鎌倉時代の出来事

鎌倉時代の出来事を年表にまとめた。

鎌倉時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 平安時代

後は 室町時代

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鎌倉時代の概要

鎌倉時代

1185年(文治元年) に

平家 が滅亡し

源頼朝

鎌倉幕府

を成立してから

1333年 (正慶2年) に

後醍醐天皇

討幕のため 挙兵し

足利尊氏

室町幕府

を成立するまでの

約150年間

源頼朝鎌倉殿 として武士の頂点に立ち、全国に 守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。

京都の朝廷と地方の 荘園公領はそのままで、地方支配に 地頭 等の形で支配構造ができあがった。

二度にわたる 元寇 があり、内乱、地震、疫病、飢饉などの災害が多く発生した時代である。

鎌倉時代の政治

鎌倉幕府は当初、将軍( 実際には 鎌倉殿 ) を中心としていた。

征夷大将軍 は必須ではない。

河内源氏 ( 源頼朝 ) 系 ) の直系の将軍は3代で絶え、

将軍は公家( 摂家将軍)、

後には皇族( 皇族将軍 )を置く傀儡の座となり、

実権は将軍から、十三人の合議制 へ移る。

さらに、実権は 北条政子 を経て、

執権であった 北条氏へ移っていった。

北条氏以外の他氏族を幕府から排除して、権力を北条氏に集中させていった。

北条氏の功績としては 御成敗式目 の制定が挙げられる。

これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。

北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。

8代執権 北条時宗の代に

2度に渡る元寇 があり、

鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。

9代執権 北条貞時 の代になると御内人の権力は増長し、 得宗の権威すら凌ぐようになる。

貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。

多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。

弘安徳政

永仁の徳政令 を実施して

没落する御家人の救済を図ったが、

恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。

後醍醐天皇 による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。

鎌倉時代の文化

鎌倉文化の特徴は、文化の中心地は平安時代と変わらず京都と奈良であるが、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗した点で、文化の二元性が出てきたところにある。

随筆

軍記物語

歌集

彫刻

鎌倉時代の出来事

1160年 (平治元年) 源頼朝 伊豆国に 配流

1180年 (治承4年) 源頼朝 挙兵

1180年 (治承4年) 源頼朝 鶴岡八幡宮 を遷す

鶴岡八幡宮

1063年 (康平6年) 8月に

河内源氏 2代目 棟梁 の

源頼義 が、

前九年の役 に際して

戦勝を祈願した京都の 石清水八幡

鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが

始まりとなった。

1180年 (治承4年) 10月に

平家打倒の兵を挙げ 鎌倉に入った 河内源氏後裔の 源頼朝 は、12日に 宮を現在の地である小林郷北山 (現 雪ノ下2丁目) に遷す。

1183年 (寿永2年) 後鳥羽天皇 即位

神器なき即位

祖父 後白河法皇 の意向で

異母兄 安徳天皇 が在位のまま

三種の神器がなきまま

4歳で即位した。

即位後の執務は 後白河法皇 が行った。

1183年(寿永2年) 寿永二年十月宣旨

朝廷から

源頼朝 に下された宣旨。

頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、

頼朝による東国支配権を公認したものとされる

1184年 (元暦元年) 源頼朝 勝長寿院 建立

源頼朝が父 義朝 の菩提を弔うための寺の建立。

頼朝は 後白河院 に依頼して義朝の首を探し出し、

義朝と その腹心 鎌田政清 の首は 鎌倉に届けられた。

1185年 (文治元年) 9月に

義朝の遺骨と政清の首は南御堂の地に埋葬され、

頼朝の他は

平賀義信 とその子息・惟義、源頼隆

平治の乱 の関係者のみが立ち会いを許された。

本尊は 阿弥陀如来 像。

1185年(文治元年) に

仏師 成朝

源頼朝の招きに応じて関東に下り、

頼朝発願の 阿弥陀如来像を制作する。

1185年(文治元年) 文治の勅許

朝廷より

源頼朝 に対し与えられた

諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した勅許のことである。

これを以って

鎌倉幕府 の成立とする。

1189年(文治5年) 奥州合戦

鎌倉政権

奥州藤原氏 との間で

東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。

この戦役により、

源頼朝 による

武士政権が確立した。

1189年 (文治5年) 北条時政 願成就院 建立

本尊は 阿弥陀如来像 ( 運慶 作 )

