江戸時代幕末の出来事を年表にまとめた。
江戸時代 は
日本の歴史の時代区分の一つである。
前は 安土桃山時代
後は 明治時代
- 関連記事
- 参考
- 江戸時代の小区分
- 江戸時代幕末の概要
- 江戸時代幕末の出来事
- 1837年(天保8年) 徳川家慶 12代将軍に
- 1846年 (弘化3年) 孝明天皇 即位
- 1852年 (嘉永5年) オランダ商館長 ヤン・ドンケル・クルティウス 来日
- 1853年 (嘉永6年) 6月 黒船来航
- 1853年 (嘉永6年) 6月 徳川家定 13代将軍に
- 1854年 (嘉永7年) 3月 日米和親条約 締結
- 1854年 (嘉永7年) 11月 安政東海地震
- 1855年 (安政2年) 長崎海軍伝習所 設立
- 1856年 (安政3年) 講武所 開設
- 1856年 (安政3年) 7月 米国総領事 タウンゼント・ハリス 来日
- 1857年(安政4年) 吉田松陰松下村塾 主宰
- 1857年 (安政4年) 3月 廷臣八十八卿列参事件
- 1857年(安政4年) 4月 築地軍艦操練所
- 1858年 (安政5年) 6月 日米修好通商条約 締結
- 1858年 (安政5年) 7月 英国外交官 ジェイムズ・ブルース 来日
- 1858年 (安政5年) 8月 戊午の密勅
- 1858年 (安政5年) 10月 徳川家茂 14代将軍に
- 1858年 (安政5年) 安政の大獄
- 1858年(安政5年) フランスの外交官 ルイ・グロ 来日
- 1859年 (安政6年) 英国駐日公使 ラザフォード・オールコック 来日
- 1859年 (安政6年) 6月 横浜港 開港
- 1860年 (安政7年) 1月 歌舞伎 三人吉三廓初買 初演
- 1860年(安政7年)2月 万延元年遣米使節
- 1860年 (安政7年) 2月 オランダ人船長殺害事件
- 1860年(安政7年) 3月 桜田門外の変
- 1861年 (文久元年) 2月 ロシア軍艦対馬占領事件
- 1861年 (文久元年) 5月 東禅寺事件
- 1861年 (文久元年) 12月 文久遣欧使節
- 1862年 (文久2年) 新選組 結成
- 1862年 (文久2年) 1月 坂下門外の変
- 1862年 (文久2年) 2月 和宮親子内親王の降嫁
- 1862年 (文久2年) 3月 歌舞伎 青砥稿花紅彩画 初演
- 1862年 (文久2年) 4月寺田屋事件
- 1862年 (文久2年) 4月 文久の改革
- 1862年 (文久2年) 8月 生麦事件
- 1863年(文久3年)2月 攘夷実行の勅命
- 1863年 (文久3年) 5月 下関戦争
- 1863年 (文久3年) 5月 長州五傑 英国留学
- 1863年(文久3年)7月 薩英戦争
- 1863年 (文久3年) 8月 八月十八日の政変
- 1863年 (文久3年) 9月 井土ヶ谷事件
- 1863年 (文久3年) 12月 横浜鎖港談判使節団
- 1863年 (文久3年) 参預会議
- 1864年 (元治元年) 3月 天狗党の乱
- 1864年 (元治元年) 5月 神戸海軍操練所 設立
- 1864年 (元治元年) 年6月 池田屋事件
- 1864年(元治元年) 7月 禁門の変
- 1864年(元治元年) ) 7月 第一次長州征伐
- 1864年 (元治元年) 7月四国艦隊下関砲撃事件
- 1864年 (元治元年) 10月 鎌倉事件
- 1865年(慶応元年) 駐日英国公使 ハリー・パークス 来日
- 1865年(慶応元年)横須賀製鉄所 開設
- 1865年 (慶応元年) 3月 薩摩藩遣英使節団
- 1865年(慶応元年)9月 兵庫開港要求事件
- 1866年 (慶応2年) 1月 薩長同盟
- 1866年 (慶応2年) 6月 第二次長州征伐
- 1866年(慶応2年) 12月 徳川慶喜 15代将軍に
- 1866年 (慶応2年) 12月 フランス軍事顧問団
- 1867年 パリ万国博覧会
- 1867年 (慶応3年) 2月 明治天皇 即位
- 1867年(慶応3年)10月 討幕の密勅
- 1867年(慶応3年)11月 大政奉還
- 1868年 (慶応4年) 1月 王政復古の大号令
- 1868年 (慶応4年) 1月 江戸薩摩藩邸の焼討事件
- 1868年 (慶応4年) 1月 戊辰戦争
- 1868年 (慶応4年) 4月 江戸開城
- 1868年 (慶応4年) 9月 一世一元の詔
関連記事
参考
江戸時代の小区分
江戸時代は
1603年に
徳川家康 が 征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから
1868年に
明治天皇が 一世一元の詔 を発布し、 慶応 から 明治 に改元されるまで
約300年間。
大きく5つに区分される。
初期
江戸の町造りの時期。 1603年 以前
前期
江戸幕府の創成期。 1603年から 1690年ごろまで
中期
後期
幕末期
江戸幕府の衰退期。 1853年 から1868年まで
江戸時代幕末の概要
1853年の 黒船来航 から
1868年の 大政奉還まで
15年間。
終期は
1868年の 江戸開城、 1869年の 箱館戦争 の終結 などもある。
概要
200年 続いた鎖国 から 開国 に政策が大きく変更され 明治維新となる。
家定 期
19日後の 6月22日に 13代将軍 徳川家慶 が病死し
徳川家定 が13代将軍になる。
将軍就任時は 13歳という若年であり、 幕政は老中・阿部正弘 によって主導され、 1857年 に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦 によって主導された。
「黒船来航」の際に 幕府は アメリカ合衆国大統領 からの「国書」を受け取った。
老中「阿部正弘」は 「国書」を諸大名に示し意見を問い、お目見え以上の幕吏にも意見を問うた。
勝海舟が「海防意見書」を提出し登用された。
開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、
1853年(嘉永6年)8月 から 江戸湾の お台場 建設を始めた。
同年9月、幕府は、大型船建造を許可することになった。
