南北朝時代の出来事を年表にまとめた。
南北朝時代 は
日本の歴史の時代区分の一つである。
前は 鎌倉時代
後は 室町時代
広義の室町時代に含まれる。
- 南北朝時代の概要
- 南北朝時代の文化
- 南北朝の段階区分
- 南北朝時代の出来事
- 1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦
- 第1期
- 1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く
- 1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍に
- 1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い
- 1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い
- 1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位
- 1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御。
- 1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立
- 1343年 (康永2年) 神皇正統記
- 1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位
- 1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い
- 第3期
- 第3期
- 1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る
- 1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇
- 1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位
- 1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍に
- 1375年 (永和元年) 水島の変
- 1377年(永和3年)九州国人一揆
- 1378年(天授4年) 花の御所 造営
- 1379年 (永和5年) 蓑原の合戦
- 1379年 (康暦元年) 康暦の政変
- 1381年 (弘和元年) 新葉和歌集
- 1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位
- 1388年 (元中5年) 平尾合戦
- 1389年 (康応元年) 康応の外寇
- 1391年 (明徳2年) 明徳の乱
- 1392年 (明徳3年) 明徳の和約
南北朝時代の概要
’ 始期は、
建武の新政の崩壊を受けて
足利尊氏が京都で新たに 光明天皇( 北朝 持明院統 )を擁立したのに対抗して、
京都を脱出した 後醍醐天皇( 南朝 大覚寺統 )が 吉野行宮 に遷った
1337年 (建武3年) 12月21日。
終期は、
1392年 (明徳3年) 閏10月5日 である。
約55年間
鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに 持明院統 と 大覚寺統 という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。
それが鎌倉幕府倒幕と建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の 北朝 と吉野の 南朝 の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。
両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起こった。
また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。
南北朝時代の意義
南北朝時代の意義とは、
上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。
前代鎌倉時代は鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。
ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、
一方、北朝の公家も、
警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。
南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、
足利将軍家を中心とする 室町幕府 と 守護 体制による 強力な武家の支配機構だった。
南北朝時代の文化
連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。
政治的混乱が大きい時代でもあったので、
ばさら や 二条河原落書 など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。
南北朝の段階区分
おおまかに3つに分けられる。
前史
第1期
吉野行宮の興亡
1337年 に
後醍醐天皇 が
吉野行宮 に
南朝 を開いてから
1348年 に
四條畷の戦い により
賀名生に遷るまで
第2期
内乱の激化
1348年 に
南朝が賀名生に遷ってから
1367年に
足利義詮 が退任し
第3期
1367年に
1392年に
明徳の和約 により
南北朝合一 されるまで
南北朝時代の出来事
前史
1318年 (文保2年) 96代 後醍醐天皇 即位
1288年 (正応元年) 11月 に
後宇多天皇の第二皇子として 誕生
1318年 (文保2年) 2月 に
