江戸時代中期の出来事

江戸時代中期の出来事を年表にまとめた。

江戸時代

日本の歴史の時代区分の一つである。

前は 安土桃山時代

後は 明治時代

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参考

江戸時代の小区分

江戸時代は

1603年に

徳川家康征夷大将軍 に任命されて 江戸幕府 を樹立してから

1868年に

明治天皇一世一元の詔 を発布し、 慶応 から 明治改元されるまで

約300年間。

大きく5つに区分される。

初期

江戸の町造りの時期。 1603年 以前

前期

江戸幕府の創成期。 1603年から 1690年ごろまで

中期

江戸幕府の全盛期。 1690年ごろから 1780年ごろまで

後期

江戸幕府の衰退期。 1780年ごろから1850年ごろまで

幕末期

江戸幕府の終焉期。 1853年 から1868年まで

江戸時代中期の概要

江戸幕府の全盛期。

1690年ごろから 1780年ごろまで

概要

元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済 が農村にも浸透し、四木( )・三草( 紅花 または 木綿 )など 商品作物 の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海 の沿岸では 入浜式塩田 が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。
手工業 では 綿織物 が発達し、伝統的な 絹織物 では高級品の 西陣織 が作られ、また、灘五郷伊丹酒造業有田瀬戸窯業 も発展した。

人と物の流れが活発になる中で、城下町港町宿場町門前町鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。

18世紀初頭の 京都大阪 はともに40万近い人口を抱えていた。
同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。

家宣 期

1709年に 徳川家宣 が6代将軍になる。

将軍に就任すると、 宝永通宝 の流通と酒税生類憐れみの令 の一部を順次廃止した。

さらに、柳沢吉保 の辞職により側用人間部詮房、学者として 新井白石 らを登用して、5代将軍 徳川綱吉時代から始まった 文治政治 を推進した。

宝永令 の発布、正徳金銀 の発行などの財政改革を試み、 正徳の治 と呼ばれる。

家継 期

1713年に 徳川家継 が 4歳で 7代将軍になる。

幕政は 幼少の家継に代わって 生母・月光院側用人間部詮房 、顧問格だった 新井白石 らが主導した。

先代 家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革 を続行した。

1716年 4月に 8歳で 死去した。

吉宗 期

1716年に 徳川吉宗 が 8代将軍になる。

将軍に就任すると、6代将軍・徳川家宣 の代からの側用人 間部詮房新井白石 を罷免したが、新たに 御側御用取次 という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

水野忠之 を老中に任命して財政再建を始める。

吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。
貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。
そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田 開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令堂島米会所 の公認などを行った。 「米将軍」と称された。

定免法」や「上米令」による幕府財政収入の安定化、「新田開発」の推進、足高の制 の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる 大岡忠相 の登用、また訴訟の迅速化のため 公事方御定書 を制定しての司法制度改革、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである 享保の改革 を行った。

江戸の治政として

大岡忠相」を南町奉行に任じ、  目安箱 の設置による庶民の意見を政治へ反映し、 小石川養生所 や 江戸 町火消し を設置した。

家重 期

1745年に 徳川家重 が9代将軍になる。

吉宗の推進した 享保の改革 の遺産があり、綱吉 が創設した 勘定吟味役 を充実させ、現在の 会計検査院 に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令酒造統制規制緩和など、幾つかの独自の 経済政策 を行った。

しかし負の遺産も背負うこととなり、「享保の改革」による 増税 策により 一揆 が続発し( 直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である )、社会不安が増していった。

また 薩摩藩に対して 木曽三川 の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた( 宝暦治水事件 )。

京都で 宝暦事件 が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。

家治 期

1760年に 徳川家治 が 10代将軍になる。

田沼意次側用人に重用し、老中・松平武元 らと共に政治に励んだ。
しかし 松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。( 田沼時代 )

田沼時代

「田沼時代」は 日本の歴史において、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。

第9代将軍 徳川家重 と第10代将軍 徳川家治 の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導した。

幕府幕閣は米以外の税収入を推し進める。
株仲間 の推奨、銅座 などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地 の開発計画、俵物 などの専売、下総国 印旛沼手賀沼干拓に着手するなど、この時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、金融からも利益を引き出すなどといった大胆な財政政策を試みた。