さらにオランダに 軍艦( 咸臨丸、朝陽丸 )・鉄砲・兵書などを注文した。
1855年 (安政2年) に オランダに発注した軍艦の乗員養成のため 長崎海軍伝習所 を設立した。
1856年 (安政3年) に 洋式調練・砲術などを訓練するため 講武所 開設した。
1857年 (安政4年) に「家定」は 米国総領事 タウンゼント・ハリス を江戸城で引見した。
「家定」には実子がなく 1857年 (安政4年) 頃に 病気が悪化すると 将軍継嗣問題が激化する。
後継者候補として、井伊直弼 ら南紀派が推薦する 徳川慶福 と、 島津斉彬 や 徳川斉昭ら一橋派が推す 一橋慶喜 が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。
1858年 (安政5年) 6月25日に 「家定」は諸大名を招集して従弟である「慶福」( のちの 徳川家茂 ) を将軍継嗣にするという意向を伝え、
7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表する。
7月6日 に 死去。(享年35歳)
家茂 期
1858年 に 徳川家茂 が14代将軍になる。
将軍就任時は 13歳という若年であり、 文久2年(1862年)までは 田安慶頼 が、その後は徳川慶喜 が 将軍後見職 に就いていたため、その権力は抑制されていた。
1858年 (安政5年) 6月19日に 大老 「井伊直弼」は 天皇の勅許を得ないまま 日米修好通商条約 を締結する。
米国の他に 蘭・露・英・仏 とも修好通商条約締結。( 安政五カ国条約 )
8月に 外国奉行 を設置し、 井上 清直、岩瀬 忠震 ら5人を任命する。
同月 孝明天皇 が条約締結に不満の勅諚を水戸藩に下す。( 戊午の密勅 )
幕府と朝廷の関係が悪化する。
横浜・長崎・箱館の3港で 露・仏・英・蘭・米5か国との自由貿易が始まった。
取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため、外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。
輸出の中心は生糸・茶であった。
輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。
他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。
また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。
こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった。
1860年(万延元年)1月 に 日米修好通商条約 の批准書を交換するため、遣米使節団 を派遣する。
米国海軍の ポーハタン号 で太平洋を横断し渡米する
下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。
大老「井伊直弼」は 尊王攘夷 派に対して弾圧を行った。 ( 安政の大獄 )
1860年 (万延元年) 3月3日 に 大老「井伊直弼」が暗殺される。 ( 桜田門外の変 )
1861年(文久2年)12月に 開港開市延期交渉のため 文久遣欧使節 を派遣。
1862年(文久2年)1月15日に 老中・安藤信正が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する。( 坂下門外の変 )
幕府は朝廷との関係を改善し 公武合体により 幕藩体制の再編強化をはかろうとした。
具体的にその成果を国内に示すため推進されたのが、将軍「家茂」に対する 皇妹・和宮親子内親王 の降嫁であった。
1862年(文久2年)2月11日に 将軍・「家茂」と「和宮」との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。
1862年(文久2年 に 薩摩藩 島津久光 は
京で 公武合体運動を展開し、
勅使 大原重徳 と共に 江戸に出向き 幕府に改革を要求した。 ( 文久の改革 )
7月6日に 徳川慶喜 を 将軍後見職 に、 7月9日に 松平慶永 を 政事総裁職に、 閏8月1日に 松平容保を 京都守護職に就ける。
「島津久光」は江戸から薩摩への帰路、生麦事件 を引き起こす。 翌年 の 薩英戦争 で攘夷の無謀さを悟る。
1862年(文久2年)閏8月、幕府は参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、大名の負担を軽減し国力増強のためとした。
1863年 (文久3年)、尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った。 ( 攘夷実行の勅命 ) その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を「攘夷実行の日」とすることを約束した。 186年(文久3年) 1863年(文久3年)5月10日に 長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。(下関戦争 )
一方で 長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三ら ( 長州五傑 ) をイギリスに留学させている。
1863年(文久3年)8月18日に、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって 尊王攘夷派の公卿を京都から排除された。
八月十八日の政変 である。
1863年 (文久3年) に 朝廷の攘夷実施の求めに応じて、「家茂」は 将軍としては229年振りとなる上洛を行った。
老中 水野忠精・板倉勝静、若年寄 田沼意尊・稲葉正巳 らが供奉し、3千人を率いた。
前年の1862年に 将軍警護の目的で浪士隊が結成される。( のちの新選組 )
3月7日に参内し、義兄に当たる 孝明天皇 に 攘夷 を約束した。
1863年 (文久3年) に 孝明天皇 は 参預会議 を召集。
1864年(文久4年) 1月15日に「家茂」は 軍艦 翔鶴丸 で海路から二度目の上洛。
