鎌倉時代の出来事

鎌倉時代の出来事を年表にまとめた。

鎌倉時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 平安時代

後は 室町時代

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参考

鎌倉時代の概要

鎌倉時代

1185年(文治元年) に

平家 が滅亡し

源頼朝

鎌倉幕府

を成立してから

1333年 (正慶2年) に

後醍醐天皇

討幕のため 挙兵し

足利尊氏

室町幕府

を成立するまでの

約150年間

源頼朝鎌倉殿 として武士の頂点に立ち、全国に 守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。

京都の朝廷と地方の 荘園公領はそのままで、地方支配に 地頭 等の形で支配構造ができあがった。

二度にわたる 元寇 があり、内乱、地震、疫病、飢饉などの災害が多く発生した時代である。

鎌倉時代の政治

鎌倉幕府は当初、将軍( 実際には 鎌倉殿 ) を中心としていた。

征夷大将軍 は必須ではない。

河内源氏 ( 源頼朝 ) 系 ) の直系の将軍は3代で絶え、

将軍は公家( 摂家将軍)、

後には皇族( 皇族将軍 )を置く傀儡の座となり、

実権は将軍から、十三人の合議制 へ移る。

さらに、実権は 北条政子 を経て、

執権であった 北条氏へ移っていった。

北条氏以外の他氏族を幕府から排除して、権力を北条氏に集中させていった。

北条氏の功績としては 御成敗式目 の制定が挙げられる。

これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。

北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。

8代執権 北条時宗の代に

2度に渡る元寇 があり、

鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。

9代執権 北条貞時 の代になると御内人の権力は増長し、 得宗の権威すら凌ぐようになる。

貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。

多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。

弘安徳政

永仁の徳政令 を実施して

没落する御家人の救済を図ったが、

恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。

後醍醐天皇 による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。

鎌倉時代の文化

鎌倉文化の特徴は、文化の中心地は平安時代と変わらず京都と奈良であるが、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗した点で、文化の二元性が出てきたところにある。

随筆

軍記物語

歌集

彫刻

鎌倉時代の出来事

1147年 ( 久安3年) 4月 源頼朝 誕生

河内源氏 の棟梁 源義朝 の三男として誕生。

母は 藤原季範 の娘 由良御前

1160年 (平治元年) の 平治の乱 において 頼朝 (14 歳) は 伊豆国に配流となる。

1177年(安元3年) に 頼朝 (31歳) は 北条時政 の娘
北条政子 (20歳) と結婚した。

1180年 (治承4年) に 頼朝 (34 歳) は 義父の「北条時政」とともに 平氏追討のため 伊豆国で 挙兵した。

1185年 (元暦2年) 5月 の 壇ノ浦の戦い において 平氏は滅亡する。

同年 12月 の 文治の勅許 において 頼朝 (39 歳) に対し 諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。

1192年 (建久3年) に 頼朝 (45 歳) は 征夷大将軍に任ぜられた。

1199年 (建久10年) 1月 に 鎌倉で 死去した。(享年 53)

1158年 (保元3年) 8月 二条天皇 即位 (15歳)

1143年(康治2年) 7月に 後白河天皇 の第一皇子として誕生。

1158年 (保元3年) 8月 に 父の 後白河天皇 より譲位され 15歳で即位。

1165年 (長寛3年) 2月に 病に倒れた。

同年 6月に 子の「順仁親王」の立太子を行うとその日のうちに譲位する。( 六条天皇 )

同年 7月に 押小路東洞院崩御した。(宝算23)

1160年 (平治元年) 源頼朝 伊豆国に 配流

1160年 (平治元年) の 平治の乱において 頼朝 (14 歳) は伊豆国に 配流された。

1165年 (永万元年) 8月 六条天皇 即位 (2歳)

1164年 (長寛2年) に 二条天皇 の第二皇子 として誕生。

1165年 (永万元年) 8月に 父 二条天皇 が病気になり、 数え2歳で親王宣下立太子し、その日のうちに践祚した。

1168年 (仁安3年) 2月に 祖父 後白河上皇 の意向により、在位2年8か月で 叔父の 「憲仁親王」に譲位した。( 高倉天皇 )

1168年 (仁安3年) 2月 高倉天皇 即位 (8歳)

1161年 (応保元年) 9月に 後白河天皇 の第7皇子として誕生。

母は 平時信の娘 滋子

平清盛 は 母の姉 平時子 の夫。(義理の伯父)

六条天皇 は 父の兄 二条天皇 の子 (甥)

1168年 (仁安3年) 2月に 父の 後白河院 が 「六条天皇」を5歳で退位させ、 高倉天皇 が8歳で擁立された。

1180年 (治承4年) 2月 に 子の 安徳天皇 (3 歳) に譲位する。

1180年(治承4年) 4月 安徳天皇 即位 (3 歳)

1178年 (治承2年) 11月に 高倉天皇 の第一皇子として誕生。

母は 平清盛の娘の 徳子

1180年 (治承4年) 2月 に 父 高倉天皇から譲位され 数え年3歳 で践祚し、4月に 即位する。

幼帝の政治の補佐は外祖父の「平清盛」が取り仕切った。

1180年 (治承4年) 源頼朝 挙兵

1180年 (治承4年) 4月 に 後白河院 の皇子 以仁王平氏追討の令旨を下した。

8月に 頼朝 (34歳) は 義父の 北条時政 とともに 伊豆国で挙兵した。

1180年 (治承4年) 源頼朝 鶴岡八幡宮 を遷す

鶴岡八幡宮

1063年 (康平6年) 8月に

河内源氏 2代目 棟梁 の

源頼義 が、

前九年の役 に際して

戦勝を祈願した京都の 石清水八幡

鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが

始まりとなった。

1180年 (治承4年) 10月に

平家打倒の兵を挙げ 鎌倉に入った 河内源氏後裔の 源頼朝 は、12日に 宮を現在の地である小林郷北山 (現 雪ノ下2丁目) に遷す。

1183年 (寿永2年) 8月 後鳥羽天皇 即位 (4 歳)

1180年 (治承4年) 8月 に 高倉天皇 の第四皇子として誕生。

母は 藤原信隆 の娘 殖子

安徳天皇 は異母兄。

神器なき即位

1183年 (寿永2年) 8月に 祖父 後白河法皇 の意向で 異母兄 安徳天皇 が在位のまま 三種の神器 がなきまま 4歳で即位した。

即位後の執務は 後白河法皇 が行った。

院政

1198年 (建久9年)1月、後鳥羽天皇 (18 歳) は 土御門天皇に譲位し、以後、 土御門、 順徳仲恭 と 1221年 (承久3年) まで、3代23年間に亘り 太上天皇として 院政 を敷く。

承久の乱

1221年 (承久3年) の 承久の乱 において 後鳥羽上皇 (38 歳) は、執権 北条義時 追討の官宣旨と院宣を出し、 山田重忠 ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集したが、幕府の大軍に完敗し、 隠岐島 に配流された。

1183年(寿永2年) 10月 寿永二年十月宣旨

朝廷 から 源頼朝 に下された 宣旨

頼朝に対して、 東国 における 荘園公領 からの 官物年貢 納入を保証させると同時に、 頼朝による東国支配権を公認したものとされる。

1184年 (元暦元年) 源頼朝 勝長寿院 建立

源頼朝が父 義朝 の菩提を弔うための寺の建立。

頼朝は 後白河院 に依頼して義朝の首を探し出し、

義朝と その腹心 鎌田政清 の首は 鎌倉に届けられた。

1185年 (文治元年) 9月に

義朝の遺骨と政清の首は南御堂の地に埋葬され、

頼朝の他は

平賀義信 とその子息・惟義、源頼隆

平治の乱 の関係者のみが立ち会いを許された。

本尊は 阿弥陀如来 像。

1185年(文治元年) に

仏師 成朝

源頼朝の招きに応じて関東に下り、

頼朝発願の 阿弥陀如来像を制作する。

1185年 (元暦2年) 4月 壇ノ浦の戦い

源氏軍 ( 陸: 源範頼、 海: 源義経 ) と [平氏軍 ( 平宗盛平知盛 ) の戦闘。

源氏軍 が勝利し、 平家が滅亡した。

1185年(文治元年) 12月 文治の勅許

北条時政 による奏請に基づき、 朝廷 より 源頼朝 に対し与えられた 諸国への 守護地頭 職の設置・任免を許可した 勅許 のことである。

これを以って 鎌倉幕府 の成立とする。

1189年 (文治5年) 6月 衣川の戦い

陸奥国 衣川館 で行われた 藤原泰衡 方と 源義経 主従による戦い。

義経」は 頼朝 と対立する。

1187年 (文治3年) に 「義経」は 奥州 平泉 に逃れ 藤原秀衡 の庇護下に入る。

同年10月に 「秀衡」 が死去する。(享年 65)

「頼朝」 は 後を継いだ 「泰衡」(32 歳) に「義経」を捕縛するよう圧力をかけた。

1189年 (文治5年) 6月に 「泰衡」は 衣川館を襲い、 「義経」を自害させた。(享年31)

1189年 (文治5年) 7月 奥州合戦

鎌倉政権

奥州藤原氏 との間で

東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。

この戦役により、

源頼朝 による

武士政権が確立した。

1189年 (文治5年) 北条時政 願成就院 建立

本尊は 阿弥陀如来像 ( 運慶 作 )