1189年 (文治5年) 和田 義盛 浄楽寺 建立

本尊は 阿弥陀如来像 ( 運慶 作 )

1192年(建久3年) 源頼朝 征夷大将軍 就任

1193年(建久4年) 曾我兄弟の仇討ち

1196年 (建久7年) 建久七年の政変

九条兼実 が関白を罷免され失脚した事件。

1198年 (建久9年) 土御門天皇 即位

後鳥羽天皇 の譲位により 3歳で践祚し 即位。

後鳥羽上皇による院政がしかれた。

1199年(建久10年) 源 頼家 第2代鎌倉殿 に

父・源頼朝 の死により

18歳で家督を相続し 第2代鎌倉殿に。

3年半後に 征夷大将軍となる。

1200年 (正治2年) 十三人の合議制 開始

源 頼家

訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。

1200年 (正治2年) 梶原景時の変

鎌倉幕府内部で起こった政争。

源頼朝 の腹心であった

梶原景時

御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。

頼朝死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。

1201年(建仁元年) 建仁の乱

城長茂 ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。

1202年(建仁2年) 千五百番歌合 成立

1203年(建仁3年) 北条時政 初代執権に

1203年(建仁3年) 比企能員の変

2代将軍 源頼家外戚として

権勢を握った 比企能員 とその一族が、

北条時政の謀略によって

粛清、族滅された。

頼家の鎌倉追放が決定され、伊豆修禅寺に幽閉された。。

実弟源実朝 が3代将軍に就任

1204年(元久元年)に

頼家は北条氏の放った刺客によって暗殺された。享年23歳

1203年(建仁3年)源実朝 第3代鎌倉殿 に

比企能員の変により

源頼朝 の長男で 第2代鎌倉殿 の

源頼家 が幽閉される。

頼朝 の次男 源実朝 が第3代鎌倉殿 に。

1204年(元久元年) 三日平氏の乱

伊勢国

伊賀国

平家

の残党が蜂起した事件。

伊勢平氏 の若菜盛高らが蜂起し、

討伐に向かった鎌倉幕府軍の

平賀朝雅

三日間で反乱軍を鎮圧した。

1205年(元久2年) 畠山重忠の乱

武蔵国 二俣川 (現・神奈川県横浜市旭区) において、

武蔵国の有力御家人畠山重忠

武蔵掌握を図る

北条時政 の策謀により、

北条義時 率いる大軍に

攻められて滅ぼされた事件。

鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。

1205年(元久2年) 牧氏事件

鎌倉幕府の執権 北条時政 の後妻

牧の方

時政 と共謀,

将軍 源実朝 を殺害し,

女婿で 源頼朝猶子

平賀朝雅

将軍にしようとした事件。

北条政子

北条義時

親に対しても躊躇しないという態度をとった。

時政 と 牧の方 は出家し、鎌倉から追放され

伊豆国 へ隠居させられることになった。

京都守護を兼ねていた 朝雅 は 京都で、

政子と義時の命をうけた 在京御家人によって討たれた。

1205年(元久2年) 北条義時 2代執権に

牧氏事件 にて

初代執権で父の 北条時政 が隠居したことにより。

1205年(元久2年)新古今和歌集 成立

1210年 (承元4年) 順徳天皇 即位

後鳥羽上皇 の強い意向により、

異母兄 土御門天皇

の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する。

1213年(建暦3年) 泉親衡の乱

鎌倉幕府御家人 泉親衡

源頼家 の遺児

千寿丸

鎌倉殿 に擁立し

執権 北条義時 を打倒しようとした 陰謀と

それに続いた合戦を指す。

和田合戦 の前哨戦とされている。

1213年 (建暦3年) 和田合戦

有力御家人 和田義盛 の反乱である。

泉親衡の乱 の折に

和田義盛

息子の 義直義重と、

甥の 胤長

が捕縛される。

息子2人は赦免となるも、義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長の赦免も懇請したが、

胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪となり、その後は屋敷も没収される。

これらの件で北条氏と和田氏の関係は悪化する。

義盛は姻戚関係にあった横山党や

同族の 三浦義村 と結び、

北条氏打倒のために挙兵。

だが土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。

合戦は2日間に渡るが、

征夷大将軍 源実朝 を擁し

兵力で勝る義時側が最終的な勝利をおさめ、義盛は敗死し和田一族は滅亡した。

1219年 (建保7年) 源実朝 暗殺される

1217年 (建保5年) に

園城寺で学んでいた

第2代鎌倉殿 源頼家 の子

公暁 が鎌倉に帰着し、

政子 の命により

鶴岡八幡宮別当に就く。

1218年 (建保6年) に

左大臣 九条良輔薨去により

第3代鎌倉殿 源実朝 は 武士としては初めて 右大臣へ転ずる。

1218年 (建保6年) に

実朝 は昇任を祝うため 鶴岡八幡宮に拝賀する。

夜になり神拝を終え退出の最中、

「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ 公暁 に襲われ、実朝 は落命した。享年28歳

1220年 (承久2年) 三寅 ( のちの九条頼経 ) 鎌倉殿に

1218年 (建保6年) に

九条頼経

摂政関白 九条道家 の三男として生まれる。

源頼朝

同母妹( 坊門姫 ) の曾孫にあたる。

生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、幼名を 三寅(みとら)と言った。

1219年 (建保7年) に

第3代鎌倉殿 源実朝 が暗殺された後、

鎌倉幕府後鳥羽上皇 の皇子を将軍に迎えようとしたが、

後鳥羽に拒否される。

後鳥羽は、

皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと

鎌倉殿

として下して構わないと妥協案を示した。

幕府は やむなく

親王将軍 をあきらめ、

2歳の 三寅 が鎌倉に迎え入れられた。( 第4代鎌倉殿 )