「孝明天皇」は「家茂」に対し、醜夷征服の策略を議すこと、参預諸侯の政治参加、公武合体方針の明確化などを求めた宸翰を下した。
「参預会議」は参預諸侯間の意見の不一致から、わずか数か月で崩壊した。
この頃 徳川慶喜、 松平容保、 松平定敬 による 一会桑政権 が京における実験を握る。
1865年(慶応元)4月には、朝廷において武家に関する評議は全て「一会桑」との打ち合わせの上決定するという原則が形成され、 10月には 3者の協力で長年の懸案であった 安政五カ国条約 の勅許を獲得し、 幕府老中に同志である 小笠原長行・板倉勝静を送り込むことに成功するなど、権力としての絶頂期を迎えた。
一貫して西南雄藩の国政参加の阻止に努めたことにより、雄藩とりわけ薩摩藩との対立を深めた。
1864年(元治元年) 7月19日に 長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩・桑名藩)と交戦する。( 禁門の変 )
7月23日、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発した。( 第一次長州征伐 )
同時期に 長州藩では英米仏蘭4か国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された。( 四国艦隊下関砲撃事件 )
同年11月、長州藩は「禁門の変」責任者3家老に自刃を命令する。
1865年(元治2年) 5月に「家茂」三度目の上洛。 長州追討の勅許を奏請した。
1866年(慶応2年)6月7日に、幕府は 第2次長州征伐 を決行する。
高杉晋作 の組織した 奇兵隊 などの士庶民混成軍の活躍に阻まれる。
1866年 (慶応2年) に「第2次長州征伐」の途上、「家茂」は大坂城で病死する。
8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。
慶喜期
1866年に 徳川慶喜 が15代将軍になる。
「慶喜」は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。 ( 慶応の改革 )
また、仏国駐日公使 ロッシュ の助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握などを行った。
一方、国内状況では、この年(1866年)、全国的に農民一揆・打ちこわしなど未曾有に多発・激化した。
1866年(慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は 坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約された。( 薩長同盟 )
1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍「慶喜」は起死回生の策として 大政奉還 を上奏する。
薩長をはじめとする倒幕派は「大政奉還」の同日に 倒幕の密勅を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)には 岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通 と結んで 王政復古の大号令 が発せられ、摂関・将軍を廃し 三職 が設置される 太政官 制度が発足した。
この日の 小御所会議で「慶喜」に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。
1868年 (慶応4年) 12月 江戸薩摩藩邸の焼討事件
12月28日にその報告が 大目付の滝川具挙 らによって「慶喜」のいた大坂城にもたらされた。
翌・慶応4年(1868年)1月2日に老中格の 大河内正質 を総督とし、会津・桑名藩兵を加えた軍を京都に向け進軍させた。
1月3日に 薩摩軍と戦闘になる。( 鳥羽・伏見の戦い )
1月3日、4日と幕府軍軍は連敗を喫した。
「慶喜」は朝敵となるのを恐れて 老中の酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬 らと共に 開陽丸 で江戸に退却した。
1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)、勝海舟 と西郷隆盛 の交渉の結果、江戸城が新政府軍に明け渡される。( 江戸開城 )
「慶喜」が水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。
江戸時代幕末の出来事
1837年(天保8年) 徳川家慶 12代将軍に
1846年 (弘化3年) 孝明天皇 即位
1852年 (嘉永5年) オランダ商館長 ヤン・ドンケル・クルティウス 来日
ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス は 江戸時代末期の最後のオランダ商館長、オランダの外交官。
1852年 (嘉永5年) 7月に、長崎に来日する。
長崎海軍伝習所 の設立に協力。
1853年 (嘉永6年) 6月 黒船来航
黒船来航 は 1853年 (嘉永6年) に 代将 マシュー・ペリー が率いる アメリカ合衆国 海軍 東インド艦隊 の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。
1853年 (嘉永6年) 6月3日に 艦船4隻が 浦賀 沖に現れ、停泊した。
1853年 (嘉永6年) 6月 徳川家定 13代将軍に
徳川家定 は
第12代将軍・徳川家慶の四男。
1853年 (嘉永6年) 6月22日に 父 家慶が病死したことを受け第13代将軍となった。
徳川家定の治政
「家定」は元々健康が優れなかったが、将軍就任以後はさらに悪化し、廃人同様になったとまで言われている。
このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年6月17日(1857年8月6日)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。
