歳となる180年 (治承4年) 8月、父・時政、兄 宗時と共に頼朝の挙兵に従う。

同月の 石橋山の戦い において 大庭景親 に敗北し、宗時が戦死する。

頼朝は 土肥実平 らと共に箱根山から真鶴半島へ逃れ、 真鶴岬 から出航して安房国に脱出した。

時政・義時親子は 甲斐国へ向かい 甲斐源氏 と行動を共にする。

同年10月に 「源頼朝」は 安房国で再挙し、 進軍しながら東国武士がこれに参集して 鎌倉に入る。

同年10月の 鉢田の戦い において 甲斐源氏( 武田信義 ) は 平氏( 橘遠茂 ) に勝利し 時政・義時と共に駿河に進攻する。

同年11月の 富士川の戦い において 源氏( 武田信義源頼朝 ) は 平氏( 平維盛 ) に勝利する。

その後、時政・義時親子は「頼朝」の下に戻る。   

1185年 (元暦2年) の 葦屋浦の戦いにおいて 義時 (22歳) は 源範頼 率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、武功を立てた。  

1189年 (文治5年) 7月、義時 (26歳) は 奥州合戦 に従軍。   

権力闘争   

1199年 (建久10年) の 頼朝の死後、 義時 (36歳) は 跡を継いだ 二代鎌倉殿 源頼家 の下で政務を談合する 十三人の合議制 の一員となった。

同じく一員であった父の時政と共同歩調を取る。

同年 9月 の 比企能員の変 において 「時政」は 頼家の乳母父で舅である 比企能員 を自邸に呼び出して謀殺。

「時政」は 頼家の嫡子 一幡 の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼし、次いで頼家の将軍位を廃し、伊豆国 修禅寺 へと追放した。

そして頼家の弟で、娘の 阿波局 が乳母を務めた12歳の 実朝 を3代将軍に擁立し、10月9日には大江広元 と並んで政所別当に就任し、実権を握った。

1205年 (元久2年) 6月の 畠山重忠の乱 において 「時政」は 娘婿の 平賀朝雅稲毛重成 の訴えを受けて、同じく娘婿でもある武蔵国の有力御家人である 畠山重忠 を謀反の罪で滅ぼした。

同年 閏7月 の 牧氏事件 において 義時 は 姉の 政子 と協力し、有力御家人 三浦義村 の協力を得て、父の時政と 父の継室 牧の方 を出家の上で伊豆国に追放。

義時 (42歳) は 政所別当 大江広元、頼朝の流人時代からの側近である 安達盛長 の嫡男 安達景盛 らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握ったが、その権力を自ら示すことには慎重であった。

1213年 (建暦3年) の 和田合戦 において 義時泉親衡の乱をきっかけとして幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった 和田義盛 を挑発して反乱に追い込み、これを滅ぼした。

義時 は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務するようになった。

実朝暗殺

1219年 (建保7年) 正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍 実朝頼家の子 公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。

義時 は実朝の脇で御剣役の予定だったが、当日白い犬をみたところ急に体調不良となり、源仲章 と交代して自邸に戻り、結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びた。

実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇は延期を申し入れた。

後鳥羽上皇 は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示したため、幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、7月に 頼朝の妹 坊門姫 の曾孫にあたる 九条道家 の子である三寅( 後の 藤原頼経 )を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。

三寅は当時生後1年余の幼児であり、ただちに征夷大将軍に任じられる状況にはなく、政務が取れるはずもなかった。

このため政子が「尼将軍」となり 鎌倉殿の地位を代行して政務を取り、義時 がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。

承久の乱

1221年 (承久3年) の 承久の乱 において 義時 (58歳) は 嫡男 泰時 を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を送り、 次男 朝時、 弟 時房 を大将軍として北陸・東山の三道から京へ上らせた。

幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。

5月21日に鎌倉を発した幕府軍木曽川宇治川の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧した。

幕府は乱の首謀者たる 後鳥羽上皇 以下に対して極めて厳しい態度を取り、 後鳥羽上皇隠岐島順徳上皇佐渡島に配流された。

倒幕計画に反対していた 土御門上皇 は自ら望んで土佐国へ配流された。

後鳥羽上皇の皇子の 雅成親王頼仁親王もそれぞれ但馬国備前国へ配流となった。

在位70日余りの 仲恭天皇 は廃されて 新たに 後堀河天皇 が立てられ、 親幕府派の公家 西園寺公経 らを中心として朝廷の再編成が行われた。

上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となった。

後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、後高倉院 に寄進されたが最終的支配権は幕府が握っていた。

公家政権の監視にあたる出先機関として 京都守護 にかえて 六波羅探題 が新たに京都に設置された。

京方の貴族・武士たちの所領3,000か所はすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。

最期

1224年 (元仁元年) に入ると、義時 は 自身の健康長寿などを願って3月19日から100日間の 泰山府君祭 を開始した。

同年 6月、義時 は62歳で死去した。

義時の死をうけて鶴岡八幡宮では神事を延期したが、これは将軍以外の死を原因としたものでは前例のないものだった。

また京都の朝廷も天下触穢を発し、洛中は30日間の触穢となった。

義時の没後まもなく 伊賀氏事件 と呼ばれる政変が起こり、継室の伊賀の方 やその一族の伊賀氏、娘婿の一条実雅 が排除される事態が発生している。

1164年(長寛2年)8月 崇徳上皇 崩御 (宝算45)

保元の乱 にて配流された讃岐国崩御する。(宝算 46)

後白河院崇徳上皇 の死を無視し、 国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。

怨霊伝説

1177年 (安元3年) に 安元の大火鹿ケ谷の陰謀 が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。

1176年 (安元2年) は 建春門院高松院六条院九条院 が相次いで死去している。

これらは 崇徳上皇 の怨霊のせいとされた。

精神的に追い詰められた後白河院は 怨霊鎮魂のため「保元の宣命」を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められた。

1184年 (寿永3年) には「保元の乱」の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。

崇徳上皇 の怨霊としてのイメージは定着し、 日本三大怨霊 の一人とされる。

陵・霊廟

宮内庁 : 白峯陵

白峯寺

1164年 (長寛2年)、崇徳上皇 が讃岐流刑地崩御し、遺詔により当寺上の稚児嶽上で荼毘に付され陵墓が造られた。

白峯神宮

1868年 (慶応4年)、明治天皇は 自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳上皇 の御霊を京都へ帰還させて白峯宮を創建した。

1165年 (長寛2年) 1月 後白河天皇 三十三間堂 創建

この地には 後白河上皇離宮として建てた 法住寺殿 があった。

上皇平清盛 に建立の資材協力を命じて 1165年 (長寛2年) 1月に完成したという。

1165年 (永万元年) 8月 六条天皇 即位 (2歳)

来歴

1164年 (長寛2年)に 二条天皇 の第二皇子 として誕生。

1165年 (永万元年) 8月に 父 二条天皇 が病気になり、 数え2歳で親王宣下立太子し、その日のうちに践祚した。

1168年 (仁安3年) 2月に 祖父 後白河上皇 の意向により、在位2年8か月で 叔父の 憲仁親王高倉天皇 ) に譲位した。

1176年 (安元2年) 8月 に 崩御する。(宝算 13)

1168年 (仁安3年) 2月 高倉天皇 即位 (8歳)

略歴

1161年 (応保元年) 9月に 後白河天皇 の第7皇子として誕生。

母は 平滋子

平清盛 は 母の姉 平時子 の夫。(義理の伯父)

六条天皇 は 父の兄 二条天皇 の子 (甥)

1168年 (仁安3年) 2月に 父の 後白河院六条天皇 を5歳(満3歳)で退位させ、 高倉天皇 が8歳で擁立された。

1172年 (承安2年) に 高倉天皇 (11 歳) は 平清盛と時子の娘(従姉に当たる)平徳子 (17 歳) を中宮に迎える。

1178年 (治承2年) 11月 に
中宮・徳子に皇子が誕生する。(のちの 安徳天皇 )

1180年 (治承4年) 2月 に 高倉天皇 (19 歳) は 子の 安徳天皇 (2 歳) に譲位する。

1180年 (治承4年) 8月に 後宮 坊門殖子 に 第四皇子が誕生する。( のちの 後鳥羽天皇 )

181年 (治承5年) 1月 に 高倉天皇 は 病に倒れ崩御した。(宝算 21)

1168年 (仁安3年) 三浦 義村 誕生

生涯

三浦氏の当主 三浦義澄 の次男として誕生。

母は 伊東祐親 の娘。

北条 義時 は 従兄弟 ( ともに 伊東祐親 の外孫 )