江戸時代中期の文化

正徳の治享保の改革 によって引き締められると、武士の文化活動は抑制的となった。

田沼時代になると、政治・社会も文化的に寛容になり、 宝暦・天明文化 が花開いた。

絵画の分野では、京都で与謝蕪村池大雅らが文雅の世界を理想とする文人画を描く一方、写生を基礎とした 円山応挙はより写実的な画風を生み出した

江戸では 鈴木春信錦絵 の技法を完成させ、 喜多川歌麿東洲斎写楽 によって 浮世絵 の全盛期の幕開けを迎えることになる

学問の世界では 国学蘭学が隆盛を見せる。
蘭学はまず医学や天文学の分野から受容され、杉田玄白前野良沢らが医学書 ターヘル・アナトミア を翻訳した 解体新書 を刊行した。
また、医学と密接な関係にあった 本草学 の世界では 田村藍水 およびその弟子で エレキテル で知られる 平賀源内 が活躍した。

江戸時代中期の出来事

1680年 (延宝8年) 徳川綱吉 5代将軍に

1687年 (貞享4年) 東山天皇 即位

1688年 (貞享5年) 日本永代蔵

日本永代蔵井原西鶴 作の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。

1689年(元禄2年)3月 松尾芭蕉 奥の細道 の旅に出る

松尾芭蕉 は 江戸時代の 俳諧師

芭蕉」は、和歌 の余興の言捨ての 滑稽 から始まり、滑稽や 諧謔 を主としていた 俳諧を、蕉風 と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では「俳聖」として世界的にも知られる、

奥の細道 は 「松尾芭蕉」の 紀行 及び 俳諧

芭蕉」が 1689年(元禄2年)に、門人の 河合曾良 を伴って 江戸 を発って、奥州北陸道を巡った紀行文である。

日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名な作品である。

1692年(元禄5年)竹島一件

竹島一件 は 1692年(元禄5年)から1698年(元禄11年)3月まで日本と朝鮮との間で争われた 鬱陵島 の領有問題。

鬱陵島日本海に位置し、大韓民国 慶尚北道鬱陵郡に属する火山島である。

当時の日本では、現在の鬱陵島竹島、現在の竹島は松島と呼ばれていた。

1694年 (元禄7年) 高田馬場の決闘

高田馬場の決闘 は 、江戸郊外戸塚村高田馬場(現 新宿区西早稲田)で起きた、伊予国西条藩 松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門 らと 村上庄左衛門らによる決闘である。

堀部安兵衛こと 堀部武庸 が菅野に助太刀して名を挙げた。

1697年(元禄10年) 酒税 施行

江戸幕府は運上金 (租税) の一種として、酒の売価の3分の1を酒運上 (酒税) として課すよう全国に布達した。

これは酒価を引き上げて消費を抑制するためとされるが、酒に対する需要は減少せず、1709年に 廃止された。

1702年 (元禄15年) 赤穂事件

赤穂事件吉良上野介 を討ち損じて切腹に処せられた 浅野内匠頭 の代わりに、その家臣である 大石内蔵助 以下47人が、吉良を討った事件である。

日本三大 仇討ち の1つとされる。

十七士は 本所 の吉良邸から引き揚げて、吉良の首を 泉岳寺浅野内匠頭の墓前に供えた。 四十六士は 幕府の指示に従って全員切腹した。

事件は 歌舞伎の 仮名手本忠臣蔵 を始め、数多くの芝居、講談、そして映画やテレビドラマの題材に取り上げられた。

赤穂事件を扱った創作物については、忠臣蔵 と呼ぶことが多い。

1703年 (元禄16年) 筑前国続風土記 編纂

筑前国風土記福岡藩儒学者貝原益軒を著者とし、甥の 貝原好古、高弟の竹田定直らが編纂した 筑前国 の地誌である。 元禄16年(1703年)に編纂が完了し福岡藩4代藩主・黒田綱政に上程された。