1857年 (安政4年) に 米国総領事 タウンゼント・ハリス を江戸城で引見した。
「家定」には実子がなく 将軍在職中から「後継者争い」は起こっていたが、 1857年)(安政4年) 頃に「家定」の病気が悪化すると「後継者争い」は激化する。
家定の後継者候補として、井伊直弼 ら南紀派が推薦する 紀州藩 主 徳川慶福( 後の徳川家茂 )と、島津斉彬 や 徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜( 徳川慶喜 )が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。
1858年8月4日 (安政5年6月25日)に「家定」は諸大名を招集して従弟である慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。
1858年 (安政5年) に 「家定」は死去し、養子となった慶福改め家茂が跡を継いだ。
1854年 (嘉永7年) 3月 日米和親条約 締結
日米和親条約 は 、1854年(嘉永7年) 3月3日 に 日本 と アメリカ合衆国 が締結した条約。
1854年 (嘉永7年) 1月16日 に マシュー・ペリー が7隻の艦隊を率いて再来日する。
同年 3月3日 に「日米和親条約」締結。
1854年 (嘉永7年) 11月 安政東海地震
安政東海地震 は 1854年12月23日 (嘉永7年11月4日) に発生した 東海地震である。
1855年 (安政2年) 長崎海軍伝習所 設立
長崎海軍伝習所 は 1855年 (安政2年) から江戸幕府が海軍士官養成のため長崎で実施した海軍伝習のことをさす名称。
概要
黒船来航 後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長 の勧めにより 幕府海軍 の士官を養成する機関の設立を決めた。
オランダ海軍 からの教師派遣などが約束され、さらに練習艦として蒸気船 観光丸 の寄贈を受けた。
当面の目標は、オランダに発注した蒸気船2隻( 咸臨丸、 朝陽丸 )分の乗員養成とされた。
第1期生に 勝海舟他
第2期生に 榎本武揚 他
1856年 (安政3年) 講武所 開設
講武所 は
幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。
諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。
1856年 (安政3年) 7月 米国総領事 タウンゼント・ハリス 来日
タウンゼント・ハリス* は アメリカ合衆国 の外交官、初代駐日領事。
1856年 (安政3年) 7月21日 に 日本へ到着し、伊豆の 下田 へ入港する。
下田 玉泉寺 に領事館を構える。
1858年(安政5年)に 大老 井伊直弼 と 日米修好通商条約 を締結。
1857年(安政4年) 吉田松陰松下村塾 主宰
吉田 松陰 は 江戸時代後期の 日本の 武士。(長州藩 士 、[思想家、教育者。
松下村塾 は 幕末 に、長州 萩城下の松本村( 現在の山口県 萩市 )に存在した私塾である。
吉田松陰 が同塾で指導した塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出した。
1857年 (安政4年) 3月 廷臣八十八卿列参事件
廷臣八十八卿列参事件 は 1858年(安政5年)に 日米修好通商条約 締結の 勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。
1857年(安政4年) 4月 築地軍艦操練所
軍艦操練所 は 江戸幕府が幕末に海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関である。
1858年 (安政5年) 6月 日米修好通商条約 締結
日米修好通商条約 は 1858年 (安政5年) 6月19日 に 日本 と アメリカ合衆国 の間で結ばれた通商条約。
安政五カ国条約 の1つ。
1858年 (安政5年) 7月 英国外交官 ジェイムズ・ブルース 来日
ジェイムズ・ブルース は イギリスの政治家、植民地行政官、外交官。 スコットランド貴族エルギン伯爵 ブルース家 に生まれる。
天津条約
1856年10月に 清で アロー号事件 が発生。
6月26日に 「ブルース」は 天津にて 清政府との間に 天津条約 を締結した。
日本との通商条約
1858年(安政5年) 7月4日 に「ブルース」は 4隻の艦隊で 品川沖に停泊した。
8月26日に 江戸幕府の間に 日英修好通商条約 を締結した。
1858年 (安政5年) 8月 戊午の密勅
戊午の密勅 は 日米修好通商条約 の無勅許調印を受け、1858年 (安政5年) 8月8日 に 孝明天皇 が 水戸藩 に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。
1858年 (安政5年) 10月 徳川家茂 14代将軍に
徳川家茂 は
第12代将軍・徳川家慶 は 父 斉順の異母兄。
第13代将軍・徳川家定 は 従弟。
1849年 (嘉永2年) に 叔父で和歌山藩 第12代藩主である 徳川斉彊 が死去したため、その養子として家督を 4歳で 継いで、第13代藩主に。
1851年 (嘉永4年) に 元服し、叔父で第12代将軍「家慶」から1字を賜い「慶福」と名乗る。
1858年 (安政5年) 7月6日 に 第13代将軍「家定」が死去する。
同年 10月25日 に 名を「家茂」に改め 13歳で 第14代将軍に。
家茂の治政
将軍就任時は 13歳という若年であり、 文久2年(1862年)までは 田安慶頼 が、その後は徳川慶喜 が 将軍後見職 に就いていたため、その権力は抑制されていた。
1858年 (安政5年) 6月19日に 大老 井伊直弼は 天皇の勅許を得ないまま 日米修好通商条約 を締結した。
幕府と朝廷の関係が悪化する。
1860年 (万延元年) に 桜田門外の変 で「井伊直弼」が暗殺される。
幕府は朝廷との関係を改善し 公武合体により 幕藩体制の再編強化をはかろうとした。