1331年 (元弘 元年) 元弘の乱
幕府及び 北条高時 を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。
醍醐天皇が 勝利し
鎌倉幕府と北条氏は 滅亡した。
1331年 (元弘 元年) 北朝 初代 光厳天皇 即位
1313年 (正和2年) 7月 に
後伏見天皇 の第三皇子として 誕生。
1331年 (元弘元年) 8月に
元弘の乱 の折り
同年 9月 に
鎌倉幕府の意向により
1333年 (元弘3年) 後醍醐天皇 重祚
元弘の乱 ののち
再び天皇となる。
1333年 (元弘3年) 建武の新政
元弘の乱 ののち
1334年 (建武元年) 二条河原落書
1335年(建武2年)中先代の乱
北条時行 が、
鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。
1336年(建武2年) 建武の乱
後醍醐天皇の建武政権と 足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。
一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し( 南朝 )、 幕府が擁立した 北朝 との間で南北朝の内乱が開始した。
1336年 (建武3年) 建武式目 制定
室町幕府の施政方針を示した式目である。
1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位
1322年 (元 元年) 12月 に
1336年 (建武3年) 8月 に
足利尊氏 の要請により、
北朝 が開かれる
1335年 (建武2年) 12月 箱根・竹ノ下の戦い
足利尊氏 の呼びかけに応じた足利軍と、
後醍醐天皇 の宣旨を受けた
新田義貞 に参集した軍勢との間で行われた合戦。
足利尊氏が勝利し、京都へ向かう。
1336年 (建武3年) 1月 第一次京都合戦
足利尊氏 が京都へ入り、
足利方は
新田義貞 や
1336年 (建武3年) 2月豊島河原の戦い
足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。
足利方が敗北し、九州へ敗走する。
1336年 (建武3年) 3月 多々良浜の戦い
足利尊氏方と
兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、
1336年 (建武3年) 5月湊川の戦い
これを迎え撃った 後醍醐天皇 方の 新田義貞 楠木正成 の軍との間で行われた合戦である。
足利方が勝利し、 義貞は敗走、 正成は戦死。
1336年 (建武3年) 金ヶ崎の戦い
越前国 金ヶ崎城(福井県敦賀市)に籠城する 新田義貞 率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と、
それを攻撃する 斯波高経 率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。
1337年 (建武4年) 3月に
落城する。
第1期
1337年 (建武4年) 後醍醐天皇 南朝 を開く
建武の乱 ののち
後醍醐天皇は 京都を脱出して吉野に向かった。
南北朝時代の始まり。
1338年 (建武5年) 足利尊氏 征夷大将軍に
建武の乱 ののち
光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。
1338年 (延元3年) 1月青野原の戦い
1337年 (延元2年) 8月に
吉野の 後醍醐天皇 の
足利尊氏追討の呼びかけに応じ、上洛を目指す。
1338年 (延元3年) 1月に
土岐頼遠 ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。
北畠勢が 勝利した。
土岐頼遠は 重傷を負い、帰還。
1338年 (延元3年) 5月 石津の戦い
南朝陸奥将軍府の公卿・鎮守府大将軍 北畠顕家と 北朝・室町幕府の執事 高師直 師泰 兄弟が戦った合戦。
南朝は敗退し、顕家ら主だった武将が多く戦死した。
1338年 (延元3年) 8月 [藤島の戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
越前平定と上洛を目指していた 新田義貞 率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、
義貞が戦死。
総大将を失ったことで新田勢は壊乱した。
1339年 (延元4年) 第97代および南朝第2代 後村上天皇 即位
1328年(嘉暦3年)に
後醍醐天皇 の第7皇子として 誕生。
1339年 (延元4年) 8月 に
父 後醍醐天皇の譲位を受け、即位した。
1339年 (延元4年) 後醍醐天皇 崩御。
1343年 (康永2年) 足利尊氏 天龍寺 建立
天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある 臨済宗天龍寺派の大本山の寺院。
開基は 足利尊氏。
足利尊氏が その菩提を弔うため、
後醍醐天皇の祖父 亀山天皇 の皇離宮であった亀山殿を 寺に改めたのが 天龍寺 である。
1343年 (康永2年) 神皇正統記
1348年 (貞和4年) 北朝第3代 崇光天皇 即位
1334年 (建武元年) 4月)に
1348年 (貞和4年) 10月)に
1348年 (貞和4年) 四條畷の戦い
河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から 北四条(同市北条)にかけて行われた、
北朝室町幕府執事 高師直・引付方頭人 佐々木導誉 との間の戦い 。
南朝側は 正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。
1月末に
南朝に完勝した高師直は 吉野へと兵を進め 吉野行宮 を焼き払った。
第3期
1350年 (観応元年) 観応の擾乱