鎌倉下向から数年間は

北条政子

尼将軍 として

三寅 を後見して将軍の代行をしていた。

1225年 (嘉禄元年) に

元服し頼経と名乗る。

1226年 (嘉禄2年) に

将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。

1221年 (承久3年) 4月 仲恭天皇 即位

4月20日

順徳天皇 より譲位され、4歳で践祚

践祚はしていたが即位礼を行う前に

同年の 承久の乱 によって

7月に

皇位を廃された。

歴代の天皇の中で、在位期間が約2ヶ月と最も短い天皇である。

1221年(承久3年)5月 承久の乱

後鳥羽上皇

鎌倉幕府執権の 北条義時

に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。

後鳥羽上皇隠岐島 に配流された。

父の計画に協力した

順徳上皇佐渡島に流された。

関与しなかった

土御門上皇御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。

1221年 (承久3年) 6月 六波羅探題 の設置

承久の乱 ののち、

幕府がそれまでの 京都守護 を改組し

京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関

朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧 平清盛 邸の跡地を拠点にし、

北条泰時

北条時房の2人が

六波羅の北と南に駐留して、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行った。

1221年 (承久3年) 7月 後堀河天皇 即位

同年の 承久の乱 により、

鎌倉幕府

後鳥羽上皇

土御門上皇

順徳上皇 の三上皇を配流し、

仲恭天皇 を退位させた。

皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し

後鳥羽上皇の兄 守貞親王 の三男である

茂仁王 を即位させた。(後堀河天皇

1224年(元仁元年) 伊賀氏事件

伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。

6月13日に

第2代執権・北条義時 が急死した。

28日に

鎌倉殿 後見である

北条政子

義時の長男の 泰時

御所に招いた。

政子は泰時を執権に任命することを決め、

大江広元 もそれに賛同している。

義時の後妻 伊賀の方

義時の五男で実子の

北条政村 を執権職に就けて、

兄の 伊賀光宗 に後見させ、

娘婿の 一条実雅 を将軍に擁立しようとした。

7月になると、

光宗とその弟たちは鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である

三浦義村 邸にたびたび出入りした。

政子は

万が一、義村が政村・光宗と手を結べば幕府は転覆しかねないと憂慮した。

7日の深夜に

政子は ひそかに義村を訪ね、政村・光宗との関係を詰問し、光宗らと謀反を企てているのでなければ事態の収拾に協力せよと迫った。

義村は 政村に 謀反の気持ちはないと弁明するとともに、光宗兄弟の暴走を制止すると誓った。

閏7月1日 に

政子は

鎌倉殿 三寅 を連れて泰時邸に入り、

義村以下の宿老を招集。

政子は 謀反の計画の存在を語り、謀反を防ぐために協力してほしいと呼びかけた。

御家人たちが 泰時 を支持したことで大勢は決した。

伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ配流となり、

公卿である実雅は朝廷に配慮して京都へ送還された後に越前へ配流となった。

しかし 彼らに担ぎ上げられそうになった 政村は 処罰を免れた。

1224年(元仁元年) 北条 泰時 3代執権に

2代執権で父の 北条 義時の死去により。

1224年(元仁元年)連署 の設置