1189年 (文治5年) 和田 義盛 浄楽寺 建立

本尊は 阿弥陀如来像 ( 運慶 作 )

1192年 (建久3年) 7月 源頼朝 (45 歳) 征夷大将軍

源頼朝 征夷大将軍

1189年 (文治5年) に 頼朝 (42 歳) は 按察使 への任官を打診されるが、辞退した。

1190年 (建久元年) に 頼朝 (43 歳) は 千余騎の御家人を率いて入京する。

後白河法皇 に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。

1192年 (建久3年) 7月に 頼朝 (45 歳) は 征夷大将軍 に任ぜられた。

1193年 (建久4年) 5月 富士の巻狩り

193年 (建久4年) 5月から6月にかけて、 源頼朝 が多くの御家人 を集め 駿河国富士山麓藍沢富士野 にて行った壮大な 巻狩 のことである。

1193年(建久4年) 5月 曾我兄弟の仇討ち

富士の巻狩り の際に 曾我祐成曾我時致 の兄弟が父親の仇である 工藤祐経富士野 にて討った事件。

1196年 (建久7年) 建久七年の政変

九条兼実 が関白を罷免され失脚した事件。

1198年 (建久9年) 2月 土御門天皇 即位 (3歳)

1195年 (建久6年)11月に 後鳥羽天皇 の第一皇子として誕生。

母は 能円 の女 源在子

1198年 (建久9年) 2月に 父の 後鳥羽天皇の譲位により 3歳で践祚し 即位。

後鳥羽上皇による院政がしかれた。

1210年 (承元4年) 12月 に 父の 後鳥羽上皇に 退位を迫られ、16歳で 異母弟の 順徳天皇 (14 歳) に譲位する。

1221年 (承久3年) の 承久の乱 において 23歳で 自ら申し出て土佐国に流された。

後に 阿波国に移された。

1231年 (寛喜3年) 10月に出家し、 同月 崩御した。(宝算37)

1199年 (建久10年) 1月 源頼朝 死去 (享年 53)

1198年 (建久9年) 12月に 頼朝は 相模川 で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。 '

翌年(建久10年) 正月11日に出家。

正月13日に死去した。(享年 53)

妻の 「政子」は出家して尼になり「尼御台」と呼ばれる。

1199年(建久10年) 1月 源 頼家 (18歳) 第2代鎌倉殿 に

鎌倉殿の嫡男

1182年 (寿永元年) 8月に 源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の 比企能員 の屋敷で生まれる。

母は 北条時政 の娘 北条政子

千幡 ( 源実朝 ) は同母弟。

1193年 (建久4年) の 富士の巻狩りにおいて 頼家 (12 歳) が初めて鹿を射る。

1198年 (建久9年) に 17歳のとき 比企能員 の娘 若狭局 との間に 長男 一幡 が誕生する。

第二代鎌倉殿

(1199年)(建久10年) 1月13日に 父「頼朝」が急死する。(享年 53)

1月26日付けで 18歳で家督を相続し 第2代鎌倉殿となる。

同年 4月に 北条氏ら有力御家人による 十三人の合議制 がしかれた。

同年 11月の 梶原景時の変 において 頼家梶原景時 を救うことができず、 「景時」は鎌倉追放を申し渡された。

1202年 (建仁2年) 7月に 従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。

将軍追放

1203年 (建仁3年) 8月末に 頼家 (21 歳) は危篤状態に陥った。

まだ 頼家 が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡 が跡を継いだ」との報告が 9月7日に都に届き、 「千幡」の征夷大将軍任命が要請された。

同年 9月の 比企能員の変 において 頼家 の乳母父で 長男 一幡 の外祖父である 比企能員 が外祖父の 「北条時政」によって謀殺され、比企一族 は滅ぼされた。

同年 9月7日に 鎌倉殿の地位を追われ、「千幡」がこれに替わった。

最期

頼家伊豆国修禅寺に護送され 1204年 (元久元年) 7月、北条氏の手兵によって殺害された。(享年 23)

1200年 (正治2年) 4月 十三人の合議制 開始

源頼家 が 訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。

1200年 (正治2年) 梶原景時の変

鎌倉幕府内部で起こった政争。

源頼朝 の腹心であった 梶原景時御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。

頼朝死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。

1201年(建仁元年) 建仁の乱

城長茂 ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。

1202年 (建仁2年) 7月 源頼家 (20 歳) 2代将軍に

1182年 (寿永元年) 8月に 源頼朝 の嫡男として誕生。

母は 北条時政 の娘 北条政子

源実朝 は同母弟。

1199年 (建久10年) 1月に 18歳で 第2代鎌倉殿となる。

1202年 (建仁2年) 7月に 20 歳で 征夷大将軍に宣下され、鎌倉幕府の第2代将軍となる。

1203年(建仁3年) 比企能員の変において 21 歳で 伊豆国修禅寺に追放され、「実朝」 (12 歳) が第3代鎌倉殿となる。

1204年 (元久元年) 7月 に 北条氏の手兵によって殺害された。(享年 23)

1202年(建仁2年) ) 9月 千五百番歌合 成立

後鳥羽院 が主催した 歌合

1203年(建仁3年) ) 9月 比企能員の変

2代将軍 源頼家外戚として 権勢を握った 比企能員 とその一族が、 北条時政の謀略によって 粛清、族滅された。

1203年(建仁3年) 9月 源実朝 (12 歳) 第3代鎌倉殿 に

出生

1192年 (建久3年) 8月に 源頼朝 の次男として鎌倉で誕生。(幼名 千幡)

母は 北条 時政 の娘 北条政子

乳母は 「政子」の妹 阿波局

源 頼家 は同母兄。

三代鎌倉殿就任

1203年 (建仁3年) 9月の 比企能員の変 により 「頼家」(21 歳) は将軍職を失い、伊豆国に追われる。

9月1日に 母の「政子」らは朝廷に対して「頼家」が死去したという虚偽の報告を行い、千幡 への家督継承の許可を求めた。

9月7日に 朝廷は 千幡 (12 歳) を従五位下征夷大将軍に補任した。

同年 10月 に 外祖父の 北条時政邸において 12歳で元服し、後鳥羽院命名により、「実朝」と称した。

騒乱と和歌

1205年 (元久2年) 6月の 畠山重忠の乱 において 実朝 (13 歳) は幼年のため、乱後の行賞は「政子」により計らわれた。

同年 7月の 牧氏事件 において 「時政」と 後妻の 牧の方 が 時政邸にあった 将軍 実朝 を侵そうとした。

7月20日に 「時政」は伊豆国北条に追われ、執権 職は 子の 義時 が継いだ。

同年 9月 に 後鳥羽院 が勅撰した 新古今和歌集 を京より運ばせる。

和田合戦

1213年 (建暦3年) 2月 の 泉親衡の乱 において 侍所別当を務める 和田義盛 の子である 義直義重 らが捕らえられる。

同年 5月の 和田合戦 において 和田義盛 は兵を挙げ、 「義盛」の兵が御所に火を放つ。

実朝 は火災を逃れ、「頼朝」の墓所である 法華堂 に入った。

5月3日、 「義盛」は討たれ、合戦は終わった。

5月5日、 実朝 (21 歳) は御所に戻ると、侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った。

最期

1217年 (建保5年) 6月 に 園城寺 で学んでいた 「頼家」の子の 公暁 が鎌倉に帰着し、 「政子」の命により 鶴岡八幡宮別当に就く。

1219年 (建保7年) 1月に 「八幡宮」の神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ「公暁」に襲われ、実朝 は落命した。(享年28)

1203年(建仁3年) 9月 北条時政 (65 歳) 初代執権に

1138年 (保延4年) に 伊豆国 の在地 豪族 北条時方 の長男として誕生。

1177年(安元3年) 頃に 長女の 政子源頼朝と結婚。

1180年 (治承4年) 8月に 時政 (42 歳) は「頼朝」とともに平氏打倒のため挙兵する。

北条時政 実朝擁立

1203年(建仁3年) 9月 に 時政 (65 歳) は 2代鎌倉殿 源頼家 (21 歳) を廃し 3代鎌倉殿 に 源実朝 (12 歳) を擁立した。

9月16日に 幼い「実朝」に代わって 時政 が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され、 御家人たちの 所領 安堵 以下の政務を行った。

同年 10月に 大江広元 と並んで 政所 別当 に就任した。

この時期の 時政 は鎌倉殿である「実朝」はもちろん、 同じ政所別当である「大江広元」の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。

こうした政治的状況から 同年 9月に 時政 (65 歳) が初代 執権 に就いたとされる。

1204年(元久元年) 三日平氏の乱

伊勢国

伊賀国

平家

の残党が蜂起した事件。

伊勢平氏 の若菜盛高らが蜂起し、

討伐に向かった鎌倉幕府軍の

平賀朝雅

三日間で反乱軍を鎮圧した。

1205年(元久2年)3月 新古今和歌集 成立

後鳥羽院 の勅命で編纂された 勅撰和歌集

1205年(元久2年) 7月 畠山重忠の乱

武蔵国 二俣川 (現・神奈川県横浜市旭区) において、 武蔵国の有力御家人畠山重忠が 武蔵掌握を図る 北条時政 の策謀により、 北条義時 率いる大軍に 攻められて滅ぼされた事件。

鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。

1205年(元久2年) 7月 牧氏事件

鎌倉幕府の執権 北条時政 の後妻 牧の方 が 時政 と共謀, 将軍 源実朝 を殺害し, 女婿の 平賀朝雅 を 将軍にしようとした事件。

北条政子北条義時 は 親に対しても躊躇しないという態度をとった。

時政 と 牧の方 は出家し、鎌倉から追放され 伊豆国 へ隠居させられることになった。

1205年(元久2年) 7月 北条義時 (42 歳) 2代執権に

生涯

1163年(長寛元年) に 伊豆国 の在地 豪族 北条時政 の次男として誕生。

母は 伊東入道 の娘。

北条政子 は同母姉。

正室比企朝宗 の娘の 姫の前

継室は 御家人 伊賀朝光の娘 伊賀の方

側室は 阿波局。

青年期

義時 が15、6歳の頃に 姉「政子」は 源頼朝 と結婚した。

1180年 (治承4年) 8月に 義時 は 18歳で 父「時政」と共に「頼朝」の挙兵に従う。

同月の 石橋山の戦い において 大庭景親に敗北する。

「頼朝」は安房国に脱出した。

義時 は父「時政」と共に甲斐国へ向かい 甲斐源氏 と行動を共にする。

その後、時政・義時親子は「頼朝」の下に戻る。

1183年 (寿永2年)に 21歳のとき 側室「阿波局」 との間に 長男の 泰時 が誕生する。

1193年 (建久4年) に 31歳のとき 正室「姫の前」との間に 嫡男の 朝時 が誕生する。

権力闘争

1199年 (建久10年) に 「源頼朝」死去。 (享年 53)

同年に 嫡男の 頼家 が2代鎌倉殿に。

1200年 (正治2年) に 36歳で 十三人の合議制 の一員となる。

1203年(建仁3年) の 比企能員の変 において 父「時政」は 比企能員 を謀殺。

次いで 2代将軍 源頼家 を廃し、12歳の 源実朝 を3代将軍に擁立した。

1205年 (元久2年) に 42歳のとき 継室「伊賀の方」との間に 五男の 政村 が誕生。

同年 閏7月の 牧氏事件 において 父で 執権の 「時政」を伊豆国北条に追放し、42歳で 2代執権となる。

1213年 (建暦3年) の 和田合戦 において 侍所別当 和田義盛 を滅ぼし、50歳で 侍所別当となる。

実朝暗殺

1219年 (建保7年) に 将軍 源実朝源頼家 の子 公暁 によって暗殺される。(享年 28)

幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇 は拒否する。

後鳥羽上皇」は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと妥協案を示した。

幕府は「頼朝」の妹 坊門姫 の曾孫にあたる 九条道家 の子である三寅( 藤原頼経 )を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。

承久の乱

1221年(承久3年)の 承久の乱 において 後鳥羽上皇順徳上皇土御門上皇 が配流され、 仲恭天皇 は廃されて 新たに後堀河天皇 が立てられた。

最期

1224年 (元仁元年) に入ると、 義時 (62歳) は自身の健康長寿などを願って100日間の泰山府君祭を開始した。

同年 6月に 死去した。(享年 62)

没後まもなく 伊賀氏事件 が起こる。

1210年 (承元4年) 順徳天皇 即位

後鳥羽上皇 の強い意向により、

異母兄 土御門天皇

の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する。

1213年(建暦3年) 泉親衡の乱

鎌倉幕府御家人 泉親衡

源頼家 の遺児

千寿丸

鎌倉殿 に擁立し

執権 北条義時 を打倒しようとした 陰謀と

それに続いた合戦を指す。

和田合戦 の前哨戦とされている。

1213年 (建暦3年) 和田合戦

有力御家人 和田義盛 の反乱である。

泉親衡の乱 の折に

和田義盛

息子の 義直義重と、

甥の 胤長

が捕縛される。

息子2人は赦免となるも、義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長の赦免も懇請したが、

胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪となり、その後は屋敷も没収される。

これらの件で北条氏と和田氏の関係は悪化する。

義盛は姻戚関係にあった横山党や

同族の 三浦義村 と結び、

北条氏打倒のために挙兵。

だが土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。

合戦は2日間に渡るが、

征夷大将軍 源実朝 を擁し

兵力で勝る義時側が最終的な勝利をおさめ、義盛は敗死し和田一族は滅亡した。

1219年 (建保7年) 源実朝 暗殺される

1217年 (建保5年) に

園城寺で学んでいた

第2代鎌倉殿 源頼家 の子

公暁 が鎌倉に帰着し、

政子 の命により

鶴岡八幡宮別当に就く。

1218年 (建保6年) に

左大臣 九条良輔薨去により

第3代鎌倉殿 源実朝 は 武士としては初めて 右大臣へ転ずる。

1218年 (建保6年) に

実朝 は昇任を祝うため 鶴岡八幡宮に拝賀する。

夜になり神拝を終え退出の最中、

「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ 公暁 に襲われ、実朝 は落命した。享年28歳

1220年 (承久2年) 三寅 (2歳) 4代鎌倉殿に

1218年 (建保6年) 2月に 藤原頼経九条家 3代当主 九条道家 の三男として 京で 生まれる。(幼名 三寅)

母は 西園寺公経の娘 掄子

源頼朝 の 同母妹 坊門姫 の曾孫にあたる。

1219年 (建保7年) に
第3代鎌倉殿 源実朝 が暗殺された。(享年 28)

鎌倉幕府後鳥羽上皇 の皇子を将軍に迎えようとしたが、拒否される。

後鳥羽上皇」は 皇子でさえなければ 摂関家 の子弟であろうと 鎌倉殿 として下して構わないと妥協案を示した。

三寅 (2歳) が鎌倉に下向し 第4代鎌倉殿となる。

鎌倉下向から数年間は 北条政子尼将軍 として 三寅 を後見して将軍の代行をしていた。

1225年 (嘉禄元年) に
元服し「頼経」と名乗る。

1226年 (嘉禄2年) に
将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。

1221年 (承久3年) 4月 仲恭天皇 即位 (4 歳)

1218年 (建保6年) 10月に 順徳天皇 の第三皇子として誕生。

1221年 (承久3年) 4月に
順徳天皇より譲位され、4歳で践祚

同年の7月の 承久の乱 において 在位 2ヶ月で皇位を廃され、 高倉天皇 の第二皇子である 守貞親王 の皇子 茂仁王が即位した。( 後堀河天皇 )

1221年(承久3年)5月 承久の乱

後鳥羽上皇鎌倉幕府執権の 北条義時 に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。

首謀者である「後鳥羽上皇」は隠岐島順徳上皇佐渡島に それぞれ配流された。

土御門上皇 は自ら望んで土佐国へ配流され、後に阿波国へ移される。

仲恭天皇 は廃され、 「後鳥羽」の同母兄 行助入道親王 の皇子 茂仁王 が即位した。( 後堀河天皇 )

1221年 (承久3年) 6月 六波羅探題 の設置

承久の乱 ののち、

幕府がそれまでの 京都守護 を改組し

京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関

朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧 平清盛 邸の跡地を拠点にし、 北条泰時北条時房の2人が 六波羅の北と南に駐留して、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行った。

1221年 (承久3年) 7月 後堀河天皇 即位 (10 歳)

1212年 (建暦2年) 3月に 高倉天皇 の第二皇子の 守貞親王 の第三皇子として誕生。(茂仁王)

高倉天皇の 孫にあたる。

仲恭天皇高倉天皇の 曾孫にあたる。

1221年 (承久3年) 6月 の 承久の乱 において 鎌倉幕府仲恭天皇を退位させた。

皇位継承者には、乱の首謀者である 後鳥羽上皇 の直系子孫を除外し 茂仁王 (10 歳) が擁立され、 同年 7月 に 即位させた。(後堀河天皇)

父親の「守貞親王」に 太上天皇 の尊号を奉り上皇後高倉院)として、院政 を行わせた。

1232年 (貞永元年)11月に 後堀河天皇 (20 歳) は 皇子の 秀仁秀仁親王 に譲位。 ( 四条天皇 )

1224年 (貞応3年) 6月 北条義時 死去 (享年 62)

1224年 (元仁元年) に入ると、 義時 は自身の健康長寿などを願って 3月19日から100日間の泰山府君祭を開始した。

6月13日に 義時 は死去した。(享年 62)

1224年 (元仁元年) 6月 伊賀氏事件

伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。

6月13日に 第2代執権 北条義時 が急死した。(享年 62)

28日に 鎌倉殿 後見である 北条政子 は 「義時」の長男の 泰時 を 御所に招いた。

政子は泰時を執権に任命することを決め、 大江広元 もそれに賛同している。

「義時」の後妻 伊賀の方 は 「義時」の五男で実子の 北条政村 を執権職に就けて、 兄の 伊賀光宗 に後見させ、 娘婿の 一条実雅 を将軍に擁立しようとした。

7月になると、 光宗とその弟たちは鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である 三浦義村 邸にたびたび出入りした。