梶原景時の変・畠山重忠の乱・牧氏の変

1199年 (建久10年) 1月に 源 頼朝 が亡くなると、幕府内部における権力闘争が続発する。

その中で 義村 (31 歳) は中心的役割を果すことになる。

同年 11月の 梶原景時の変において 結城朝光 から相談された 義村和田義盛安達盛長 と相談の上、 梶原景時 を排除することを決断、有力御家人66人が連署した「景時糾弾訴状」を
将軍 頼家 の側近 大江広元 に提出した。

1205年 (元久2年) 7月の 畠山重忠の乱 において 義村 の命を受けた 佐久間太郎 らが 畠山 重忠 の子 重保由比ヶ浜 で取り囲み殺害した。

同年 8月の 牧氏の変 において 北条 政子 から相談された 義村北条 時政 邸にいた 将軍 源 実朝北条 義時 邸に連れて行った。

和田合戦・実朝暗殺

1213年 (建暦3年) 2月 の 泉親衡の乱 において 義村 の従兄弟で侍所別当であった 和田義盛 の息子の 義直義重 と 甥の 胤長 が関係者として捕縛される。

同年 5月 の 和田合戦 において 義村 は弟の 胤義 と相談して 直前で 和田義盛 を裏切り 執権 北条 義時 に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付く。

1219年 (建保7年) 1月に 将軍 源 実朝 が 兄 頼家 の子 公暁 に暗殺される。

公暁は 乳父の 義村 に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を持った使いを出し、 義村 は「お迎えの使者を差し上げます」と偽って討手を差し向けた。

待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害された。

承久の乱・伊賀氏事件

1221年 (承久3年) の 承久の乱 において 検非違使 として在京していた弟の 胤義 から決起をうながす書状を受けとるものの、 義村 は使者を追い返した上で義時の元に向かい「平判官胤義ガ今年三年京住シテ下タル状御覧ゼヨ」と事を 執権 北条 義時 に通報するという行動に出る。

軍議を経て出戦と決まると、 義村東海道方面軍の大将軍の一人として東海道を上る。

1224年 (元仁元年) )6月に、執権 北条義時 が病死する。 (享年 62)

義時の 継室 伊賀の方 が自分の実子である 北条政村 を執権にしようとする。( 伊賀氏事件 )

政村の烏帽子親であった 義村 はこの陰謀に関わるが、 北条政子 が単身で義村宅へ問いただしに訪れたことにより翻意し、釈明して二心がないことを確認、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。

幕府宿老

1225年 (嘉禄元年) 12月に 執権 北条泰時 の下、合議制の政治を行うための 評定衆 が設置され、義村 (57 歳) は宿老 としてこれに就任した。

1232年 (貞永元年) の 御成敗式目 の制定に署名した。

4代将軍 藤原頼経 は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村 は 子の 泰村 と共に近しく仕えた。

1238年 (暦仁元年) に 将軍 頼経が 鎌倉下向以来、初めて上洛するときに、 義村 は随兵36人を従えて 先陣を勤めている。

1239年 (延応元年) 12月、義村 死去。(享年 71)

1168年 (仁安3年) 後白河天皇 母恩寺 建立

後白河天皇が 母 待賢門院 の菩提を弔おうため建立。

1169年 (嘉応元年)嘉応の強訴

延暦寺の大衆が尾張国知行国藤原成親 の配流を求めて起こした強訴。

後白河法皇 は成親を擁護したが、

上流貴族や平氏の非協力的態度により事態は紛糾した。

後白河と平氏の政治路線の対立が、院政開始後に初めて表面化した事件である。

1173年 (承安3年) 源 義高 誕生

信濃源氏源義仲 の嫡男として誕生。

1177年(安元3年) 源頼朝と北条政子の婚姻

伊豆の在庁官人であった 北条時政 は、 平治の乱 で敗れ同地に流されていた 源 頼朝 の監視役であった。

時政が 大番役のため 在京中の間に 長女の 政子は頼朝と恋仲になってしまう。

1177年(安元3年) に 頼朝 (31歳) は 政子 (20歳) と結婚した。

北条氏は頼朝の重要な後援者となる。

1177年 (安元3年) 5月 安元の大火

平安京 内で起こった大火災。

経過

5月27日 亥の刻、樋口富小路付近で出火する。

里内裏 だった 閑院 にも火が迫ったため、 高倉天皇中宮 平徳子藤原邦綱 邸に避難した。

翌日辰の刻になっても 鎮火しなかった。

焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が 大内裏 で、京の三分の一が灰燼に帰した。

大内裏大極殿の焼亡は 876年 (貞観18年)、 1058年 (天喜6年) に次いで三度目であったが、再建されることはなかった。

1177年 (安元3年) 6月鹿ヶ谷の陰謀

後白河法皇 の近臣が、京都東山鹿ケ谷にある山荘で平家討伐の密議を行なった事件。

建春門院の死

1176年 (安元2年) 7月8日に
建春門院 が死去する。

母・建春門院の死により、皇子のいない 高倉天皇 の立場が不安定となった。

建春門院という仲介者を失ったことで、 高倉を擁する平氏後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。

白山事件

3月22日、
比叡山 延暦寺 の大衆が加賀守 藤原師高 の配流を求めて強訴を起こした。

後白河は 目代藤原師経備後国流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、 大衆は納得せず。

4月12日に
神輿を持ち出して内裏に向かう。

警備にあたった 平 重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出した。

4月20日に、
師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、 事件は決着する。

山門攻撃準備

後白河は白山事件を蒸し返し、

天台座主 明雲 の責任とした。

5月4日に 明雲を逮捕し 座主職を解任 伊豆国へ配流とした。

5月22日に 明雲は 源頼政 の兵に護衛されて京都を出発する。

23日に
近江国にて大衆2千人が護送の行列を包囲、明雲の身柄を奪回して比叡山に逃げ込んでしまった。

これに激昂した後白河は 重盛宗盛に対して坂本を封鎖して山門(延暦寺)そのものを攻撃するようにという命令を出した。

陰謀発覚

6月1日夜半、
清盛の西八条邸を 多田行綱がひそかに訪れ、西光 らが平氏打倒の謀議を行っていた事を密告した。

謀議を知った清盛は延暦寺攻撃を中止。

清盛は西光を捕縛し、全容を自供させた。

西光と 藤原成親 を首謀者とした。

西光は斬首された。

藤原成親重盛の妻の兄であり 一旦は助命されて備前国に配流されるが、後日 殺害された。

俊寛・基仲・中原基兼惟宗信房平資行平康頼 など参加者は処分された。

影響

重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、 妻の兄 が配流されて助命を求めたにもかかわらず 殺害されたことで面目を失い、 6月5日に 左大将を辞任した。

この結果、宗盛が 清盛の後継者の地位を確立した。

清盛は反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが 後白河の関係は修復不可能なものとなる。

1178年 (治承2年) 11月 安徳天皇 誕生

11月12日に
高倉天皇 の第一皇子として誕生。

母は 平 清盛 の女 平徳子

清盛は 皇子を皇太子にすることを 後白河 に迫り、
親王宣旨が下され言仁と命名され、
12月15日に、立太子した。

皇太子の後見人 東宮傅左大臣 藤原経宗 が任じられ、
春宮坊 は、平宗盛藤原 兼雅平重衡平維盛 など一門や親平氏公卿で固められた。

皇太子周辺から院近臣は排除され、後白河は 平氏に対して不満と警戒を強めることになる。

1179年 (治承3年) 7月 平 重盛 死去 (享年 42)

鹿ケ谷の陰謀を期に 重盛は気力を失い、 政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。

治承3年(1179年)2月に 病により家に籠もるようになる。

やがて再び吐血するなど病状が悪化したため、 5月25日に 出家した。

7月29日に 死去した。(享年42)

1179年 (治承3年) 11月 治承三年の政変

平清盛 が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院を幽閉して 院政 を停止した。

前夜

1177年 (治承元年) の 鹿ケ谷の陰謀 により後白河法皇平清盛の関係は危機的状況となったが、 この時は首謀者の 藤原成親 西光 の処刑にとどめ、後白河自身の責任は問わなかった。