連署は、鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」である。

1224年(貞応3年)に

執権 北条泰時

叔父の 北条時房 を任命したのが最初。

1225年(嘉禄元年) 評定衆 の設置

評定衆は、行政・司法・立法のすべてを行う幕府の最高機関である。

1226年(嘉禄2年) 九条頼経 4代将軍に

1218年 (建保6年) に

九条頼経

摂政関白 九条道家 の三男として生まれる。

1219年 (建保7年) に

3代目鎌倉殿 源実朝 が暗殺される。

1220年 (建保8年) に

鎌倉に迎え入れられ、2歳で 4代目鎌倉殿となる。

北条政子 が後見役となった。

1226年 (嘉禄2年) に

将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。

摂家将軍 の開始

1232年 (貞永元年) 8月 御成敗式目 の制定

3代執権 北条泰時 により

源頼朝 以来の先例や、

道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、

武家政権のための法令( 式目 )である。

1232年 (貞永元年) 12月 四条天皇 即位

後堀河天皇 の譲位に伴って2歳で践祚し、即位。

1242年 (仁治3年) 仁治三年の政変

年明けの

四条天皇崩御に伴う皇統断絶( 京洛政変 )に始まり、

執権北条泰時 の死去による得宗家の家督継承( 関東政変 )に至る

政治的変動の総称である。

両者は直接の関連性はないものの、京都朝廷と鎌倉幕府でほぼ同時並行で起こったこの政治的変動は

4年後に発生する 宮騒動 の前段階として位置づけられる。

1242年 (仁治3年) 後嵯峨天皇 即位

四条天皇 が12歳で崩御したため、

土御門上皇 の皇子 邦仁親王が即位した。(後嵯峨天皇)

1242年 (仁治3年) 北条 経時 4代執権に

3代執権で 父の 北条泰時 の死去による。

1244年 (寛元2年) 藤原 頼嗣 5代将軍に

1239年 (延応元年) に

4代将軍 藤原頼経 の子として 鎌倉で生まれる。

1244年 (寛元2年) に

執権 北条経時 を烏帽子親として元服し、

父頼経の譲りによりわずか6歳で 5代将軍に就任した。

1246年(寛元4年) 北条 時頼 5代執権に

4代執権 北条経時は病気になり

弟 時頼に 執権職を譲る。

1246年(寛元4年) 宮騒動

1246年(寛元4年) に

4代執権 北条経時 が早世すると、

弟の 北条時頼 が4代執権となる。

北条光時

前将軍 藤原頼経と共謀して

新執権 時頼を廃しようとした謀反 が発覚する。

光時は 伊豆国江間郷へ配流となる。

藤原頼経 は京都へ追放された。

1246年(寛元4年) 後深草天皇 即位

1243年 (寛元 元年) 6月に

後嵯峨天皇 の皇子として誕生。

1246年(寛元4年) 2月に

後嵯峨天皇の譲位により 数え4歳 で践祚・即位。

在位中は後嵯峨上皇院政を敷き、直接政務を見ることはなかった。

1247年(宝治元年) 宝治合戦

執権北条氏

有力御家人三浦氏 の対立から

鎌倉で武力衝突が起こり、

北条氏と

外戚安達氏らによって

三浦一族とその与党が滅ぼされた。

1249年(建長元年) 引付衆 の設置

引付衆 は、裁判の公正と迅速化をはかるために設置した鎌倉幕府の職名の一つ。

執権 北条時頼 により

評定衆 の下に

御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかる為に設置された。

1251年 (建長3年) 続後撰和歌集 成立

1252年(建長4年)宗尊親王 6代将軍に

1251年 (建長3年)12月に

了行・矢作常氏・長久連ら 宝治合戦 残党の謀叛事件に

4代将軍 藤原頼経 が関係したとして、

頼経の子で 5代将軍の 藤原頼嗣

14歳で将軍職を解任され、京へ追放された。

1252年 (建長4年) 4月に

後嵯峨上皇の皇子 宗尊親王

11歳で鎌倉に迎えられ、

異母弟の後深草天皇 より

征夷大将軍の宣下を受ける。(6代将軍)