政子は 万が一、義村が政村・光宗と手を結べば幕府は転覆しかねないと憂慮した。

7日の深夜に
政子は ひそかに義村を訪ね、政村・光宗との関係を詰問し、光宗らと謀反を企てているのでなければ事態の収拾に協力せよと迫った。

義村は 政村に 謀反の気持ちはないと弁明するとともに、光宗兄弟の暴走を制止すると誓った。

閏7月1日 に
政子は 鎌倉殿 三寅 を連れて泰時邸に入り、 義村以下の宿老を招集。

政子は 謀反の計画の存在を語り、謀反を防ぐために協力してほしいと呼びかけた。

御家人たちが 泰時 を支持したことで大勢は決した。

伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ配流となり、 公卿である実雅は朝廷に配慮して京都へ送還された後に越前へ配流となった。

しかし 彼らに担ぎ上げられそうになった 政村は 処罰を免れた。

1224年(元仁元年) 6月 北条泰時 (42歳) 3代執権に

出生から承久の乱まで

1183年 (寿永2年) に 2代執権 北条義時 の長男として誕生。

母は 阿波局。

北条重時 は異母弟。

北条実泰 は異母弟。

北条時房 は父の異母弟。(伯父)

北条実時 は弟「北条実泰」の子。(甥)

正室三浦義村 の娘 矢部禅尼

継室は 安保実員 の娘。

1194年 (建久5年) に 13歳で 将軍 源頼朝 を烏帽子親として元服

1203年 (建仁3年) に 20歳 のとき 正室「矢部禅尼」との間に 嫡男 時氏 が誕生。

1212年 (建暦2年) に 29歳 のとき 継室「安保実員の娘」 との間に 次男 時実 が誕生。

1221年 (承久3年) の 承久の乱において 泰時 (38歳) は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇 方の倒幕軍を破って京へ入った。

第3代執権

1224年 (貞応3年) 6月に 父「義時」が急死した。(享年 62)

直後の 伊賀氏事件 において 伯母で尼御台の 北条政子伊賀の方 らを謀反人として処罰した。

同年 6月に 泰時 は 「政子」の後見の元、家督を相続して 42歳で 第3代執権となる。

1225年 (嘉禄元年) 7月 に 政所別当 大江広元 が死去する。(享年 83)

直後に 叔父の 「北条時房」を 初代 連署 に任命した。

同年 12月 に 4代鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた「三寅」を元服させ、藤原頼経 と名乗らせた。

同時に 評定衆 を設置する。

1226年 (嘉禄2年) に 「頼経」は正式に征夷大将軍となる。

御成敗式目

承久の乱 以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。

1232年 (貞永元年) に 全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。

裁判の基準としての意味で 御成敗式目 と呼ばれるようになる。

晩年

1230年 (寛喜2年) に 泰時 (47歳) は嫡男 時氏 に代わって 異母弟の 「北条重時」を六波羅探題北方に、 その後任の小侍所別当に 異母弟の 「北条実泰」を命じた。

1238年(暦仁元年) に 将軍 藤原頼経 が上洛する。

執権 泰時 (55歳) は 伯父で 連署 の 「時房」、 甥で 小侍所別当の 「実時」、 そして孫の 経時時頼 兄弟ら とともに随行した。

最期

1241年 (仁治2年) に 泰時 (58歳) は体調を崩しており騒ぎになった。

1242年 (仁治3年) 5月に 出家して上聖房観阿と号した。

同年6月に 死去した。(享年 60)

1225年 (嘉禄元年) 7月 連署 の設置

連署は、鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」である。

1225年(嘉禄元年) 7月 に 執権 北条泰時 が 叔父の 北条時房 を任命したのが最初。   

1225年(嘉禄元年) 12月 評定衆 の設置

評定衆は、行政・司法・立法のすべてを行う幕府の最高機関である。

1226年(嘉禄2年) 1月 藤原頼経 (8歳) 4代将軍に

1218年 (建保6年) 2月に 九条道家 の三男として生まれる。(幼名 三寅)

1220年 (建保8年) に 三寅 ( 2歳) は 4代目鎌倉殿となる。

1225年 (嘉禄元年) に 7歳で 元服し「頼経」と名乗る。

1226年 (嘉禄2年) 1月 に
8歳で 将軍宣下により 鎌倉幕府の4代目将軍となる。

摂家将軍 の開始。

1238年 (暦仁元年) に 頼経( 20歳) は 執権 北条泰時連署 北条時房 らを率いて上洛をする。   

1239年( 延応元年) 12月に 21歳 のとき 藤原親能 の娘 大宮殿 との間に 嫡男 頼嗣 誕生。

1244年 (寛元2年) 8月 に 関東申次 西園寺公経 が薨御。(享年74)

父「道家」が後任に。

1244年 (寛元2年) に 26歳で 将軍職を 嫡男の「頼嗣」(5 歳) に譲る。

1246年 (寛元4年) の 宮騒動 において 28歳で 鎌倉から追放された。

父「道家」は「関東申次」を解任。

1256年 (康元元年) 9月 に 赤痢のため京都で薨去。(享年 39)

1232年 (貞永元年) 8月 御成敗式目 の制定

3代執権 北条泰時 により 源頼朝 以来の先例や、 道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、 武家政権のための法令( 式目 )である。

1232年 (貞永元年) 12月 四条天皇 即位 (2 歳)

1231年 (寛喜3年) 3月に 後堀河天皇 の第一皇子として誕生。

1232年 (貞永元年) 12月に 父 後堀河天皇の譲位に伴って2歳で践祚し、即位。

1242年 (仁治3年)1月に 不慮の事故により崩御。(宝算 12)

1242年 (仁治3年) 1月 仁治三年の政変

年明けの 四条天皇崩御に伴う皇統断絶( 京洛政変 )に始まり、

執権北条泰時 の死去による得宗家の家督継承( 関東政変 )に至る

政治的変動の総称である。

両者は直接の関連性はないものの、京都朝廷と鎌倉幕府でほぼ同時並行で起こったこの政治的変動は

4年後に発生する 宮騒動 の前段階として位置づけられる。  

1242年 (仁治3年) 2月 後嵯峨天皇 即位 (22 歳)

1220年(承久2年) 4月に 土御門天皇 の皇子として誕生。(邦仁親王)

四条天皇 は又従兄弟。(ともに高倉天皇 の曾孫 )

1242年 (仁治3年) 2月に 四条天皇崩御。 (宝算 12)

同月、邦仁親王 (22 歳) が即位した。(後嵯峨天皇)

1246年 (寛元4年) に 在位4年で 皇子の 久仁親王 (4 歳) に譲位。( 後深草天皇 )

1252年 (建長4年) に 幕府と 摂家将軍 の代わりに 皇子 宗尊親王 を将軍とすることで 合意。( 宮将軍 )

1242年 (仁治3年) 6月 北条経時 (19 歳) 4代執権に

生涯

第3代執権の 北条泰時 の嫡男であった 北条時氏 の長男として誕生。

母は 安達景盛 の 娘 松下禅尼

北条時頼 は同母弟。

檜皮姫 は同母妹。

執権職相続

1230年 (寛喜2年) 6月に 父の「時氏」が死去。(享年 27)

1234年 (天福2年) 3月に11歳で元服する。

1242年 (仁治3年) 6月 第3代執権で 祖父の「泰時」が死去。(享年 59)

6月16日に 経時 は19歳で第4代執権となる。

経時 を単独で支えられるような卓越した有力者がおらずに互いに牽制しあう関係にあるという政治的不安定要因により 連署 は置かれなかった。

経時の執権政治

経時 の政権は一族の 北条重時 ら重鎮が支える体制が取られ、その初期は穏やかに過ぎた。

執権就任後、経時 は訴訟制度の改革を行い、 1243年 (寛元元年) 2月5日に 問注所 での判決草案作成について重要案件は2か月、中程度は1か月、それ以外は20日と期限を定めた。

2月26日には 評定衆 を3つのグループに分けて、それぞれ月に5日ずつ会議日を定めて訴訟を担当させたが、これは従来の全員参加の評定では欠席も多く、裁判の迅速と正確を期するために行なわれたもので、後の時頼時代に定められた 引付衆 制度の先駆けとなった。

7月10日には 問注所での訴訟において、原告と被告双方の書類が整っている場合は対決を省略して判決を定める事、 9月25日には判決原案を将軍に見せてから裁決の下知状を作成するという手続きを簡素化して、将軍に見せる事無く原案に従って奉行人が下知状を作成するようにしている。

将軍職の交代

1244年 (寛元2年) には 将軍の藤原頼経 は27歳に成長していた。

そのため、将軍の側近には 北条光時三浦泰村など反執権勢力による集団が形成されつつあり、得宗家と対抗するようになっていた。

頼経」の嫡男の 頼嗣 (6 歳)を元服させて 烏帽子親は 経時 自らが務めた。

4月に「頼経」 (27 歳) は将軍職を 嫡男の「頼嗣」 (6 歳)に譲る。

1245年 (寛元3年) 7月に 将軍「頼嗣」 (7 歳) に 妹の「檜皮姫」 (15 歳) を嫁がせた。

最期

1245年 (寛元3年) 前後から 経時 は体調を崩していた。

9月4日に 正室宇都宮泰綱の娘が 15歳で死去。

1246年 (寛元4年) 2月頃に 妹で 御台所 の「檜皮姫」も病に伏せるようになる。

また 将軍「頼嗣」も病弱だった。

3月21日に 深刻な病状に陥り危篤状態となった。

経時 (22 歳) は 次弟の「時頼」(19 歳) に執権職を譲る。

4月19日に出家し、 閏4月1日に死去した。(享年 23)