具体的にその成果を国内に示すため推進されたのが、将軍「家茂」に対する 皇妹・和宮親子内親王 の降嫁であった。
1862年(文久2年)2月11日に 将軍「家茂」と「和宮」との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。
1863年 (文久3年) に 朝廷の攘夷実施の求めに応じて、将軍としては229年振りとなる上洛を行った。
老中 水野忠精・板倉勝静、若年寄 田沼意尊・稲葉正巳 らが供奉し、3千人を率いた。
前年の1862年に 将軍警護の目的で浪士隊が結成される。( のちの新選組 )
3月7日に参内し、義兄に当たる 孝明天皇 に 攘夷 を約束した。
1864年(文久4年) 1月15日に「家茂」は 軍艦 翔鶴丸 で海路から二度目の上洛。
孝明天皇 は「家茂」に対し、醜夷征服の策略を議すこと、参預諸侯の政治参加、公武合体方針の明確化などを求めた宸翰を下した。
「参預会議」は 参預諸侯間の意見の不一致から、わずか数か月で崩壊した。
7月23日、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発した。( 第一次長州征伐 )
1865年 (慶応元年) に 第2次長州征伐 のため「家茂」三度目の上洛。
1866年 (慶応2年) に「第2次長州征伐」の途上、「家茂」は大坂城で病死する。
徳川 慶喜 が 第15代将軍に。
1858年 (安政5年) 安政の大獄
安政の大獄 は 安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧。
幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝 らは、勅許 を得ないまま 日米修好通商条約 に調印し、また将軍継嗣を 徳川家茂 に決定した。
「安政の大獄」とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。
1858年(安政5年) フランスの外交官 ルイ・グロ 来日
ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵 は フランスの外交官。
1857年に 清に派遣され アロー戦争に参加。
1858年 (安政5年) に来日する。
同年 9月3日に 江戸で 日仏修好通商条約 を締結。
随員に ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(初代駐日フランス公使)や シャルル・ド・モンブラン(後に在フランス日本総領事)。
1859年 (安政6年) 英国駐日公使 ラザフォード・オールコック 来日
サー・ラザフォード・オールコック は イギリスの外交官、初代駐日公使。
1858年(安政5年) に 日英修好通商条約 が締結された。
1859年 (安政6年) 5月26日 に「オールコック」は 品川沖に到着した。
6月7日 に 高輪の 東禅寺 に暫定のイギリス総領事館を開いた。
6月12日 に江戸城に登城、「日英修好通商条約」の批准書の交換が行われた。
1861年 (文久元年) に 東禅寺事件 にて攘夷派浪士に襲撃される。
1859年 (安政6年) 6月 横浜港 開港
1858年(安政5年) 6月19日 に締結された 日米修好通商条約 に基づき 1859年(安政6年) 6月2日に 武蔵国久良岐郡横浜村( 横浜市中区の 関内付近 )に開港された。
1860年 (安政7年) 1月 歌舞伎 三人吉三廓初買 初演
三人吉三廓初買 は 安政七年 (1860) 正月、江戸 市村座で初演された歌舞伎の演目。
二代目河竹新七 作。 3人の盗賊が百両の金と短刀とをめぐる因果応報で刺し違えて死ぬまでを描いた物語。
1860年(安政7年)2月 万延元年遣米使節
万延元年遣米使節 は 江戸幕府が 日米修好通商条約 の批准書交換のために1860年に 派遣した77名から成る使節団である。
1860年(安政7年)1月 米国海軍の ポーハタン号 で 太平洋を横断し渡米する
警護の名目で 勝海舟らが 咸臨丸 でフランシスコまで同行する。
経路
1月18日、 品川から出発。 2月13日、 補給のためにホノルルに寄港。 3月8日、 サンフランシスコに到着。 3月4日、 パナマに到着。 パナマ地峡鉄道 で大西洋側のアスピンウォールへ移動。 3月25日、米国海軍 ロアノーク号でワシントンに到着。
4月2日に批准書を交換。
1860年 (安政7年) 2月 オランダ人船長殺害事件
オランダ人船長殺害事件 は 860年 (安政7年) 2月5日に、横浜本町通り(現在の横浜市中区本町)で発生した殺人事件。 この事件により幕府はオランダに1700両を支払い、これが日本の外国に対する賠償金支払いの初例となった。
事件の概要
安政7年2月5日、午後7時頃、当時の目抜き通りである本町通り(本町4、5丁目付近)で、オランダ人船長のウェッセル・デ・フォスと、商人ヤスパー・ナニンク・デッケルが何者かにより斬殺された。
1860年(安政7年) 3月 桜田門外の変
桜田門外の変 は 安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城 桜田門 外(現在の東京都千代田区霞が関)にある 豊後 杵築藩・松平親良 の上屋敷前で 水戸藩 からの脱藩者17名と 薩摩藩士 1名が 彦根藩 の行列を襲撃、井伊直弼 を暗殺した事件。
1861年 (文久元年) 2月 ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア軍艦対馬占領事件 は ロシア帝国 の軍艦が 対馬 芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。
1861年 (文久元年) 5月 東禅寺事件
東禅寺事件 は 攘夷派志士が 高輪 東禅寺 に置かれていた イギリス公使館 を襲撃した事件。
1861年 (文久元年) 12月 文久遣欧使節