1266年 (文永3年) 7月に

宗尊親王が 将軍を解任され京へ送還される。

宗尊親王正室 近衛宰子 と 娘の掄子女王の振る舞いを口実にされた。

11月に

幕府は 宰子と掄子を京に送還し、宗尊の今後の生活のために所領5か所を献上した。

宮将軍 の開始となる。

1252年 (建長4年) 鎌倉大仏 造立

高徳院 は、

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。

開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。

本尊は 国宝銅造阿弥陀如来坐像 (鎌倉大仏)

大仏の造像の経緯についても、不明な点が多い。

吾妻鏡 によれば

1252年 (建長4年) から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始された。

大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。

地震津波で倒壊したとされる。

1253年 (建長5年) 北条時頼 建長寺 創建

1256年 (康元元年) 北条 長時 6代執権に

義兄で5代執権の 北条 時頼 が病のため

1260年 (正元 元年) 亀山天皇 即位

1249年(建長元年) 7月 に

後嵯峨天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 後深草天皇

1251年 (建長3年) 1259年 (翌正元 元年) 1月に

父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向により

兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚し 即位

1264年 (文永 元年) 北条政村 7代執権に

6代執権で甥の 北条長時が病で出家したため。

1265年 (文永2年) 続古今和歌集 成立

1266年 (文永3年) 惟康親王 7代将軍に

1264年 (文永元年) 4月 に

第6代将軍 宗尊親王 の嫡男として相模鎌倉に生まれる。

1266年 (文永3年) 7月に

父が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。

1268年 (文永5年) 元の国書 到来

1266年 に

元の皇帝 クビライ・ハン

元への服属を求める内容の国書を日本に送った。

1268年(文永5年) 1月に

国書を持参した 高麗使節団が

大宰府 に到来。

大宰府鎮西奉行少弐資能

国書を受け取り、鎌倉へ送達する

参考 元寇 第一次日本侵攻までの経緯

1268年 (文永5年) 北条 時宗 8代執権に

1268年 (文永5年) 1月に

元への服属を求める内容の国書が到来する。

同年3月に

元寇 という難局を前に権力の一元化を図るため、

7代執権 北条 政村

執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は連署として補佐に。

1272年 (文永9年) 2月 二月騒動

元寇 の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。

8代執権 北条時宗 の命により、

謀反を企てたとして

鎌倉で

名越流北条氏の 名越時章

名越 教時 兄弟、

京では

六波羅探題南方で時宗の異母兄 北条時輔

それぞれ討伐された。

1274年 (文永11年)後宇多天皇 即位

(1267年 (文永4年)に

亀山天皇 の第二皇子として誕生する。

1274年 (文永11年)1月に

亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚し、即位。

亀山上皇による院政が行われた。

1274年(文永11年) 文永の役

鎌倉時代中期に

モンゴル帝国 ( 元朝 ) および 属国の高麗 は 2度にわたり日本に侵攻した。(蒙古襲来)

1度目を 文永の役(1274年)、 2度目を弘安の役(1281年)という。

1271年 (文永7年) に

元は 日本に服属を求める国書を持ち来航する。

執権 北条時宗 を中心とする鎌倉幕府はこれを拒んだ。

西国の御家人に沿岸の警備を命じる。

1274年(文永11年) 10月に

元・高麗の連合軍(900艘の船艦と2万8千の軍兵)は対馬に上陸した。

元軍は対馬に入ると島人を多く殺害し、 子供男女 数百人を捕虜とした。

10月14日に、

対馬に続き、元軍は壱岐島に上陸した。

日本側は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れた。

対馬壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人大宰府に集結した。

10月20日

元軍は博多湾に上陸し、

日本側は迎え撃った。

日本側は武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍に敗れた。

夕暮れになり 元軍は 船に引きあげた。

夜になると、 日本側は兵船数艘で奇襲をかけ、元軍を討ち取った。

さらに 暴風雨になり元軍の船が破損した。

翌21日に

元軍は 姿を消した。

1279年 (弘安2年) 無学祖元 来日

無学祖元(むがく そげん)は、鎌倉時代臨済宗の僧。

8代執権 北条時宗 の招きに応じて来日。

日本に帰化して 鎌倉で 建長寺 の住持となる。

時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。

1281年(弘安4年) 弘安の役

鎌倉時代中期に

モンゴル帝国 ( 元朝 ) および 属国の高麗 は 2度にわたり日本に侵攻した。(蒙古襲来)