1244年 (寛元2年) 4月 藤原頼嗣 (6 歳) 5代将軍に

1239年 (延応元年) に 4代将軍 藤原頼経 の子として 鎌倉で生まれる。

母は 藤原親能 の娘 大宮殿。

1244年 (寛元2年) に 6歳で 執権 北条経時 を烏帽子親として元服した。

同年 4月に 父「頼経」(27 歳) の譲りにより6歳で 5代将軍に就任した。

1245年 (寛元3年) に 7歳で 執権「北条経時」の妹である 檜皮姫 (16歳) を正室として迎える。

1246年 (寛元4年) の 宮騒動 において 父「頼経」が京へ追放される。

1252年 (建長4年) に 幕府は 後嵯峨上皇 の皇子 宗尊親王 を新将軍とすることに決定。

頼嗣 は14歳で将軍職を解任され、 母 大宮殿および弟とともに京へ追放された。

1256年 (康元元年) 9月に 赤斑瘡により死去。(享年 18)

1246年(寛元4年) 2月 後深草天皇 即位 (4 歳)

北朝 ( 持明院統 ) の祖。

1243年 (寛元 元年) 6月に
後嵯峨天皇 の皇子として誕生。

母は 西園寺実氏 の娘 姞子

亀山天皇 は同母弟。

1246年(寛元4年) 2月に
父の後嵯峨天皇の譲位により 数え4歳 で践祚・即位。

在位中は後嵯峨上皇院政を敷き、直接政務を見ることはなかった。

1259年 (正元元年) 11月に 父の後嵯峨上皇の要請により、後深草天皇 (17歳) は 弟の「亀山天皇」(11歳) に譲位する。

後に 「後深草天皇」の血統( 持明院統 )と 「亀山天皇」の血統( 大覚寺統 )が対立する。

1246年(寛元4年) 3月 北条時頼 (18 歳) 5代執権に

1227年 (嘉禄3年) 6月に 第3代執権 北条泰時 の長男 北条時氏 の次男として誕生。

母は 安達景盛 の娘 松下禅尼

北条経時 は同母兄。

北条長時 は 妻 葛西殿 の同母兄。

執権になるまで

1242年 (仁治3年) に 第3代執権「泰時」が死去する。 (享年 60)

兄の「経時」 (18 歳) が後を継ぎ 第4代執権となる。

執権時代

1246年 (寛元4年) 3月 に 「経時」 (21 歳) は病気になり、 時頼 (18 歳) に執権職を譲る。 (第5代執権)

1246年 (寛元4年) の 宮騒動 において 時頼 は 5月に 名越光時 の反乱を鎮圧し、 7月に 前将軍 藤原頼経 を京都に追放した。

1247年 (宝治元年) の 宝治合戦 において 時頼外戚安達氏 と協力して 有力御家人であった 三浦泰村 一族を滅ぼした。

1252年 (建長4年) に 第5代将軍 藤原頼嗣 を京都に追放して、 新たな将軍として 後嵯峨天皇の皇子である 宗尊親王 を擁立した。

晩年と最期

1256年 (康元元年) 3月11日に 連署北条重時 が辞任して出家した。

3月30日に 「重時」の異母弟 北条政村 を新しい連署に任命した。

11月22日に 時頼 (29 歳) は執権職を初め、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の邸宅を義兄の 「北条長時」(26 歳) に譲った。

11月23日に 時頼 は 最明寺で出家し、覚了房道崇と号した。

1257年 (康元2年) 2月26日に 嫡男 時宗 (6 歳) の元服が行なわれた。

11月19日に 危篤となり、 11月22日に 最明寺北亭で死去した。(享年 37)

1246年(寛元4年) 4月 宮騒動

北条光時 の反乱未遂 および 前将軍 藤原頼経 が鎌倉から追放された事件。 '

1247年 (宝治元年) 7月 宝治合戦

執権北条氏 と 有力御家人三浦氏 の対立から 鎌倉で武力衝突が起こり、 北条氏と 外戚安達氏らによって 三浦一族とその与党が滅ぼされた。

1249年(建長元年) 引付衆 の設置

引付衆 は、裁判の公正と迅速化をはかるために設置した鎌倉幕府の職名の一つ。

執権 北条時頼 により

評定衆 の下に

御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかる為に設置された。

1251年 (建長3年) 続後撰和歌集 成立

1251年 (建長3年) 北条長時 浄光明寺 創建

神奈川県鎌倉市 扇ガ谷 にある 真言宗泉涌寺派 の寺院。

1252年(建長4年) 4月 宗尊親王 (11歳) 6代将軍に

1242年 (仁治3年)12月 に 後嵯峨天皇 の第一皇子として京で誕生。

母 は 平棟基 の娘 平棟子

後深草天皇 は異母弟。

1251年 (建長3年) 12月に 5代将軍の 藤原頼嗣 は将軍職を解任され、京へ追放された。

1252年 (建長4年) 4月に 11歳で 鎌倉に迎えられ、 異母弟の「後深草天皇」 より 征夷大将軍の宣下を受け、6代将軍となる。

宮将軍 の開始となる。

1264年 (文永元年) 5月に 22歳のとき 近衛兼経 の娘 近衛宰子 との間に 嫡男 惟康親王 誕生。

1266年 (文永3年) 7月に
24 歳で 将軍を解任され京へ送還される。

1274年 (文永11年) に 京で死去。(享年 33)

1252年 (建長4年) 鎌倉大仏 造立

高徳院 は、

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。

開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。

本尊は 国宝銅造阿弥陀如来坐像 (鎌倉大仏)

大仏の造像の経緯についても、不明な点が多い。

吾妻鏡 によれば

1252年 (建長4年) から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始された。

大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。

地震津波で倒壊したとされる。

1253年 (建長5年) 北条時頼 建長寺 創建

1256年 (康元元年) 北条長時 6代執権に

義兄で5代執権の 北条 時頼 が病のため

1260年 (正元元年) 1月 亀山天皇 即位 (11歳)

南朝大覚寺統 )の祖。

1249年(建長元年) 7月 に
後嵯峨天皇 の第二皇子として誕生。

母は 西園寺実氏 の娘 姞子

後深草天皇 は同母兄。

宗尊親王 は異母兄。

胤仁親王 ( 伏見天皇 ) は 同母兄の「後深草天皇」の皇子。(甥)

天皇のとき

1260年 (正元 元年) 1月に
父の後嵯峨上皇の意向により 兄の「後深草天皇」 (17 歳) の譲りを受けて 11歳で 践祚し 即位。

1265年 (文永2年) に クビライ からの国書が高麗 を介して伝えられ、鎌倉から送達される。

幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。

1266年( 文永3年) に
第6代鎌倉幕府将軍となっていた 兄の「宗尊親王」 (24 歳) が鎌倉から送り返され、代わって宗尊の嫡男 惟康王 (3 歳) が将軍に就任した。

1268年 (文永5年) に 父の後嵯峨上皇の意向により皇子の 世仁親王 ( 後宇多天皇 ) を皇太子に立てた。

上皇のとき

1274年 (文永11年) 1月に
25 歳 で 皇太子 「世仁親王」 (8歳) に譲位。(後宇多天皇)

兄の「後深草上皇」の血統( 持明院統 )とは別に、自らの血統( 大覚寺統 )の繁栄に力を注ぎ、 皇統が分裂して交互に皇位継承を行う 両統迭立 の端緒となる。

院政 中には 2回の元の対日侵攻( 元寇 )が起こり、 自ら 伊勢神宮熊野三山 で祈願するなど積極的な活動を行った。

1274年 (文永11年) に 蒙古 襲来により炎上した 筥崎宮 社殿の再興にあたり亀山上皇 は「敵国降伏」の宸筆を納めた。

1289年 (正応2年) 4月に 「伏見天皇」の皇子 胤仁親王後伏見天皇 )が数え2歳で立太子され、絶望した 亀山上皇 は 9月に南禅寺で出家して、法皇となる。

1290年 (正応3年) の 浅原事件において 伏見天皇関東申次 西園寺公衡亀山法皇 が背後にいると主張した。

最後

1305年 (嘉元3年) 9月に 亀山殿で崩御。(宝算 57)

1260年 (文応元年) 8月 立正安国論

日蓮が執筆し 時の最高権力者にして先の執権 である 北条時頼 に提出した文書。

日蓮」は 「相次ぐ災害の原因は、人々が 正法 である 妙法蓮華経 を信じずに 浄土宗 などの 邪法 を信じていることにあるとし、 災難を止めるためには為政者が悪法への帰依を停止して正法に帰依することが必要である」とした。

この内容はたちまち内外に伝わり、 その内容に激昂した「浄土宗」の宗徒による 松葉ケ谷の法難 を招いた上に、 禅宗を信じていた「時頼」からも「政治批判」と見なされて、 翌年に「日蓮」は 伊豆国流罪 となった。