治承2年(1178年)11月に 中宮 徳子高倉天皇の第一皇子を出産する。

清盛は皇子を皇太子にすることを後白河に迫り、12月9日、親王宣旨が下されて言仁 と命名され、 15日、立太子した。

皇太子の 東宮傅春宮坊は、平氏一門や親平氏公卿で固められた。

皇太子周 辺から院近臣は排除され、後白河は平氏に対して不満と警戒を強めることになる。

要因

6月17日に 清盛の娘である 白河殿盛子が死去する。

盛子は 夫 近衛基実の死後、摂関家領の大部分を相続していた。

盛子の管 理していた摂関家領は 基実の子 基通 もしくは、盛子が准母となっていた 高倉天皇が相続すると思われていたが、 後白河は 白河殿倉預に 近臣 藤原兼盛を任じて、 事実上その所領の全てを没収してしまった。

7月29日に 清盛の嫡男 重盛が死去する。

10月9日の除目で
院近臣の 藤原季能 が越前守となり、 重盛の知行国が没収されてしまう。

この日の人事で 関白 松殿基房 の子で8歳の 師家 が 20歳の 基通 を差し置いて権中納言になった

この人事は自らの娘 完子 を 基通 に嫁がせ支援していた清盛の面目を潰すものだった。

さらに 親平氏延暦寺 でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになった。

勃発

(1179年 (治承3年) 11月14日に
清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。

京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず騒擾を極めた。

15日に
諸国の受領の大幅な交替が行われ、平氏知行国は反乱前の17ヶ国から32ヶ国になった。

20日の辰刻に
後白河は 清盛の指示で鳥羽殿に移された。

鳥羽殿は武士が厳しく警護して 信西の子( 藤原成範 藤原脩範 静憲 )と女房以外は出入りを許されず 幽閉状態となり、後白河院政は停止された。

影響

後白河を幽閉して政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出した。

この時に国司が交替した 上総・相模では有力在庁の 上総広常 三浦義明平氏目代から圧迫を受け、 源頼朝 の挙兵に積極的に加わる要因となった。

1180年(治承4年) 治承・寿永の乱

1180年 (治承4年) から1185年 (元暦2年) にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、

平清盛 を中心とする 伊勢平氏正盛流 に対する反乱である。

以仁王の令旨

4月 に 後白河院 の皇子 以仁王平氏追討の令旨を下した。

源行家 は各地の源氏に挙兵を呼びかけた。

源頼朝の挙兵

8月に
源頼朝 (34歳) が 義父の北条時政 とともに挙兵し 石橋山の戦い

8月下旬に 武田信義 (52歳) が挙兵し 鉢田の戦い

源義仲の挙兵

9月に
源義仲 (26歳) が挙兵し 横田河原の戦い

1180年(治承4年) 4月 安徳天皇 即位 (3 歳)

略歴

1178年 (治承2年) 11月に 高倉天皇 の第一皇子として誕生。

母は 平清盛の娘の 徳子

1180年 (治承4年) 2月 に 父 高倉天皇から譲位され 数え年3歳 で践祚し、4月に 即位する。

幼帝の政治の補佐は外祖父たる「平清盛」が取り仕切った。

1183年 (寿永2年) 7月 に 源義仲 の入京に伴い、 平宗盛 以下平家一門に連れられ 三種の神器 とともに都落ちする。

安徳天皇 は 平家一門に連れられ 屋島 に行き、御所 も造られた。

安徳天皇 と 女官たちは この地に2年弱滞在した。

1185年 (寿永4年) 2月 の 屋島の戦い において 源義経 によって、平家は敗北し、 安徳天皇 と平家一門は海上へ逃れる。

同年 4月 の 壇ノ浦の戦い において 平家一門は滅亡し、安徳天皇崩御する。(宝算 8)

1180年(治承4年) 6月 以仁王の挙兵

治承・寿永の乱の一つ。

後白河天皇 の皇子 以仁王源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。

計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王(29歳) と頼政(76歳) は 宇治平等院 の戦いで敗死、早期に鎮圧された。

しかしこれを契機に諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である 治承・寿永の乱 が始まる。

1180年(治承4年) 6月 福原行幸

京都から摂津国福原安徳天皇高倉上皇後白河法皇行幸 が行なわれ、 ここに 行宮が置かれた。

1180年(治承4年) 9月 石橋山の戦い

治承・寿永の乱の諸戦役のひとつ。

源氏( 源頼朝 北条 時政父子 )と平氏政権勢力( 大庭景親 伊東祐親 )との間で行われた戦いである。

平氏軍が勝利し、 源氏軍は敗走する。

頼朝安房国へ脱出する。

山木館襲撃

[頼朝 (34歳) は 義父の北条時政 とともに挙兵を決意する。

占いによって 頼朝 は 8月17日をもって挙兵することを決める。

最初の襲撃は 伊豆目代山木兼隆 を討つこととした。

頼朝 は 山木の館を放火するよう命じ、それをもって襲撃の成否を確認したいと欲した。

8月17日 深夜、時政 率いる襲撃隊は 山木館に向かい進発。

山木館では 兼隆の郎従と激戦となり容易に勝敗は決しない。

北条館の 頼朝 は 山木館の方角を遠望するが火の手は上がらない。

焦燥した 頼朝 は 警護に残っていた 加藤景廉 に長刀を与え、これで兼隆の首を取り持参せよと命じた。

兼隆は 景廉によって討たれ、館に火が放たれた。

襲撃隊は払暁に帰還し、頼朝 は庭先で兼隆主従の首を検分した。

石橋山の戦い

8月20日頼朝 はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平 の所領の相模国 土肥郷まで進出。

23日、頼朝 は300騎をもって石橋山に陣を構えた。

谷ひとつ隔てて大庭景親の軍も布陣。

伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。

この日は大雨となり、 暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかる。

頼朝軍は大敗し、箱根山中へ敗走した。

頼朝安房国へ向かう。

北条時政 と二男の 義時甲斐国へ向かう。

嫡男の宗時 は別路を向かったが、宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にした。

由比ヶ浜の戦い

頼朝軍と合流すべく22日に 所領の三浦を出た 三浦義澄 率いる三浦一族は、 23日に 丸子川 の辺りまで来ていたが、豪雨による増水のために渡河できずにいたところ、頼朝軍の敗北を知り、 24日に引き返した。

引き返す途中、鎌倉の 由比ヶ浜畠山重忠 の軍勢と合戦となり、重忠軍は退却した。

1180年(治承4年) 9月 衣笠城合戦

治承・寿永の乱の合戦の一つ。

相模国三浦郡衣笠城 で起こった 平家方( 畠山重忠 )と 源氏方( 三浦義澄 )による戦い。

平氏方が勝利し、 衣笠城は落城、 三浦義明 は討死。(享年 89)

三浦義澄は安房国に脱出した。

関連

衣笠観光協会: 腹切松

伝説では、「義明」は 大雨の中を愛馬に鞭うって城外へ出て、清雲寺 に行き先祖の墓に別れを告げ、傘松の下で切腹したとされる。

満昌寺

1194年 (建久5年)、 源頼朝 が 討死した 「義明」 の菩提を弔うべく創建した。

1180年(治承4年) 9月 鎮西反乱

治承・寿永の乱における戦闘の一つ。

九州北部で起きた反平家豪族達の武力行動である。

経過

1180年 (治承4年) 9月に九州筑紫で肥後国の豪族 菊池隆直 による反乱が起きた。

この反乱に同じく肥後の武士である 阿蘇惟安、木原盛実なども加わった。

翌1181年 (治承5年) 2月には 反乱勢力は 大宰府 を焼き討ちした。

同年 4月 都の平家 (平 宗盛 ) は 筑前の親平家の豪族である 原田種直 を太宰権少弐に任じて、反乱勢力に当たらせたが、この任官も効果をなさず。

1181年 (養和元年) 8月 平家家人 平貞能鎮西 に下向し、反乱勢力の鎮圧に乗り出す。

貞能は約1年かけて鎮西の平定活動を行い、 最終的には 1182年 (寿永元年) 4月頃、菊池隆直が貞能に降伏して鎮西の反乱は一応の終結を見る。

1180年(治承4年) 10月 源頼朝 坂東平定

石橋山の戦い で敗れた源頼朝安房国で再挙し、
進軍しながら東国武士がこれに参集して 鎌倉に入る。

経緯

8月29日に 源頼朝安房国へ上陸した。

9月3日に 三浦義澄長狭常伴 を討ち 安房国を制圧する。

9月4日に 安西景益が参向し 頼朝は 再挙する。

13日に 安房国を出て上総から下総に向かう。

17日に 下総国府で 千葉胤頼 と合流する。

19日に 上総広常が大軍を率いて参上する。

10月2日に 太井 隅田 の両河を渡る。

武蔵国に入ると 足立遠元葛西清重 を加え、

畠山重忠河越重頼江戸重長 らも頼朝に従うことになった。

10月6日に かつて父の 義朝 の住んだ鎌倉へ入る。

1180年(治承4年) 10月 源頼朝 鶴岡八幡宮 遷す

(1063年 (康平6年)に 河内源氏2代目棟梁 源頼義 が 由比郷に 鶴岡八幡宮を創建。(由比若宮)