1度目を 文永の役(1274年)、 2度目を 弘安の役(1281年)という。

弘安の役

元軍が 文永の役 に続き 再度博多に来襲した戦役。

文永の役後、

幕府は

異国警固番役 を強化し、

引き続き九州の御家人に元軍の再襲来に備えて九州沿岸の警固に当たせるともに。

博多湾沿岸一帯に 石築地 ( 元寇防塁 ) を築造した。

1281年 (弘安4年) 5月21日に

元軍は 軍が軍船900艘と14万の大軍で 対馬沖に到着し 対馬に上陸した。

5月26日に

元軍は壱岐に襲来した。

なお、元軍は 壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し 兵士や水夫が行方不明になるという事態に遭遇している。

対馬壱岐を襲来した元軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。

しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地 ( 元寇防塁 ) を築いており、

元軍は 博多湾岸からの上陸を断念した。

7月30日夜半に

台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

元軍は 日本侵攻 を断念し 撤退した。

1284年 (弘安7年) 北条貞時 9代執権に

8代執権で父の 北条時宗 の急死により

1284年(弘安7年)新式目 制定

鎌倉幕府が出した38か条からなる 追加法

後に 弘安徳政 と言われた

鎌倉幕府の改革の中核となった法令である。

大きく分けると

徳政 の重要性を提示した前半18か条と

神領興行

越訴奉行 の設置

御家人領

甲乙人 からの保護などの

具体的政策を示した後半20か条に分けることができる。

1284年 (弘安7年) 弘安徳政

1284年 (弘安7年) 5月に

8代執権 北条時宗 が死去してから

翌年の 霜月騒動 にかけての

約1年半の間に鎌倉幕府で実施された幕政改革のこと。

そのおもな内容は,

(1)今後御家人所領の売買・質入れを禁止する,

(2)すでに売買・質入れされた所領は,無償で本主に返付させる,

(3)ただし買得安堵状を下付されたもの,または20年の年紀を超過したものは除外する,

(4)債権債務に関する訴訟を受理しない。

永仁の徳政令 の先例となる。

1285年(弘安8年)霜月騒動

1285年 (弘安8年) 旧暦11月 (霜月) に

鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。

9代執権 北条貞時外戚

有力御家人 安達泰盛 が進めた

改革・弘安徳政 が行き詰まりを見せると、

内管領

平頼綱

反対派の勢力と対立が激化し、

頼綱方の先制攻撃を受けて 泰盛は討たれ、その一族郎党も尽く滅ぼされた。

騒動はさらに関東、九州を中心に地方へ広がり幕府を二分する大規模な内乱となった。

源頼朝 没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、

この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人政治勢力は壊滅し、

平頼綱 率いる 得宗 家被官( 御内人 )勢力の覇権が確立した。

1287年 (弘安10年) 伏見天皇 即位

265年 (文永2年) 5月に

後深草天皇 の第二皇子として誕生。

1287年 (弘安10年) 11月に

後深草天皇鎌倉幕府( 執権 北条貞時 ) の意向で

従兄弟にあたる 後宇多天皇 より譲位され 即位

1289年 (正応2年) 久明親王 8代将軍に

1276年 (建治2年) 9月に

後深草天皇 の第六皇子として誕生。

1289年 (正応2年) 9月に

従兄の7代将軍 惟康親王 が京に送還されたことにともない、 征夷大将軍に就任した。

1292年(正応5年) 鎮西探題 設置

幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。 行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。

1293年(正応6年) 鎌倉大地震

1293年(正応6年) 平禅門の乱

8代執権 北条時宗 の死去後、

北条氏得宗家の内管領として、

幕府の実権を握った 平頼綱 が、

主君である9代執権 北条貞時 によって滅ぼされた事件。

1297年(永仁5年) 永仁の徳政令

9代執権 北条貞時が発令した、

日本で最初とされる 徳政令 。 内容は以下の通りである。

(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。

(2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。

(2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。 ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、買主が御家人の場合で領有後20年を経過した土地は、返却せずにそのまま領有を続けよ。