1264年 (文永 元年) 8月 北条政村 (60歳) 7代執権に

少年期

1205年 (元久2年) 7月に 2代執権 北条義時 の五男として誕生。

母は 伊賀朝光 の娘 伊賀の方

「義時」にはすでに3人の男子がいた。

23歳の長男 泰時 の母は側室 阿波局。

12歳の次男 朝時 の母は正室 「姫の前」。

7歳の三男 重時 の母は正室 「姫の前」。

姫の前 とは離別していた。

政村 は 現正室 「伊賀の方」 所生では長男であった。

北条実泰 は同母弟。

北条長時 は異母兄 「重時」の子。(甥)

北条時頼 は異母兄 「泰時」の子。(甥)

1213年 (建保元年) 12月に 9歳で3代将軍 源実朝 の御所で元服し、 烏帽子親を務めたのは 三浦義村 だった。

伊賀氏事件

1224年 (貞応3年) に 20歳の時に父「義時」が急逝する。(享年 62)

直後の 伊賀氏事件において 母「伊賀の方」は伯母「政子」の命によって 伊豆国流罪となるが、政村 は累は及ばなかった。

連署就任

1234年 (天福2年) に 同母弟「実泰」は27歳で出家した。

1239年 (延応元年) に 35歳で評定衆となり、翌年に筆頭となる。

1247年 (宝治元年) の 宝治合戦における  政村 の動向は不明。

1249年 (建長元年) 12月に 引付頭人となる。

1256年 (建長8年) 3月に 兄「重時」が出家し引退したため、兄に代わり52歳で連署となる。

同年に 第5代執権「時頼」は病により出家。

「時頼」の子である幼年の得宗後継者 時宗 の中継ぎとして 「重時」の嫡男 長時 が6代執権となった。

執権就任と連署再任

1263年 (弘長3年) に 「時頼」が死去する。(享年 37)

1264年 (文永元年) 7月に 6代執権「長時」が病で出家する。

同年 8月に 60歳の 政村 が14歳とまだ若年の 時宗 の中継ぎとして 7代執権に就任した。

1268年 (文永5年) 1月に 蒙古国書が到来すると、元寇 という難局を前に権力の一元化を図るため、 同年3月に 執権職を18歳の「時宗」に譲り、64歳の 政村 は再び連署として補佐する。

1272年 (文永9年) の 二月騒動 において 政村 は「時宗」と共に主導する立場にあった。

最後

1273年 (文永10年) 5月に 出家し、 同月に 死去。(享年 69)

1265年 (文永2年) 続古今和歌集 成立

1266年 (文永3年) 7月 惟康親王 (3歳) 7代将軍に

1264年 (文永元年) 4月 に 後嵯峨天皇 の皇子で 第6代将軍 の 宗尊親王 の嫡男として相模鎌倉に生まれる。

母は 近衛兼経の娘 近衛宰子

1266年 (文永3年) 7月に 父で 6代将軍の 「宗尊親王」が廃されて京都に送還されたため、 3歳で 征夷大将軍に就任し 7代将軍となる。

親王宣下がなされず「惟康王」と呼ばれていた。

1270年 (文永7年) 12月に 6歳で 臣籍降下 して 源姓 を賜与され、 「源惟康」と名乗る。

1287年 (弘安10年) に 23歳で 幕府の要請で皇籍に復帰して 後宇多天皇 より親王宣下がなされた。

1289年 (正応2年) 9月に 26歳で 将軍職を解任され京に送還され、10月に出家する。

1326年 (嘉暦元年) 10月に 京で薨去。(享年 63)

1268年 (文永5年) 元の国書 到来

1266年 に

元の皇帝 クビライ・ハン

元への服属を求める内容の国書を日本に送った。

1268年(文永5年) 1月に

国書を持参した 高麗使節団が

大宰府 に到来。

大宰府鎮西奉行少弐資能

国書を受け取り、鎌倉へ送達する

参考 元寇 第一次日本侵攻までの経緯

1268年 (文永5年) 北条 時宗 8代執権に

1268年 (文永5年) 1月に

元への服属を求める内容の国書が到来する。

同年3月に

元寇 という難局を前に権力の一元化を図るため、

7代執権 北条 政村

執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は連署として補佐に。

1271年 (文永8年) 異国警固番役 設置

鎌倉幕府 が九州の 御家人 に課した軍役。

文永の役 の後、 の再襲来に備え 博多湾 など沿岸の警備が強化された。

1272年 (文永9年) 2月 二月騒動

元寇 の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。

8代執権 北条時宗 の命により、

謀反を企てたとして

鎌倉で

名越流北条氏の 名越時章

名越 教時 兄弟、

京では

六波羅探題南方で時宗の異母兄 北条時輔

それぞれ討伐された。

1274年 (文永11年) 1月 後宇多天皇 即位 (8歳)

1267年 (文永4年) 12月 に
亀山天皇 の第二皇子として誕生する。

熈仁親王 ( 伏見天皇 ) は父の兄 後深草天皇 の子 (従兄弟)。

1274年 (文永11年)1月に
亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚し、即位。

亀山上皇による院政が行われた。

治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役 ( 元寇 ) が発生した。

1275年 (建治元年) に
幕府の斡旋により 従兄弟で 2歳年上の「熈仁親王」を皇太子とする。

1287年 (弘安10年) に
幕府からの要請により 21歳で 皇太子 「熈仁親王」(23 歳) に譲位した。(伏見天皇)

1324年 (元亨4年) 6月に
大覚寺御所にて崩御。(宝算 58)

1274年(文永11年) 文永の役

鎌倉時代中期に

モンゴル帝国 ( 元朝 ) および 属国の高麗 は 2度にわたり日本に侵攻した。(蒙古襲来)

1度目を 文永の役(1274年)、 2度目を弘安の役(1281年)という。

1271年 (文永7年) に

元は 日本に服属を求める国書を持ち来航する。

執権 北条時宗 を中心とする鎌倉幕府はこれを拒んだ。

西国の御家人に沿岸の警備を命じる。

1274年(文永11年) 10月に

元・高麗の連合軍(900艘の船艦と2万8千の軍兵)は対馬に上陸した。

元軍は対馬に入ると島人を多く殺害し、 子供男女 数百人を捕虜とした。

10月14日に、

対馬に続き、元軍は壱岐島に上陸した。

日本側は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れた。

対馬壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人大宰府に集結した。

10月20日

元軍は博多湾に上陸し、

日本側は迎え撃った。

日本側は武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍に敗れた。

夕暮れになり 元軍は 船に引きあげた。

夜になると、 日本側は兵船数艘で奇襲をかけ、元軍を討ち取った。

さらに 暴風雨になり元軍の船が破損した。

翌21日に

元軍は 姿を消した。

1276年(建治2年) 長門探題 設置

鎌倉幕府元寇 に対処するため、長門国 に設置した最前線防衛機関。

1279年 (弘安2年) 無学祖元 来日

無学祖元(むがく そげん)は、鎌倉時代臨済宗の僧。

8代執権 北条時宗 の招きに応じて来日。

日本に帰化して 鎌倉で 建長寺 の住持となる。

時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。

1281年(弘安4年) 弘安の役

鎌倉時代中期に

モンゴル帝国 ( 元朝 ) および 属国の高麗 は 2度にわたり日本に侵攻した。(蒙古襲来)

1度目を 文永の役(1274年)、 2度目を 弘安の役(1281年)という。

弘安の役

元軍が 文永の役 に続き 再度博多に来襲した戦役。

文永の役後、

幕府は

異国警固番役 を強化し、

引き続き九州の御家人に元軍の再襲来に備えて九州沿岸の警固に当たせるともに。

博多湾沿岸一帯に 石築地 ( 元寇防塁 ) を築造した。

1281年 (弘安4年) 5月21日に

元軍は 軍が軍船900艘と14万の大軍で 対馬沖に到着し 対馬に上陸した。

5月26日に

元軍は壱岐に襲来した。

なお、元軍は 壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し 兵士や水夫が行方不明になるという事態に遭遇している。

対馬壱岐を襲来した元軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。

しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地 ( 元寇防塁 ) を築いており、

元軍は 博多湾岸からの上陸を断念した。

7月30日夜半に

台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

元軍は 日本侵攻 を断念し 撤退した。

1282年 (弘安5年) 北条時宗 円覚寺 創建

神奈川県鎌倉市 山ノ内 にある 臨済宗円覚寺派 の寺院。

1284年 (弘安7年) 5月 弘安徳政

1284年 (弘安7年) 5月に

8代執権 北条時宗 が死去してから

翌年の 霜月騒動 にかけての

約1年半の間に鎌倉幕府で実施された幕政改革のこと。

そのおもな内容は,

(1)今後御家人所領の売買・質入れを禁止する,

(2)すでに売買・質入れされた所領は,無償で本主に返付させる,

(3)ただし買得安堵状を下付されたもの,または20年の年紀を超過したものは除外する,

(4)債権債務に関する訴訟を受理しない。

永仁の徳政令 の先例となる。

1284年(弘安7年) 5月 新式目 制定

鎌倉幕府が出した38か条からなる 追加法

後に 弘安徳政 と言われた

鎌倉幕府の改革の中核となった法令である。

大きく分けると

徳政 の重要性を提示した前半18か条と

神領興行

越訴奉行 の設置

御家人領

甲乙人 からの保護などの

具体的政策を示した後半20か条に分けることができる。

1284年 (弘安7年) 7月 北条 貞時 9代執権に

8代執権 北条時宗 の死去により。

1285年(弘安8年) 11月 霜月騒動

1285年 (弘安8年) 旧暦11月 (霜月) に

鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。

9代執権 北条貞時外戚

有力御家人 安達泰盛 が進めた

改革・弘安徳政 が行き詰まりを見せると、

内管領

平頼綱

反対派の勢力と対立が激化し、

頼綱方の先制攻撃を受けて 泰盛は討たれ、その一族郎党も尽く滅ぼされた。

騒動はさらに関東、九州を中心に地方へ広がり幕府を二分する大規模な内乱となった。

源頼朝 没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、

この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人政治勢力は壊滅し、

平頼綱 率いる 得宗 家被官( 御内人 )勢力の覇権が確立した。

1285年 (弘安8年) 11月 岩門合戦

九州博多郊外の 岩門城 で起こった戦い。

霜月騒動 の影響で、地元守護 少弐氏 を中心に九州御家人の間で合戦となり、 少弐景資安達盛宗 が景資の兄 少弐経資 の軍勢に滅ぼされた。

1287年 (弘安10年) 11月 伏見天皇 即位 (22 歳)