1703年 (元禄16年) 5月 曽根崎心中 初演

曽根崎心中 は 世話物浄瑠璃( 江戸時代における現代劇浄瑠璃 )。 近松門左衛門 作。
1703年(元禄16年)竹本座初演の 人形浄瑠璃
のちに 歌舞伎 の演目にもなる。
相愛の若い男女の心中の物語である。 元禄16年 4月(1703年)に 大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ」と内本町醤油商平野屋の手代である「徳兵衛」が西成郡 曾根崎村露天神 の森で情死した事件を題材にしている。

1703年 (元禄16年) 12月 元禄地震

1707年 (宝永4年) 10月 宝永地震

1707年 (宝永4年) 11月 宝永大噴火

1708年 (宝永5年) 宝永通宝 発行

宝永通宝 は 江戸時代に鋳造された銭貨の一種で 宝永5年に 発行された十文銭である。

1709年 (宝永6年) 中御門天皇 即位

中御門天皇東山天皇 の第五皇子。

1709年 6月に、 父 東山天皇から譲位されて、7歳で即位。

父の東山上皇院政を行う。

同年12月に上皇が、同月に母の櫛笥賀子も崩御した。

そのため、祖父の霊元上皇が復帰して院政を行った。

1709年 (宝永6年) 徳川家宣 6代将軍に

徳川家宣

第3代将軍・徳川家光の三男で 甲府徳川家徳川綱重の長男。

第5代将軍・徳川綱吉 は父の異母弟。

1704年に 43歳で 綱吉の養子になる。

家宣 の将軍後継に伴い「甲府徳川家」は絶家となる。

入れ替わりに 甲府には 綱吉の寵臣 柳沢吉保 が入いる。

1709年に 綱吉が亡くなり、48歳で 第6代将軍に就任する。

家宣の治政

将軍に就任すると、 宝永通宝 の流通と酒税生類憐れみの令 の一部を順次廃止した。

さらに、柳沢吉保 の辞職により側用人間部詮房、学者として 新井白石 らを登用して、綱吉時代から始まった 文治政治 を推進し、宝永令 の発布、新井白石による 正徳金銀 の発行などの財政改革を試みた。 ( 正徳の治 )

また、琉球李氏朝鮮 との外交を行った。

1709年 (宝永6年) 正徳の治

正徳の治江戸幕府において、6代将軍 徳川家宣、7代将軍 徳川家継 のもとで、儒学者 新井白石 が進めた 文治政治 である。

5代将軍 徳川綱吉 の政治を立て直すため、貨幣の質を戻したり、貿易を制限したりした。

1710年 (宝永7年) 宝永令 制定

宝永令 は 宝永7年に 制定された 武家諸法度

和漢混交文を和文に改訂した上で、儒教の仁政思想( 徳治主義 )を取り込んで文治政治の理念を明瞭化するなど、より具体的な条文に改定した。  

1713年 (正徳3年) 徳川家継 7代将軍に

徳川家継

第6代将軍・徳川家宣 の四男。

1712年 10月 に、 父 家宣が死去した。

元服に際し 名字書出 をするものがいなくなり、 霊元上皇 が行うことになった

1713年 3月 に 江戸城に 朝廷の勅使を迎え、大老井伊直該 を烏帽子親として元服の儀式を行った。

同年 4月に 、 家継 は 将軍宣下を受けて 4歳で 第7代将軍に就任した。

家継の治政

幕政は 幼少の家継に代わって 生母・月光院側用人の 間部詮房 、顧問格だった 新井白石 らが主導して、 正徳の改革 を続行した。

1716年 (正徳6年) 4月に 家継 は 8歳で死去した。

紀州藩 主の 徳川吉宗 が第8代将軍に迎えられた

1714年(正徳4年) 正徳小判 発行

正徳小判 は 正徳4年より 通用開始された 一両 としての額面を持つ小判である。

正徳小判および 正徳一分判 を総称して「正徳金」と呼ぶ。

同時に吹替えが行われた 正徳銀と合わせて「正徳金銀」と呼ぶ。

朱子学者である 新井白石 は、朝鮮貿易にて 宝永銀 の受取を拒否され人参代往古銀 の鋳造を余儀なくされた経過を国辱として受け止め、金銀貨の品位低下および量目(質量)低下は公儀の威信の低下に連動すると力説し、慶長の幣制への復帰を建議し、吹替えが行われた。