(2-c)非御家人(幕府と御家人関係を結んでいない侍身分の者)・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)が買主の場合は、年限に関係なく(20年を経過していても)、元の領主が領有せよ。

(3)債権・債務の争いに関する訴訟は受理しない。

1298年 (永仁6年) 後伏見天皇 即位

1288年 (弘安11年) 3月に

伏見天皇 の第一皇子として誕生。

1298年 (永仁6年) に

父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。

伏見上皇院政を執り行った。

1299年 (正安 元年) 一山一寧 来日

*一山一寧(いっさん いちねい)は、元の渡来僧。

二度の日本遠征( 元寇 ) に失敗した

元の皇帝 クビライ

再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とする構想を持つ。

1294年 に

クビライの後を継いだ 世祖 は日本の属国化を図り

一寧に日本への 朝貢 督促の国使を命じた。

1299年 (正安元年)に

一寧は 門人一同のほかに 西礀子曇 を伴って日本に渡った。

大宰府に入った一寧は 元の 国書を 9代執権 北条貞時 に奉呈するが、

元軍再来を警戒した鎌倉幕府は 一寧らの真意を疑い伊豆 修禅寺に幽閉した。

貞時は ほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。

一寧の 名望は高まり多くの僧俗が連日のように彼の草庵を訪れた。

貞時も 疑念を解き、建長寺 の住職に迎え、自ら帰依した。

1301年 (正安3年) 後二條天皇 即位

1285年 (弘安8年) 2月 に

後宇多天皇 の第一皇子として誕生。

1301年 (正安3年) 1月 に

大覚寺統 や幕府の圧力があり

後伏見天皇 の譲位を受けて践祚し 即位。

1301年 (正安3年) 北条 師時 10代執権に

9代執権 で 従兄弟の 北条 貞時 の出家に伴い、

師時が 執権。

1305年(嘉元3年) 嘉元の乱

鎌倉幕府内での騒乱。

1305年(嘉元3年 4月22に

既に執権職を退きながらも実権を握っていた得宗 北条貞時 の屋敷で火災があった。

その翌日の23日深夜に

貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人の一団が

葛西ヶ谷にあった 連署 北条時村 の屋敷を襲い 時村ら50余人を殺害。

孫の 北条煕時 はかろうじて難を逃れたが、

葛西ヶ谷の時村邸一帯は出火により焼失した。

その12日後に

引付衆一番頭人大仏宗宣 らが

貞時の従兄弟で得宗家執事の 北条宗方 を追討。

二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷には火をかけられ 宗方の多くの郎等が討死した。

7月22日に

宗方討伐の大将・宗宣が、殺された時村の後任として連署に就任した。

1308年 (延慶元年) 花園天皇 即位

1297年 (永仁5年) 8月に

伏見天皇 の第四皇子として誕生。

1308年 (延慶元年) 8月に

先帝 後二条天皇 が急死した。 . 翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。

在位の前半は 父の伏見上皇が、

後半は 兄の後伏見上皇院政を布いた。

1308年 (延慶元年) 守邦親王 9代将軍に

1301年 (正安3年) 5月 に

8代将軍 久明親王 の子として誕生。

1308年 (延慶元年) 8月に

9代執権 北条 貞時 によって

久明親王は 将軍職を廃され、京に送還されたため、

守邦親王は 8歳で征夷大将軍に就任した。

鎌倉幕府の最後の将軍

2311年 (応長元年) 北条 宗宣 11代執権に

10代執権 北条師時 の死去により、

宗宣が 執権に。

1312年 (応長2年) 北条 煕時 12代執権に

11代執権 北条 宗宣の出家により、

煕時が 執権に。

1315年 (正和4年) 北条 基時 13代執権に

12代執権 北条 煕時が病で執権職を辞任したため

基時が 執権に。

1316年 (正和5年) 北条 高時 14代執権に

13代執権北条 基時より執権職を譲られて。

高時が 執権に。

1317年(文保元年) 文保の和談

後嵯峨天皇 の皇子である

後深草天皇の子孫 ( 持明院統 )と

亀山天皇の子孫 ( 大覚寺統 )の

両血統の天皇が交互に即位する( 両統迭立 )ことを定めたとされる合意。

1318年 (文保2年) 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇 の第二皇子 として誕生。

1318年 (文保2年) 2月に