1180年(治承4年) 10月12日に 河内源氏後裔の 源頼朝 が 現在の地である 小林郷北山に遷す。

1180年(治承4年) 10月 鉢田の戦い

治承・寿永の乱における戦闘の一つ。

源氏軍( 武田信義 ) と 平氏軍 ( 橘遠茂 ) との間に起こった戦い。

源氏軍が勝利し 橘遠茂は 敗死する。

1180年(治承4年) 11月 富士川の戦い

治承・寿永の乱の諸戦役のひとつ。

駿河国 富士川 で 源氏の 源頼朝武田信義平氏平維盛 が戦った合戦である。

目立った交戦のないまま平氏が撤退して終結した。

頼朝の再挙

石橋山の戦い で敗れた 源頼朝安房国で再挙し、 進軍しながら東国武士がこれに参集して 鎌倉に入る。

甲斐源氏の挙兵

1180年 (治承4年) 8月頃には 武田信義安田義定甲斐源氏が挙兵して甲斐国を制圧した

追討軍の編成

9月1日 に 大庭景親より頼朝挙兵の報が、福原平清盛へもたらされた。

5日に 平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。

22日に 平維盛 を総大将とする追討軍が福原を出立した。

三者の布陣

10月13日に 追討軍は駿河国へ入った。

10月16日に 頼朝は平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を発する。

10月18日に 武田信義 率いる 2万余騎の甲斐源氏の軍勢は 富士川に布陣した。

同日夜に 頼朝は 黄瀬川 沿いに布陣した。

平家の撤退

20日甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。

平家方はその西岸に布陣した。

両軍が対峙したその夜、 平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行われないまま富士川の戦い終結する。

水鳥の羽音について

平氏撤退に関しては以下のような逸話が有名である。

その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。

それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。

水鳥の羽音に驚いた平家方は大混乱に陥った。

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、 平家方は総崩れになって逃げ出した。

黄瀬川の対面

合戦の翌21日に
黄瀬川 にて
源頼朝は 異母弟 源義経 と対面する。

戦後

頼朝はこのまま平家方を追撃して上洛しようと望むが、上総広常三浦義澄 らがこれに反対して東国を固めるよう主張した。

頼朝は東国武士たちの意志に逆らうことができず、鎌倉へ帰還した。

一方、官軍を派兵して大敗を喫したのは平安初期の蝦夷征伐以来なかったことで、この敗戦に平清盛は激怒した。

官軍敗北は 各地の反乱勢力の挙兵を誘発し、戦乱は東国のみに留まらず、全国規模の内乱に発展していく。

1180年(治承4年) 11月 金砂城の戦い

治承・寿永の乱のうちの一つ。

常陸国 金砂城 における ( 源頼朝 率いる軍と 常陸佐竹氏( 佐竹義政 佐竹秀義 ) との戦いである。

頼朝軍が勝利し 金砂城は落城 佐竹義政は敗死 佐竹秀義は敗走した。

1180年(治承4年) 12月近江攻防

治承・寿永の乱の一つ。

近江国における 近江源氏 ( 山本義経 柏木義兼 )、 園城寺 僧兵と 平家( 平知盛 ) との一連の戦闘。

平氏軍が勝利し 園城寺は焼き討ちされ 近江源氏は敗退する。

181年 (治承5年) 1月 南都焼討

平 清盛の命を受けた 平重衡平氏軍が、

東大寺

興福寺など

平氏政権に反抗的な態度を取る 奈良の仏教寺院を焼討にした事件。

1181年 (治承5年) 2月 平 清盛 死没 (享年64)

2月27日に 清盛は病に倒れた。

自分の死期を悟った清盛は、 三男の 宗盛 を後継者に指名した。

嫡男の 重盛は死去している。

閏2月4日に、 鴨川 東岸にある 側近の 平 盛国 の屋敷で死亡した。

8月1日に、 源頼朝 が密かに 後白河院平氏との和睦を申し入れたが、 宗盛は清盛の遺言として「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と述べてこれを拒否した。

1181年 (治承5年) 3月 墨俣川の戦い

治承・寿永の乱の一つ。

尾張美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において 源行家軍( 源行家 義円 ) と平氏軍( 平重衡 )との間で行われた戦闘である。

平氏軍が勝利し 源行家軍は敗走した。 義円 は敗死した。(享年 27)

1181年 (治承5年) 6月 横田河原の戦い

治承・寿永の乱の中の戦いの一つ。

信濃で挙兵した 源義仲 らの諸源氏に対して平氏方の越後の 城長茂 が攻め込んで発生した戦い。

源氏軍が勝利し
平氏軍は敗走する。

1181年 (治承5年) 7月 養和の北陸出兵

治承・寿永の乱の中の出来事の一つ。

1181年 (治承5年) 7月頃から 活発化した北陸反乱勢力に対する平家の追討活動である。

追討使として 平通盛平経正 が北陸に出陣するが撤退し膠着状態に。

1181年(養和元年) 養和の飢饉

治承・寿永の乱 の最中に発生した飢饉である。

1182年 (寿永元年) 8月 源 頼家 誕生

河内源氏の棟梁
源頼朝 の嫡男として誕生

1182年 (寿永元年) 11月 亀の前事件

11月10日、「頼朝」の妻 政子 は 継母の 牧の方 の兄である 牧宗親 に命じて 「頼朝」の 愛妾 亀の前 が住む 伏見広綱 の宅を破壊する 後妻打ち をおこなった事件。

11月12日、怒った「頼朝」は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。

これを知った 北条時政 は 義兄 宗親 への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。

1183年 (寿永2年) 3月 野木宮合戦

治承・寿永の乱の合戦の一つ。

下野国野木宮源頼朝らと 志田義広 らが争った合戦。

頼朝軍が勝利し 志田軍は敗走する。

1183年 (寿永2年) 3月 源義高と大姫の婚姻

源 頼朝源 義仲 は武力衝突寸前となる。 義仲が 嫡子 義高 (11歳) を人質として鎌倉へ差し出すことで、両者の和議が成立した。 頼朝の長女 大姫 (6歳) の婿という名目で鎌倉へ下った。

1183年 (寿永2年) 5月 倶梨伽羅峠の戦い

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

越中加賀国の国境にある倶利伽羅峠
源義仲 軍と 平維盛 率いる平家軍との間で戦われた合戦。

源義仲軍が圧勝し
平家軍は敗走する。

1183年 (寿永2年) 6月 志保山の戦い

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

能登国越中国の国境にある志保山で 源義仲 軍と 平忠度 率いる平家軍との間で戦われた合戦。

源義仲軍が勝利し 平家軍は敗走する。

1183年 (寿永2年) 6月 篠原の戦い

治承・寿永の乱の戦闘の一つ。

加賀国 篠原 において 源義仲 軍と平氏軍( 平維盛 斎藤実盛 )との間で行われた戦闘である。

源義仲軍が圧勝し
平氏軍は壊走 [斎藤実盛は敗死した。

平家軍は出陣した時の半数となって帰京した。

1183年 (寿永2年) 7月 源義仲の入京

7月に入り
源義仲が入京する可能性が現実味を帯びる。

平宗盛 以下 平氏一門は 安徳天皇 を奉じて 三種の神器 とともに 西海に逃れる。

7月28日に 源義仲源 行家とともに 入京する。

後白河法皇 は 勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家とした。

8月10日に 後白河は除目を行い 義仲 を従五位下・左馬頭・越後守に 行家を 従五位下・備後守に 任じた。

10月9日に 頼朝は 平治の乱 で止められた従五位下の位階に復された。

治安回復の遅れ

義仲に期待された役割は、平氏追討よりも京中の治安回復だった

養和の飢饉 で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。

義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重の守護を担当した。

京中守護軍は 源行家安田義定近江源氏などの混成軍であり、 義仲が全体を統制できる状態になかった。

9月に 後白河法皇は義仲を呼び出し、 治安の悪化を叱責した。

立場の悪化を自覚した義仲は 9月19日に 平氏追討に向かうことを奏上した。

1183年 (寿永2年) 9月 後鳥羽天皇 即位

経歴

1180年 (治承4年)に
高倉天皇 の第四皇子として誕生。 (尊成親王)