1714年(正徳4年) 江島生島事件

江島生島事件江戸城大奥御年寄の 江島 が歌舞伎役者の 生島新五郎 らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された 綱紀粛正 事件。

江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)であったが、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩 内藤清枚 にお預けとなった。

江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の 五代目山村長太夫伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。

1715年(正徳5年) 海舶互市新例

海舶互市新例新井白石が国際貿易額を制限するために制定した法令。

1716年 (享保元年) 徳川吉宗 8代将軍に

徳川吉宗

紀州藩徳川光貞の四男。

1705年 に 長兄である藩主・綱教 が死去し、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。

1716年 に 7代将軍 徳川家継 が早世し、 吉宗 が 第8代征夷大将軍に就任した。

吉宗は 従兄の 徳川宗直紀州家の家督を譲り、紀州藩を存続させた。

吉宗の治政

将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣 の代からの側用人 間部詮房新井白石 を罷免したが、新たに 御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之 を老中に任命して財政再建を始める。

定免法上米令 による幕府財政収入の安定化、新田開発 の推進、足高の制 の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる 大岡忠相 の登用、また訴訟の迅速化のため 公事方御定書 を制定しての司法制度改革、江戸 町火消し を設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである 享保の改革 を行った。

また、目安箱 の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所 を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁( のちの 蘭学 興隆の一因となる )といった改革も行う。

また、大奥の整備を行い、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。

1716年 (享保元年) 享保の改革

享保の改革 は 第8代将軍 徳川吉宗 によって主導された幕政改革である。

主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。

江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革天保の改革 が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。

1717年 (享保2年) 大岡 忠相 江戸町奉行

大岡 忠相 は 江戸時代中期の幕臣

8代将軍・徳川吉宗 に登用され 享保の改革 を支えた。

町奉行 は 江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。

江戸の町奉行は北町奉行所と南町奉行所が月番制で担当した。
忠相南町奉行のときの北町奉行は「中山時春」。

忠相江戸町奉行のときに 町火消いろは四十七組 に再編成したり、 小石川養生所 を設置したり、 「大岡捌き」と呼ばれる 公正で人情味のある裁定を行い、 「名奉行」といわれた。

忠相 は 越前守だったことと時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では「大岡越前」として知られている。

1721年(享保6年) 目安箱 設置

目安箱 は 施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言の投書を集めるために設置した箱、及びその制度のことである。

徳川吉宗は 和田倉御門近くの評定所 前に毎月2日、11日、21日の月3回、目安箱を設置することを日本橋高札 を立て公示した。
目安箱には政治・経済から日常の問題まで、町人百姓などの要望や不満を人々に 直訴 させた。
投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。
箱は鍵が掛けられた状態で回収された投書は将軍自ら検分した。

採用された例としては、漢方医で町医者の 小川笙船 が江戸の貧民の窮状を訴えて施療院を建てさせる進言をして実現している( 小石川養生所 )。

このほか 町火消 が整備され、幕府が行っていた新田開発では、開発可能地の意見も参考にされた。

1722年 (享保7年) 上米の制

上米の制江戸幕府8代将軍の 徳川吉宗享保の改革 の際に出した制度。

大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした。

幕府の増収に貢献したが、問題点も多く 1730年 に廃止された。

1723年 (享保8年) 足高の制 制定

足高の制江戸幕府8代将軍・徳川吉宗 が施行した法令。

江戸幕府の各役職には各々禄高の基準を設けられていた。
それ以下の禄高の者が就任する際に、在職中のみ不足している役料( 石高 )を補う制度が「足高の制」である。

能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用することをその目的としている。

この政策により要職に登用された人物として、大岡忠相田中丘隅 などがいる。

1723年(享保7年)小石川養生所 設置

小石川養生所江戸幕府が江戸に設置した無料の医療施設。
享保 から 幕末 まで140年あまり貧民救済施設として機能した。

漢方医小川笙船目安箱施薬院の設置を嘆願する投書を行った。

8代将軍 徳川吉宗 は笙船の上書を取り上げ、有馬氏倫 に施薬院の設立を命じた。

養生所小石川薬園( 現在の 小石川植物園 )内に開設された。
建物は 柿葺長屋 で薬膳所が2カ所に設置され収容人数は40名であった

1731年 (享保16年) 徳川御三卿 創立

徳川御三卿 は 江戸時代中期に創立した 徳川将軍家一門

以下の3家が該当する。

御三卿」は 大名 として を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば 部屋住み として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした。