文久遣欧使節 は 江戸幕府が オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガル との 修好通商条約(1858年)で交わされた両港( 新潟、兵庫 )および両都( 江戸、大坂 )の 開港開市延期交渉 と、ロシア との 樺太 国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。
1862年 (文久2年) 新選組 結成
新選組 は
江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊である。
特に尊攘派志士の弾圧活動に従事した。
1862年 (文久2年)に 江戸幕府は 庄内藩郷士・清河八郎 の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂 の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集した。
1862年 (文久2年) 1月 坂下門外の変
坂下門外の変 は 文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城 坂下門 外にて、尊攘派の水戸浪士6人が 老中 安藤信正 を襲撃し、負傷させた事件。
1862年 (文久2年) 2月 和宮親子内親王の降嫁
仁孝天皇 の第8皇女。
孝明天皇 の異母妹。
1862年 (文久2年) 3月 歌舞伎 青砥稿花紅彩画 初演
青砥稿花紅彩画 は
文久2年3月(1862年3月)に 江戸 市村座で初演された歌舞伎の演目。
通称は「白浪五人男」。
二代目河竹新七 作。
1862年 (文久2年) 4月寺田屋事件
寺田屋事件 は 1862年 (文久2年) 4月23日に、伏見の旅館・寺田屋 に滞在していた 薩摩藩 の 尊皇攘夷 の過激派志士が 島津久光 の命で 薩摩藩士により 上意討ち された事件。
1862年 (文久2年) 4月 文久の改革
文久の改革 は 文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。
嘉永7年(1854年)の 開国 以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩 の 島津久光 および朝廷の 公武合体 派 公卿 らの主導で出された 勅使 による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである
江戸幕府の三要職
(1) 政事総裁職 が新設され、
松平慶永 が任じられた。
(2) 京都守護職 が新設され、
松平 容保 が任じられた。
(3) 将軍後見職 に
徳川慶頼 に代わり
徳川慶喜 が任じられた。
1862年 (文久2年) 8月 生麦事件
生麦事件 は 文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村( 現在の神奈川県横浜市鶴見区 生麦 )付近で、薩摩藩 主 島津茂久 の父・島津久光 の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。
背景
1859年 (安政6年) に 横浜 を開港し 外国人居留地 を設置した。
居留地」の外国人は「居留地」の十里(約40キロメートル)四方への外出や旅行は自由に行うことができた。
1862年 (文久2年) に 薩摩藩「島津久光」は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いた。( 文久の改革 )
8月21日に「久光」は、軍勢400人あまりを引き連れて江戸を出発した。
影響*
尊王攘夷 運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、 文久3年(1863年)7月に 薩摩藩とイギリスとの間で 薩英戦争 が勃発した。
1863年(文久3年)2月 攘夷実行の勅命
攘夷実行の勅命 は
孝明天皇 が1863年(文久3年)に発した勅。
京都の 朝廷 と 江戸幕府の間で懸案となっていた 攘夷を実行に移す意図があった。
1863年 (文久3年) 5月 下関戦争
下関戦争 は 文久3年(1863年)と 元治元年(1864年)に、長州藩 と イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件
1863年 (文久3年) 5月 長州五傑 英国留学
長州五傑 は 1863年に 長州藩 から清国経由でヨーロッパに派遣され、主に ロンドン大学 ユニヴァーシティ・カレッジ などに留学した、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉 の5名の長州藩士を指す。
1863年(文久3年)7月 薩英戦争
薩英戦争 は 薩摩藩 と 大英帝国 の間で起こった戦闘である。
1862年 (文久2年) に 発生した 生麦事件 の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。
1863年 (文久3年) 8月 八月十八日の政変
八月十八日の政変 は 1863年(文久3年) 8月18日 に発生した政変。
孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる 三条実美 ら急進的な 尊攘派 公家 と背後の 長州藩 を朝廷から排除したクーデター。
1863年 (文久3年) 9月 井土ヶ谷事件
井土ヶ谷事件 は 1863年(文久3年) 9月2日 に現在の神奈川県横浜市南区 井土ヶ谷下町 付近にあたる武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前で起きた、攘夷派の浪士による フランス人 士官殺傷事件。
フランス陸軍アフリカ猟歩兵第3大隊所属のJ・J・アンリ・カミュ少尉と士官2名は、程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入ったところを、浪士3名に襲撃された。先頭に居たカミュは死亡した。 同行した他の2名は逃走し命に別状はなかった。
1863年 (文久3年) 12月 横浜鎖港談判使節団