後白河天皇の孫で、安徳天皇 の異母弟に当たる。 

神器なき即位

1183年 (寿永2年) 7月に
平 宗盛安徳天皇神鏡剣璽 を奉じて 西国に逃れたため、

京に天皇が不在となる。

9月に
後白河法皇 により 神器無き新帝践祚が行われ、 4歳の尊成親王が 即位する。(後鳥羽天皇)

源義仲 皇位継承問題への介入

源義仲 は 新帝として [以仁王]の王子である北陸宮 を推挙する。

これは 伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となった。

治世

1192年 (建久3年) 3月までは、後白河法皇 による院政が続いた。

後白河院崩御後は 関白 九条兼実 が朝廷を主導した。

兼実は 源頼朝 への 征夷大将軍の授与を実現したが、 後に頼朝の娘の入内問題から 後鳥羽天皇 と関係が疎遠となった。

1196年 (建久7年) の 建久七年の政変 において 兼実の勢力は朝廷から一掃された。

院政

1198年 (建久9年)1月、後鳥羽(18 歳) は 土御門天皇に譲位し、以後、 土御門、 順徳仲恭 と 1221年 (承久3年) まで、3代23年間に亘り 太上天皇として 院政 を敷く。

1199年 (正治元年) の頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じた。

1201年 (建仁元年) の 建仁の乱 において 城長茂による幕府追討宣旨の要求も拒否し、逆に幕府の要求により長茂追討宣旨を下している。

1203年 (建仁3年) の 比企能員の変 において 幕府が 将軍 頼家 は死去したと偽って弟 千幡 の将軍就任を要請してくると それを認め、上皇 が自ら「実朝」の名乗りを定めた。

1207年 (承元元年) の 承元の法難 において上皇専修念仏 を停止して 法然親鸞 らを配流している。

1219年 (建保7年) に 将軍 実朝が甥の 公暁に暗殺された。

幕府は 親王 の下向を要請した。

上皇 は、皇子でさえなければ 摂関家 の子弟であろうと 鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示した。

承久の乱

1221年 (承久3年) の 承久の乱 において 後鳥羽上皇は、執権 北条義時 追討の官宣旨と院宣を出し、山田重忠 ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集したが、幕府の大軍に完敗し、 隠岐島 に配流された。

崩御

後鳥羽院隠岐に流される直前に出家して法皇となった。

1239年 (延応元年) 2月22日、配所にて崩御した。(宝算60)

1183年 (寿永2年) 10月 寿永二年十月宣旨

朝廷から 源頼朝 に下された宣旨。

頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したもの。

後白河法皇への抗議

当初は北陸道も含まれていたが後に 源義仲 の怒りを受けて除外された。

1183年 (寿永2年) 11月 水島の戦い

治承・寿永の乱の戦闘の一つである。

備中国水島において 義仲軍( 足利義清 )と平家軍( 平知盛 ) との間で 海戦が行われた。

183年 (寿永2年) 7月に 京を脱した平家は 讃岐の屋島 を拠点とした。

9月20日に 平家を追討するため、 足利義清が率いる義仲軍は 京を発して 屋島方面へ進軍していった。

11月17日に 水島付近で 平知盛が率いる平家軍と激突した。

海戦に慣れた平家軍が勝利し 義仲軍は 京都へ敗走した。 足利義は戦死した。

1183年 (寿永2年)11月 福隆寺縄手の戦い

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

備前国福隆寺縄手で起こった木曾義仲 軍 と平氏方の武将 妹尾兼康の戦い。

義仲軍が勝利し [妹尾兼康は敗死する。(享年 58)

1183年 (寿永2年) 11月 室山の戦い

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

播磨国室山に陣を構える平氏 軍 ( 平知盛平重衡 ) を、源行家 軍が攻撃して敗れた戦い。

平氏軍が勝利し 源行家は敗走する。

1183年 (寿永2年) 11月 法住寺合戦

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

源義仲 が 院御所・法住寺殿 を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、

後白河法皇後鳥羽天皇 を幽閉、
政権を掌握した軍事政変である。

義仲の帰京

水島の戦い で敗れた義仲に 「頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛する」という情報が飛び込んできた。

義仲は平氏との戦いを切り上げて、少数の軍勢で帰京する。

決裂

院周辺では 「頼朝軍が上洛すれば義仲など恐れるに足りない」と 義仲と対立するようになる。

義仲は 頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をしたが、

後白河は 「ただちに平氏追討のため西下せよ もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」 と通告した。

襲撃

19日 午の刻に 義仲は 法住寺殿を襲撃する。

1183年 (寿永2年) 後白河天皇 長講堂 建立

法住寺合戦 の際、 後白河天皇が 六条西洞院にあった 平業忠 邸に入り、そこを御所・六条殿とすると、その地に持仏を移して新たに持仏堂を建立し 「長講堂」と名付けた。

1184年 (寿永3年) 1月 宇治川の戦い

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

源義仲 と 鎌倉の 源頼朝 から派遣された 源範頼 源義経 とで戦われた合戦。

1183年 (寿永2年)12月に、
義仲は 後白河法皇 に強要して頼朝追討の院宣を発出させる。

翌寿永3年 1月に
頼朝は 弟の範頼、義経に義仲追討を命じた。

範頼は 頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、
義経とともに鎌倉より大軍を率いて西上する。

宇治川 で合戦。

頼朝軍が勝利し
源義仲は敗走する。

1184年 (寿永3年) 1月 粟津の戦い

治承・寿永の乱の1つ。

近江国粟津にて行われた 源義仲 と 鎌倉の 源頼朝 から派遣された 源範頼 源義経 とで戦われた合戦。

頼朝軍が勝利し 源義仲は戦死。(享年31)

1184年 (治承8年) 2月 三草山の戦い

治承・寿永の乱の合戦の一つ。

播磨国三草山 における 源義経 軍と 平資盛 軍による戦い。

正月末に 平氏追討の宣旨を受けた 源範頼源義経 が率いる源氏軍は平氏が拠点とする 福原 を目指して出陣した。

2月5日に 東西から挟み撃ちにするために軍勢を二手に分け、大手(福原の東方)を攻める範頼は西国街道を、搦手(福原の西方)を攻める義経丹波路を進む。

2月7日に 義経軍は平資盛軍と合戦になる。

義経軍が勝利し 平資盛軍は敗走した。

1184年(寿永3年) 3月 一ノ谷の戦い

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

摂津国 福原 および 須磨 で行われた

源氏 ( 源範頼 源義経 )と

平家( 平宗盛 ) の戦い。

源氏 軍が勝利し
平家は敗走した。

1183年 (寿永2年) 7月に
平家は 安徳天皇三種の神器 を奉じて都を落ち、西国に逃れた。

1184年(寿永3年) 1月に、
後白河法皇 は、 源頼朝 に 平家追討と平家が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。

同年3月に 開戦。

源氏 軍が勝利する。

平 忠度 は戦死。(享年41)

平 通盛 は戦死。(享年31)

平 業盛 は戦死。(享年15)

平敦盛は戦死。(享年16)

平 重衡 は捕らえられた。

後白河法皇平宗盛三種の神器との交換を交渉するが、拒絶された。

1184年 (元暦元年) 6月 源 義高 死去 (享年12)

1184年 (寿永3年) 1月に、 父 源 義仲粟津の戦い で討たれた。

父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた 義高の立場は悪化する。

同年 6月1日に、 源 頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。

頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った 大姫 は、義高を密かに逃がす。

しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は 堀親家 ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。

6月6日に、 藤内光澄 が義高を討ち取った。

義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。

1184年 (元暦元年) 7月 三日平氏の乱

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

1184年 (元暦元年) 7月から8月にかけて、前年の平氏都落ち後に、伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件。

1184年 (元暦元年) 11月 源頼朝 勝長寿院 建立

源頼朝 が父 義朝 の菩提を弔うために建立した。

頼朝は 後白河院 に依頼して義朝の首を探し出し、大江公朝によって鎌倉に届けられた。

現在は廃寺。

1185年 (寿永3年) 1月 藤戸の戦い

治承・寿永の乱における戦いの一つ。

備前国児島の 藤戸源範頼 率いる平氏追討軍と、平家の 平行盛 軍の間で行われた戦い。

平氏追討軍が勝利し 平氏軍は敗走する。

経過

一ノ谷の戦い で敗れた平氏は西へ逃れた。

平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前 備中 などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。