御三卿」は 江戸幕府第8代将軍 徳川吉宗 が、 1731年(享保16年)に 次男の 宗武(田安家初代)へ、 1740年(元文5年)に 四男の 宗尹(一橋家初代)へ それぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、
吉宗の長男で第9代将軍となった 徳川家重が、 1759年(宝暦9年)に 次男の 重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った。

将軍家に後嗣がないときは 御三家 および「御三卿」から 後継者が選定された。
一橋家から第11代将軍 徳川家斉 と第15代将軍 徳川慶喜 が出ている。

1732年(享保17年) 享保の大飢饉

享保の大飢饉 は 江戸時代中期に起こった 飢饉 である。
江戸四大飢饉の一つ。

1735年 (享保20年) 桜町天皇即位

桜町天皇

中御門天皇の第一皇子。

父帝の譲位により践祚

1736年 (元文元年) 元文小判 発行

元文小判 は 元文元年5月 から鋳造が始まり同年6月 より通用開始された一両としての額面を持つ小判である。

「文字小判」とも呼び、後の 文政小判 が発行されてからは、これと区別するため、「古文字小判」とも呼ばれた

徳川吉宗 は米価引き上げ策を講じて、財政に困窮する武士および農民を救済しようと試みるが思うような効果を挙げるものではなかった。
そこで町奉行であるとともに、官僚として優れた才覚を有する 大岡忠相 らの提案を受け入れ、貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる吹替えに着手した。
旧金( 享保金 および 慶長金 )100両に対し、新金(文字金)165両という大幅な増歩を付けて交換するというものであった。
純金量を約44%低下させる吹替えであったため、このような大幅な増歩を付けても幕府には出目が入った。

1739年 (元文4年) 元文の黒船

元文の黒船 は 元文4年 夏、牡鹿半島房総半島、および 伊豆下田 などに、ロシア帝国 の探検船が来航した事件である。

鎖国」期における、江戸幕府ロシア帝国との初めての接触であった。

1742年 (寛保2年) 公事方御定書

公事方御定書江戸幕府基本法典。
享保の改革 を推進した8代将軍・徳川吉宗の下で作成された。

上巻・下巻の2巻からなる。
上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録した。

1742年 (寛保2年) 8月 寛保の洪水・高潮

1744年(延享元年) 11月 御触書寛保集成

御触書集成江戸幕府が出した御触書をまとめた法令集のこと。
江戸時代を通じて4回に亘って作成された。

概要

寛保2年 (1742年) 7月に 老中 松平乗邑 が、大目付目付表右筆組頭 に対して江戸幕府創設以来の御触書の書抜の評定所御定書御用掛( 公事方御定書 の編纂実務機関 )への提出を求めたことに由来する。
これを受けて幕府の法制度が整備された慶長20年 (1615年) 以後、寛保3年 (1743年) までの129年間に出された御条目・高札・御触書のうち3550通を主題ごとに分類・整理を行った上で、延享元年(1744年) 11月に 完成、将軍のもとに、これを収めた一箱及び扣箱一箱が提出された。

1745年 (延享2年) 徳川家重 9代将軍に

徳川家重

8代将軍 徳川吉宗 の長男

父 吉宗より将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。

家重の治政

吉宗の推進した 享保の改革 の遺産があり、綱吉 が創設した 勘定吟味役 を充実させ、現在の 会計検査院 に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令酒造統制規制緩和など、幾つかの独自の 経済政策 を行った。

しかし負の遺産も背負うこととなり、「享保の改革」による 増税 策により 一揆 が続発し( 直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である )、社会不安が増していった。