生涯

持明院統天皇である。

265年 (文永2年) 5月に
後深草天皇 の第二皇子として誕生。 (熙仁親王)

後宇多天皇 は父の弟 亀山天皇 の子。(従兄弟)

皇太子となる

1275年 (建治元年) 11月に 鎌倉幕府執権の 北条時宗 の斡旋で 熙仁親王 (10 歳) は 従兄弟の 「後宇多天皇」の皇太子となる。

践祚

1285年 (弘安8年) の 霜月騒動 により 平頼綱大覚寺統 は危険視されるようになる。

1287年 (弘安10年) 11月に
鎌倉幕府の要請により「後宇多天皇」 (20 歳) より譲位され 22 歳で即位。(伏見天皇)

1289年 (正応2年) 4月に 伏見天皇 の第一皇子である胤仁親王 ( のちの後伏見天皇 ) (2 歳) が皇太子となる。

1290年 (正応3年) の 浅原事件 において 大覚寺統 の関与が疑われた。

譲位と両統迭立

1298年 (永仁6年) 8月 に 伏見天皇 (33 歳) は皇太子「胤仁親王」(10 歳) へ譲位する。( 後伏見天皇 )

1301年 (正安3年) に 「後伏見天皇」は 大覚寺統後二条天皇 に譲位し、 大覚寺統復権を果たした。

以降、両統迭立 は常態化していくこととなる。

最後

1317年 (文保元年) 9月に 持明院殿にて崩御する。(宝算 53)

1289年 (正応2年) 9月 久明親王 (13歳) 8代将軍に

1276年 (建治2年) 9月に 後深草天皇 の第六皇子として京で誕生。

母は 三条房子。

惟康親王 は 父の異母兄 宗尊親王 の子。(従兄弟)

1289年 (正応2年) 9月に 従兄で7代将軍の「惟康親王」が京に送還されたことにともない、 13歳で 征夷大将軍に就任し、8代将軍となる。

1301年 (正安3年) 6月に 25歳のとき 「惟康親王」の娘 中御所との間に 嫡男 守邦親王 誕生。

1308年 (延慶元年) 8月に 32歳で 執権 北条貞時 によって 将軍職を廃され、京に送還されて出家した。

1328年 (嘉暦3年) 11月 に 京で薨去。(享年 52)

1290年 (正応3年) 4月 浅原事件

浅原為頼武装した3名の武士が騎馬で、御所である二条富小路殿に乱入した 伏見天皇 暗殺未遂事件。

1291年 (正応4年) 亀山天皇 南禅寺 創建

南禅寺京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。

この地に「亀山天皇」が1264年(文永元年)に造営した離宮の「禅林寺殿」があった。

1292年(正応5年) 鎮西探題 設置

幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。 行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。

1293年(正応6年) 鎌倉大地震

1293年(正応6年) 平禅門の乱

8代執権 北条時宗 の死去後、

北条氏得宗家の内管領として、

幕府の実権を握った 平頼綱 が、

主君である9代執権 北条貞時 によって滅ぼされた事件。

1297年(永仁5年) 永仁の徳政令

9代執権 北条貞時が発令した、

日本で最初とされる 徳政令 。 内容は以下の通りである。

(1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。

(2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。

(2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。 ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、買主が御家人の場合で領有後20年を経過した土地は、返却せずにそのまま領有を続けよ。

(2-c)非御家人(幕府と御家人関係を結んでいない侍身分の者)・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)が買主の場合は、年限に関係なく(20年を経過していても)、元の領主が領有せよ。

(3)債権・債務の争いに関する訴訟は受理しない。

1298年 (永仁6年) 8月 後伏見天皇 即位 (11歳)

持明院統

1288年 (弘安11年) 3月に 伏見天皇 の第一皇子として誕生。

母は 五辻経氏 の娘 経子

後二条天皇 は 又従兄弟 ( ともに 後嵯峨天皇 の曾孫 )。

1298年 (永仁6年) 3月 に 父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。

伏見上皇院政を執り行った。

1301年 (正安3年) に 大覚寺統 や幕府の圧力を受け、 20 歳で 大覚寺統の 「後二条天皇」 (16 歳) に譲位した。

1336年 (延元元年) 5月 に 持明院崩御。(宝算49)

1299年 (正安 元年) 一山一寧 来日

*一山一寧(いっさん いちねい)は、元の渡来僧。

二度の日本遠征( 元寇 ) に失敗した

元の皇帝 クビライ

再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とする構想を持つ。

1294年 に

クビライの後を継いだ 世祖 は日本の属国化を図り

一寧に日本への 朝貢 督促の国使を命じた。

1299年 (正安元年)に

一寧は 門人一同のほかに 西礀子曇 を伴って日本に渡った。

大宰府に入った一寧は 元の 国書を 9代執権 北条貞時 に奉呈するが、

元軍再来を警戒した鎌倉幕府は 一寧らの真意を疑い伊豆 修禅寺に幽閉した。

貞時は ほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。

一寧の 名望は高まり多くの僧俗が連日のように彼の草庵を訪れた。

貞時も 疑念を解き、建長寺 の住職に迎え、自ら帰依した。

1301年 (正安3年) 1月 後二條天皇 即位 (16 歳)

大覚寺統 である。

1285年 (弘安8年) 2月 に
後宇多天皇 の第一皇子として誕生。

母は 堀川具守 の娘 堀川基子

後醍醐天皇 は異母弟。

後伏見天皇 は 又従兄弟。( ともに 後嵯峨天皇 の曾孫 )

1301年 (正安3年) 1月 に
大覚寺統 や幕府の圧力があり 後伏見天皇 (20 歳) の譲位を受けて 16 歳 で践祚し 即位。

1308年 (徳治3年) 8月 に病を得て、 同25日 在位7年にして 二条高倉皇居で崩御。(宝算 24)

1301年 (正安3年) 8月 北条師時 (26 歳) 10代執権に

1275年 (建治元年) に 第5代執権 北条時頼 の3男 北条宗政 の長男として誕生。

母は 第7代執権 北条政村 の娘。

北条貞時 は 父の同母兄 北条時宗 の子。(従兄弟)

北条宗方 は 父の異母弟 北条宗頼の子。(従

北条時村 は母の兄。(伯父)

1301年 (正安3年) 8月に 従兄弟で 9代執権の 北条貞時 (29 歳) が出家し、 師時 (26 歳) が 10代執権に就任。

補佐役の連署に 伯父の「北条時村」が任じられた。

1305年(嘉元3年)の 嘉元の乱 において 伯父で連署の「時村」が「貞時」に討たれ、さらに「宗方」が「貞時」に討たれた。

1311年 (応長元年) 9月22日に出家し、 同日に死去した。(享年 37)

1305年(嘉元3年) 嘉元の乱

鎌倉幕府内での騒乱。

背景

1301年 (正安3年) 8月に 9代執権の 北条貞時 が出家し、 従弟の 北条師時執権 に 「師時」の伯父の 北条時村連署 に 任じられた。

事件の経緯

1305年 (嘉元3年) 4月22日に
北条貞時」の屋敷で火災があり、 「貞時」は従弟で娘婿の執権「北条師時」の館に移った。

その翌日の23日深夜に
「貞時」の「仰せ」とする得宗被官、御家人の一団が 連署北条時村」の屋敷を襲い 「時村」ら50余人を殺害。

孫の 北条煕時 はかろうじて難を逃れた。

その12日後に
引付衆一番頭人大仏宗宣 らが 「貞時」の従兄弟で得宗家執事の 北条宗方 を追討。

7月22日に 宗方討伐の大将「宗宣」が、殺された「時村」の後任として「連署」に就任した。

1308年 (延慶元年) 11月 花園天皇 即位 (12 歳)

1297年 (永仁5年) 8月に
伏見天皇 の第四皇子として誕生。

母は 洞院実雄 の女 季子

後伏見上皇 は異母兄。

花園天皇後二条天皇後醍醐天皇 は 又従兄弟。 ( ともに 後嵯峨天皇 の曾孫 )