184年 (寿永3年) 10月、 源範頼 率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かった。

海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。

しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た 平行盛 によって兵站を絶たれた。

平行盛は 500余騎の兵を率いて備前児島の篝地に城郭を構えた。

追討軍の 佐々木盛綱 が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸に向かう。

波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。

盛綱は 武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路三丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落とした。

平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。

1185年 (元暦2年) 2月葦屋浦の戦い

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

源範頼 率いる平氏追討軍が筑前国葦屋浦で、九州の平家方の豪族 原田種直 らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした戦い。

経過

一ノ谷の戦い 後、屋島 に敗走した平家一門は、なお瀬戸内海一帯の制海権を握り勢力を保っていた。

1184年 (元暦2年) 8月に 源頼朝は 弟の範 頼を総指揮官として鎌倉から東国武士の総領格をそろえた主力部隊を西上させ、 9月1日、範頼率いる平氏追討軍が京を出発した。

1185年 (元暦2年) 正月12日、 周防国から平氏が拠る長門国赤間関に到達して九州へ渡海しようとしたが、彦島平知盛 軍に行く手を阻まれ、平氏追討もままならなかった。

平氏の兵を挙げていた豊後国の豪族 緒方惟栄 から兵船82艘の献上があり、 周防国の宇佐那木上七遠隆から兵糧米の提供を受け、 26日 に 豊後国へ船出した

この日渡海したのは 北条義時三浦義澄千葉常胤渋谷重国 らである

葦屋浦の戦い

北条義時、渋谷重国 が最初に上陸し、 1185年 (文治元年) 2月1日に 豊前国葦屋浦で平氏方の 原田種直と子の賀摩種益らの攻撃を受け合戦となる。

重国が種直らを討ち取った。

この合戦の勝利により、平氏の地盤であった長門豊前筑前は範頼軍に制圧され、わずかな海峡を隔てて彦島平氏は孤立させられた。

1185年 (元暦2年) 2月 屋島の戦い

  寿永の乱の戦いの一つ。

讃岐国 屋島 で行われた 源氏 ( 源義経 )と 平氏 ( 平宗盛 )の 戦いである。

義経摂津国の水軍 渡辺党熊野水軍 を味方につけた。

源氏方が勝利し 平家は長門 彦島 に逃れた。

那須与一 扇の的

2月20日夕刻、平家方から女官が乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射させようとした。

義経は 手だれの武士を探し 那須与一 が推薦された。

与一は海に馬を乗り入れ、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。

矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。

沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。

1185年 (元暦2年) 3月 志度合戦

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

源義経 軍の攻撃により 屋島 から敗走した平氏軍( 平宗盛 )が、讃岐国 志度道場 に立て籠もって義経軍の追撃を受けた戦い。

義経軍が勝利し 平氏軍は敗走した。

1185年 (元暦2年) 4月 壇ノ浦の戦い

治承・寿永の乱の戦いの一つ。

源氏軍 ( 陸: 源範頼、 海: 源義経 ) と 平宗盛平知盛 ) の戦闘。

源氏軍 が勝利し、
平家が滅亡した。

開戦

彦島平氏水軍を撃滅すべく、義経摂津国渡辺水軍伊予国河野水軍紀伊国熊野水軍 など840艘を味方につけた。

平氏軍は500艘で、松浦党 100余艘、山鹿秀遠 300余艘、平氏一門100余艘の編成であった。

3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻に 関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。

範頼軍は3万余騎をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。

平氏優勢

関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。

義経軍は 満珠島・干珠島 のあたりにまで追いやられてしまい、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

源氏の反攻と平氏滅亡

やがて潮の流れが反転し、義経軍は乗じて猛攻撃を仕掛けた。

平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決した。

敗北を悟った平氏一門の武将たち、女性たちが次々に自殺した。

安徳天皇二位尼 に抱かれ入水し崩御した。(宝算8)

平氏滅亡の様を見届けた 平 知盛は、海へ身を投げ自害した。(享年34)

平宗盛 (38歳) は死にきれずに泳ぎ回っていたところを 息子の 清宗 (15歳) とともに引き上げられ捕虜となった。

建礼門院 は生き残り捕虜となった。

午の刻には 平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは終結した。

戦後

源義経は京に凱旋し、
後白河法皇 はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させた。

これを知った 源頼朝 は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。

天叢雲剣非水没説

三種の神器のうち 八咫鏡八尺瓊勾玉 は回収されたが、 天叢雲剣安徳天皇とともに海に没したとされる。

一方、この時失われた天叢雲剣は、宮中の儀式に使われる形代であり、本物は 熱田神宮に保管されており失われていないという説もある。

1185年 (元暦2年) 5月腰越状

源義経 が兄の 源頼朝 に宛てたとされる手紙

義経は、壇ノ浦の戦い で捕らえた 平宗盛 清宗 父子を護送して、鎌倉に凱旋しようとした。

頼朝は 鎌倉入りを許さず、義経腰越 に留め置かれ、 宗盛父子のみを鎌倉に入れた。

このとき、頼朝に対し自分が叛意のないことを示した書状である。

宗盛父子は 頼朝に査問された後 7月19日に 断首された。

1185年 (元暦2年) 8月 文治地震

死者多数の この地震により、8月14日に 文治改元された。

1185年 (元暦2年) 10月 堀川夜討

源頼朝(38歳) と弟の 源義経 (26歳) が対立した。

頼朝は京にいる義経を誅するべく

10月9日に 土佐坊 昌俊 を京に派遣した。

17日に 昌俊は 京の六条堀川の義経の館を襲撃する。

昌俊は 義経の反撃により敗走したが、 捕えられ断首された。(享年44)

1185年 (文治元年) 11月 河尻の戦い

源義経 が兄 頼朝 と対立し、 九州へ下向するため京の都を退去し、大物浦 へ向かう道中の摂津国河尻 で 摂津源氏京武者 達の追撃を受け、これを撃退した戦い。

11月3日早朝に 義経は九州へ落ち延びるため同盟者や郎党の 平時実一条能成源有綱堀景光佐藤忠信伊勢義盛片岡弘経弁慶法師 ら200騎を率いて叔父 源行家豊後国の豪族 緒方惟栄 らとともに都を退去する。

4日に 河尻で 太田頼基 の軍勢に襲撃を受け、これを打ち破った。

5日夜に 大物浦から出航した義経の一行は暴風雨に遭って一艘も残らず難破し、九州行きは頓挫し一行は離散する。

義経は有綱、景光、弁慶、妾の 静御前 らわずかな郎党とともに 吉野山 へ逃げ込み、 その後1年あまり京の周辺に潜伏した。

1185年 (文治元年) 12月 文治の勅許

北条時政による奏請に基づき、 朝廷より 源頼朝 (38歳) に対し与えられた、

諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した勅許である。

近年は これをより鎌倉幕府 の成立とする。

1186年 (文治2年) 3月 武田 信義 死去 (享年 59)

3月31日に病死した とされる。

1186年 (文治2年) 5月 源 行家 死去 (享年45)

河尻の戦い の後

逃亡の末に 和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷に潜伏する。

翌文治2年(1186年)5月、 地元民の密告により露顕し、鎌倉幕府から命を受けた 北条時定 の手兵によって捕らえられ、 山城国赤井河原にて 長男 光家、次男・行頼とともに斬首された。(享年45)

1187年 (文治3年) 源義経 奥州平泉へ

源義経 ) (28歳) は 兄の 源頼朝 (40歳) と対立する。

義経 は 正妻の 郷御前 郎党の 武蔵坊弁慶 とともに 奥州 平泉 へ落ち延びて

藤原秀衡 の庇護下に入る。

1189年 (文治5年) 6月 衣川の戦い

陸奥国衣川館 で行われた

藤原泰衡 方と 源義経 主従による戦い。

1187年 (文治3年) に
源義経は 奥州 平泉にて 藤原秀衡 の庇護下に入る。

同年10月に 藤原秀衡 が死去すると、

源頼朝 は 後を継いだ 藤原泰衡 に、義経を捕縛するよう圧力をかけた。

藤原泰衡は 500騎の兵をもって衣川館にて10数騎の義経主従を襲った。

藤原泰衡方が勝利する。

武蔵坊弁慶 ら郎党は戦死。

義経は、一切戦わず持仏堂に籠り、 正妻の 郷御前と4歳の娘を殺害後、 自害した。(享年31)

1189年 (文治5年)7月 奥州合戦

鎌倉政権奥州藤原氏 との間で 東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。

鎌倉軍が勝利し、
奥州藤原氏が滅亡した。

藤原 泰衡 は敗走するが、 郎党の 河田次郎 に裏切られ、殺害された。(享年35)