また 薩摩藩に対して 木曽三川 の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた( 宝暦治水事件 )。

京都で 宝暦事件 が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。

1745年(延享2年) 8月 人形浄瑠璃 夏祭浪花鑑 初演

夏祭浪花鑑人形浄瑠璃 および 歌舞伎 狂言 の題名。

1745年8月 に 大坂 竹本座 で初演。

作者は初代 並木千柳・三好松洛・初代 竹田小出雲
初演後間もなく歌舞伎化され、人気演目となった。

物語は 元禄11年 冬、大坂長町裏で起きた魚屋による殺人事件を題材にしている。

1746年 (延享3年) 7月 加賀騒動

加賀騒動加賀藩 で起こったお家騒動のこと。 三大お家騒動の一つ。

騒動の背景

加賀藩 第五代藩主となった 前田綱紀 は藩主による独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。

一方加賀藩の財政は元禄期以降、100万石の 家格 を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化の一途を辿っていた。

1723年、藩主綱紀が隠居し 息子の 前田吉徳 が第六代藩主となった。

足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった 大槻伝蔵 を側近として抜擢し、吉徳・大槻のコンビで藩主独裁体制を目指す一方、藩の財政改革にも着手する。
大槻は米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。
しかし、それらにより藩の財政は悪化が止まったものの、回復には至らなかった。さらに、悪化を食い止めたことを良しとした吉徳が大槻を厚遇したことで、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や、倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募り、前田直躬 を含む藩内の保守派たちは、吉徳の長男 前田宗辰 に大槻を非難する弾劾状を四度にわたって差出すに至った。

1745年 6月12日、 大槻を支え続けた藩主吉徳が病死し、宗辰が第七代藩主となった。
その翌年の吉徳の一周忌も過ぎた 1746年 7月2日、大槻は「吉徳に対する看病が不充分だった」などの理由で宗辰から蟄居を命ぜられた。

さらに 1748年 4月18日には 禄を没収され、越中五箇山に配流となる。

加賀騒動

その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、異母弟の 前田重煕 が第八代藩主を継いだ。

延享5年6月26日および7月4日、藩主重熙と浄珠院への毒殺未遂事件が発覚する。
浄珠院は宗辰の生母であり、重熙の養育も任されていた人物である。 藩内で捜査した結果、これは奥女中「浅尾」の犯行であり、さらにこの事件の主犯が吉徳の側室だった 真如院 であることが判明した。
これを受けて「真如院」の居室を捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通の証拠として取り上げられ、一大スキャンダルとなる。

1748年 9月12日、「真如院」の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は五箇山の配所で自害した。

1749年には 禁固中の「浅尾」も殺害され、「真如院」 と真如院の子 前田利和 は幽閉されていたが、「真如院」は自ら絞殺を望んでその通りに殺されたという。

大槻一派に対する粛清は 1754年 まで続いた。

1746年 (延享3年) 8月 菅原伝授手習鑑 初演

菅原伝授手習鑑人形浄瑠璃 および 歌舞伎 の演目のひとつ。
五段続。延享3年(1746年)8月、大坂 竹本座 初演。
初代竹田出雲竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳 の合作。
平安時代菅原道真 の失脚事件( 昌泰の変 )を中心に、道真の周囲の人々の生き方を描く。
歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。

1747年 (延享4年) 桃園天皇 即位

桃園天皇

桜町天皇の第一皇子

父の桜町天皇の譲りを受けて践祚

1748年 (寛延元年) 8月 人形浄瑠璃 仮名手本忠臣蔵 初演

仮名手本忠臣蔵人形浄瑠璃 および 歌舞伎 の演目のひとつ。
1748年 8月、大坂 竹本座にて初演。
二代目 竹田出雲・三好松洛・並木千柳 の合作。
通称『忠臣蔵』。
赤穂事件 を題材とするが、人物や時代背景を室町時代に仮託した内容となっている。