横浜鎖港談判使節団 は 池田長発 を正使、河津祐邦 を副使、河田熙を目付とし、 1863年 (文久3年) 12月29日から 1864年 (元治元年) 7月22日にかけて 幕府が 第二帝政 期フランスに派遣した外交団である。
1863年 (文久3年) 参預会議
参預会議 は 文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、朝廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された合議制会議、およびその制度である。
参預諸侯間の意見の不一致から、わずか数か月で崩壊した。
1864年 (元治元年) 3月 天狗党の乱
天狗党の乱 は 元治元年(1864年)に 筑波山 で挙兵した 水戸藩内外の 尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。#### 1864年 (元治元年) 3月 駐日フランス公使レオン・ロッシュ 来日
ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ は フランスの外交官、駐日フランス公使。
「ロッシュ」の最初の仕事は、前年から外国船が航行不能となっている 下関問題 の解決であった。
「ロッシュ」は幕府から横須賀製鉄所 の建設斡旋を依頼された。
このことがきっかけとなり、ロッシュは幕府寄りの立場を取るようになる。
1864年 (元治元年) 5月 神戸海軍操練所 設立
神戸海軍操練所 は 元治元年(1864年)5月に、江戸幕府軍艦奉行の 勝海舟 の建言により幕府が神戸に設置した 海軍士官 養成機関、海軍工廠 である。
1864年 (元治元年) 年6月 池田屋事件
池田屋事件 は 元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた 長州藩・土佐藩 などの 尊王攘夷 派志士を、京都守護職 配下の治安維持組織である 新選組 が襲撃した事件。
1864年(元治元年) 7月 禁門の変
禁門の変 は 1864年 (元治元年) 7月19日 に、京都で起きた武力衝突事件。 「蛤御門の変」とも呼ばれる。
前年の 八月十八日の政変 により京都から追放されていた 長州藩 勢力が、京都守護職 の 松平容保 らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。
1864年(元治元年) ) 7月 第一次長州征伐
長州征討 は 元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都で 禁門の変 を起こした 長州藩 の処分をするために長州藩領のある 周防国、長門国 へ向け征討の兵を出した事件。
第一次長州征伐
幕府は征長軍を編成するが、長州藩が降伏し、戦闘にならず。
1864年 (元治元年) 7月23日、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発した。
幕府は 尾張藩・越前藩 および西国諸藩から征長軍を編成した。
動員された藩の数は最終的に35藩、総勢15万人とされる。
「経幹」は 「禁門の変」で上京した三家老( 国司親相、益田親施、福原元僴 )の切腹と 四参謀( 宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛 )の斬首、 五卿( 三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修 )の追放 といった降伏条件を示した。
1864年 (元治元年) 7月四国艦隊下関砲撃事件
1863年 (文久3年) 5月に 長州藩 は 下関海峡 を通る外国船を砲撃した。
1864年 (元治元年) 7月に 長州藩は英米仏蘭の4か国艦隊の反撃に遭い、下関海峡の馬関と 彦島 の砲台を砲撃された。
1864年 (元治元年) 10月 鎌倉事件
鎌倉事件 は 元治元年10月22日(1864年11月21日)に相模国 鎌倉郡 大町村(現在の神奈川県鎌倉市御成町)で イギリス人士官2名が武士に殺害された事件である。
当時横行していた 外国人殺傷事件 の中で犯人が逮捕、処罰された初の事例とされる。
1865年(慶応元年) 駐日英国公使 ハリー・パークス 来日
サー・ハリー・スミス・パークス は 英国の外交官。
幕末から明治初期にかけ18年間 駐日英国公使を務めた。
1865年(慶応元年)に「パークス」は 横浜に到着した。
同年 兵庫開港要求事件 を主導する。
1865年(慶応元年)横須賀製鉄所 開設
横須賀製鉄所 は 1865年(慶応元年)、勘定奉行 小栗忠順 の進言により、フランスの技師 レオンス・ヴェルニーを招き 開設される。
1865年 (慶応元年) 3月 薩摩藩遣英使節団
薩摩藩遣英使節団 は
幕末期に 薩摩藩 が イギリス に派遣した使節団。
3名の視察係と15名の留学生( 薩摩藩第一次英国留学生 )に通訳1名の計19人で1865年に渡英した。
1865年(慶応元年)9月 兵庫開港要求事件
兵庫開港要求事件 は 1865年(慶応元年)9月、イギリス・フランス・オランダ の連合艦隊が兵庫沖に侵入し、その軍事力を背景に 安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件。
1866年 (慶応2年) 1月 薩長同盟
薩長同盟 は 1866年 (慶応2年) 1月21日 に 小松帯刀 邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と 長州藩 の政治的、軍事的同盟。
1866年 (慶応2年) 6月 第二次長州征伐
長州征討 は 元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都で 禁門の変 を起こした 長州藩の処分をするために長州藩領のある 周防国、長門国 へ向け征討の兵を出した事件。
第二次長州征伐
幕府軍と長州軍との全面的な軍事対決となった。
第一次長州征伐 の後、幕府は藩主父子に大阪への出頭を命じた。
しかし 長州藩は出頭を拒絶し、西国諸藩は協力を断る。