この戦役により、源頼朝 (42歳) による武士政権が確立した。

1189年 (文治5年) 12月大河兼任の乱

1189年 (文治5年) 12月から 翌年3月にかけて、 鎌倉政権奥州藤原氏 残党である 大河兼任 らとの間で東北地方にて行われた戦いである。

鎌倉方が勝利し 大河兼任は敗死した。

1189年 (文治5年)北条時政 願成就院 創建

北条時政が、娘婿の 源頼朝奥州平泉討伐 の戦勝祈願のため建立したという。

ただし、寺に残る 運慶 作の諸仏はその3年前の 1186年 (文治2年) から造り始められており、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。

1191年 (建久2年)5月 建久二年の強訴

延暦寺の大衆が近江国守護 佐々木定綱の処罰を求めて起こした強訴。

概要

3月下旬に 延暦寺の傘下にある 日吉社 の宮仕数十人が、未進催促のため神鏡を奉じて荘園に押し寄せた。

定綱は在京して不在だったが、宮仕は定綱邸に乱入して家中の男女に暴行を加え放火に及んだ。

これに怒った定綱の次男・定重は郎従に命じて宮仕を切りつけるが、この際に誤って神鏡を破損させてしまった。

事件は佐々木氏と延暦寺の抗争から朝廷・幕府を巻き込む大事に発展した。

定綱は薩摩、その子息 広綱隠岐、定重は対馬、定高は土佐に流罪、下手人5人は禁獄となる。

1192年(建久3年)源頼朝 (46歳) 征夷大将軍

1192年 (建久3年) 3月 後白河法皇 崩御 (宝算66)

3月13日 六条殿においてで崩御した。(宝算66)

陵・霊廟

宮内庁 : 法住寺陵

法住寺 (京都市)

後白河院 の御所「法住寺殿」の名を引き継いだ寺院。

三十三間堂

1165年 (長寛2年) 後白河天皇 創建

母恩寺

1168年 (仁安3年) 後白河天皇 建立。

長講堂

1183年 (寿永2年) 後白河天皇建立。

1192年 (建久3年) 9月 源 実朝 誕生

河内源氏の棟梁 源頼朝 の次男として誕生

1193年 (建久4年) 5月 富士の巻狩り

源頼朝が多くの御家人を集め駿河国富士山麓藍沢 富士野 にて行った壮大な 巻狩 である。

源頼家の初鹿狩り

5月16日に 頼朝の嫡男頼家が初めて鹿を射止めた。

その日の晩、矢口祭 が執り行われた。

曽我兄弟の仇討ち

5月28日には 曾我祐成曾我時致の兄弟が 父親の仇である 工藤祐経 を討つ 曾我兄弟の仇討ちが起こった。

「頼朝が討たれた」との誤報が流れる。

新田四郎の猪退治

手負いの大猪が突然頼朝に向かって突進し、そばに控えていた 仁田忠常 がとっさに大猪に飛び乗り刀を5・6度突き刺し、これを退治した。

1193年 (建久4年) 9月 源 範頼 死去 (享年 44)

1193年 (建久4年) 5月に 曾我兄弟の仇討ち が起こり、

頼朝 が討たれた」との誤報が入ると、嘆く 政子 に対して範頼は 「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。

この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。

範頼は 伊豆国に配流され 死去した。(享年 44)

1194年 (建久5年) 源頼朝 満昌寺 創建

衣笠城合戦 にて 討死した 三浦義明 の菩提を弔うべく、頼朝 が義創建した。

1196年 (建久7年) 11月 建久七年の政変

九条兼実 が関白を罷免され失脚した事件。

1198年 (建久9年) 2月 土御門天皇 即位 (3歳)

1195年 (建久6年) 12月に
後鳥羽天皇 の第一皇子として誕生。

父の後鳥羽天皇の譲位により 3歳で践祚し即位。

1210年 (承元4年) 12月 に
父の後鳥羽天皇の意向により 異母弟の 順徳天皇に譲位し、 上皇となる。

1221年 (承久3年) の承久の乱 のおりには、 自ら申し出て 土佐国 に流された。

後に、より都に近い 阿波国 に移された。

1231年 (寛喜3年) 10月に出家し、同月 崩御した。(宝算 37)

1199年 (建久10年) 1月 源頼朝 死去 (享年 53)

1198年 (建久9年) 12月に
頼朝は 相模川 で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。 '

翌年(建久10年) 正月11日に出家。

正月13日に死去した。(享年 53)

妻の 北条 政子は出家して尼になり「尼御台」と呼ばれる。

墓所・霊廟・神社

勝長寿院 (現在 廃寺)

1184年 (元暦元年)、源頼朝 が 父 義朝の菩提を弔うため建立。

源氏の菩提寺

白旗神社

源頼朝主祭神とする神社。

白旗神社 (鎌倉市西御門)

法華堂跡に 源頼朝墓 がある。

白旗神社 (鎌倉市雪ノ下)

鶴岡八幡宮摂末社

1199年(建久10年) 1月 源 頼家 (18歳) 第2代鎌倉殿に

1月13日に
父の 源頼朝 が急死した。

同月26日に
18歳で 家督を相続し、第2代 鎌倉殿 となる。

同年4月に 十三人の合議制 がしかれる。

1202年 (建仁2年) 7月 に 征夷大将軍 宣下。

1199年(建久10年) 2月 三左衛門事件

一条能保高能 父子の遺臣が 権大納言 源通親 の襲撃を企てたとして逮捕された事件。

1199年 (正治元年) 11月 梶原景時の変

鎌倉幕府内部の政争で 梶原景時御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。

源頼朝の死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。

1200年 (正治2年) 北条政子 寿福寺 創建

1200年 (正治2年) 1月 三浦 義澄 死去 (享年74)

墓所

清雲寺(横須賀市)

1104年 (長治元年)、義澄 の祖父 義継 が父 為継の菩提を弔うために創建。

満昌寺(横須賀市)

1194年 (建久5年)、 源頼朝義澄 の父 義明 の菩提を弔うべく創建した。

横須賀市 重要文化財: 薬王寺旧跡

薬王寺」は 1212年 (建暦2年) 鎌倉幕府の侍所別当 和田義盛 が父 義宗 や叔父 義澄 の菩提を弔うため創建したものと伝えられる。

三浦義澄の墓とされる石塔がある。

1202年 (建仁2年) 源頼家 建仁寺 建立

1203年 (建仁3年) 6月 阿野 全成 死去 (享年 51)

1199年 (正治元年) に 頼家 が鎌倉殿を継ぐと、 全成は 実朝 を擁する舅の 北条時政 と結び、頼家一派と対立するようになる。

1203年 (建仁3年) 5月19日に 頼家は 全成を 謀反人として捕縛し 常陸国に配流した。

6月23日に 全成は 八田知家によって誅殺された。(享年 51)

1203年 (建仁3年) 9月 比企能員の変

鎌倉幕府内部で起こった政変。

2代 鎌倉殿 源頼家外戚として権勢を握った 比企能員 とその一族が、

北条 時政 の謀略によって粛清、族滅された。

8月に
源 頼家 は 急病にかかり、危篤状態に陥った。

祖父の 北条 時政 と 母の 北条政子 の意向で

実弟の千幡 ( 源 実朝 を後継者とし 朝廷に征夷大将軍任命を要請した。

頼家 と 若狭局 の子 一幡 を後継者としたい 比企能員 と対立する。

北条 時政は比企能員を粛清した。

その後、
頼家は回復したが
千幡が鎌倉殿となることは決まっていた。

評議によって頼家の鎌倉追放が決定され、
頼家は伊豆修禅寺に退いた。

1203年 (建仁3年) 源 実朝 (12歳) 第3代鎌倉殿に

兄の 源頼家 が失脚し
祖父の 北条 時政 と 母の 北条政子 らの意向で
12歳で 家督を相続し、第3代 鎌倉殿 となる。

北条 時政は 鎌倉幕府初代執権となる。

1204年 (元久元年) 7月 源 頼家 死去 (享年 23)

1203年 (建仁3年) )9月に、
1頼家伊豆国 修禅寺 に護送された。

204年 (元久元年) 7月に、
北条氏の手兵によって殺害された。

墓所など

建仁寺

1202年 (建仁2年)、 源頼家 が建立。

同寺には江戸時代に仏師・辰巳蔵之丞によって作られた頼家の木像が安置されている。

伊豆市観光ガイド : 源頼家の墓

1205年 (元久2年) 7月 畠山重忠の乱

鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。

武蔵国 二俣川 において、 武蔵国の有力御家人 畠山重忠 が武蔵掌握を図る 北条時政 の策謀により、北条義時 率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。