1749年 (寛延2年) 5月 定免制 全面施行

定免法 は 江戸時代における 年貢 徴収法のひとつ。

概要

従来の年貢徴収法は、年毎に収穫量を見てその量を決める 検見法 が採用されていたが、これでは収入が安定しないので、享保の改革 の一環で導入された。

定免法」では、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず数年間は一定の年貢高を納めることになった。
しかし、余りにも凶作のときは「破免」(年貢の大幅減)が認められることがあった。

1749年 (寛延2年) 稲生物怪録

稲生物怪録 は 備後三次( 現在の広島県 三次市 )に実在した 稲生正令 が16歳の年に体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。

1749年 (寛延2年) 7月 寛延二年大洪水

1753年 (宝暦3年) 籾摺騒動

籾摺騒動宇都宮藩 で起きた 百姓一揆 である。

概要

寛延4年(1751年)に 宇都宮城主の 松平忠祇 が財政難のため「上納米は籾1升6合摺の割合で納入すべし」と百姓に命令した。
それに対し百姓たちは「代々の領主は年貢は5合摺だった」との嘆願書を出した。
さらに、城に出入りする商人数名にも「役人に頼んでほしい」と繰り返し訴えるが効果がなかった。

宝暦3年(1753年)9月13日に 領内の百姓約45,000人が 八幡山 に集結。
打ちこわしを開始した。
城の役人が非常召集され、大目付の松野源太夫が百姓たちに事情を聞き、場を収めた。

しかし翌14日も暴動が起きる。
15日に平定された。
16日に隠し目付により指導者4人が捕らえられ拷問を受けた。
白状したことにより多数の首謀者が捕らえられた。
だが、御田長島村(現・宇都宮市御田長島町)の庄屋である「鈴木源之丞」だけが捕まえられなかった。
9月下旬に小頭たちが「源之丞」を発見したが、抵抗され撤退する。
「源之丞」は危険を感じたため妻のキミを離縁しようとしたが、「運命をともにする」と言われた。
翌日の明け方に寝込みを襲われたが抵抗はしなかった。
この後に百姓の願いは認められた。

しかし10月19日に「鈴木源之丞」と水沼亀右衛門(上平出村庄屋後見)と増淵六平(小左衛門〈今泉〉新田庄屋)が市中引き回し・打ち首にされ、篠崎太郎左衛門(羽牛田村)が水牢、山崎嘉七(御田村)が追放の刑に処せられた。

1754年 (宝暦4年) 宝暦治水事件

宝暦治水事件江戸幕府によって行われた 木曽三川木曽川長良川揖斐川 )の治水事業、いわゆる宝暦治水の過程で、薩摩藩 士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害したとされる事件。

1754年 (宝暦4年) 郡上一揆

郡上一揆美濃国 郡上藩( 現岐阜県 郡上市 )で発生した大規模な一揆のことである。

郡上藩主 金森氏 が改易され、老中若年寄 といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。

1755年 (宝暦5年) 宝暦暦 発布

宝暦暦 は かつて日本で使われていた 太陰太陽暦暦法和暦 )である。

1758年 (宝暦8年) 宝暦事件

宝暦事件 は 江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件。

尊王論竹内式部大義名分論の講義を受けた 徳大寺公城 ら公卿十数人は,侍講を説いて式部の説を 桃園天皇 に進講させた。
関白 一条道香京都所司代 松平輝高 への告訴で 幕府は公卿を罷官・謹慎に,式部を京都から追放した。

1760年 (宝暦10年) 徳川家治 10代将軍に

徳川家治

第9代将軍 徳川家重 の長男。

父 家重 の隠居により 徳川宗家の家督を相続し、第10代将軍職を継承する。

家治の治世

父の遺言に従い、田沼意次側用人に重用し、老中・松平武元 らと共に政治に励んだ。
しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。( 田沼時代 )