1308年 (延慶元年) 8月に
大覚寺統 の 先帝 「後二条天皇」が急死した。(宝算 24)
. 8月26日に12歳で践祚、 11月16日に即位。

在位の前半は 父の伏見上皇が、 後半は 兄の後伏見上皇院政を布いた。

1318年 (文保2年) 2月 に
25歳で 大覚寺統の 「後醍醐天皇」 (31 歳) に譲位。

1348年 (貞和4年)11月に
花園萩原殿で崩御。(宝算 52)

1308年 (延慶元年) 8月 守邦親王 (8歳) 9代将軍に

1301年 (正安3年) 5月 に
8代将軍 久明親王 の嫡男として 鎌倉で 誕生。

母は 7代将軍 惟康親王 の娘 中御所。

1308年 (延慶元年) 8月に
父「久明親王」は 将軍職を廃され、京に送還されたため、 8歳で 征夷大将軍に就任し、9代将軍に。

鎌倉幕府 の最後の将軍。

1333年 (元弘3年) の 元弘の乱 において 新田義貞 らの攻撃により 鎌倉幕府は滅亡した。

守邦親王 (32 歳) は将軍職を辞して出家した。

同年 9月に 大梅寺で薨去した。(享年 32)

2311年 (応長元年) 北条 宗宣 11代執権に

10代執権 北条師時 の死去により、

宗宣が 執権に。

1312年 (応長2年) 北条 煕時 12代執権に

11代執権 北条 宗宣の出家により、

煕時が 執権に。

1315年 (正和4年) 北条 基時 13代執権に

12代執権 北条 煕時が病で執権職を辞任したため

基時が 執権に。

1316年 (正和5年) 北条 高時 14代執権に

13代執権北条 基時より執権職を譲られて。

高時が 執権に。

1317年(文保元年) 文保の和談

後嵯峨天皇 の皇子である

後深草天皇の子孫 ( 持明院統 )と

亀山天皇の子孫 ( 大覚寺統 )の

両血統の天皇が交互に即位する( 両統迭立 )ことを定めたとされる合意。

1318年 (文保2年) 2月 後醍醐天皇 即位 (31歳)

大覚寺統天皇

1288年 (正応元年) 11月 に
後宇多天皇 の第二皇子 として誕生。

母 は 五辻忠継 の娘 五辻忠子

後二条天皇 は異母兄。

後醍醐天皇後伏見天皇花園天皇 は 又従兄弟。( ともに 後嵯峨天皇 の曾孫 )

量仁親王 ( 光厳天皇 は「後伏見天皇]」の皇子。

即位

1318年 (文保2年) 2月に
花園天皇」 (25 歳) の譲位を受け 31歳で践祚し 即位。

正中の変

1324年 (元亨4年)の 正中の変において 後醍醐天皇 (36 歳) は鎌倉幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられる。

持明院統 の「量仁親王」を皇太子とする。

元弘の乱

1331年 (元弘元年) の 元弘の乱 において 倒幕計画が発覚し身辺に危険が迫ったため、後醍醐天皇 (43 歳) は京都脱出し、挙兵したが、幕府軍に捕らえられる。

幕府は 後醍醐天皇 が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子「量仁親王」 (18 歳) を即位させた。(光厳天皇)

1332年 (元弘2年)に 後醍醐天皇隠岐島に流された。

1333年 (元弘3年) に 後醍醐天皇隠岐島から脱出し、再挙する。

足利尊氏新田義貞らが 後醍醐天皇 に味方し、 鎌倉幕府を滅亡させる。

最後

1339年 (延元4年) 8月に 吉野行宮崩御した。(宝算52)

1324年(正中元年) 正中の変

後醍醐天皇

その腹心の

日野資朝

日野俊基 が、

鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件。

後醍醐と俊基は 処分なし。

資朝は 佐渡国新潟県佐渡市)へ遠流となった。

1325年(正中2年) 建長寺船

勝長寿院

建長寺

の修復のため、鎌倉幕府公認で元におくられた民間の貿易船。

社寺の造営料を得る目的で派遣された 寺社造営料唐船 のひとつで、 特定の条件下にある入元の船である。

1326年(嘉暦 元年) 嘉暦の騒動

鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る

内管領 長崎氏 と、

外戚 安達氏 の抗争による内紛。

1326年 (正中3年) 3月13日に

14代執権 北条高時 が病のために24歳で出家する。

高時の長子 太郎邦時得宗家の後継者に推し、

北条氏庶流の 金沢貞顕 を15代執権に推挙する。

安達氏側は邦時の家督継承を阻止するべく、

高時の弟で 大方殿 の子

北条泰家 を高時の後継として推していた。

3月16日朝 に

貞顕の元に執権就任を告げる長崎氏の使者が訪れ、貞顕は素直に喜びその日から評定に出席した。

しかし同日に 泰家がこれを恥辱として出家を遂げる。

憤った泰家とその母大方殿が貞顕を殺そうとしているという風説が流れ、貞顕は窮地に立たされる。

3月26日に

貞顕は 15代執権を辞任し、出家を遂げた。

在職10日余りであった。

貞顕の出家後、泰家と安達氏の憤りを恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、

4月24日に

引付衆一番頭人 赤橋守時 が就任し、

これが最後の北条氏執権となる。

1326年 (正中3年)北条 貞顕 15代執権に

14代執権 北条高時 が病のために出家したため

1326年 (正中3年) 北条 守時 16代執権に

15代執権 北条 貞顕 が執権職を辞任したため。

鎌倉幕府の最後の執権

1330年 (元徳2年) 花園天皇 誡太子書 執筆

誡太子書を授けられた人物

花園天皇」は 甥の 量仁親王光厳天皇 )の養育にあたった。

その一環として 親王を訓戒するために「誡太子書」を記した。

1331年 (元弘3年) 6月 元弘の乱

1331年 (元弘3年) 6月 から 1333年 (元弘3年) 7月 にかけて、 鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、 鎌倉幕府及び北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

元弘の変

1331年 (元弘元年) 10月 の 笠置山の戦い において 後醍醐天皇鎌倉幕府打倒のため 挙兵するが、 幕府軍( 大仏貞直金沢貞冬 ) に敗北する。

後醍醐天皇 は捕縛され、 退位を強制され、 光厳天皇 が即位し、 隠岐島に流される。

鎌倉幕府滅亡

1333年 (元弘3年) に 後醍醐天皇流刑地を脱出した。

同年 3月の 上赤坂城の戦い、 5月の 千早城の戦い と 長引くことで幕府御家人厭戦感情が増し、 倒幕を促す 後醍醐天皇綸旨 が全国に出回ったこと等により、 戦況は徐々に 後醍醐 勢力が盛り返してきた。

同年 5月の六波羅の戦い において 足利尊氏 が幕府から離反し、 六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。

同年 7月の 東勝寺合戦 において 新田義貞 が倒幕に応じ、 鎌倉幕府を滅ぼした。

1331年 (元弘 元年) 9月 光厳天皇 即位 (19 歳)

誕生

1313年 (正和2年) 7月 に
持明院統後伏見天皇 の第三皇子として誕生。

後醍醐天皇 は 父 「後伏見天皇」 の 又従兄弟。 ( ともに 後嵯峨天皇 の曾孫 )

幼少時代

1326年 (嘉暦元年) 7月に 「後醍醐天皇」の皇太子となる。

即位

1331年 (元弘 元年) 6月の 元弘の変 において 「後醍醐天皇」 が 京都を出奔した。

同年 9月に
鎌倉幕府の意向により 父 「後伏見上皇」 の詔を用いて19歳で践祚し即位。

廃位

1333年 (元弘3年) に 「後醍醐天皇」 が 再挙し、 鎌倉幕が府滅亡した。

同年5月に
後醍醐天皇」の詔によって [光厳天皇 (20 歳) は退位した。

恢復

1333年 (元弘3年) 12月に 光厳 (20 歳) は「後醍醐天皇」より尊号( 太上天皇号 )が贈られ、特例として 太上天皇 となった。

正平一統

1351年 (正平6年) の 正平一統において 南朝北朝 は和睦する。

出家

1352年 (観応3年) 8月 に 幽閉先である賀名生で出家した。

崩御

1364年(貞治3年) 7月 に 常照皇寺 にて崩御した。(宝算 52)

1333年(元弘3年)鎌倉幕府 滅亡

1331年 (元弘 3年) の 元弘の乱 において 後醍醐天皇鎌倉幕府打倒のため 挙兵する。

1333年 (元弘3年) 5月の 六波羅の戦い において 足利尊氏 が幕府から離反し、 六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。

同年 7月の 東勝寺合戦 において 新田義貞 が倒幕に応じ、 鎌倉幕府を滅ぼした。

1335年 (建武2年) 後醍醐天皇 宝戒寺 創建

神奈川県鎌倉市 小町 にある 天台宗 の寺院。

1331年 (元弘 3年) の 元弘の乱 にて 敗れた 鎌倉幕府 第14代執権の 北条高時 の慰霊のために「後醍醐天皇」が創建した。

1336年 (延元元年) 室町幕府 成立

1336年 (延元元年) に

足利尊氏

室町幕府 の施政方針を示した

建武式目 を制定した。

これを以って 室町幕府の成立とする。

1338年(延元3年) に

足利尊氏征夷大将軍に補任された。