1205年 (元久2年) 8月 牧氏事件

北条 時政 による 源 実朝 の暗殺未遂事件

時政と 牧の方 が 実朝 を廃して、 平賀朝雅 を新将軍として擁立しようとしているとの噂が流れた。

北条 政子三浦義村 らを遣わして、時政邸にいた実朝を 北条 義時 邸に迎え入れた。

時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、 陰謀は完全に失敗した。

幕府内で完全に孤立無援になった時政と牧の方は出家し、鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった。

1209年 (承元3年) に

鎌倉幕府 第2代執権に 北条義時が就任した。

1210年 (承元4年) 12月 順徳天皇 即位 (14歳)

1197年 (建久8年) 10月 に 後鳥羽天皇 の第三皇子として誕生。

1210年 (承元4年) 12月 に 父 後鳥羽上皇の強い意向により、兄の 土御門天皇 の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する。

1221年 (承久3年) 4月に 子の懐成親王 ( 仲恭天皇 ) に譲位して上皇の立場に退いた。

同年5月の 承久の乱 において 倒幕に失敗し 佐渡 へ配流となった。

1242年 (仁治3年) 9月 に 佐渡崩御した。(宝算 45)

1213年 (建暦3年) 2月 泉親衡の乱

鎌倉幕府御家人信濃源氏泉親衡源頼家の遺児 千寿丸 を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀とそれに続いた合戦。

1213年 (建暦3年) 5月 和田合戦

鎌倉幕府内で起こった有力御家人 和田義盛 の反乱である。

将軍 源実朝 を擁した 執権 北条義時 が勝利し、 和田義盛は 討ち死。(享年66)

和田氏 一族は滅亡。

1215年 (建保 3年) 2月 北条 時政 死去 (享年78)

隠居先の伊豆国で病死した。(享年78)

墓所

願成就院

境内に 北条時政の供養墓 がある。

1219年 (建保7年) 1月 源 実朝 死去 (享年26)

1218年 (建保6年)12月2日に 実朝は右大臣へ転ずる。

実朝は 昇任を祝い
鶴岡八幡宮 に拝賀する。

その際に
源 頼家 の遺児 公暁 に襲われ、落命した。

実朝には子がなく、
鎌倉幕府の源氏将軍 および河内源氏嫡流の血筋は 断絶した。

執権 北条 義時は 4代鎌倉殿として 摂関家から三寅( 藤原頼経 )(2歳) を迎える。

三寅を後見した 北条 政子 が将軍の代行をすることになり、 「尼将軍」と呼ばれる。  

実朝の墓所など

寿福寺

北条政子実朝の墓と伝わる 五輪塔 がある。

金剛三昧院

1219年 (承久元年)、北条政子により 実朝 菩提のために 禅定院 を改築して 金剛三昧院 と改称し、以後 将軍家の菩提寺として信仰された。

金剛寺 (秦野市)

実朝公御首塚 がある。

白旗神社(神奈川県鎌倉市雪ノ下)

鶴岡八幡宮 境内の摂末社

祭神として 源頼朝実朝 が祀られている。

1221年 (承久3年) 5月 仲恭天皇 即位 (4歳)

1218年 (建保6年) 10月に 順徳天皇 の第三皇子として誕生。

1221年 (承久3年) 4月に 父 順徳天皇 より譲位され、4歳で践祚

同年 6月の 承久の乱 により 幕府によって 仲恭天皇皇位を廃される。

母親の実家である摂政 九条道家 の邸宅に引き渡され る。

1234年 (天福2年) 5月20日に17歳で崩御した。

1221年 (承久3年) 6月 承久の乱

後鳥羽上皇鎌倉幕府の執権である 北条義時に対して起こした、貴族政権を率いる後鳥羽上皇鎌倉幕府の対立抗争。

概要

後鳥羽上皇院政内の親鎌倉派を粛清して、 五畿七道御家人、守護、地頭ら不特定の人々を対象に 義時追討の官宣旨を発した。

鎌倉幕府北条泰時 を総大将として 総勢19万の大軍を京へ上らせ、幕府が勝利する。

幕府は 乱の首謀者たる後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取る。

後鳥羽、・ 順徳土御門 の三上皇が配流された。

仲恭天皇 は廃されて 新たに 後堀河天皇 が立てられた。

乱ののち、朝廷監視のため 六波羅探題 を置くなど、幕府の絶対的優位が確立した。

1221年 (承久3年) 12月 後堀河天皇 即位 (10 歳)

1212年 (建暦2年) 3月 に 高倉天皇の第二皇子の 守貞親王 の第三皇子として誕生。(茂仁王)

1221年 (承久3年) の 承久の乱 により 鎌倉幕府仲恭天皇 を退位させ、 茂仁王 (10 歳)を即位させた。(後堀河天皇

後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王太上天皇の尊号を奉り上皇後高倉院)として、院政を行わせた。

1232年 (貞永元年) 11月、院政を行うべく、まだ2歳の 四条天皇 に譲位。

1234年 (天福2年) 8月31日)に宝算23歳で崩御した。

1224年 (元仁元年) 7月 北条 義時 死去 (享年 62)

墓所

北條寺

子の 北条泰時 が建てた 北条義時の墓 がある。

白旗神社 (鎌倉市西御門)

法華堂跡に 北条義時墓 がある。

1224年 (元仁元年) 7月 伊賀氏事件

鎌倉幕府の実権争奪をめぐっておこった執権北条氏の内紛。

2代執権 北条義時 の死後, 義時の継室 伊賀氏 は,自分の子の 政村 (19歳) を執権にしようとし, 義時の長子 泰時 (41歳)を執権にしようとする 北条政子と対立した。

三浦義村御家人たちが 泰時を支持したことで大勢は決した。

伊賀氏は 伊豆国に流され、 泰時は 3代執権となる。

1225年 (嘉禄元年) 8月 北条政子 死去 (享年 68)

1231年 (寛喜3年) 10月 土御門上皇崩御 (宝算 37)

承久の乱 にて配流された 阿波国 にて崩御。(宝算 37)

陵・霊廟

宮内庁 : 金原陵

阿波神社

土御門天皇 を御祭神とする。

境内に 「土御門天皇火葬塚」がある。

1232年 (貞永元年) 12月 四条天皇 即位 (2歳)

1231年 (寛喜3年) 3月に 後堀河天皇の第一皇子として誕生。

1232年 (貞永元年) 12月に 父 後堀河天皇の譲位に伴って2歳で践祚、12月5日に即位。

1242年 (仁治3年)1月9日に 不慮の事故により、崩御。(宝算12)

1239年(延応元年) 2月 後鳥羽上皇 崩御 (宝算60)

承久の乱 にて配流された 隠岐崩御。(宝算60)

陵・霊廟

宮内庁 : 大原陵

水無瀬神宮

1240年 (仁治元年) に後鳥羽上皇の遺勅に基づき、水無瀬信成、親成親子が 水無瀬殿下御所の跡地に御影堂を建立し、上皇を祀った。

1239年(延応元年) 12月 三浦 義村 死去 (享年 71)

墓所

Omairi : 福寿寺

三浦市役所 : 福寿寺と三浦義村公

1212年 (建暦二年)、三浦義村 が福寿寺を創建。 ( 神奈川県三浦市 南下浦町 金田 )

1242年 (仁治3年) 2月 後嵯峨天皇 即位 (22歳)

1220年 (承久2年) 4月に 土御門天皇 の皇子として誕生。

四条天皇 は又従兄弟 ( ともに 高倉天皇 の曾孫 )

1242年 (仁治3年) 1月 に 四条天皇崩御。(宝算 11)

同年 2月 に即位。

1246年 (寛元4年) に在位4年で皇子の久仁親王後深草天皇 )に譲位し、院政を開始。

1268年 (文永5年) 10月に 出家して法皇となり、大覚寺 に移る。

1272年 (文永9年) 2月、崩御。(宝算53)

1242年 (仁治3年) 9月 順徳上皇 崩御 (宝算 45)

配流先の 佐渡 にて崩御

陵・霊廟

宮内庁 : 大原陵

水無瀬神宮

祭神として 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇 が祀られている。

1242年 (仁治3年) 仁治三年の政変

1242年 (仁治3年) に発生した一連の政治的変動の総称である。

年明けの 四条天皇 崩御に伴う皇統断絶(京洛政変)に始まり、執権 北条 泰時 の死去による得宗家の家督継承(関東政変)に至る政治的変動の総称である。