田沼は 印旛沼手賀沼 干拓を実施し、蝦夷地 開発や対 ロシア 貿易を計画する。

1761年(宝暦11年)上田騒動

上田騒動信濃国 上田藩で発生した農民一揆である。

1762年 (宝暦12年) 後桜町天皇 即位

後桜町天皇

桜町天皇 の第二皇女。

桃園天皇 は異母弟。

桃園天皇遺詔を受けて践祚

1764年 (明和元年) 12月 中山道伝馬騒動

中山道伝馬騒動武蔵国 を中心に 中山道 沿いで発生した一揆

1766年 (明和2年) 9月 五匁銀 発行

五匁銀 は 江戸時代の一時期に発行された銀貨の一種。

金貨と銀貨の 為替レート の固定を狙った最初の銀貨。
田沼意次の命を受けた 川井久敬 が考案、 明和2年(1765年)9月4日に発行された。

1767年(明和4年) 田沼時代

田沼時代 は 日本の歴史において、老中・田沼意次 が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。

概ね意次が 側用人 職に昇格した1767年(明和4年)から 意次が失脚する1786年(天明6年)まで。

この時代の特徴として通俗的には伝統的な緊縮財政策を捨て、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策を取ったとされている。
一方では政治腐敗の時代、暗黒時代などとみなされ、賄賂政治の代名詞としても有名。

1767年(明和4年) 明和事件

明和事件 は 江戸時代中期におこった幕府による 尊王論 者弾圧事件。

1768年 (明和5年) 9月 新潟明和騒動

新潟明和騒動越後国新潟町( 現新潟県 新潟市 )において町民が藩政に抵抗しおよそ2ヶ月にわたる町民自治を行なった事件。

1771年 (明和7年) 後桃園天皇即位

桃園天皇

桃園天皇 の第一皇子。

後桜町天皇は 父の異母姉。

伯母の後桜町天皇の譲位を受けて即位。

1771年 (明和8年) 3月 八重山地震

1771年 (明和8年) 7月 モーリツ・ベニョヴスキー 来日

モーリツ・ベニョヴスキー は 東欧出身の軍人、冒険家であり、その数奇な遍歴において鎖国中の日本を含む多くの国を訪れた。

1771年 (明和8年) 7月、阿波国 徳島藩日和佐(現徳島県美波町)に来航する。
徳島藩は幕府の咎めを恐れて上陸を許さなかったが、水と食料を提供した。

1772年 (明和9年) 2月 明和の大火

明和の大火 は 江戸時代に発生した大火災。

江戸三大大火の1つ。

火元

出火元は目黒の 大円寺
出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主が盗みのために庫裡に放火したことによる。 真秀は火付盗賊改長官である 長谷川宣雄 の配下によって捕縛され、
市中引き回しの上、小塚原 で火刑に処された。

被害

目黒の大円寺から出火した炎は 南西からの風にあおられ、麻布京橋日本橋 を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田千住 方面まで燃え広がった。 類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。
山王神社神田明神湯島天神浅草本願寺湯島聖堂 も被災した。 死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。

1772年 (明和9年) 9月 南鐐二朱銀 発行

南鐐二朱銀 は 江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の 二朱銀 を指す。

南鐐二朱銀は明和9年9月(1772年)に勘定奉行川井久敬 の建策により創鋳される。
これは出目(でめ/改鋳利益)による収益を目的として含んでいたことは確かであるが、田沼時代 の商業を重用した積極的経済策が背景にあったとされる。

1774年 (安永3年) 解体新書出版

解体新書 は 日本語で書かれた安永3年(1774年)発行の解剖学書。

ドイツ人医師 ヨハン・アダム・クルムス医学書 "Anatomische Tabellen "(1722年初版。日本語通称は無し)の蘭訳本(オランダ語訳書)である "Ontleedkundige Tafelen "(1734年刊行。日本語での訛称および通称は ターヘル・アナトミア )を主な底本として、江戸時代の日本人が西洋医学書を日本語に翻訳した書物である。

著者は 前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。 江戸時代中期にあたる安永3年(1774年)、江戸・日本橋の板元・須原屋市兵衛 の下で刊行された。

1776年 (安永5年) エレキテル 復元

エレキテル は 江戸時代の博物学平賀源内 が復元した摩擦 起電器 のことで、オランダ語ラテン語)のelektriciteit(電気、電流)がなまったもの。
静電気 の発生装置。

1779年 (安永8年) 桜島 安永大噴火

安永大噴火 は 安永8年10月1日(1779年11月8日)から天明2年(1782年)にかけてに発生したとされる桜島の噴火である。