1865年(元治2年) 5月22日に 将軍家茂 が上洛し 長州再征の勅許を得る。
6月7日に 幕府軍と長州軍は国境の4か所で戦闘となる。
これを名目に幕府軍は撤退。
1866年(慶応2年) 12月 徳川慶喜 15代将軍に
徳川慶喜 は
1847年 (弘化4年) 一橋徳川家を相続する。
同年 12月1日に元服し、家慶から偏諱を賜り「徳川慶喜」と名乗る。
1862年 (文久2年) に 文久の改革により 将軍後見職 に任命され、 第14代将軍・徳川 家茂を補佐する。
1863年 (文久3年) に「家茂」が将軍としては230年ぶりに上洛することとなった。
「慶喜」はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。
1864年 (元治元年) 3月に 「慶喜」は「将軍後見職」を辞任し、朝臣的な性格を持つ 禁裏御守衛総督 に就任した。
同年7月に 禁門の変
「慶喜」は「禁裏御守衛総督」として御所守備軍を自ら指揮した。
その頃に「慶喜」は 松平容保、 松平定敬 とともに 一会桑政権 を形成する。
1866年の パリ万国博覧会に 弟の 徳川昭武らを派遣した。
1866年 (慶応2年) に 第二次長州征伐
同年 8月29日 に 将軍「家茂」が大坂城で病死する。
同年 12月5日に 「慶喜」は第15代将軍に就任する。
1867年(慶応3年)11月に 大政奉還
しかし 「大政奉還」されたところで朝廷には何の実力もないため、実態としては慶喜政権が継続されたままとなった。
1868年1月に 薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が政変を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言した( 王政復古の大号令 )
1868年 (慶応4年) 12月 江戸薩摩藩邸の焼討事件
12月28日にその報告が 大目付の[滝川具挙] らによって慶喜のいた大坂城にもたらされた。
翌・慶応4年(1868年)1月2日に老中格の 大河内正質 を総督とし、会津・桑名藩兵を加えた軍を京都に向け進軍させた。
1月3日に 薩摩軍と戦闘になる。( 鳥羽・伏見の戦い )
1月3日、4日と幕府軍は連敗を喫した。
「慶喜」は朝敵となるのを恐れて 老中の酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬 らと共に 開陽丸 で江戸に退却した。
4月21日に 江戸開城
閏4月29日に 政府は 徳川家達 に 徳川宗家 を相続させることを決定し、5月24日に家達の領地は駿府藩70万石に決定された。
江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展した。
幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の 徳川昭武 らが派遣された。
1866年 (慶応2年) 12月 フランス軍事顧問団
フランス軍事顧問団 は 西洋式陸軍の訓練のために日本に派遣された顧問団である。
1866年 (慶応2年) 12月8日 に横浜に到着した。
到着翌日の12月9日から、軍事顧問団は大田村陣屋(現在の港の見える丘公園付近)で、幕府の伝習隊 に対し、砲兵・騎兵・歩兵の三兵の軍事教練を開始した。
慶応4年1月の 戊辰戦争勃発により軍事教練は中断した。
1867年 パリ万国博覧会
1867年のパリ万国博覧会 は、1867年4月1日から10月31日までフランスの首都 パリ で開催された 国際博覧会 である。
日本が初めて参加した万国博覧会である。
1867年 (慶応3年) 2月 明治天皇 即位
明治天皇 は
孝明天皇 の第二皇子。
同年 2月に 跋扈。
1867年(慶応3年)10月 討幕の密勅
討幕の密勅 は 1867年(慶応3年10月14日、薩摩藩と 長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜 討伐の詔書、または綸旨である。
1867年(慶応3年)11月 大政奉還
大政奉還 は 1867年(慶応3年)10月14日に第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を 明治天皇 へ奏上し、 翌15日に天皇が奏上を勅許したこと。
1868年 (慶応4年) 1月 王政復古の大号令
王政復古 は 明治維新 により武家政治 を廃し 君主政体 に復した政治転換を指す。
1868年 (慶応4年) 1月 江戸薩摩藩邸の焼討事件
江戸薩摩藩邸の焼討事件 は 薩摩藩 が江戸市中取締の 庄内藩 屯所を襲撃した為、 慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組 らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。
1868年 (慶応4年) 1月 戊辰戦争
戊辰戦争 は 王政復古 を経て新政府を樹立した 薩摩藩・長州藩・土佐藩 等を中核とする 新政府軍 と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国 が戦った日本近代史上最大の内戦。
1868年 (慶応4年) 1月3日に 鳥羽・伏見の戦い で始める。
1869年 (明治2年) 5月18日 に 箱館戦争 で終わる。
1868年 (慶応4年) 4月 江戸開城
江戸開城 は 慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍 と 旧幕府 との間で行われた、[]江戸城(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C)の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。
1868年 (慶応4年) 9月 一世一元の詔
一世一元の詔 は 1868年 (慶応4年) 9月8日、 「慶応4年」を改めて「明治元年」とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔。