南北朝時代の出来事

南北朝時代の出来事を年表にまとめた。

南北朝時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 鎌倉時代

後は 室町時代

広義の室町時代に含まれる。

南北朝時代の概要

’ 始期は、

建武の新政の崩壊を受けて

足利尊氏が京都で新たに 光明天皇北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、

京都を脱出した 後醍醐天皇南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った

1337年 (建武3年) 12月21日。

終期は、

南朝第4代の 後亀山天皇

北朝第6代の 後小松天皇 に譲位する形で両朝が合一した

1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。

約55年間

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。

それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。

両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。

また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

南北朝時代の意義

南北朝時代の意義とは、

上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。

前代鎌倉時代鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。

ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、

一方、北朝の公家も、

室町幕府第3代将軍 足利義満 によって、

警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。

南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、

足利将軍家を中心とする 室町幕府守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。

南北朝時代の文化

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。

政治的混乱が大きい時代でもあったので、

ばさら二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

南北朝の段階区分

おおまかに3つに分けられる。

前史

第1期

吉野行宮の興亡

1337年 に

後醍醐天皇

吉野行宮

南朝 を開いてから

1348年 に

四條畷の戦い により

賀名生に遷るまで

第2期

内乱の激化

1348年 に

南朝が賀名生に遷ってから

1367年に

足利義詮 が退任し

細川頼之管領になるまで

第3期

室町幕府の完成と南北朝合一

1367年に

細川頼之管領になってから

1392年に

明徳の和約 により

南北朝合一 されるまで

南北朝時代の出来事

前史

1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位

1288年 (正応元年) 11月 に

後宇多天皇の第二皇子として 誕生

1318年 (文保2年) 2月 に

花園天皇の譲位を受けて 31歳で践祚

1331年 (元弘 元年) 元弘の乱

鎌倉幕府打倒を掲げる 後醍醐天皇の勢力と、

幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

醍醐天皇が 勝利し

鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。

1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位

1313年 (正和2年) 7月 に

後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。

1331年 (元弘元年) 8月に

元弘の乱 の折り

鎌倉幕府の打倒に失敗した 後醍醐天皇 が 京都を出奔した。

同年 9月 に

鎌倉幕府の意向により

後伏見上皇 の詔を用いて19歳で践祚

1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚

元弘の乱 ののち

鎌倉幕府を倒幕した 後醍醐天皇

鎌倉幕府が擁立した 光厳天皇 を廃位し、

再び天皇となる。

1333年 (元弘3年) 建武の新政

元弘の乱 ののち

後醍醐天皇

親政 (天皇が自ら行う政治) を開始した。

1334年 (建武元年) 二条河原落書

1335年(建武2年)中先代の乱

鎌倉幕府第14代執権 北条高時 の遺児

北条時行 が、

御内人諏訪頼重 らに擁立され、

鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

1336年(建武2年) 建武の乱

後醍醐天皇建武政権足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。

一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。

1336年 (建武3年) 建武式目 制定

室町幕府の施政方針を示した式目である。

1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位

1322年 (元 元年) 12月 に

後伏見天皇の第九皇子として誕生。(豊仁親王)

1336年 (建武3年) 8月 に

足利尊氏 の要請により、

光厳上皇院宣を用いて、

豊仁を践祚させた(光明天皇

北朝 が開かれる

1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い

足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、

後醍醐天皇 の宣旨を受けた

新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。

足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。

1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦

足利尊氏 が京都へ入り、

後醍醐天皇比叡山へ逃れる。

足利方は

新田義貞

楠木正成

陸奥国より駆けつけた 北畠顕家 により駆逐される。

1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い

新田義貞 北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と

足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。

足利方が敗北し、九州へ敗走する。

1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い

筑前博多 (福岡市) の東郊 多々良川 河口砂浜における

足利尊氏方と

肥後国菊池武敏 ら九州南朝方の合戦。

兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、

肥前国松浦氏 などが離反したために大敗を喫した。

1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い

摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)で、

九州から東上して来た 足利尊氏 足利直義 兄弟らの軍と、

これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。

足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。

1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い

越前国 金ヶ崎城福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、

それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。

1337年 (建武4年) 3月に

落城する。

第1期

1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く

建武の乱 ののち

後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。

吉野行宮 を御所とし 南朝を開いた。

南北朝時代の始まり。

1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍

建武の乱 ののち

光明天皇 践祚を支援し、

光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。

1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い

1337年 (延元2年) 8月に

鎮守府将軍 北畠顕家 は、

吉野の 後醍醐天皇

足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。

1338年 (延元3年) 1月に

美濃国青野原(現、岐阜県大垣市不破郡垂井町)において、

上洛を目指す 北畠顕家 率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、

土岐頼遠北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。

北畠勢が 勝利した。

土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。

1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い

和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、

南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家北朝室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。

南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。

1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、

越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、

足利高経北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。

義貞が戦死。

総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。

1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位

1328年(嘉暦3年)に

後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。

1339年 (延元4年) 8月 に

後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。

1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御

1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立

天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。

開基は 足利尊氏

後醍醐天皇崩御に際して、

足利尊氏が その菩提を弔うため、

光厳上皇 に奏請し、院宣を以って

後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。

1343年 (康永2年) 神皇正統記

1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位

1334年 (建武元年) 4月)に

北朝初代 光厳天皇の第一皇子として 誕生。

1348年 (貞和4年) 10月)に

北朝第2代 光明天皇 の譲位を受けて践祚

1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い

河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、

南朝河内守で楠木氏棟梁の 楠木正行実弟 正時 と、

北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。

南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。

1月末に

南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。

後村上天皇賀名生 (奈良県五條市) へ遷った。

第3期

1350年 (観応元年) 観応の擾乱

足利政権の内紛によって行われた戦乱。

足利尊氏

その弟 直義 が対立し、

各々にくみする武将が各地に転戦した政争。

尊氏が 勝利し、

直義は 鎌倉に幽閉された。

1351年 (観応2年) 打出浜の戦い

観応の擾乱における合戦の一つ。

摂津国 打出浜 (兵庫県芦屋市) において、

足利直義の軍勢と

足利尊氏

高師直高 師泰 兄弟 の軍勢の間で戦われた。

2月17日に

両軍は決戦する。

尊氏軍は、数の上では優位であったが、

戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。

結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。

2月26日に

尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。

師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。

鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。

1351年 (観応2年) 正平一統

北朝室町幕府 足利尊氏

直義 追討のため

一時的に南朝と和議を結び,

北朝天皇が一時廃位され

年号も南朝年号 正平 に統一された。

これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

1351年 (観応2年) 薩埵峠の戦い

駿河国由比静岡県静岡市清水区)・内房静岡県富士宮市)一帯において、

足利尊氏 の軍勢と

足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。

尊氏方の勝利に終わり、

直義は降伏した。

1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位

1338年 (建武5年) 3月に

北朝初代 光厳天皇上皇)の第二皇子として誕生。

1352年 (観応3年) 8月に

正平一統

北朝が一時的に解消した後、

急遽、三種の神器太上天皇の詔宣も無くして践祚

1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に

1330年 (元徳2年) 6月に

室町幕府 初代将軍 足利尊氏 の三男として誕生。

1358年 (延文3年) 4月に

父 尊氏が没する。

12月に

義詮は征夷大将軍に任命される。

1361年 (正平16年) 正平地震

第3期

1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る

室町幕府2代将軍 足利義詮 が重病となる。

子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇

1343年 (康永2年) に

97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。

1368年 (正平23年) 3月 に

村上天皇崩御により

26歳にして 摂津の 住吉行宮大阪市住吉区)で 践祚

1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位

1359年 (延文3年) 12月に

北朝第4代 後光厳天皇 の第二皇子として誕生。

1371年 (応安4年) 3月に

後光厳天皇の譲位を受けて 即位。

1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍

1358年 (延文3年) 8月に

室町幕府2代将軍 足利義詮の子として誕生。

1367年 (貞治6年)11月に

父・義詮が重病となる。

義満に政務を委譲し、

細川頼之管領 として義満の後見・教導を託した。

1367年 (貞治6年)12月に

父 義詮は死去し、

義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。

1369年 (応安2年) 12月に

義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。

1375年 (永和元年) 水島の変

九州探題 今川了俊 が、

筑前守護 少弐冬資

肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。

1377年(永和3年)九州国人一揆

九州探題 今川満範

島津氏久 の衝突に際して

薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。

1378年(天授4年) 花の御所 造営

花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。

2代将軍 足利義詮 は、

室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。

崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

1378年(天授4年) に

3代将軍 足利義満

北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と

今出川公直 の邸宅である 菊亭 の焼失跡地を併せた敷地に

足利家の邸宅の造営を始めた。

「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった

敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。

室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。

足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。

1379年 (永和5年) 蓑原の合戦

現在の宮崎県都城市で行われた

今川満範

島津氏久 の合戦である。

1379年 (康暦元年) 康暦の政変

室町幕府 管領 細川頼之が失脚した政変である。

1381年 (弘和元年) 新葉和歌集

#### 1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位

1377年(永和3年)6月に

北朝第5代 後円融天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%86%E8%9E%8D%E5%A4%A9%E7%9A%87)の第一皇子として誕生。

1382年 (永徳2年) 4月に

後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。

後円融上皇による院政が行われた。

1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位

1350年(正平5年) に

第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。

第一皇子は 長慶天皇 (98代 および南朝第3代)

1383年 (弘和3年) 冬に

兄の長慶天皇の譲位を受けて践祚

1388年 (元中5年) 平尾合戦

室町幕府第3代将軍 足利義満 への奇襲を試みた

南朝楠木正勝

河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)において、

北朝山名氏清 が迎え撃ち破った。

1389年 (康応元年) 康応の外寇

高麗李氏朝鮮 正規軍による対馬への侵攻。

倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。

1389年 (康応元年) 土岐康行の乱

守護大名土岐康行室町幕府に討伐された事件である。

1391年 (明徳2年) 明徳の乱

山名氏清山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。

山名氏は敗れた。

11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。

1392年 (明徳3年) 明徳の和約

南朝北朝室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。

これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、

南北朝時代の終焉を迎えた。