足利政権の内紛によって行われた戦乱。
足利尊氏と
その弟 直義 が対立し、
各々にくみする武将が各地に転戦した政争。
尊氏が 勝利し、
直義は 鎌倉に幽閉された。
1351年 (観応2年) 打出浜の戦い
観応の擾乱における合戦の一つ。
足利直義の軍勢と
2月17日に
両軍は決戦する。
尊氏軍は、数の上では優位であったが、
戦意に勝る直義軍の前に惨敗した。
結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に 尊氏と直義の和議が成立した。
2月26日に
尊氏は、師直兄弟を伴って京都に向かった。
師直兄弟は 護送中に 上杉能憲 らに謀殺された。
鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。
1351年 (観応2年) 正平一統は
弟 直義 追討のため
一時的に南朝と和議を結び,
これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。
1351年 (観応2年) 薩埵峠の戦い
駿河国の 由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において、
足利尊氏 の軍勢と
足利直義 の軍勢とで行われた合戦である。
尊氏方の勝利に終わり、
直義は降伏した。
1352年 (観応3年) 北朝第4代 後光厳天皇 即位
1338年 (建武5年) 3月に
1352年 (観応3年) 8月に
正平一統で
北朝が一時的に解消した後、
1358年 (延文3年) 足利 義詮 夷大将軍に
1330年 (元徳2年) 6月に
1358年 (延文3年) 4月に
父 尊氏が没する。
12月に
義詮は征夷大将軍に任命される。
1361年 (正平16年) 正平地震
第3期
1367年 (貞治6年) 足利義詮 が将軍職を子の義満 に譲る
子の 利義満 (10歳) に政務を委譲し、
1368年 (正平23年) 第98代 および南朝第3代 長慶天皇
1343年 (康永2年) に
97代 および南朝第2代 後村上天皇 の第一皇子として誕生。
1368年 (正平23年) 3月 に
1371年 (応安4年) 北朝第5代 後円融天皇 即位
1359年 (延文3年) 12月に
1371年 (応安4年) 3月に
父 後光厳天皇の譲位を受けて 即位。
1369年 (応安2年) 足利義満 征夷大将軍に
1358年 (延文3年) 8月に
1367年 (貞治6年)11月に
父・義詮が重病となる。
義満に政務を委譲し、
1367年 (貞治6年)12月に
父 義詮は死去し、
義満は わずか10歳で将軍家の家督を継いだ。
1369年 (応安2年) 12月に
義満は 朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった。
1375年 (永和元年) 水島の変
1377年(永和3年)九州国人一揆
島津氏久 の衝突に際して
薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した。
1378年(天授4年) 花の御所 造営
花の御所 は、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称。
2代将軍 足利義詮 は、
室町季顕の邸宅である「花亭」を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。
崇光上皇の御所となったことにより「花亭」は 花の御所 と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。
1378年(天授4年) に
3代将軍 足利義満 は
北小路室町の崇光上皇 の 御所跡 (花亭) と
足利家の邸宅の造営を始めた。
「花亭」と「菊亭」を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地 (東西1町、南北2町) を有する邸宅となった
敷地だけでも京都御所の2倍にも及ぶ規模であり、足利将軍家の権威を示すものとなり、花の御所 と呼ばれた。
室町通 に面して正門が設けられたことから 「室町殿」とも呼ばれた。
足利家の政権を「 室町 幕府」と呼称するのはこれに由来している。
1379年 (永和5年) 蓑原の合戦
現在の宮崎県都城市で行われた
今川満範 と
島津氏久 の合戦である。
1379年 (康暦元年) 康暦の政変
1381年 (弘和元年) 新葉和歌集
#### 1382年 (永徳2年) 北朝第6代 後小松天皇 即位
1377年(永和3年)6月に
北朝第5代 後円融天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%86%E8%9E%8D%E5%A4%A9%E7%9A%87)の第一皇子として誕生。
1382年 (永徳2年) 4月に
父 後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位。
1383年 (弘和3年) 99代 および南朝第4 後亀山天皇 即位
1350年(正平5年) に
第97代天皇、および南朝第2代 後村上天皇 の第二皇子として誕生。
1383年 (弘和3年) 冬に
1388年 (元中5年) 平尾合戦
1389年 (康応元年) 康応の外寇
倭寇 の根拠地と目された対馬を攻撃し、その根絶を図るものとされた。
1389年 (康応元年) 土岐康行の乱
1391年 (明徳2年) 明徳の乱
山名氏清、山名満幸 ら山名氏が 室町幕府に対して起こした反乱である。
山名氏は敗れた。
11か国の守護領国を誇った山名氏は 僅か3か国に減らされた。
1392年 (明徳3年) 明徳の和約
南朝と北朝(室町幕府)との間で、和議と皇位継承について締結された約定。
これによって、1337年 (延元元年) 以来の朝廷の分裂状態が終了し、
南北朝時代の終焉を迎えた。