花園天皇 の譲位を受け 31歳で践祚し 即位。

1324年(正中元年) 正中の変

後醍醐天皇

その腹心の

日野資朝

日野俊基 が、

鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件。

後醍醐と俊基は 処分なし。

資朝は 佐渡国新潟県佐渡市)へ遠流となった。

1325年(正中2年) 建長寺船

勝長寿院

建長寺

の修復のため、鎌倉幕府公認で元におくられた民間の貿易船。

社寺の造営料を得る目的で派遣された 寺社造営料唐船 のひとつで、 特定の条件下にある入元の船である。

1326年(嘉暦 元年) 嘉暦の騒動

鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る

内管領 長崎氏 と、

外戚 安達氏 の抗争による内紛。

1326年 (正中3年) 3月13日に

14代執権 北条高時 が病のために24歳で出家する。

高時の長子 太郎邦時得宗家の後継者に推し、

北条氏庶流の 金沢貞顕 を15代執権に推挙する。

安達氏側は邦時の家督継承を阻止するべく、

高時の弟で 大方殿 の子

北条泰家 を高時の後継として推していた。

3月16日朝 に

貞顕の元に執権就任を告げる長崎氏の使者が訪れ、貞顕は素直に喜びその日から評定に出席した。

しかし同日に 泰家がこれを恥辱として出家を遂げる。

憤った泰家とその母大方殿が貞顕を殺そうとしているという風説が流れ、貞顕は窮地に立たされる。

3月26日に

貞顕は 15代執権を辞任し、出家を遂げた。

在職10日余りであった。

貞顕の出家後、泰家と安達氏の憤りを恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、

4月24日に

引付衆一番頭人 赤橋守時 が就任し、

これが最後の北条氏執権となる。

1326年 (正中3年)北条 貞顕 15代執権に

14代執権 北条高時 が病のために出家したため

1326年 (正中3年) 北条 守時 16代執権に

15代執権 北条 貞顕 が執権職を辞任したため。

鎌倉幕府の最後の執権

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

鎌倉幕府及び

執権 北条高時 を当主とする

北条得宗家 の勢力の間で行われた全国的内乱。

元弘の変

1331年 (元弘 元年) に

後醍醐天皇

尊良親王

護良親王 の二皇子と共に

笠置山の戦い を起こした。

武将 楠木正成 桜山茲俊 もこれに呼応して、

正成は 下赤坂城の戦い を開始、

茲俊は備後の地吉備津宮 で挙兵した。

しかし、鎌倉幕府の反撃に遭い

後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、

護良と正成は逃げ延び、

茲俊は吉備津宮に火をかけ自害して果てた。

後醍醐天皇は退位を強制され、光厳天皇 が即位し、後醍醐天皇隠岐島へ、

尊良親王土佐国高知県)に流された。

鎌倉幕府滅亡

1333年 (元弘3年) に

楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵した。

後醍醐天皇尊良親王流刑地を脱出した。

倒幕を促す後醍醐の綸旨(天皇の命令文)と護良の令旨(皇族の命令文)が全国に出回ったこと等により、

戦況は徐々に後醍醐勢力が盛り返してきた。

足利尊氏 が幕府から離反したことが大きな転機となって、

鎌倉からの遠征軍と 京の六波羅探題が壊滅。

関東では

御家人新田義貞 らが倒幕に応じ、

5月に

東勝寺合戦 で、

得宗北条高時

内管領長崎高資を中心とする

幕府・得宗家の本体を滅ぼした。

7月に

勝利した 後醍醐天皇は、光厳天皇を廃位し

建武の新政 を開始した。

1331年 (元弘 元年) 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として誕生。

1326年 (嘉暦元年) 7月に

後醍醐天皇 の皇太子となる。

元弘の変 の折り

後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

1331年 (元弘 元年) 9月に

鎌倉幕府( 執権 北条高時 ) の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚し即位。

1333年(元弘3年) 鎌倉幕府 滅亡

元弘の乱 により

鎌倉幕府

北条氏 は滅亡した。

1336年 (延元元年) 室町幕府 成立

1336年 (延元元年) に

足利尊氏

室町幕府 の施政方針を示した

建武式目 を制定した。

これを以って 室町幕府の成立とする。

1338年(延元3年) に

足利尊氏征夷大将軍に補任された。